終了 ― 『とあるアパートにて答え合わせ』
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後日談とまいりましょうか。
まずは出来事の終末を。
あの後、ぼくらがあの場所を離れた後に、時計屋に隠れていた逃亡研究者、折紙学は《家》によって確保された。七人の実験体も他の建物で発見され、同時に確保される。重要情報を持ち出した+実験体の持ち出した+数年間に渡っての逃走の断罪として、折紙学はある研究所に監禁状態となっているらしい。あの人、研究者としては優秀らしいので、まるで奴隷のように働かされるらしい。
ぼくの知ったこっちゃありません。
存分に自分の犯した罪を償ってください。おそらく彼は一生あの研究を行うことはないだろう。もし行おうとしたら、そのときは又潰しに行けばいい。いい暇潰しになる。そのときは、今度こそ精神的にズタボロにして、生きる気力がギリギリ残るぐらいにしてあげよう。死なない程度に。ハハハハハ。これじゃあ、ほんとに悪役だな。
そしてお次は、叔父さんに頼んだことについて。あれの他にお願いした、ぼくの二つの切実なお願い。
そのうちの一つは、《学習装置》の一台を借用という形で実質上もらいたいということ。
そしてもう一つ、重要実験体である《無欲》を見逃してほしいということ。
それくらいなら、と叔父さんは笑って軽く了承してくれたのだが、本当に大丈夫だったのだろうか。いつその約束が破れるのか、すごく心配だ。まあ、とりあえず今のところは大丈夫だろう。破れたら、またそのときに考えよう。
そんな感じであの出来事が終わって、一週間後。物語は、一旦落ち着きを見せた。
平日で、大学一回生で、先ほどまで講義室にいたぼくは、初老の先生の講義内容を聞いてるふりをしていた。実際は、聞こうと思っても聞けなかったのだ。何を言っているのか、さっぱり分かりませんでした。先生が言っているであろう内容はなんとなく分かるのだが、その先生は口ごもった声でその内容を喋っていたため、一番後ろの席を陣取って聞いていたぼくには、まったくといって聞こえない。理解の仕様がない。
ということで、すっかりやる気を無くしたぼくは現在図書館に引きこもっている。いつもの流れなんだけどね。アイさんにあんなことを言ったけど、ぼくも何でこの大学に入ったのだろう。毎日こんなことをしているような気がするな。受付の返却窓口に読み終えたハードカバーの本一冊と文庫本二冊を返却。すっかり図書館の常連となってしまったぼくは、しばらく受付の人と会話をする。結構盛り上がった。皆さん、図書館内ではお静かに。もしかしたら同じ学年の人よりも、話す時間が多いかもしれない。その後、館内で静かに読書。午後三時頃に、借りる予定だった本を合計四冊借りると、図書館から出て、そのまま大学構内からも出る。
外はいつも通り。特別なこともなければ、不思議なこともない。
平凡な日。いたって平和な一日のはずだ。
今日は自転車に乗ってこなかったため、歩き。
スーパーに入ると、今日の夕飯の買い物を始めた。
今日は何を作ってあげようか。そういえば最近カレー食べてないな、ということを思い出して野菜コーナーに直行。ぼくってこんなにカレー好きだったっけ? カレーと言ったら、じゃが芋、玉ねぎ、人参……この前肉じゃがを作ったときも同じような野菜を買ったような。
買い物を終えると、買い物袋を持ってウチへと歩き出す。
歩いている途中で、ぼくと同じ大学の生徒で同じ講義を受けているらしい人たち、女子大生四人集団に声を掛けられた。ぼくは知らないのだが、彼女たちはぼくが同じ講義を受けていることを知っていたらしい。これからカラオケに行くのだが一緒にどうだ、と女子大生に誘われるという珍しい且つ魅惑的なとても大学生らしいイベントが発生したのだが、早く帰るという彼女との約束もあったので丁重にお断りした。とても惜しいことをしたような気がする。
そして、何故か同じアパートの住人に遭遇。
普段家から出ない、見かけることも少ない所謂NEETと呼ばれる分類のお方、ニートさんだ。部屋に訪ねたときくらいしか会う機会がないのに、珍しいこともあるものだ。話を聞いたところ「たまに外に出ないとさすがの俺も死んでしまう」だそうだ。文句ある? と言いたげな怒り混じりの笑顔をもらったところで別れを告げる。
今日は珍しいことばかりだな。
まあ、こういう日も良いものだ。
しばらく歩いて、ようやくアパートに到着した。初めて徒歩で学校間を行き来したけど、結構距離があるんだな。これは普段から自転車通学で正解だな。できれば自動車通学をしたいところだ。ただ、ウチのアパートって駐車スペース少ないんだよな。
なんて考えながら、住宅の角を曲がり、アパートの正面を見た。目の前に赤い高級外国車が停まっている以外、周りの住宅街の中であまり目立たない建物である。
……赤い外車?
とっても心当たりがあるのだが、まさかね、そんなはずが。
「よおっす!」
残念、とっても知り合いの方でした。
こんなことなら、もうちょっと遅めに帰ってくるんだったな。
相変わらず格好良い姿をしたその男は、オレンジ色のサングラスを付けていた。それにオレンジ色の髪。間違いようがない、他に間違えるような知り合いはいない。あの出来事の発端と言ってもいい人。裏で何を考えているのか分からない、異常な人。
《最高の運び屋》《歩く蜜柑》箱舟渡、その人である。
「ははー、久しぶりだな、おい。かれこれ一週間振りか?」
「ぼくは一週間でも頻繁に会ってるの分類に入ると思いますよ」
むしろ、ぼくとしては一週間に一度この人に会いたくないのだけど。
「そういえば、お前大学生だったな。今帰りか?」
「そうですけど」
「いやー、懐かしい。大学生か。青春だな。俺もその頃は随分とやんちゃしていたものだ。昔の俺は、大学は入っとけきゃあいいと思っていたからな。毎日飽きもせず馬鹿みたいに遊び呆けていたもんだ。それに比べて、てめーは真面目だな。生真面目だ。正直者だ」
最後は意味が分からない。それにぼくは正直じゃない。
「別に真面目じゃないですよ。ぼくだって大学に行くといっても、一日中ずっと講義受けてるわけじゃないですし」
「まだ良いほうだ。俺なんか五度ほど捕まるかと思った出来事があるぜ」
この人が言うと、五という数字がとてもリアルに感じるな。
実際今でも法から外れたことを平気でやってのけそうだ。
「だけど、大学生にしては結構帰りが早いんだな、お前。大学生ってこう、サークルとかダチ付き合いとかで、大抵は帰りが遅くなるもんだろ」
「ぼく、サークルに入ってませんし、一緒に遊びに行くような友達もいません」
さっき誘われたのはノーカウントで。あくまでぼくは友達の少ないキャラを突き通したいという変なプライドがあるのだった。
「寂しい奴だな」
「改めて人に直球で言われると、嫌な感じですね」
自分でも分かっているけど、人から言われるのとはやっぱり違う。
「ほら、それに比べて俺くらいの人間になるといろんな友達ができるんだぜ。女子大生からナースまで、選り取り見取りさ。どうだ、羨ましいだろ? 紹介してやろうか?」
「その範囲内に女性しかいないように感じるのは、ぼくだけですか?」
それに微妙に範囲が狭いような。ぼくが言えることじゃないのだが。
まあ、紹介されても問題はない方々なのだが。
「さすがに冗談だ。正しくは、殺し屋から警視庁長官くらいか」
正しいほうを聞きたくなかったな!
まったく真逆の人が知り合いですか。それはさすがに紹介してもらいたくないな。
この人からいつ切り出すか待とうかと思っていたが、いつになるのかも分からない。先ほどから雑談しているばかりだ。
ぼくから切り出すことにした。
「ところで」
何しにウチに来たんだ、あんた。
「運び屋さんって暇なわけじゃないんですよね。わざわざ会話しにきたんですか?」
「いいな、会話会話。おめーとの会話って結構好きだからさ。今度ゆっくり話でもしようぜ。だけど今日は違う用事で来たんだ。さすがにあんな大げさな実験機材がいつまでもアパートの一室にあるっていうのは結構問題だろ。それにこれからはおめーだけの部屋じゃなくなるだろうが、しばらくあれは邪魔だろ? だから安全そうなところに運んどこうと思ってな。まあ、もう運び終えたんだけどな」
それは素直にありがたい。
ぼく一人なら別に問題がないのだけど。二人暮らしとなると、ただでさえ狭いスペースがさらに狭く感じられた。だけど他の場所に置いておくにも、一人では運べないし、置くスペースも思いつかないでいた。
だけど、
「そんなことを頼んだ憶えがないですけど」
「ああ、頼まれた憶えもねぇ。だから、勝手にやったアフターサービスってことにしておいてくれ。この前は、あのねーちゃんの勢いに負けちまったからな。あとから考え直すと無責任だったかなって思ってよ。だからこれとこの前の依頼は、あのときの埋め合わせってことにしといてやる」
そう言って、どこから出したか分からないタバコを口にくわえる箱舟。火は点けない。煙が出てないタバコを咥える必要などあるのだろうか。それにタバコの良さが分からない。吸ったことがないから当然なのだけど。
「この前行った喫茶店、憶えてるか?」
「ぼくがこの前依頼したときの、あの喫茶店ですよね?」
隠れ家的な子洒落た喫茶店。《小さな進化論》。あの通りを思い出させるような、外見と内装をしているその喫茶店は、マスター一人で経営しているらしい。大学から結構近かったので、この前行ったばかりだ。
先週の日曜日、再び箱舟と会う際に指定された待ち合わせ場所だ。
「そう、あそこ俺の行きつけでよ。地下使わせてくれって言ったら、快くオーケー出してくれたわけ。だから、現在あのカプセルは《小さな進化論》の地下スペースに置いてある。マスターに言えば、いつでも使えるようになってる」
「何から何までありがとうございます」
45度身体を曲げて、頭を下げる。
「いや、俺に感謝するよりも《道化師》のほうに感謝することだな。あいつ、結構頑張ってくれたらしいから。それに、依頼タダでやってくれたんだろ。あいつがタダにすることも、珍しいんだぜ」
「そうですね、そうします」
日曜に箱舟から《道化師》の連絡先を教えてもらっていた。
その日、箱舟と別れた後すぐに連絡を取って、依頼したのだ。それを《道化師》は二つ返事で了承してくれた。最初だからサービスでタダだそうだ。ありがたい。
「俺のときなんか、初めっから十万取られたんだぞ」
「……仲悪いんですか?」
「馬鹿言え。仲良し小好しだぜ」
ほんとによく分からない人だ。どうしてこう、ぼくの周りにはよく分からない人ばかりが集まるのだろう。
「だけど、今回のお前の戦いっぷりは、ほんとに天晴れだったな」
「いえ、今回はほんとに楽でした」
本当に楽だったと思う。リハビリのようなものだ。
舞台に立たせてもらっただけだから。
それに、ぼくが主役だったから。
この人に全てを用意されて、まるで最初からこうなることが分かっていたようにシナリオ通りに進められ、操り人形のように動いて、言葉を並べた。自分だけでやったときの感覚が戻っていくのが分かった。
ただ今回はぼくでもじいさんでもなく、この人が糸を引いていた。
「だけど採点的には五十点ってところだな。ぎりぎり及第点」
「天晴れじゃなかったんですか」
「厳しくしたらそんな感じだぜ。せっかく俺がお膳立てしてやったというのに、穴だらけで見ているこっちがハラハラドキドキだったぜ」
穴だらけか。
「ちなみに、どこら辺が?」
「最初から最後まで」
全部じゃねーか。それは穴だらけじゃなくて巨大な穴そのものだ。
「その中でも特に穴だと思える奴を言っていくと、まずは折紙の裏に誰がいるのかを調べなかったことだな」
「調べても分からなかったんです」
考えてみれば、簡単に気付けることだった。折紙が大人数で移動する上で、どうやって誰にも勘付かれずに逃走するのか。不可能に近いことをやってのけたのだ。《家》内部に協力者がいる可能性がある。
ぼくが強行的な行動を取れば、もしかしたらその協力者に何かされる可能性もあった。
一応視野には入れておいたのだが、完璧ではなかった。
「それについては、叔父さんにも頼んでありますし、そのうち折紙自身が自供するでしょ」
「そうだな。そうなればいいな」
絶対にそうは思っていないような声だった。
「あとは、おめーのじいさんが何故逃げた折紙をすぐに探させなかったか、それを考えた上で行動すべきだったんじゃねーか?」
「それはおそらく孫であるこのぼくに解決させたかったんですよ。折紙は、研究所を無くせば無力です。何もできないのとおんなじですからね」
「心にも無いことを言うんじゃねーよ。すぐに他の研究組織に行く可能性だってある」
「そんなこと、じいさんは思い付きもしなかったと思いますよ」
それは、じいさんと折紙の信頼関係か。折紙はあんなことを言っていたが、絶対に他の研究施設には行かなかったはずだ。《家》の技術は現代基準の技術よりも干支一回り以上早い。簡単に製作なんてできないはずだ。ただ、他の人に邪魔されずに自分の手で完成するために。そのことをじいさんは誰よりもよく知っていたはずだ。
自分の研究を託すことができるほどの相手のことを。
だから、違う人生を送ってほしいという願いで折紙を自由にさせたのでは、とぼくは思う。
それも叶わなかった夢だった。
本当は、あの人はぼくのことなんてどうでも良かったんだ。自分の教え子がどうしているのかを確認したくて箱舟に頼んだ。だけど、まだ研究を続けていた。だから《家》と密接な関係にないぼくを探して頼んだ。
それだけだろう。考えすぎか?
「だけどよ、何であの子を助けるでも、救うでもなく、奪うなんだ? そこが俺にはよく分からねーんだよな。お前が考えることっていまいち分からない」
「……どこでそれを知ったんですか? それはあなたに言った憶えはないですよ」
あの時計屋でしか言っていない台詞。盗聴器でも付けられていたのか。
「言われた憶えもねーよ。小耳に挟んだということにしておけ」
「……ぼくは、折紙のプログラムを利用して彼女に欲を与えました。だけど、もしそれがなかったら彼女は、なんと言うだろうか。絶対に人間になりたいだなんて、思わなかったはずなんです。だから、彼女にとってそれは救いになりませんし、助けにもならないんじゃないかって思った。それだけです」
彼女は、助けを求めていないのに。
救いを求めてもいないのに。
勝手にぼくは、救おうと、助けようとした。
だから、どちらでもなく奪った。
「実際お前は助けたじゃねーか、あの子は実験体にならずに済んだんだしよ」
そうかもしれない、だけど。
「てめーはいろいろと考えすぎだよ。お前が全てを解決したんじゃないか。ハッタリも利かせてよ。それに《道化師》に依頼を頼んだのはお前だし、俺にあれを運ぶように頼んだのもお前なんだぜ?」
「それらは全て、あなたがいたからこそできたことじゃないですか。ぼく一人ではどうしようもなかったです」
「そんなことはねーよ。俺はな、結局お前にこんなお節介なことをしなくてもこうなるだろうと思っていたんだ。てめーにはそれだけの力がある。ただ今回はこうして俺が手助けをしただけ。それだけさ。結果論さ。結果、折紙学からあの子が彼女を奪い、折紙学の欲を奪ったのだから、てめーの勝ちである。それにあの子は実験体にならずに済んだ。それだけでいいじゃねーか。お前は、今回の勝者なんだぞ。もっと胸を張りやがれ」
箱舟は笑った。歪みきった笑顔で。
ぼくはそれに合わせる。
ぼくは笑った。嘲笑うように。
近所迷惑も考えずに、結構な大声で。
ぼくの今回初めての笑いだった。こんな笑いも悪くない。
そして、ぼくは言う。宣言する。
「そうですね。なら、今度はあなたさえも巻き込んで、全てをまるまる巻き込んで。ぼくが監督の完璧な大舞台を見せてあげますよ、そのうちね」
じいさんでもなく、箱舟でもなく、折紙でもなく。
今度はぼくが最初から最後まで、脚本から配役まで、全てを決めて。
利用できるものをとことん利用して。
結末は思い通りに。
進めてみせる。
もう、同じようなヘマはしない。
絶対に、逃げたりなどしない。
「元気そうで何よりだ、欲削ぎ少年。じゃあ、もう俺の出番は終了ってところだな。また舞台をやるんなら混ぜろよな。次はもう考えてるんだろ? 既に《道化師》に依頼したとか。楽しみにしてる。おめーと馴れ合うのはな、意外に楽しいんだ」
そう言うと、箱舟は赤い車に乗り込む。
「最後にいいか?」
「はい?」
今更依頼料が欲しいといっても、鐚一文も出しませんよ。
「結局、お前は正義の味方になりたかったのか、それとも悪役になりたかったのか。一体どっちだったんだ?」
考える必要のない質問が飛んできた。
ぼくは、言った。
「ぼくの行いが正義か悪かを決めるのは、ぼく以外の他人ですよ。ただ、今の彼女にとって正義なら、それでいいんです」
そうか、と言い、箱舟はエンジンを掛けた。環境に悪そうな音が響く。
そして、ぼくに向けて言った。
「あの子と、お幸せに」
……お幸せにって。
車はあたり一面に大きな振動を出しながら走っていった。
ぼくはそれを見届けると、階段を上る。
部屋の前まで行く途中で、またアイさんと出くわしてしまった。また、飲みに行かないかと誘われた。だからぼくは飲めませんって。丁寧にお断りする。それに対して、頬を膨らませるアイさん。そんな子どもらしい反応をされても。
「いいじゃないか、減るもんじゃないし」
「減るどころか、罪は増えていく一方ですよ」
「けーち」
「だから、けちじゃないって」
さらに大きく膨らます。
あのときのアイさんの面影が見当たらない。あれは幻だったのか?
「少年が最近冷たい」
そんな子どもみたいなことを言われても。
「他の女の子にデレデレして、私の前で見せ付けて! そんなに若い子の方が好きなのか!」
「デレデレしてません。それにあなたにいつ見せ付けたんですか?」
「ベランダから見ればよく分かる」
「近付くな犯罪者!」
不法侵入です。
「今週の日曜日、空けといてくれ」
「……いきなり何ですか?」
「あの子の服とか買いに行く。いつも同じような服を着ているからさ」
「本当に見てるのかい!」
「この前一緒に話したの。結構いい子じゃないか。し、幸せにしてあげなよ」
なんで、泣きそうな顔しながら言うんだ。
だけど、やっぱり仲良くしてくれたのか、彼女と。本当にこの人は、お人よしだ。
「とにかく、ぼくたちはまだそういう関係じゃないですから」
「とにかく、行くからな」
アイさんは、そのままバイトへと旅立った。
無理矢理約束を取り付けられちゃったな。まあ、いつぞやの約束も果たせなかったからな。これもまた良い機会だろ。それに、そろそろあの子に新しい服を買ってあげようかと思っていたし、良い近所付き合いにもなる。
予定に入れておこう。
ぼくは鍵のかかっていないドアをそっと開ける。
前に立ち止まった。
なんか重要な穴があったような。何か見逃しているような気がする。今回の出来事は全て生産できたと思うけど……。なんだろう、どこら辺かな。
そうだ。
あのとき、彼女がまだ無欲だったときに、どうして彼女はぼくに付いて来てくれたのだろうか。ぼくはただ『君は、人間になりたいと思うかい?』と聞いだだけで、彼女は頷いただけ。確実に人間になれるという保証はどこにも無い。ぼくが嘘を吐いている可能性もあるというのに、彼女のほうから手を差し伸べてきた。確かまだあのときは折紙学のプログラムが脳内にあって、人にあまり関わってはいけないと教えられていたはず。
じゃあぼくを信じてくれたのだろうか。まさか、こんなぼくをあの彼女が信じるはずがないじゃないか。
じゃあぼくが好きだったから。まさか、こんなぼくを好きになるはずがない。
……また今度本人に聞いてみよう。
以前よりも少しだけ家具が増えたことで狭くなった部屋の真ん中にはテーブル、その傍で一人の少女は座っていた。カプセルがあったはずの場所は空いていて、面影も何も無い。少しくらいは広くなったかな。
彼女は、不器用ながらも暖かい笑顔が迎えてくれた。
二人の会話が始まる。
おかえり。
ただいま。
今日は何を作るの。
今日はカレーにしようかなって思ってる。
そうそう。今度、お隣のお姉さんと一緒に買い物に行こう。
あい姉さんと、買い物?
いつの間にそんな呼び方を……。まあ、いいか。それから美味しいものでも食べよう。
うん。
そんな会話が続いていく。
彼女はまだ人間ではない。未熟な人間は、ぼくに好かれようと努力している。それは恋愛感情ではなく、人との関わりを大事にしたいと思っているから。関わり合いを大事にして、自分を守りたいから。
ぼくは彼女を奪った。彼女の本来の姿を、本質を。だけど、それを後悔してはいけない。それは元の彼女にも失礼だし、今の彼女にも失礼だ。自分が行った行為に責任を持たなくてはいけない。
だからぼくは、彼女と毎日普通に接する。
彼女は笑顔を絶やさない。ぼくもぎこちない笑顔を見せる。
そんな居場所が、今では居心地がいい。
こうして、ぼくの新しい世界は進んでいます。
「なあ、むーちゃん」
「ん? なに?」
もう、あの名前で彼女を呼ぶことはない。もうあの記号ではないのだから。
忘れることのないあのときの思いを胸に秘め、再び丁寧に仕舞いこんだ。二度と繰り返さない。あんな思いは、絶対にしたくない。後悔は、したくない。
素直じゃないぼくは言う。曖昧ながらも回りくどく、あの時は言えなかった思いを。
「ぼくは、君の事を好きになるかもしれない」
もう好きだというのに、小さな嘘を吐く。
「私はあなたのこと、好きですよ」
躊躇い無く好きという意味をよく知らない彼女は笑顔で言い返す。彼女の無邪気で純粋な笑顔は、とても輝いて見える。この笑顔を見たかったんだよ、ぼくは。
彼女は、ぼくという柱を支えがないと生きていけない。だから、おそらく彼女の《好き》とぼくの《好き》は違う。人間として好かれたい彼女、人間としてぼくを好いている。恋人として好かれたいぼく、恋人として好こうとするぼく。
ズレテルネ。
曲がっている。
歪んでいる。
滲んだ世界。
面白い。
物語は、続く限り、終わりません。




