6.子犬のワルツ
『さあ、いよいよ月丘くるり選手の登場です』
『髪を下ろして、可愛らしい犬耳を着けていますね。衣装も袖があるタイプで、手袋には肉球が付いています。でも、先ほどの衝突が心配です。何も影響がないといいんですが』
『練習中の衝突といえば、昨年のグランプリシリーズ中国杯での結城羽人選手が思い起こされますね』
『そうですね。あの時の結城選手は、まともにフリーの演技ができませんでした』
左耳のイヤホンからは、くるりを心配するテレビ中継の声が聞こえます。
僕はそんな心配を吹き飛ばすかのように、リンクの中央に立ったくるりを鼓舞するのです。
「いくぞ、くるり!」
「うん!」
右耳のイヤホンからは、いつものような彼女の明るい声が返ってきました。
数秒の静寂の後、会場のスピーカーからピアノのなめらかな旋律が流れてきます。
――ショパン作曲、ワルツ第六番変ニ長調作品六十四の一。
一般に『子犬のワルツ』として知られている名曲です。くるりの衣装は、この曲に合わせたものだったのです。
後ろ向きに滑走を始めたくるりは、曲に合わせて緩急をつけたステップを繰り出します。どうやら通常の演技に、膝の怪我の影響はなさそうです。
問題はジャンプでした。
「最初は予定通り、トリプルフリップをやってみようか」
「わかった」
フリップは、ルッツの妹のようなジャンプです。
ルッツと同じく、左足に体重を乗せて滑走し、右足のトゥでリンクを強く蹴って跳び上がります。
両者の違いは、『ひねくれた姉』と『素直な妹』と例えるとよいでしょう。
ルッツは右回りの感じで跳び上がり逆の左回りに着氷するジャンプであるのに対し、フリップは最初から左回りに跳び上がるとても素直なジャンプなのです。
――フリップが跳べれば、ルッツも跳べるはず。
これが僕の考えでした。
左膝への負担は、どちらも似たようなものと思われます。
――実は、怪我は大したことないんじゃないだろうか。
いつものようにステップを繰り出すくるりの姿を見た僕は、そんな幻想を抱いてしまっていたのです。しかし次の瞬間、僕は自分の考えの甘さを痛感することになりました。
「あっ!」
くるりは小さく声をあげると、フリップの回転を失速させてしまったのです。
『ああっ、トリプルフリップがシングルフリップになってしまいました』
『そうですね。やっぱり、膝が痛むのでしょうか?』
僕は思わずくるりに声をかけます。
「どうした? 膝が痛むか?」
すると予想に反し、ケロっとした声が返ってきました。
「痛くはないんだけど、左膝に全然力が入らない……」
僕は愕然としました。
これではルッツは跳べません。
くるりの最大の武器でポイント源でもあるルッツを、僕たちは封印しなくてはならなくなったのです。