6-2 スフォンの夜にて(その2)
第20話です。
宜しくお願いします。
<<主要登場人物>>
キーリ:本作主人公。冒険者養成学校に入学するため、スフォンへやってきた。めでたく養成学校の入学試験に合格した。
フィア:赤い髪が特徴で、キーリと同じく養成学校の普通科に入学した少女。ショタコン。剣が得意。
レイス:メイド服+眼鏡の無表情少女。フィアは友人だと思っているが、彼女はフィアを友と同時に仕えるべき相手と考えている。
シオン:入学試験の時にぶつかった人狼族の少年。スフォンの食堂の息子。
それからの時間はとても賑やかなものだった。
始めは適度に談笑しながらも総じて和やかに落ち着いた感じであったが、料理を平らげてから酒が進んでくると徐々に混沌としたものに変化していく。
「シオンにお友達が出来たんだから私も嬉しくて、少しばかり調子に乗ってしまってねぇ。これはサービスだからたくさん食べてくださいな」
シオンに似た、優しい笑みを浮かべる母親が持って来たたくさんの酒のツマミ。どれも丁寧に作られていて、程よい辛味や苦味がエールの杯を促す。ただでさえ最初からエールをがぶ飲みしていたキーリはもちろんの事、シオンが隣に居ることが嬉しくてテンションが上ったフィアも段々と飲むペースが上がっていく。レイスはいつも通りといった風だが、よくよく見れば酒瓶の数はキーリと変わらず、無表情の頬にも僅かに朱が差していた。
シオンはあまり酒を飲み慣れていないのか、付き合いで口をつけつつも渋い顔をしていたがやがて普通に飲むようになり、顔も少し赤らんできた。
酒が進み、最初は緊張が勝っていたシオンもリラックスしてきて口も滑らかになっていく。
「へー、じゃあキーリさんってこの国の人じゃないんですね」
「まあな。森を出てからはずっと旅人みたいな生活してたな。途中でモンスターを狩ってそれを売って路銀にしたりだとか、立ち寄った村や町でちょっとしたバイトみたいな事したりな」
「スゴイですね! 僕より少し歳上なだけですのにもうモンスターと戦った事があるんですね!」
「大したことじゃねぇよ。鬼人族の風習でちっさい頃から戦い方とか教わってたからだし、モンスターと戦ったのも已む無くだからな。育った環境だよ環境」
「シオンはずっとこの街で暮らしてるのか? この店もそれなりに年季が入っているようだが」
「はい。お祖父さんがこの街で暮らし始めて、父さんと母さんがこのお店を出したんです。父さんは冒険者と兼業してたんですけど……三年前に迷宮で死んじゃって、それ以来母さんが一人でこの店を切り盛りしてるんです」
「そうか……ご婦人も大変だったろうな。君を育てながら店を経営するのは並大抵の事ではできまい。料理も上手いし、君の事だけでなくこんな時間にお邪魔した我々にも気を掛けてくださる。素晴らしいお方だな」
「ええ、自慢のお母さんなんです」
フィアに褒められ、シオンは嬉しそうに胸を張り耳をピクピクと揺らした。が、視線をテーブルに落とすとその顔が曇る。
「だけど最近、心配なんです。少し具合悪そうで……」
「そうなのか……」
「昔から頑張り屋で、僕が魔法の才能があるって分かったら養成学校に入学するのを勧めてくれて。
父さんが冒険者だった事もあって僕も迷宮に入るのには憧れはあったんです。けど、お店の事もあって迷ってて……そうしたら母さんが背中を押してくれて、『やりたい事を子供にさせてやれないのは親としての恥だ』ってまで言ってその為に借金までしてくれたんです」
「いい母親だな……」
キーリはエールをあおった。温くなったそれの苦味が口の中に広がり、炭酸の刺激が流れ込んだ先の胃を叩く。思い出すのはエルとルディ、それと本当の、前世での両親だ。
ルディたちは誇りだ。見知らぬ子供であった自分を我が子の様に可愛がってくれた。まして鬼人族ではない、敵対関係にあっただろう人族のキーリを、だ。愛を、心を目一杯注いでくれて、最後もキーリを助けて果てた。二人を殺したあの英雄たちの姿を思い出せば腸が煮えくり返るというのも生温いほどにどす黒い感情が溢れそうになるがそれはさておき、もしキーリが両親について尋ねられれば胸を張って、二人が如何に素晴らしかったかをコンコンと説明していくだろう。
一方で去来するのは元の世界での両親の姿。ある日、突然キーリを置いて蒸発した二人。捨てられた、と悲しみに暮れ、怒り、恨みに焦がされ、やがて「ただの他人である」とばかりに二人の子である事を文斗が捨てた。捨てられたからこちらも捨てたのだと心の中で嘯いた。
しかし今、文斗はキーリとしてこの世界にいる。どうやって文斗がこの世界にやってきたのかは十年以上経った今でも全く不明だ。だから、もしかしたら自分を捨てたと思っていた元の両親も何らかの現象によってこの世界にやってきてしまった。そんな可能性は無いだろうか。アルコールの回った頭でぼんやりとそう思った。
(バカバカしい……)
例え、例え万が一、億が一、そうであったとして今更だ。キーリの親はルディとエルだ。もう元の両親とは赤の他人。少なくとも、今となっては。
だがもしも。もしも会えたとしたら――
(何て言うんだろうな……)
よくも捨てたな、と罵るのだろうか。それともずっと会いたかった、と涙を流しながら抱きつくのだろうか。どちらにしても物語でありそうな、ありふれた展開だ。だが想像した時にキーリの胸で渦巻くものは、そのどちらも違うと言っているような気がした。
「キーリさん?」
「ん? ああ、ワリィ、ちょっち考え事してたわ」
ぐい、と瓶を大きく傾けて一気飲みをする。腹の底から溢れでて来そうな不快な何かを押し留めるように、苦く辛いエールを胃に流し込んだ。
ふぅ、と深くため息を吐き出すと、正面に何処か心配そうにキーリを見上げるシオンの顔があった。フィアとレイスも酒を呑む手を止めてキーリを見ている。
そんな深刻そうな顔をしてたのだろうか、と酔った頭を掻きむしり、キーリはテーブルの上に身を乗り出すとワシャワシャとシオンの柔らかい髪を乱暴に撫でた。
「なんでもねーよ。
それよりも、そんだけお袋さんに期待されてんなら是が非でも成り上がらなきゃな。なーに、入学に掛かったくらいの金なんざ、ランクDくらいにまでなりゃすぐ返せるって。その後もバンバン世界中の迷宮に潜って金を稼いで稼いで稼ぎまくって、そうすりゃお袋さんに楽隠居させてやれるだろ? 店を続けるのがお袋さんの希望なら人を雇って、気が向いた時にでも店に出てもらえば良いしな」
「……そうですね。うん、ありがとうございます! ちょっと気持ちが楽になりました!」
キーリは話題をシオンの身の上に戻して誤魔化した。シオンはそれ以上追求したりせず話題の転換に付き合い、フィアやレイスもそれ以上言及しなかった。それをありがたい、と内心だけで感謝した。
「よーしっ! シオンが将来歴史に名を残すようなすげぇ魔法使いになる事を祈念して、もう一遍乾杯だぁっ!」
「そ、そんな! いくらなんでもハードルが高すぎますよぅっ!!」
「バッカやろう! 酒飲んでんだろ! 目標なんて無謀でも何でもドーンとデケェ事言っちまえばいいんだよ! ほらっ、復唱っ!」
「えっと、それじゃあ――」シオンは目の前の酒瓶を睨みつけると、先ほどのキーリと同じようにラッパ飲みして大きく息を吸い込んだ。「僕は! 将来この国一番の魔法使いになって母さんと妹を豪華な家に住まわせてみせますっ!!」
「よしっ、よく言った! ホラ、次はフィアの番だぞ。その次はレイスな」
「なっ! わ、私もなのかっ?」
「たりめーだろ!」
「私は一生お嬢様と添い遂げることです」
「え! もしかしてレイスさんとフィアさんって……」
「わはは! 良かったな、フィア! 嫁に来てくれるってよ!」
「ち、違うぞ、シオン! 私とレイスはそんな関係じゃ……」
「お嬢様は私が傍に居ることがご迷惑でしょうか?」
「いや、そういうわけじゃないんだ、レイス……って、もしかしなくてもからかってるだろ!?」
「お嬢様をからかうのは私の楽しみですので」
店の中に三人の笑い声が響く。
そこから何がどうなったかは誰もはっきりと覚えていない。が、シオンを除く三人(キーリV.S.フィア&レイス連合軍)の飲み比べが始まり、シオンが止めようとするも気弱な彼では止めること適わず次々と消費されていく酒。
その途中で母親が作った追加の料理をシオンの妹・シリ(五歳)が持って来て、人懐っこいシリがフィアの膝の上に登って、その余りの愛くるしさに暴走したフィアがシリに触れようとして赤い情熱(鼻から出る)をテーブル上に撒き散らすなどといった大惨事が起き。
全てがお開きになったのはすっかり街全体が静まり返った頃になってからだった。
「あ゛~……やべぇ、飲み過ぎた」
「まったく、少しは限度というものをわきまえろ」
誰も居なくなった夜道を三人は歩いていた。
付近は真っ暗闇に近く、人気はゼロ。両脇の店舗からも明かりは消え、光るのは夜の街を生活の場としている娼館の明かりや、旅人を相手とする宿くらい。脇道からそれらの光が零れ出て、辛うじて足元が見える程度だ。
キーリの足元は深酒でなお一層覚束ない。フィアに肩を貸してもらってやっと歩いているが、キーリよりマシというだけでフィア自身の足取りも怪しい。二人の後ろではレイスが静々と歩いているが、普段の彼女に比べれば何処か動きがぎこちなかった。
「だってよぉ……こうして誰かと酒飲むのなんて初めてだから楽しかったんだよぉ……」
「……そうだな。確かに楽しかったな」
キーリの呟くような言い訳にフィアは頷いた。彼女もこうして誰かと酒を飲むことは初めてで、気心の知れた友との語らいがこうも楽しいものだとは思ってもみなかった。一仕事を終えた冒険者達が酒場でよく騒いでいるのを眼にし、そんな彼らの様子を冷ややかな眼差しで見るのが常だったが、今ではそんな彼らの気持ちがよく分かる様な、そんな気がした。
「私も少々興が乗ってしまったようです。お嬢様には失礼な事を申してしまいました。お酒とは恐ろしいものですね」
「おいおぉい、それはいつもの事じゃねぇかぁ~?」
「それは否定致しません」
「そこは否定して欲しいのだが……」
「冗談です」
とはいえ、レイスがこうして冗談を飛ばしてくれるのはフィアとしても嬉しいものだ。
薄々気づいていたが、レイスはフィアを弄って楽しんでいるところがある。だがそれでも彼女はいつもフィアとの関係に線を引いていて踏み込んでこようとしない。従者という態度を崩そうとしない。フィアがその態度を拒もうとも頑なに彼女は従者であろうとするのだ。それがいつの頃からかは分からない。しかし昔はそうではなく、いつしか出来ていた距離を内心フィアは寂しく思っていたのだが、こうして一緒に酒の席を囲むとその距離がかつてのものに近づいたように感じていた。
だからフィアは呟いた。
「また、皆で一緒に飲みたいものだな」
「バッカやろう、ンなもんこれから幾らでも機会はあるさ。なんたって俺らは『ダチ』だからな」
「ふふっ、そうだな。次はアリエスやカレン、イーシュも誘うか。あとユキも」
「ユキとカレンとイーシュはともかく、アリエスはどうだろうな。あの女、俺と一緒に飲むのは嫌がるんじゃないか?」
「そのわだかまりを解消するためにも、だ。今日はじめて知ったがどうやら酒というのは人の心を大らかにする魔法が掛かっているらしいからな」
「違いない」
二人は並んで歩きながら笑いあう。和やかに帰り道を歩いていたが、不意にキーリがフィアから離れた。
「キーリ?」
「皆と仲良く酒を呑むっていう案には賛成だが――その為にもそこの不埒な輩をどうにかしねーとなぁ」
フィアの全身に緊張が、走った。
レイスと共に即座に後ろを振り向く。しかしそこには暗闇が広がるばかり。動く人の気配は無く、ただ静寂ばかりが存在していた。
左右を振り向けば、細い路地が伸びている。だがそこは夜の店の明かりが灯り、離れた場所で客引きの女が退屈そうに壁にもたれているばかりだ。
それでもキーリは、見えない何かが見えているかのようにそこにいる何者かに話しかける。
「だんまりってか? 俺の話がハッタリで、黙って身動きしてなきゃやり過ごせると思ったか? アンタがそのつもりなら俺の方から近寄ってやってもいいんだぜ?」
振り向き、キーリは暗闇を不敵に笑って睨みつけた。
本当に誰か居るのか。フィアは警戒しながらも半信半疑だった。しかしレイスもその気配を感じ取れたのか、キーリが見つめる先と同じ場所を眼鏡のレンズ越しに見つめている。どうやら居場所を感じ取れていないのは、この場ではフィア唯一人であるらしかった。
続く沈黙。遠くから聞こえる微かな喧騒。見えない何かとの睨み合いが続く。その時間は永遠にも等しいようにフィアには思えた。
だがその静寂は長くは続かなかった。
暗闇の中で影が動く。周囲の黒に溶けこんで存在感の希薄なそれは、しかし確かに闇の中で動いていた。
「ようやくお出ましか。こっちは酒飲んでいい気分なんだ。用があるなら手短に頼むぜ?」
現れたのは小柄な人物だった。濃い灰色のローブで全身を包み、頭部はフードを深く被っていて顔は見えない。気配は希薄。キーリの挑発にも無言を貫いていた。
一言で言えば不気味。そう感じるのは暗闇の中に居るからだろうか。ただの悪漢には思えない。感じ取れる雰囲気からして、日頃から陽向で生きる人物ではないだろう。
フィアはその人物から眼を離さず腰に手を遣った。ところが掌にはいつもの感触は無い。
(しまったな……)
常に腰には剣を携えているが今日に限って部屋に置いてきてしまった。不覚、と臍を噛む思いだが無い物はどうしようもない。
戦うか、逃げるか。フィアとて腕に覚えがある。酒に酔っているとはいえ単なる悪漢であれば適当にあしらう自信があるが、果たして、この人物がそんな人間には思えない。暗闇に溶け込む気配の消し方からして、それなり以上の実力者であることは間違いない。
逃げるか。フィアはそう決断した。寮まではそう遠く無い。全力で走れば逃げきれるはず。三人とも決して脚は遅くない。ベロベロ状態のキーリが不安だが。
「二人共、逃げ……っ!」
フィアはその決断を行動に移そうとし、一瞬目線を切る。その瞬間、影が動いた。
身を低く下げ足音を消して走り、しかしそれでも動きは速い。暗闇に紛れるその動きにフィアは姿をほんの僅かな時間だけ見失った。そしてそれは致命的な隙。
「しまっ……!」
十数メートルあった距離は気がつけばほぼゼロ距離。フィアの懐に入り込んだその影はローブの下に隠し持っていたナイフを彼女目掛けて突き出した。
腹部に吸い込まれる凶刃。肉を破り内蔵を傷つけていく。普段なら防具を身に着けているが、剣同様に今着ているものは通常の衣服だけ。フィアは自らの死を一瞬幻視した。
そして血が彼女の目の前に散った。
「……っ!」
だが影は動揺した。その気配がフィアにも伝わる。自分を刺すことに成功したのにどうして――と思考が動き始めた時、彼女は刺されたはずの自分の腹部から痛みが無いことに気づく。
そして――
「ちょっと油断したけどよっ、間に合ったぜ?」
いつの間にか閉じていた眼を開くと、影と自分の間に伸びる腕があった。
ナイフはキーリの左腕に刺さっていた。深々と、ナイフの中程まで突き刺さり傷口から血が滴り落ちる。鉄臭い匂いがフィアの鼻をひどく突いた。
「ふっ!!」
「ぐぅっ……!!」
だが怪我を物ともせず、軽く吐き出された息と同時に振りぬかれるキーリの右腕。影の腹部にめり込んだ拳の先からゴキリ、と何かが砕けた音がした。
同時に破裂音。影が吹き飛ぶ。地面を転がり、だがすぐに体勢を立て直して地面を蹴る。
だが既にキーリも加速していた。二人は肉薄し、影が突き出したナイフをキーリは避ける。そしてお返しとばかりにキーリも持っていたナイフで反撃に出た。
闇夜に響く金属音。至近距離の中で高速で繰り出される刃と刃の攻防に火花が散る。一方が攻撃を繰り出し、それを受け流したもう一方が反撃に出て、それをまた一方が防ぐ。
一進一退の攻防。そう見えたのは刹那。十数戟を数秒にして繰り出していき、相手を上回ったのはキーリだった。
突き出したナイフを避け、ナイフを振り下ろす。そう見せかけてキーリは体を反転し、鋭い蹴りを影に向かって突き出した。
「あ、はぁっ……!」
影の口から苦悶の声が漏れた。キーリの蹴りの直前に両腕を交差し、自ら後方に飛び退いてダメージを軽減した。にもかかわらずその威力は防御を貫き、腕越しに伝わった衝撃は初撃の腹部に更なるダメージを与えた。
吹き飛ばされながらも体勢を整え影は着地する。キーリは更なる追撃を加えようと地面を蹴った。
「ちっ!」
迫るキーリ。状況の不利を察した影は舌打ちし、キーリの攻撃を一度かわすとすぐに後退を始めた。
開く二人の距離。一拍遅れてキーリが追いかけ、逃げる影に向かって手を伸ばした。
その手が影に届く――その直後、地面から唐突に壁が盛り上がりキーリの行く手を阻む。
「ちっ、クソッ! 地神魔法かっ!」
衝突を避けるため急停止。想定の埒外にあった敵の行動に歯噛みし、しかしその横をレイスが駆け抜けていった。
スカートを翻し、身軽な動作で壁を駆け上っていく。その間際、彼女の横顔をキーリは見た。
レイスの眼は怒っていた。いつもの無表情の中に感じる確かな怒り。後ろ姿にも内面で迸る感情を漲らせて壁の向こう側へと消えていった。
「やれやれ……」
それを見送った後、キーリはその場に腰を下ろした。頭を掻き、「まずったなぁ」と独りごちる。そこに遅れてフィアが駆け寄ってきた。
「キーリ!」
「おう、フィア。怪我ないか?」
「この……バカっ!」
「へ?」
呼ばれて振り向き、手を上げて応えたキーリだったが返ってきたのは怒声。予想外のセリフに呆気にとられるキーリをよそに、フィアはキーリの左腕を急いで掴み上げた。
「それはこっちのセリフだっ! 私の心配よりも自分の怪我の方を気にしろっ! ほら、早く腕を見せてみ……」
襲われて何も出来ずに棒立ちだった自らにフィアは腹を立てていた。ましてその結果として友に怪我を負わせたなど、彼女にとってとても我慢できる事ではない。
早く腕の怪我をしなければ。刺し傷は深かった。腕の腱を傷つけてはいないだろうか。もし今回の傷で障害が残ってしまったらどう詫びればいいのか。そうならない為にも一刻も早く応急処置を。ギルド本部の治療室に連れて行けば何とかなるだろうか。グルグルと頭の中で思考が駆け回っていく。
「腕って、何が?」
だがキーリの腕には傷一つ無かった。掴んだ腕は、とても人一人を何メートルも殴り飛ばしたとは思えない、フィアと比べても遜色ないのでは無いかと思うくらいに細く、綺麗な白い肌をさらしていた。何処にも傷も無いし血が流れた跡も無い。
腕を間違えたか、と慌てて右腕を見てみるがそちらも左腕と変わらず傷は無かった。
「そんな……」
「何だよ、もしかして酔っ払い過ぎて俺が怪我する幻覚でも見たか?」
呆れた風に肩を竦め、キーリは腕をブンブンと振って怪我が無いことをアピールした。その動きに淀みは無く、少なくとも何処かを痛めているようには見えない。
まさか、キーリの言う通り幻覚を見たのだろうか。いや、しかし確かに血の匂いと飛び散った飛沫を感じた。もう一度フィアはキーリの腕をペタペタと触ってみる。やはり何処にも傷跡は無い。
「な?」
「……そのようだな。すまない、突然襲われたせいで気が動転していたようだ」
「いいっていいって。確かに危ないところだったもんな。んで、そっちも怪我ないってことでオーケー?」
「ああ。それと……助けてくれてありがとう。それにすまない。酒に酔っていたとは言え、私は何も出来なかった。
油断し過ぎだな、まったく……自分が恥ずかしい」
「あー……まあ俺も相手の速さを読み違えて反応できたのがギリギリだったしな。おまけに逃しちまったし。ったく、情けねぇ限りだ」
二人して肩を落としてため息を吐く。そうしていると、逃げた影を追いかけていたレイスが一人戻ってきた。
「どうだったか?」
「……申し訳ございません。逃げられてしまいました。城壁付近までは追いかけたのですがそこで気配を見失ってしまいました」フィアの前に進み出ると、レイスは地面に膝を突き深々と頭を垂れた。「加えてお嬢様の危機にお守りすることもできず……許されない失態です。処分は如何ようにも」
「よせ、レイス。私は守られるような立場では無いし、レイスとは友人だと思っている。それに私自身戦うことも追うことも出来なかったのだ。その様な事は言わないでくれ」
「しかしそれでは」
「何度も言わせないでくれ。友にその様な事を言われると悲しい。それともレイスを友人だと思っているのは私だけなのだろうか?」
「そのような事はっ……」
「今回は私もレイスも修行が足りず未熟だったということだ。だからこれ以上は言いっこ無しだ」
「……畏まりました」
フィアはレイスを立たせると、汚れの付いた膝下を払ってやる。畏れ多い、とレイスはそれを止めさせようとするがフィアの視線を受けて頭を垂れ、黙ってされるがままにしていた。親に怒られる子供の様な構図で、食事に出かける時はレイスの方が親みたいだったが、こうしてみると実はレイスの方が子供なのかもしれない。或いは忠誠心が強すぎるが故だろうか。
キーリはそんな二人の様子を眺めていたが、顔をしかめると座ったまま地面に視線を落とした。
「だけどさっきの奴、只者じゃなかったな。一発目とか結構綺麗に入ったと思ったんだが、咄嗟に体捻って致命傷を避けやがった」
「確かに単なる悪漢という感じではなかったな。気配を殺す技術と良い、人に向かって躊躇なくナイフを突き出せる度胸……あの人物は――」
「日の当たらない世界に生きている。確証はありませんが、恐らく間違いないでしょう」
レイスの言葉が三人の中で重く沈んでいく。
「――やっぱ、そういう連中って実在するのか、レイス?」
「表舞台に出てくる事はありませんので誰に聞いても否定なさるでしょうが、実在すると確信しております。各国それぞれに王や皇帝直属のそういった部隊をお持ちでしょうし、中小ならばともかく要職に就く大貴族ともなればお持ちであっても不思議ではありません。或いは冒険者ギルドとは別に表に出せない依頼を扱う闇ギルドの様な物も存在していると、噂ですが耳にしたことがあります」
「そうか……となれば何でそんな連中に付け狙われたのかも気になるところだが――そもそも誰が狙われたんだろうな。何か心当たりあるか、フィア?」
「そうだな……心当たりは無い、と思いたいところだがもしかしたら思ってもみない所で恨みを買っている可能性は否定出来ないな。入学前にも色々と腐った役人どもとやり合った事があるしな。彼らにしてみれば目障りな存在だろう、私は。
キーリはどうだ?」
「俺もなぁ……ゲリーとかからは恨みを買っちまってるだろうしなぁ……
実は俺らを狙ってるつもりはなくて、偶々俺が尾行に気づいちまったから襲ってきた、とかだったらまだいいんだが……
レイスはどうだ?」
「――いえ、ございません。私は如何なる時もお嬢様の側にお仕えするのみですので」
「……そう、か」
キーリの問いにレイスは淀みなく答えた。つもりだった。
しかし微かな戸惑い、もしくは疑念。回答に生じた一瞬の間をキーリは感じ取った。だがそれが、何に対しての逡巡なのか。そこまではキーリが窺い知れる事は無い。そしてそれをレイスが隠そうとしている以上、無理に聞き出そうとも思わなかった。ただ彼女が話してくれるのならば相談には乗ろうと思った。
(……昔の俺ならそんな事考えなかっただろうなぁ)
誰も信じず、誰にも頼らず。上辺だけを取り繕おうとしてそれすらも出来なくて、一人の世界に閉じ籠っていた。生きる目標も無く、かと言って死ぬ気概も無く、毎日生きることに対して怠惰で居た。
そんな自分が誰かと居たいと思う。誰かを守ろうと思う。それはきっと――この世界で自分を育ててくれたルディとエル彼らのおかげだろう。
(貴方達のおかげで……僕はこうして『生きて』います)
星がきらめく夜空を見上げながら、キーリはそっと感謝を口にした。
そして――
「衛兵に申し付けても動いてくれるとは思わんが、明日不審人物が街中に居たと伝えよう。とりあえず今日は寮に戻るか」
座ったままだったキーリをフィアが手を引いて立たせる。と、キーリの頭がコテンとフィアの肩に倒れた。
まるで恋人が甘えるような仕草にフィアの心臓が一瞬高鳴って頬が赤らんだ。
「ちょ、ちょっとキーリ?」
「――なあ、フィア」
「私達はまだそんな関係――待て、キーリ。どうして……そんな土気色な顔をしているんだ?」
「……酒に酔った状態でめちゃくちゃ動くとどうなると思う?」
「どうなると言われても……ま、まさかっ!?」
「吐きそうです」
「ちょ、ちょっと待て! せめて道の端まで――」
「ごめん、無理――オロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロ」
「ぎぃにゃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!」
――フィアの悲鳴が綺麗な星空に吸い込まれていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
街中よりも一層暗い夜の森の中。そこを一つの影が走っていた。常人よりも遥かに速く走り抜けていくが、呼吸は荒く、普段の彼女を知っているものであれば異変に気づいていただろう。
「ぐ、うぅ……」
呼吸が乱れ、それに伴い足取りも怪しくなる。息を吸うにも苦しく、両腕や腹部から伝わってくる痛みは容赦なく彼女から集中力を奪っていく。
たまらず脚を止め、傍らにあった木に手を突いて立ち止まる。顔を隠すために着けていた口元の布を乱暴に取り去り、空気を求めて大きく息を吸い込んだ。その下から褐色の肌をした女性の顔が顕わになる。
「くそっ、まさかあんな子供にバレるとは……!」
木に背中を預けながらズルズルとその場に座り込む。思った以上に体力の消耗が激しく貰ったダメージも大きい。彼女が殴られた腹部に手を遣ると、触れただけで鋭い痛みが走った。間違いなく肋骨は折れているだろう。内臓が傷つかなかったのだけが幸いか。
黙って呼吸を整え、動けるだけの回復に専念する。懐から丸薬を取り出して口に含み、水で流し込む。程なく魔法薬の効果が現れ始め、痛みがやや引いていく。
相手が追ってきている気配は無く、今晩はこれ以上激しい動きをする必要はないだろう。痛みはまだ休息すべしと訴えるが、単に歩くだけならば我慢できる。それで今晩中には森を抜けてしまえるだろう。
(しかし……)
水を飲み、口元を拭いながら彼女は今後について考えを巡らせる。今は対象を監視するだけのつもりだった。彼女の方から何かアクションを起こす予定は無く、対象が何者であるか、果たして目的の人物であるのかを上役が見極める材料を揃える。それだけに徹するつもりだった。
彼女とてプロである。準備には万全を期したし、子供だからと油断せずいつもと同じように気配を消して観察していた。それがあっという間に看破され、ならばと実力を測る為に様子見のつもりで攻撃を仕掛けたのだが返り討ちにあってこのザマである。たかだか少年少女と何処かで驕りがあったのか。プライドを傷つけられ、彼女は怒りに震えながらも下唇を噛んで冷静さを保つ。
正面からぶつかり合うのは得策ではない。その事は念頭に置いておくべきだろう。そもそも彼女が命令されたのは戦う事ではない。なので今後見つかったとしても逃走に専念すれば直接戦闘を回避するのは容易だろう。上に報告するにしても今はまだ情報が少ない。距離を置きながら明日の夜には再び街に戻ってもうしばらく監視を――
「――こんばんは、素敵なお姉さん」
唐突に声を駆けられ、彼女は弾かれた様に振り向いた。反射的にその場から飛び退き、ナイフを片手に戦闘態勢を取る。
そこに居たのは小柄な少女。森の中だというのに全裸で裸足の状態だ。暗い森の中とは対照的な白い肌を惜しげも無く晒し、あどけない表情をして女性と向き合っている。何が楽しいのか薄く笑みを浮かべ、それが女性にとってはひどく不気味だ。
「そんなに警戒されると私、とっても悲しいんだけど」
少女――ユキが言葉とは裏腹に楽しそうに喋りかける。だが女性は返事をしない。目の前の少女は余りにも異常だった。仕事柄、気配を感じる事に長けた女性が声を駆けられるまで存在を気づかせなかった程度には。
(まずい……!)
女性の勘がけたたましく警報を鳴り響かせていた。何者かは知らないが、目の前の少女はまずい。非常にまずい。少女は隙だらけで何の警戒心も抱いていない。攻撃する意志も感じさせない。だというのに、彼女の経験だけがすぐに逃げろと叫び立てる。それなりにこの仕事をやってきていて色々とヤバイ橋も渡った事もある。身辺調査の為にあの英雄達の一人を追跡した事もある。しかし、こんな経験は初めてだ。冷や汗がフードの中で夥しく溢れ出る。
一歩下がった。ユキは動かない。二歩下がった。ユキは首を傾げるだけ。
追うつもりは無いのか。女性はそう考え、一気に距離を取ろうと地面を蹴ろうとした――
「――逃げなくてもいいんだよ?」
声は目の前からした。瞬き一つしていないというのに、ユキは女性の懐に入りこみ、口端を大きく歪めて白く細い指で彼女の頬を愛おしそうに撫でていた。
「ひっ……!」
「私はただ、お姉さんと――遊びたいだけなんだから」
悲鳴が出掛けた口を押さえられ、顎の骨がきしむ。動けない。怖い。恐ろしい。止めて。助けて。死にたくない。ネガティブな感情が噴出し、だがユキは女性の眼を覗き込み、「ね?」と無邪気に笑った。
程なく、二人の姿は森の中へと消えていった。
2017/5/7 改稿
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