5.アナウンス
くるりの怪我を心配する僕の気持ちをよそに、競技は予定通り進行していきます。
一人、また一人、最終グループの選手がリンクに出て行き、フリーの演技を終えてリンクサイドに戻って来ます。そのたびに拍手や歓声が上がるのですが、僕の頭の中には全く入って来ません。僕はただただ、くるりのことが心配だったのです。
ついに、くるりの一つ前の選手の演技が始まりました。そしてようやく、くるりがコーチと一緒にリンクサイドに姿を現したのです。
ベージュのタイツの左膝の部分がいつもよりも膨らんでいます。中はテーピングで固められているのでしょう。
幸いなことに、くるりは髪の毛を下ろして犬耳を着けていました。僕はここぞとばかり、無線機に向かって話しかけます。
「くるり、聞こえるか?」
すると、リンクサイドのくるりは驚いたようにキョロキョロし始めました。
「えっ? 亮太? なんで亮太の声が聞こえるの?」
「犬耳が無線機になってるんだよ」
犬耳を固定するカチューシャのワイヤーは、骨伝導イヤホンとマイクになっているのです。ワイヤーが耳や顎の方まで伸びているのはそのためでした。
「ところでくるり、左膝の具合はどう?」
「わかんない」
「わかんないってどういうことだよ?」
「わかんないってことは、わかんないってことだよ。もう痛みは無いけど、滑ってみないとわかんない」
くるりはかなりイライラしているようでした。
「それでコーチは何て言ってるんだ?」
僕は、オライアンコーチがどういう判断をしているのかが気になります。
「コーチは最初、棄権しようと言ってたの。でも、私が『出たい』ってわがまま言ったら、痛みが出るならすぐに演技を止めるという条件で出れることになったの」
――今はヒロインになろうとするべき時じゃない。自分の体がまず第一だ。
これは後で聞いた、その時のオライアンコーチの言葉です。彼は本当にくるりの体のことを心配してくれていたのです。
しかしそれが、彼女のイライラの原因の一つでもありました。
予期せぬアクシデント、棄権を望むコーチ、そして目の前にあるテレビ中継という世界へ飛び出すチャンス。
それらがグチャグチャとくるりの頭の中で渦巻いて、わけがわからなくなっているのでしょう。
「わかった。じゃあ、演技が最後まで続けられるよう、僕が声で導いてあげるよ」
「ホント? 亮太のこと、信じてもいい?」
「ああ。僕は、くるりのファン第一号だしね」
これだけは自信があります。そして、これは誰にも譲れません。
「わかった。亮太の言葉に従って演技する。頼んだよ」
第一号としての地位を確実なものにするためには、くるりをちゃんと演技の最後まで導いてあげなければいけません。フリーの演技が近づく彼女と同じく、僕も緊張で身震いするのでした。
そうこうしているうちに、前の選手の演技の終了を会場の拍手が教えてくれます。その選手がリンクサイドに上がるのと入れ替えで、くるりがリンクに飛び出していきました。
「どう? 左膝の様子は?」
最初は長めに滑走していたくるりは、徐々にステップやスピンを試しながら答えます。
「ステップやスピンは問題無さそう。ジャンプは……まだやってないけどちょっと恐い……」
テーピングでガチガチに固定しているので、やはり違和感があるのでしょう。
しょうがないので、ジャンプについては演技をしながら様子を見ることにしました。
「二十四番、月丘くるりさん、緑野クラブ」
くるりの名前のアナウンスが、スケートリンクに響き渡ります。
こうして、後に伝説と語られる彼女のフリーの演技が幕を開けたのでした。