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築口描己の幸福論 -The Unspeakable Boy-

作者: 古月むじな

 わたしのクラスには変なやつがいる。

 名前は築口(きずぐち)描己(びょうき)。中肉中背の、外見にはこれといって特徴のない少年だ。

 だけれど、あいつの顔を見ればわかると思う。あいつはいつもどんなときも、顔に薄気味悪い笑みを浮かべている。

 なんて言ったらいいんだろう。えっと、人間の体は肉と骨と血液で出来ている。だから当然、顔、つまり表情は固体でなければならない。それなのに、あいつの笑いはまるで液体のようにどろりとしているのだ。

 でも、そんないじめ同然の扱いを受けている築口だけれど、あいつがいじめにあっているという話は不思議と聞いたことがない。以上の扱いだってあくまで受動的なもので、たとえばあいつの持ち物を隠したり捨てたり、あいつを殴ったり蹴ったりする人間は誰もいない。

 ……もしかしてみんなは、あいつを嫌っているんじゃなくて『恐れている』のかもしれない。あいつは、築口描己は、およそ人間にはあってはならないおぞましき『何か』がある。というよりも、そもそも築口描己は人間ではなく、ヒトの皮を被ったおぞましき『何か』そのものなんじゃないか? あいつの笑顔を見ていると、馬鹿馬鹿しいとは思うけれどふとそんなことを考えてしまうんだ。

 そういえば、入学式の直後、クラスのみんなに自己紹介をするとき、あいつはこんなことを言っていた。


『ぼくの夢は、幸福(しあわせ)になることです。誰よりも誰よりも幸福になって、幸福に生きて、幸福に死ぬのがぼくの夢です』


 今と変わらぬぐちゃりとした笑みだったことを覚えている。




 わたしにとって不幸なことは、その築口描己と隣の席だったことだ。

月並(つきなみ)さん、次の授業ってなんだっけ?」

 どういうわけか築口はちょくちょくわたしに話しかけてくる。今日の天気とか、朝の星座占いの結果とか、そんな些細なことを液状の笑みを浮かべながら。「ごめん、教科書忘れちゃったんだ。良かったら見せてくれない?」って言われたときはどうしようかて思った。結局見せたけれど、それ以来その教科書にはあまり触りたくなくなった。

「……地理、だよ」

「そっか。ありがとう!」

 聞くだけならば爽やかな返事だったけれど、顔はいつも通りのぐちゃり顔。気分が悪くなって、わたしは顔を逸らした。

 今は十一月。年度が変わり、二年生になるまであと四ヶ月だ。早くクラス替えで別々のクラスになりたい。

 せめて席替えくらいしてくれればいいのに。なんでずっと出席番号順のままなんだろう。

「あ、先生来たよ」

 築口の声を遮るように、わたしは大きな溜め息をついた。




 放課後。

 やっと築口から解放される、いわば真の自由時間。しばらくあのおぞましい笑顔を見なくて済む、そう思うだけでわたしの心は日の光で乾かした真っ白い洋服のようになる。

 汚れた洋服を脱いで清潔な服に着替えるのが当たり前のように、この開放感も当たり前にできたらいいのに。築口といる間はまるで泥まみれの服を着ていることを強要されてるみたいだ。

 廊下を歩きながら考える。これからどうしよう。普通に直帰はちょっとつまらない。どこかに寄り道でもしようかな? そういえばそろそろ試験近いんだっけ。図書室で勉強でもしようかな……。


「な、そこのお嬢ちゃん。ちーとばかしええかな?」


 声をかけられた……のか? 後ろから関西弁っぽく訛った男の声が聞こえた。

「キミや、キミ。確か、ツキナミ・マナミゆーんやろ? キミに訊きたいことがあんねんけど――」

 聞き覚えのない声はわたしの名前を知っていた。わたしは驚いて振り返る。

 口調のイメージとは裏腹に、その男は外国人のようだった。薄茶色の髪に深緑色の目。外国人の顔なので自信はないけれど、わたしよりも年上、二十歳前後の青年に見える。ELTの先生かな? それにしては、黒っぽい軍人のような服と、首から提げた大きなロザリオがあまりそぐわないけれど……。

「……誰、ですか? あなたは……」

「ん、いやいや。俺、怪しいモンとちゃうで。アスティオって呼んでや。探偵みたいな仕事しとってな、ここの生徒で探しとるヤツがおるねん」

 人懐っこそうな顔をした青年――アスティオさんはフランクにまくし立てる。「ホラ、ちゃーんと許可もろうてウロウロしてんねんでー?」と、ポケットから何かの許可証を取り出してぶらぶら振り回した。

「探偵……?」

「そそ。大丈夫、ちーとハナシ訊くだけやから。キミも知ってるやろ?」


「――キズグチ・ビョーキっつーヤツのことなんやけど」


 ……この男は、築口のことを知っている……!?

「……なんで」

「なんで? それ、『なんでキズグチのこと知っとるんか』と『なんでキズグチのこと訊きたいんか』とどっちなん? んー、どっちも説明しづらいから言いたくないねんけど……」

 悩むような素振りを見せるアスティオさんに、わたしは「……いえ」と答えた。

「言えないなら別に言わなくていいです。……関わる気もありませんし……」

 なんとなく、本当になんとなくだけれど、アスティオさんにはこれ以上関わってはいけない気がした。これ以上関わると、築口とはまた違う、おぞましき『何か』に片足を突っ込んでしまうような気がした。

「……ふうん。ええよ、その選択は実に賢い。じゃ、俺も、それを自力で選び取れたツキナミちゃんに敬意を表して、ツキナミちゃんがもう『これ』に関わらんでもええようにしといたるわ」

 アスティオさんはニッと笑うと、首から提げていたロザリオを外し、「これ、持っとき」とわたしに渡した。

「その場凌ぎにしかならん魔除けやけど、持っとらんよりはマシなハズや」

「は、はあ……」

 随分趣味の悪いロザリオだ。神父さんが持っているのよりは、路上で売ってるみたいなシルバーアクセサリーに近い。頭だけの髑髏が触手のようなものに噛みついている装飾が特にチープさを醸し出している。

 とりあえずロザリオを制服のポケットにしまい、「で……訊きたいことってなんですか?」と訊ねる。

「おお、せやせや。何、そんな難しいハナシやないで。キミとヤツは同じクラスなんやろ? ヤツの席を教えてくれへん?」

「………………」

 ……なんだ、そんなことか。

 あんまりもったいぶるから、どんな恐ろしいことを訊かれるのかどきどきしたじゃないか。

「できれば、クラスにも案内してくれたら嬉しいんやけど……」

「大丈夫です」

 まさかその程度のことで何かが起こるとは思えない。どうせ暇だし。

「じゃあ、ついてきてくれますか?」

「ああ。ほんま、ありがとうな」

 アスティオさんを連れて、わたしは来た道を戻りはじめた。




「ふうん。ここでええん?」

「はい」

 幸い、教室には誰も残っていなかった。アスティオさんを築口の席まで案内すると、アスティオさんはそこに座り、机の天板に何か書きはじめた。

「あの……何されてるんですか?」

「んー、小細工?」

 ただの落書き……ではないらしい。赤いインクのペンで図形とも文字ともつかない図柄をさらさらと書いている。

「手間かけさせて悪かったな。もう帰ってええで。帰り道に気をつけて、そうそう、あの魔除けなくさんようにな」

 視線を天板に向けたまま、アスティオさんがひらひらと手を振る。色々気になることはあるけれど、ここは素直に帰ったほうが良さそうだ。

「それじゃあ……さようなら」

 そのとき、教室の後方の戸がガラリと開いた。誰かが教室に入ってきたらしい。

「わーすーれーもの、わっすれものー♪ 忘れちゃいけない忘れ物ー♪」

 その人物は下手くそな歌を歌いながら入ってきた。その聴く者の耳から脳髄に侵入してくるような名状しがたい声を、わたしは知っている。


「あれ、そこにいるのは月並さん!? ……と、誰?」


 ……築口描己。件の彼が、相変わらずの湿り気のある笑みでそこにいた。

「……お前がキズグチか。はん、噂通り気色の悪いツラしとんなあ?」

 アスティオさんが、先程までの人懐っこい表情を消し去り、氷のように冷たい無機質な顔で立ち上がった。

「えーと、きみ誰? どうしてぼくの机に座ってたの? 月並さんの知り合い?」

 築口はアスティオさんのことを知らないらしい。にちゃつく笑みの中に戸惑いの色を混ぜて問いかける。

「『討伐機関』――知らんとは言わせんで。一月前、お前がブッ殺したヤツが、そう名乗ったハズや」

「とーばつきかん? ……あー、そういえばちょっと前に、そんなこと言ってる人が来てたっけ。きみ、その人の友だちなの?」

 『討伐機関』……? アスティオさんは探偵じゃなかったの? それに、ブッ殺した、って――!

「友だちじゃーない。タダの同僚や。そこそこ仲良うさせてもろうてたがな――!」

 アスティオさんがどこからともなく銃のような形状の物体を取り出した。それは普通の銃とは違い、銃口の代わりに電極みたいなものがくっついていた。なんだろう、SF映画に出てくる電撃銃みたいな――

「――忌まわしき邪神の落胤(おとしご)、キズグチ・ビョーキよ! 人間の自由と平和の為に死にさらせッ!!」

 築口に向けてアスティオさんが銃の引き金を引く。予想通りそれは電撃と火花を散らし、プラズマのような球体を勢いよく吐き出した。

「う、うわわっ!?」

 築口は慌てて近くにあった椅子でガードした。プラズマ弾は椅子の背もたれに当たり、背もたれを超高温の電熱で消し炭になるまで焼き尽くした。

「う、うおお……」

「ボーッとしとるヒマがあるんかいな? こっちの弾数はたった一つやないんやで――!」

 アスティオさんは次々にプラズマ弾を発射する。かする程度でもあれを被弾したら、背もたれのように炭化してしまうに違いない。

「ちょ――ちょっとアスティオさん!? 一体何してるんですか!?」

 狙いが外れ、壁や机を炭化させていくプラズマ弾を見て、わたしは思わずアスティオさんに叫んだ。さっきからなんの話をしているんだ? これじゃまるで、アスティオさんが築口を殺そうとしてるみたいじゃないか!

「ツキナミちゃん――はよう帰り」

 アスティオさんは優しい声で言った。

「今見たことはさっさと忘れて、普通に日常を過ごしてけばええんや。そうすれば誰も、キミに危害は及ぼさんよ」

「え、で、でも――」

 築口は気持ち悪いし、怖い。出来れば二度と顔を合わせたくないし、早く縁を切りたいと思ってる。

 でも……でも、それでも築口はクラスメイトだ。クラスメイトが殺されそうになってるのに、見捨てて帰れるわけない――!

「……えへ。月並さんは、優しいなあ」

 わたしの心を読んだように、築口がにちぃいいいっと目を細める。

「待ってて。すぐ終わらせるから」

 築口は手近な椅子を掴むと、脚の部分をアスティオさんに向けて突っ込んでいく。

「何を――考えてるッ!?」

 アスティオさんは再び築口に向かって引き金を引く。しかし築口はなんなく弾を避け、アスティオさんに椅子をぶん投げた。

「――えい」

「ちぃ……ッ!」

 アスティオさんはとっさに身を屈めて避ける。椅子はそのままぶっ飛んでいき、がごぉん、と黒板と衝突した。

「……とんだ怪力やな」

「そうかな? 普通だと思うけど」

「ッ!」

 体勢を立て直したアスティオさんに、いつのまにか距離を詰めていた築口は持っていたもう一つの椅子で殴りかかった。

「が……ァ――」

 どがっ――と鈍い音が響く。頭をもろに殴られたアスティオさんの身体が寸の間ふらつく。アスティオさんが何か落としたのか、床に何か転がる音がした。

「えへ――これでもう、怖いてっぽーは使えないね」

 築口がそれを拾い上げる――それはさっきまでアスティオさんが使っていた電撃銃だった。

「えいっ」

 築口は銃を強く握り締める。するとなんと、銃はまるでおもちゃのようにぐしゃぐしゃに砕けた。……いや、というよりもまるで……風化し酸化した鉄のように、自ら砕け散った……?

「物質を『劣化』させる能力」

 ふらつきが収まったのか、今度こそ体勢を整えたアスティオさんが言う。

「このバケモンが――それでアイツを殺ったんか? アイツを、シエンを……!」

「うーん、どうだったかなー。あんまりよく覚えてないんだよねー」

 築口はすっとぼけた風に言う。

「……ていうかさー、なんか勘違いしてない? ぼくは別にきみを殺したいわけじゃないんだけど」

 ぼろぼろになった銃をぽいっと投げ捨て、続ける。

「大体、ひとを殺したら、幸福になれないかもしれないじゃないか。ぼくは幸福になりたいんだよ。きみだって死にたくないんでしょ? これで終わりにして、早くおうちに帰ろうよお――」

 いつもの笑顔を消して、ほとんど無表情に近い顔になる築口。わたしはそれを見て、初めてこの少年がまがりなりにも人間であることを思い出した。

 しかし。

「はっ、ぬかせバケモン」

 アスティオさんは築口を人間だとは認めていないようだった。

「人殺しといて今更何言うてるんや。お前に俺を殺す理由がなくても、俺にはお前を殺す理由がある。勘違いしとるんはお前の方や」

 アスティオさんが今度は短剣を取り出し、構えた。気のせいか、それはアスティオさんがわたしにくれたロザリオに似ている気がした。

「思い上がるな――邪神の落胤(バケモン)が幸福になんてなれるわけあらへんわッ!」

 築口の心臓目掛け、アスティオさんは憤怒の表情で走り出す。

「もう、わかんないひとだなー…………ん、あれっ?」

 嫌そうに口を曲げ、攻撃を回避しようとしていた築口が、突如動きを止める。

「あれ……あれれっ!?」

「ようやく効いたか。効くんが遅すぎや、金縛りの(しゅ)……」

 棒立ちのまま戸惑う築口を見てアスティオさんが笑う。わたしは先程アスティオさんが築口の机に何か書いていたのを思い出した。

「え、金縛りって……とーばつきかんって正義の組織じゃなかったの!? こんなことするなんて卑怯だぞ!」

「アホぬかせ。正義なんて建前に決まっとるやないか」

 今、アスティオさんが物凄い問題発言をした気がする!

「もう、終わりや。お前は不幸なままで死ね――!」

 そして、ついに――アスティオさんの短剣が、築口の胸に突き立てられた。

「ぅっ……ぐ、あ――」

 築口が小さく呻く。アスティオさんが無言で短剣を引き抜いた。一瞬遅れて、赤い液体が築口の胸から勢いよく噴き出す。

「………………」

 築口は自分とアスティオの服を汚していくモノを不思議そうに見つめていたが、やがて糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。

 …………………………。

 築口が……死んだ?

 あの築口が?

 不思議な喪失感を味わう――築口のことを嫌いこそすれ、好きだなんてまったく思ってなかったのに。

 ……なんで何もしないまま見てたんだろう。なんで止めようとしなかったんだろう。

 築口が殺されるなんて思わなかったから? 馬鹿馬鹿しい。築口だって殺されれば死ぬ。人間なんだから当たり前だ。

 見過ごせなかったのに――見捨てられなかったのに。

 わたしのせいで――築口が死んだ……?

「……ツキナミちゃんの選択は正しい。気に病む必要はあらへん」

 アスティオさんが顔にかかった返り血を拭い、ゆっくりと近づいてくる。

「今見たのは悪夢や思うて忘れて、何事もなかったように過ごしていけばええ。どうしても忘れられへんのなら、そのテの専門家も紹介する」

 アスティオさんは――たった今殺人を犯した人は、笑っていた。わたしを元気づける為なのか、優しく微笑んでいた。

 そしてわたしは……ゆっくりと後ずさった。

「……ちょっと怖がらせすぎたかな? まあ、しゃあないか。バケモンとは言え、人が目の前で死んだんや――」

「……違うんです」

 違う、そうじゃない。もっと恐ろしいことが、この瞬間、目の前で起こっている――!

「……ツキナミちゃん?」

「違うんです。そうじゃなくて、後ろ――!」


 アスティオさんの後ろ、ついさっきまで築口が倒れていた場所。


 築口だったものが――築口の屍だったものが、焦茶色に変色し、紐がほどけるようにばらばらになり、そして――それはまるで絡まった蔦のような、巨大な『触手』の塊に――――――!


「なッ――あれは……ッ!?」

 振り向いたアスティオさんが『それ』を見て愕然とする。アスティオさんにもわからなかった、完全に常識外のことが起こっているらしい。

 触手の塊がもぞもぞと動く。と、そのうちの一本が目にも止まらぬ速さで伸び、アスティオさんの胴体に絡みついた。

「――が、ァ……ッ!」

 あまりに突然のことだったために対応出来なかったらしく、抵抗できないままアスティオさんは締めつけられる。

「コ、イツ……既に『覚醒』しとったんか……! クソッ、だからシエンは――!」

 身動きの取れないアスティオさんに、次々と触手が襲いかかる。奇しくもそれは、小さい頃に見たホラー映画の化け物が人間を捕食するシーンに似ていた。

「……ぅ、あ……」

「……ツキナミちゃん! はよ……逃げえ!」

 息も絶え絶えになったアスティオさんが叫ぶ。

「あの魔除け、持っとるやろ! あれがあれば……逃げる時間ぐらいなら、稼、げる……! コイツが俺構っとる隙に、早く――!」

 今度こそアスティオさんの言う通り、逃げようとした。だが。

「足が……動かない……」

 恐怖ですくんでしまったのか、意志とは裏腹に微動だにしない。それどころか少しでも力を抜けば座り込んでしまいそうだ。

「ツキナミ、ちゃん……!」

 少しずつ、アスティオさんが触手の本体へ手繰り寄せられていく。アスティオさんがこれからどうなるのか、触手の根本にぽっかりと開いた、ワニの口のような空洞を見れば容易に想像がついた。

「い、いや…………!」

 触手がアスティオさんを自らの口に放り込んだ。そしてギロチンの刃が落ちるように、その処刑具は閉じていく――


「ぎッ――――ぎャごァががががががッ、ぐげッ、がァあああああああああああッ、あぐッ、あ――――――――――……………………」


 咀嚼音と悲鳴は、同時に聴こえた。


「……………………」

 何秒、何分、いや何時間経ったのかわからなかった。

 わたしは呆けたように怪物の捕食を見つめ、気づけばその触手が、眼前まで近づいてきていた。

「……まさか――まだ喰べる気なの?」

 口から出たのは、自分でも場違いだと笑ってしまいそうになる台詞だった。

「あはは……これ以上喰べたら、デブになっちゃうよ? 築口君――」

 何言ってるんだろう、わたし。……そういえば、お腹が空いてきたなあ。今日の晩御飯はなんだろう? ラーメン食べたいなんて言ったら怒られるかな――

 目の前に見えるのは、ぐねぐねと蠢く触手。

 考え事が楽しくなってきたので、わたしは目を閉じることにした。




「……なみさん、月並さん――」

 誰かに身体を揺さぶられている。一体何? 注文した醤油ラーメンがやっと届いたところなのに――

「――月並さんってば!」

 ああもううるさいなあ! わたしはいらいらして目を開ける。


 ――そこにあったのは、世にも恐ろしき笑みを浮かべた顔だった。


「いやああああああああ!?」

「月並さん!? どうしたの、ぼくだよ、築口だよ!」

 えっ……築口……?

 よく見ると……いや、よく見なくてもわかる。それは築口だった。ジャージを着た築口がわたしの肩を掴んでいた。

「いやああああああああ!?」

「なんでまた叫ぶの!?」

 そ、そんな――築口は死んだはず。目の前で、心臓を貫かれて、っていうか触手に――!

「……忘れ物を取りに教室に戻ったら、月並さんが倒れてたから保健室に運んだんだけど……どうしたの? 何かあったの……?」

 築口の言葉で我に返る。倒れていた? ……保健室?

 身体を起こす。ツンとした消毒液の臭いがする、そこは確かに保健室だった。わたしは白いベッドに寝かされていた。

 え…………? どういうこと……? あれは夢だったの……?

「……築口君。教室で外国の人見なかった? 軍服っぽい格好の……」

「……? 見てないけど……」

 築口は首を横に振った。……やっぱりあれは夢だったの? 嬉しいけど、なんてリアルで、気持ち悪くて、恐ろしい夢……!

「……わたし、帰るねっ!」

「え!? わ、ちょっ、待って!?」

 わたしは立ち上がり、保健室を飛び出した。早く帰らないと、あの悪夢が現実になってしまう気がしたから。

「月並さーん! お大事にねー!」

 保健室から聴こえる築口の声を無視して、とにかく昇降口に向かう。

 制服のポケットの中で、何かがちゃりちゃりと鳴っていた。




「……行っちゃった」

 保健室に一人残された築口がぽつりと呟く。

「……やっぱりだめだったかなー。教室で倒れてたから運んだなんて不自然すぎたかなー」

 月並は気づかなかったが――ベッドの脇に置かれた築口の鞄には、血でぐっしょりと汚れ、ぼろぼろになった築口の制服が入っていた。

「また制服をだめにしちゃったよ……じいやになんて言おう。すっごく怒るだろうなー……」

 困ったように呟くと、今度はジャージのポケットから、自分の血液がべっとりついた短剣を取り出した。

「……全然覚えてないけど、ぼく、やっぱりあのひと殺しちゃったのかな。やだなあ。幸福になれなくなってたらどうしよう……」

 アスティオに対する言葉を一言も喋ることなく、築口は短剣をゴミ箱まで持っていく。

「えい」

 蓋を開け、ゴミ箱の真上で短剣を握り締める――すると短剣は砂のようにぽろぽろと崩れていき、築口の手から滑り落ちていく。

「……よし、しょーこいんめつ、かんりょーっと」

 短剣がすべて砂になったのを確認すると、築口は手をぱんぱんはたき、ゴミ箱を閉めた。

「さて、ぼくも帰ろーっと」

 無自覚に殺人を犯した少年は、何事もなかったかのように保健室を出た。

「……あ」

 ふと築口が廊下の窓から外を見ると、月並が校門から出ていくのが見えた。

「えへへ……月並さんだあ……あんなとこにいる……」

 築口は本人にとっては至福の顔、他人から見ればこの世のものとは思えぬおぞましき顔になった。

「えへ、月並さん――」

 築口はこの場にいない彼女に向かって呟く。


「大好きだよ、月並さん。きみといると、なんだかとっても幸福な気分になるんだ。きみといれば、きっともっともっと幸福になれる気がするんだ――」


 もしここに月並が聞いていたならば、再び気絶していただろう言葉を嬉しそうに呟く。

「二年生になったら別のクラスになっちゃうかもしれないから――それまでには告白しなきゃ。えへ、どうしよう。今からどきどきしてくるなあ――」

 自分が疎まれ、嫌われ、避けられていることを知らない少年は、受け入れられることのありえない告白を密かに決意する。


 たとえ気持ち悪くても。たとえ怖くても。たとえ醜悪でも。たとえおぞましくとも。たとえ忌まわしくとも。たとえ名状しがたくとも。たとえ冒涜的でも。


 たとえ化け物でも、恋ぐらいするのだ。




 The Unspeakable Boy is the worst end.

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