1.くるりとアクセル
月丘くるり(つきおか くるり)は愛犬アクセルと大の仲良しでした。
「アクセル、いくよっ!」
くるりの手から赤いポリウレタン製のディスクが放たれます。
「ワン、ワンッ!」
夕暮れの緑野公園を舞う赤い円盤。それを追って疾走する茶色のトイプードルは、ディスクの下に追いつくと勢いよくジャンプしました。
「それっ、右! そして左っ!!」
アクセルには不思議な癖がありました。右回りにジャンプしたかと思うと、ブルブルっと左回りに体を回転させながらディスクを咥えるのです。
「あはははは、アクセルは本当に器用だよね」
ディスクを咥えてくるりの元へ届けるアクセル。そんな愛犬を、くるりはわしゃわしゃと豪快に撫でまわします。アクセルも嬉しそうに、くるりの柔らかなほっぺをペロペロと舐めるのでした。
「ちょ、ちょっと。くすぐったいよ、アクセル」
芝生に片膝をついたくるりと、両足で立ち上がって嬉しそうに尻尾を振るアクセルが向き合う姿は、見ているこちらの心も温かくしてくれるのでした。
「ほら、亮太もやってみなよ」
くるりは僕の方を向くと、ディスクを差し出します。いきなりの提案に僕は慌ててしまいました。
「む、無理だよ。僕、運動苦手だし、それにもう薄暗いよ……」
そうです。僕はこの公園で彼女たちの様子を見ているのが好きなのです。
「簡単だよ、亮太。こうやって投げるだけなんだから」
そう言ってくるりは立ち上がり、ディスクをまた夕暮れの空に放ちます。
勢いよくダッシュするアクセルは、今回もまた右回りにジャンプして、左回りでディスクを咥えるのでした。
「本当にアクセルって面白いよね。最近ね、私もあのジャンプを練習してるの」
くるりが大きく息を吸ったかと思うと、左足を大きく振りかぶり前に蹴り上げます。その勢いを利用して、右足のバネで高くジャンプ! 右回り気味に最高地点に達したくるりは、今度はすごい勢いで左回りに回転し始めました。傘のように広がるスカートが綺麗です。二回転は回ったでしょうか。彼女は膝を折り曲げながら見事に着地しました。
「す、すごいよ、くるり」
「でしょ!?」
ドヤ顔で彼女は僕を見上げます。二重の大きな瞳が僕をとらえて一瞬ドキリとしました。
それにしても空中で回転方向を変えるなんて、まるでディスクをキャッチする時のアクセルのようです。僕と違って、くるりは本当に運動神経抜群なのでした。
アクセルもディスクを咥えたまま、嬉しそうにくるりに近寄って来ました。
「最近はね、三回転も練習してるの。将来の夢は世界一のダンサーだしね」
くるりが必死に頑張っているのは僕も知っていました。
何回も転びながら、最初は一回転だったジャンプが二回転、三回転に進歩する様は、見ている方も嬉しくなりました。それよりもなによりも、高く跳んだ空中で逆回転を始めるその姿が美しかったのです。
それにしても小学生のうちから将来のことを考えているなんて、僕とは大違いな幼馴染なのでした。
その時でした。
「グルルルル……」
アクセルが咥えていたディスクを離し、低く唸り始めます。
「えっ!?」
「っ……!?」
僕たちは言葉を失います。いつの間にか近寄って来た白い大きな犬がこちらを睨みつけていたのです。首輪はしていません。どうやら野良犬のようです。
「くるり、逃げよう!」
危険を直感した僕は、くるりの手を握ると家に向かって走り出そうとしました。
「ダメッ! アクセルを置いて行けないっ!」
振り向くと、アクセルは野良犬に向かってグルルルと唸り続けています。
くるりは僕の手を振りほどき、アクセルに向かって叫びます。
「アクセル、駄目よ。こっちにいらっしゃい!」
両手を広げるくるりの必死の叫びも、アクセルには届いていません。
そうこうしているうちに、野良犬は次第にアクセルとの距離を縮めていました。
「こうなったら……」
「ダメだよ、くるり!」
くるりがアクセルを抱きかかえようと近寄った瞬間、野良犬がアクセルに襲いかかりました。
「キャン、キャン……」
公園に響く甲高いアクセルの鳴き声。野良犬は、アクセルの左後ろ脚に噛み付いたのです。アクセルを抱きかかえようとしていたくるりは、野良犬の迫力に圧倒され、その勢いで芝生の上に尻もちをついてしまいました。
「グルルルル……」
野良犬は、今度はくるりの方を向いて威嚇を始めます。恐ろしさでくるりは腰が抜けたようになってしまって動けません。
「くるり、今行くから!」
僕が駆け出そうとしたその時でした。アクセルが野良犬の前に立ち塞がったのは。
噛まれた左脚をかばうようにしながら、必死で両脚で立っています。そしてディスクをキャッチする時のように、右脚でジャンプしながら左前足で野良犬にジャブを繰り出しました。
「ああっ!」
野良犬はアクセルの攻撃をすんでのところでかわします。
しかしここからが圧巻でした。
アクセルは空中で左回りに回転を変えると、今度は右前足を繰り出したのです。
「キャンッ!?」
今度は野良犬が悲鳴を上げる番でした。
アクセルの右前足は野良犬の鼻先を見事に引っ掻いたのです。最初の空振りが野良犬を油断させたのでしょう。鼻先を削られた野良犬は、一目散にその場から逃げて行きました。
「アクセルッ!!」
ドサリと地面に落ちたアクセルに向かって、腰の抜けたくるりが地面を這いながら近寄ります。
「大丈夫!? アクセル! アクセルッ!」
「くーん……」
くるりの手がアクセルに届いた瞬間の、振り絞ったようなアクセルの安堵の声が今でも僕には忘れられません。
それは僕が聞いたアクセルの最期の声となりました。
左脚に重症を負ったアクセルは、翌朝くるりに見守られながら息を引き取ったのでした。