9.口笛吹きと子犬
くるりが演技を始めて、そろそろ二分になろうとしています。
曲が変わり、雰囲気がガラリと明るくなりました。
――アーサー・プライヤー作曲、口笛吹きと子犬。
軽快な口笛のリズムに乗って、くるりが楽しそうにステップを踏みます。
思わず会場から手拍子が始まりました。
「ねえ、亮太。もう何を跳んでも無得点なんだよね?」
「ああ」
「それに優勝も、もう無理なんだよね?」
「おそらく」
「じゃあ、あとは何を跳んでもいいってことだよね!?」
思わず僕はリンク上のくるりを見ます。
それはそれは本当に楽しそうな笑顔でした。
「なんか吹っ切れたよ。逆に楽しくなってきちゃった」
なんということでしょう。彼女はこの逆境を楽しみ始めていたのです。
会場の手拍子も、そんな心境の変化に反応してのことなのでしょう。
「しっかり見ててよ亮太。次のジャンプは、私のダンスアピールなんだから」
くるりは一体、何を跳ぼうというのでしょうか?
左膝に力が入らないその状態で。
くるりは後ろ向きに滑走し、勢いを増していきます。
そして一度左足に体重を乗せたかと思うと、続いて右足に体重を乗せ、足をハの字にしたまま勢いよく右回り気味に跳び上がりました。
――えっ、逆回りのサルコウ?
しかしここからが圧巻でした。
最高到達点に達したくるりは、今度は左回りに回転し始めたのです。
そう、得意のルッツと同じように。
そして三回転した後に、右足で見事に着氷しました。
「おおーーっ!」
観客からは歓声が湧き起こります。拍手をする人の半数くらいは、立ち上がっていたでしょうか。
『月丘選手のあのジャンプは……ルッツ、じゃないですよね? 八木池さん』
『あれはウォーレイです。右足踏み切り、右足着氷のカウンター系ジャンプです。しかもトリプル。私、長いこと解説員をしていますが、こんなウォーレイは初めて見ました。しかも、ものすごく美しい……』
なんと、あの八木池解説員も絶賛です。このジャンプを目の当たりにした観客の多くも、きっと同じような印象を抱いたことでしょう。
くるりのファン一号であることを、僕が誇りに思った瞬間でした。
『じゃあ、すごく点数は高いんじゃないんですか?』
『残念ながらウォーレイは無得点なんです。加点対象のジャンプではありませんから』
そんなことよりも観客のこの反応がすべてじゃないか、と僕は思います。
だから無線機に向かって、思わず叫んでいました。
「やってくれたな、くるり! ていうか、いつ練習してたんだよ、こんなジャンプ」
「えへへ、すごいでしょ? やっと観客席も盛り上がって来たしね。ガンガン行くよ!」
どうやらくるりは根っからのダンサーのようです。
「次はどうする?」
「またこれをやってみようかな。今度はコンビネーションで。ルッツの代わりと言っちゃなんだけどね」
その時でした。
テレビの解説から気になるコメントが僕の耳に飛び込んできたのです。
『月丘選手のジャンプはあと二回。予定では、ルッツとルッツのコンビネーションになっていますが』
『これは私の勝手な予想なのですが、今の月丘選手の膝の状態ではルッツが跳べないんじゃないでしょうか? それにもし予定通りに跳べたとしても、大変なことになってしまいますよ』
『えっ、それは一体どういうことでしょう?』
『だって彼女、まだアクセルを跳んでませんから』
――アクセルを跳んでない?
確かにくるりはアクセルを跳んでいません。だって左足が使えないのですから、仕方がありません。
でも、八木池解説員が言っているのはそういうことじゃなさそうです。何か、僕が気づいていない落とし穴があるような気がするのです。
僕は必死に考えます。そして、「予定通りに跳べたとしても大変なことになる」というフレーズで、あることに思い当たりました。
――そうか、そういうことか。
僕は無線機を握りしめます。
「くるり、申し訳ないが、シングルループを一回跳んでくれないか?」
「ええっ? 何で? せっかく盛り上がってるのに」
シングルループという単語は、くるりの中では会場を白けさせる代名詞となっているようです。
「まだアクセルを跳んでないだろ? するとどうなるか分かってるのか?」
「わかんないけど」
「フリーでは、アクセルを必ず一回は入れなきゃダメなんだよ。もし入れなかった場合は、最後の加点ジャンプが無効になる」
「すると?」
「なんちゃってトゥループのコンビネーションが無効に、もしなんちゃってが認められなかった場合は、その前のトリプルループのコンビネーションが無効になっちゃうんだよ。そうなったら優勝どころか、十位以下は確実だぜ」
「やだよ、そんなの」
「だったらシングルループを跳ぶんだ。そうすれば、そのシングルループが無効になるだけで済む。その後は何を跳んでもいいからさ」
「わかったわ……」
くるりはやっとのことで、僕の指示を受け入れてくれたのでした。