523 キスの日は死球記念日
五月二十三日がキスの日だなんて、知らないまま死ねたらよかった。
朝練のあと、三年の女子マネがグラウンド脇の水道でスコアブックを濡らしながら、そんなことを言った。
キスの日らしいよ。
へえ。
誰と誰が。
そこで笑いが起きた。男どもの笑いはいつだって汚い。歯磨き粉と汗と土と、昨日の晩飯のにんにくが混ざったみたいな匂いがする。
俺は笑わなかった。
バットケースを肩に引っ掛けたまま、三塁側ベンチの屋根を見上げていた。トタンの端が朝日を弾いて、白くぎらついている。今日の天気はよすぎる。こういう日は、白球がやけに近く見える。
見えすぎる。
「白瀬」
呼ばれて、顔を向ける。
監督が、三本目の缶コーヒーを片手に立っていた。五十を過ぎているのに腹が出ていない。選手だったころの名残じゃない。腹に肉をつけない程度には、まだ自分がグラウンドの支配者だと思っているからだ。
「今日は準備しとけ」
「はい」
「九回、使うかもしれん」
「はい」
「分かってるな」
分かっている。
俺は打てない。
県立青葉高校野球部三年、白瀬透。背番号十八。右投げ右打ち。守備位置はベンチ。得意なことは、死球。
百三十キロ台の直球を見極められる。
百二十キロのスライダーが抜ける瞬間も分かる。
カーブが手から離れた直後、どの高さで落ちるかも分かる。
分かるだけだ。打てるわけじゃない。俺の身体はいつも、俺の目より遅い。
だから俺は当たる。
胸。肩。背中。尻。太腿。左腕。右肘。ユニフォームの内側には、治りかけの痣が季節外れの紫陽花みたいに咲いている。母親は最初泣いた。父親は、男ならそれくらいと言った。その父親も、俺の右脇腹の色を見た日だけは、何も言わなかった。
野球規則では、打者が投球を避けようとしなければ死球は認められない。
だから俺は避ける。
避けるふりをする。
半歩、遅れて。
ちゃんと痛む場所で。
「白瀬」
監督が言った。
「相手の先発、槙野だ」
知っていた。
今日の相手は私立鳴宮学院。春の県大会準決勝。名門。スポーツ推薦。バス三台。応援団つき。野球部の寮はグラウンドの隣。うちの部費三年分くらいの照明設備で夜まで練習している連中。
そのエースが、槙野恭。
中学のころ、俺の相棒だった男。
「内角、来ますかね」
「来させるんだよ」
監督は缶コーヒーを飲み切って、潰した。
「お前なら出られる」
誉め言葉じゃない。命令だった。
◇
恭の球は、昔から綺麗だった。
綺麗な球というのは、速い球のことじゃない。回転がいいとか、伸びがあるとか、そういう言い方をする大人もいるけれど、俺に言わせれば少し違う。
綺麗な球は、投げた本人に未練がない。
指先から離れた瞬間、もう自分のものじゃないと諦めている球。空気を裂いて、捕手のミットまで一直線にいく。その途中に打者がいても、審判がいても、観客の悲鳴があっても、知ったことじゃない顔で飛んでくる。
恭の球は、そういう球だった。
中学二年の秋まで。
変わったのは、市大会の決勝だった。
相手の四番のヘルメットを、恭の抜けた直球が叩いた。
音がした。
硬球が人間の頭に当たる音を、俺は一生忘れない。金属でも木でも肉でもない。乾いた果物を床に落としたような、ひどく間の抜けた音だった。相手の四番は倒れた。救急車が来た。試合は再開した。大人たちは再開させた。
恭は、そのあと外角にしか投げられなくなった。
俺は捕手だった。
内角に構えた。何度も。ミットを、打者の胸元に置いた。
恭は首を振らなかった。サインにも頷いた。けれど球は全部、外へ逃げた。
試合には負けた。
その冬、恭は鳴宮へ行くことが決まった。
俺は青葉へ進んだ。
最後に会ったのは、卒業式のあとだった。
「俺、内角投げられるようになるから」
恭はそう言った。
俺は、嘘つけ、と思った。
でも言わなかった。
代わりに、
「じゃあ俺が当たってやるよ」
と言った。
恭は笑わなかった。
◇
春の県大会準決勝は、七回までゼロ対ゼロだった。
鳴宮の応援はよく揃っている。ブラバンが鳴る。太鼓が鳴る。メガホンが鳴る。私立の応援は音程まで金がかかっている。うちの応援席には、保護者と、暇そうな一年と、去年退部した先輩が三人。風に負ける拍手だけがぱらぱらと散った。
それでも試合になっていたのは、うちの二年の左腕、川名が馬鹿みたいに良かったからだ。
外のスライダー。低めのチェンジアップ。たまに真っすぐ。
鳴宮の打者は、名前だけで打とうとしていた。名前のある学校の四番です、名前のある大会で打ちました、名前のある大学に行きます。そういう顔でバットを振って、川名の球の前で空振りした。
ベンチの隅で、俺は恭を見ていた。
恭は、もっと良かった。
八回まで被安打二。四球一。奪三振十一。
内角は一球もない。
鳴宮の捕手は何度も胸元にミットを構えた。そのたびに、恭の球は真ん中から外へ逃げた。逃げてなおストライクになるから、誰も責めない。外角だけで勝てるなら、内角なんていらない。そう思わせるだけの球があった。
でも俺は知っている。
外角だけで勝てる投手はいる。
外角にしか投げられない投手は、いつか折れる。
八回裏、青葉は一点を取った。
二死二塁。七番のセカンドゴロを、鳴宮の一塁が弾いた。二塁走者が帰る。うちのベンチが爆発した。県立の、短くて安い爆発だった。
一対ゼロ。
九回表、川名が捕まった。
先頭に二塁打。送りバント。犠牲フライ。
一対一。
そのあとも二死一二塁まで行ったが、最後は三振で切った。川名はマウンドを降りる時、笑っていた。限界を超えた人間は、たまに笑う。
九回裏。
鳴宮のマウンドには、まだ恭がいた。
先頭の一番が四球。
二番が送りバント失敗。捕手正面。一死一塁。
三番が右前打。一死一二塁。
四番が三振。二死一二塁。
五番が粘って四球。二死満塁。
うちの六番は、川名だった。
監督がタイムを取った。
「白瀬」
呼ばれる前から、ヘルメットを被っていた。
スタンドがざわつく。
鳴宮ベンチが少し動く。
恭が、こちらを見た。
目が合った。
中学のころより背が伸びていた。肩も厚くなった。帽子のつばの下の目つきは、エースのそれだった。けれど、目の奥だけは変わっていない。あの日、救急車の赤色灯を見ていた時のままだった。
俺はバットを持って、打席に向かった。
川名がすれ違いざまに言った。
「打てますか」
「無理」
「じゃあ、死んでください」
「おう」
そういうチームだった。
◇
右打席に入ると、恭の球がよく見える。
マウンドまで十八・四四メートル。近すぎる。
人間が人間に硬球を投げつけるには、あまりにも近い。
捕手がマスク越しに俺を見た。鳴宮の正捕手、三年の鹿島。こいつも有名だった。肩が強い。打てる。大学も決まっているらしい。目だけで人を見下すのが上手い。
「白瀬だっけ」
鹿島が言った。
「当たり屋」
「捕手が喋んな。口臭い」
「避けろよ」
「お前が捕れよ」
球審が咳払いした。
俺はバットを立てる。
サイン交換。
鹿島のミットが外に動く。
一球目。
外角低めの直球。
見逃し。ストライク。
球速表示は百四十三。
速い。
でも、怖くない。外に逃げる球は怖くない。届かない刃物と同じだ。
鹿島が返球する。恭が受ける。ロージンバッグを触る。息を吐く。
二球目。
スライダー。外へ曲がる。
俺は振らない。ボール。
カウント一ー一。
スタンドがうるさい。
満塁、二死、同点、九回裏。
ここで安打ならサヨナラ。四球でもサヨナラ。死球でも、サヨナラ。
死球でも。
その言葉だけが、やけに冷たく胸に落ちた。
俺は打席の線を踏んだ。
ほんの少し、ホームベースに近づく。
鹿島が気づく。
球審も気づく。
恭も、もちろん気づく。
鹿島が内角にミットを構えた。
来い。
俺は思った。
投げてみろ。
三球目。
恭の右腕がしなる。
白球が指を離れる。
瞬間、分かった。
内角じゃない。
真ん中から外へ抜ける。
また逃げた。
俺は踏み込んでいた。
バットは出ない。身体だけが前に出る。ボールは俺の肘から拳二つ分、外を通って、鹿島のミットに収まった。
ストライク。
一ー二。
鳴宮の応援席が沸く。
うちのベンチが黙る。
鹿島が笑った。
「なあ」
返球しながら、言う。
「当たりにも行けねえの?」
俺は答えなかった。
恭はマウンドで帽子を取った。汗を拭く。もう一度被る。
あいつは今、俺ではなく、あの日の四番を見ている。
違うぞ、恭。
俺はヘルメットの奥で、歯を噛んだ。
お前が今投げる相手は、あいつじゃない。
俺だ。
◇
四球目の前、監督がベンチから声を飛ばした。
「白瀬、楽にいけ!」
楽に死ね、みたいな声だった。
俺は打席を外し、手袋を締め直すふりをした。
左手の甲には、二週間前の死球の痣がまだ少し残っている。黄色く濁った、古い月みたいな色。
母親は、もう試合を見に来ない。
父親も来ない。
来るなと言ったのは俺だ。
嘘だ。
本当は、見られたくなかった。
ヒットを打てないところじゃない。
三振するところでもない。
死球で塁に出て、仲間に背中を叩かれ、痛みを笑いに変えるところを、親に見られたくなかった。
俺は打席に戻る。
鹿島がサインを出す。
恭が一度、首を振った。
鹿島が止まる。
もう一度サイン。
恭はまた首を振った。
球場の音が、少し遠くなった。
三度目。
鹿島が、内角高めにミットを構えた。
恭は頷いた。
俺は、その頷きを見た瞬間、気持ち悪くなった。
やめろ、と思った。
投げるな、と思った。
投げろ、と思った。
全部同時だった。
セットポジション。
一塁走者が小さくリードを取る。
二塁走者が、帽子のつばを触る。
三塁走者が、左足で土を掻く。
恭が足を上げる。
鹿島のミットは胸元。
白球が、指を離れた。
今までで一番、綺麗な球だった。
内角高め。
打者の胸を抉る高さ。
逃げない。曲がらない。抜けていない。
あの日から三年分の、投げ損ねた内角が、一本の線になって飛んでくる。
俺は見た。
見えた。
この球は、ストライクにならない。
俺が避ければ、ボール。
俺が避けなければ、死球。
俺が振れば、詰まってファウルか、最悪、手首。
恭は、投げた。
俺は、避けなかった。
避けられなかった、ではない。
避けなかった。
硬球が、俺の左肩に触れた。
キスみたいな音はしなかった。
ぶつり、と肉の奥で何かが切れる音がした。
そのあとで、骨に白い火が点いた。
息が止まる。
バットが落ちる。
膝が折れる。
球審の声が遅れて来た。
「デッドボール!」
押し出し。
サヨナラ。
青葉高校、決勝進出。
◇
人間は勝つと、痛がっている人間を見なくなる。
ベンチから全員が飛び出してきた。
三塁走者がホームを踏む。
川名が叫ぶ。
監督が両手を上げる。
一年が泣く。
女子マネがスコアブックを抱えたまま、何か言っている。
俺の周りを、歓喜が走り抜けていく。
誰かが俺の背中を叩こうとして、やめた。
賢い。
肩に触ったら、たぶん俺は吐く。
俺は一塁に行かなければならなかった。
死球で出塁した打者は、一塁へ進む。
サヨナラでも。
痛くても。
それが野球の形だから。
俺は歩いた。
一歩目で、左肩が燃えた。
二歩目で、視界が白くなった。
三歩目で、口の中に鉄の味がした。
噛み締めすぎて、頬の内側が切れていた。
一塁ベースを踏む。
踏んだ瞬間、試合が終わった。
鳴宮の選手たちは整列のために動き出した。
恭だけが、マウンドから動かなかった。
こっちを見ていた。
俺も見た。
何を言えばよかったのかは、分からない。
投げられるようになったな。
ナイスボール。
ごめん。
ざまあみろ。
ありがとう。
馬鹿野郎。
どれも違った。
整列。
「ありがとうございました!」
声が揃う。
揃いすぎていて、気味が悪い。
握手はない。高校野球に、試合後の握手なんてものはない。
相手に触れない。
礼をして、別れる。
それがいい。触れたら、いろんなものが嘘になる。
整列が解けたあと、恭がこちらへ歩いてきた。
鳴宮の監督が何か言った。
鹿島が止めようとした。
恭は聞かなかった。
俺の前で止まる。
「白瀬」
「おう」
「避けろよ」
「嫌だよ」
「ふざけんな」
「ふざけてない」
「俺は」
恭の声が、そこで割れた。
「俺は、投げたんだぞ」
「見りゃ分かる」
「内角に」
「知ってる」
「ちゃんと」
「知ってる」
「なんで避けねえんだよ」
俺は笑った。
笑うつもりはなかった。
けれど、笑った。
「俺の仕事だから」
恭の顔が歪んだ。
殴られる、と思った。
殴られたほうがよかった。
恭は殴らなかった。
「お前、最悪だな」
「お前もな」
「俺の内角、返せよ」
「俺の肩も返せ」
「知らねえよ」
「俺も知らねえ」
そこで、二人とも黙った。
遠くで、青葉の応援席が校歌を歌っていた。勝った時だけ歌うやつだ。誰も歌詞を覚えていないから、途中からぐずぐずになる。県立らしい、締まらない勝利だった。
恭が、小さく言った。
「痛いか」
「痛い」
「ざまあみろ」
「おう」
「決勝、出られんの」
「知らん」
「折れてたら?」
「知らん」
「夏は?」
「知らん」
恭は唇を噛んだ。
そして、俺の左肩を見た。
ユニフォームの布の下で、熱が膨らんでいる。心臓が肩に移ったみたいだった。
「キスの日らしいぞ」
俺が言うと、恭は意味が分からない顔をした。
「今日」
「は?」
「五月二十三日。キスの日」
「馬鹿じゃねえの」
「たぶん」
「硬球とキスして勝って嬉しいか」
俺は答えなかった。
嬉しいわけがない。
嬉しくないわけでもない。
恭が内角を投げた。
俺が避けなかった。
うちが勝った。
恭が負けた。
俺の肩はたぶん壊れた。
どれも本当で、どれか一つだけを選べるほど、野球は親切じゃない。
「恭」
呼ぶと、あいつは目を上げた。
「今の球」
「うん」
「綺麗だった」
恭は泣かなかった。
泣かなかったから、俺も泣かなかった。
◇
病院に行った。
左鎖骨にひび。全治六週間。
夏の大会は、ぎりぎり間に合わない。
間に合ったとしても、バットは振れない。
守備なんてもっと無理。
代打死球要員としても、左肩を狙われたら終わる。
つまり、俺の高校野球は五月二十三日に終わった。
監督は病院の廊下で、難しい顔をした。
「白瀬」
「はい」
「よくやった」
「はい」
「お前のおかげで決勝に行ける」
「はい」
「夏は、マネージャーの手伝いでも――」
「嫌です」
監督が黙った。
「俺、選手です」
「だが」
「ベンチに入れてください」
「出られんぞ」
「知ってます」
「なら」
「選手でいさせてください」
監督は、しばらく俺を見ていた。
缶コーヒーのない監督は、少し老けて見えた。
「分かった」
それだけ言って、廊下の先へ歩いていった。
母親に電話した。
泣かれた。
父親に代わった。
男なら、と言いかけて、やめた。
「帰ってこい」
父親は言った。
「カレー作ってる」
なんでカレーなんだよ、と思ったら、少し泣きそうになった。
◇
翌日の地方紙に、小さく載った。
青葉、サヨナラ死球で決勝へ。
写真は俺ではなかった。
ホームを踏んだ三塁走者が、両手を上げている写真だった。
俺は画面の端で、バットを落として膝をついていた。顔は写っていない。背番号十八だけが、少し見えていた。
それでよかった。
教室では少し騒がれた。
「白瀬、英雄じゃん」
「死球でヒーローとかウケる」
「肩大丈夫?」
「決勝出んの?」
「キスの日に死球ってやばくね?」
誰かがそう言って、笑いが起きた。
俺も笑った。
笑うのは便利だ。
痛みの置き場所がない時、笑うと一瞬だけ床ができる。
放課後、野球部のグラウンドへ行った。
左腕は三角巾で吊っている。ユニフォームではなく制服。
グラウンドでは、決勝に向けて練習が始まっていた。川名がブルペンで投げている。ミットの音がする。打撃ケージで金属音が鳴る。マネージャーがボールを拾う。
俺の居場所は、もう少しだけ残っていた。
ベンチに座ると、女子マネが来た。
キスの日の話をしていた子だ。
「白瀬くん」
「何」
「昨日、ごめんね」
「何が」
「朝、変なこと言ったから」
「キスの日?」
「うん」
「別に」
彼女はスコアブックを抱えて、少し迷った顔をした。
「痛かった?」
「痛い」
「そっか」
「うん」
「勝って、よかった?」
俺はグラウンドを見た。
川名の球が、捕手のミットに刺さる。
いい音だった。
「分からん」
正直に言った。
「でも、負けるよりはよかった」
「そっか」
彼女は、それ以上何も言わなかった。
それがありがたかった。
◇
決勝は負けた。
川名が五回につかまって、三対一。青葉は準優勝。
新聞には「公立校健闘」と載った。便利な言葉だ。負けた事実を、少しだけ綺麗に包んでくれる。
夏の大会、俺は背番号十八をもらった。
出場はなかった。
一回戦は勝った。二回戦も勝った。三回戦で鳴宮と当たった。
鳴宮のエースは、恭ではなかった。
恭はベンチにいた。背番号十。
春のあと、内角に投げられなくなったらしい。
俺のせいか。
俺のおかげか。
そんなものは、どちらでも同じだ。
三回戦、青葉は負けた。七対二。
俺の高校野球は、今度こそ終わった。
試合後、球場の外で恭に会った。
夏の太陽は、五月よりずっと凶暴だった。
お互い坊主頭で、ユニフォームで、もう試合には出ない顔をしていた。
「肩」
恭が言った。
「治った」
「嘘つけ」
「だいたい」
「俺は投げられん」
「知ってる」
「お前のせいだ」
「おう」
「お前は?」
「お前のせい」
「だよな」
二人で少し笑った。
高校球児の笑いは、だいたい空っぽだ。三年間、毎日泥を食って、最後に負ける。そのくせ泣くと美談にされる。だから笑うしかない時がある。
恭が、ポケットから硬球を出した。
春の準決勝で使われた試合球だった。
どうやって持ち出したのかは知らない。
「これ」
「盗んだ?」
「記念品」
「犯罪者」
「うるせえ」
恭はそのボールを、俺に投げた。
反射で右手を出す。
受ける。
縫い目が、指に引っかかる。
硬球は、思ったより軽かった。
あんなに痛いくせに、たったこれだけの重さしかない。
「いらねえよ」
俺は言った。
「持ってろよ」
「なんで」
「お前のだろ」
「お前の球だ」
「俺は打ってない」
「当たった」
「それだけじゃん」
「それだけで終わったんだろ」
恭の声は静かだった。
「俺も、お前も」
俺は何も言えなかった。
ボールを見る。
白い革に、薄く土が染みている。赤い縫い目。小さな擦り傷。どこかに俺の肩の痕が残っている気がした。そんなもの、見えるわけがないのに。
「白瀬」
「何」
「俺、大学で野球やらない」
「そう」
「お前は」
「やらない」
「だよな」
「うん」
終わったものを、二人で確認していた。
それは葬式に似ていた。
棺桶の中に入っているのが人間ではなく、投げられなかった内角と、打てなかった俺だっただけだ。
「キスの日」
恭が言った。
「まだ言う?」
「お前が言ったんだろ」
「うん」
「あれ、最悪だったな」
「そうだな」
「でも」
恭は少しだけ笑った。
「俺、あの球だけは覚えてると思う」
「俺も」
「痛かった?」
「痛かった」
「よかった」
「よくねえよ」
「痛くなかったら、嫌だろ」
俺はボールを握った。
確かに、と思ってしまった。
痛くなかったら、全部嘘になる。
恭が内角を投げたこと。
俺が避けなかったこと。
青葉が勝ったこと。
俺の夏が短くなったこと。
恭の内角がまた死んだこと。
痛みだけが、それらを一つの現実につないでいた。
「じゃあな」
恭が言った。
「おう」
「元気で」
「お前も」
握手はしなかった。
俺たちは最後まで、互いに触れなかった。
触れたのは、あの一球だけだった。
◇
家に帰って、机の上にボールを置いた。
母親が夕飯を呼ぶ。
父親がテレビでプロ野球を見ている。
どこかの誰かがホームランを打ったらしく、実況が騒いでいた。
俺はボールを見た。
五月二十三日。
キスの日。
九回裏、二死満塁。
内角高め。
避けなかった俺。
投げた恭。
死球。
サヨナラ。
全治六週間。
夏、未出場。
背番号十八。
言葉にすると、ずいぶん簡単だ。
でも本当は、もっと汚くて、もっと鋭くて、もっとつまらない。
青春なんて、たいていはそうだ。
あとから見ると光っている。
その時は、ただ痛い。
俺はボールを手に取った。
左肩に当ててみる。
もう痛みはない。
少しだけ、奥が鳴る。
硬球は冷たかった。
唇みたいには、少しも柔らかくなかった。
それなのに俺は、その白い球に向かって、小さく笑ってしまった。
あの日、あいつの球は俺に触れた。
俺の夏に触れた。
俺が野球を嫌いになる前に、俺から野球を奪っていった。
たぶん、それでよかった。
好きなものは、嫌いになる前に終わったほうがいい。
俺はボールを机に戻した。
母親がもう一度、夕飯だと呼ぶ。
俺は返事をして、立ち上がる。
部屋を出る前に振り返ると、机の上の硬球が、西日の中で白く光っていた。
キスの日に、俺は死球を食らった。
接吻ではなかった。
祝福でもなかった。
呪いにしては、少しだけ綺麗すぎた。
だからたぶん、あれは野球だった。




