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第40話 ノアの箱舟

「本当に君は僕に懐くね」


柔らかな声でそう言った少年の腕の中には、一匹の黒い猫が抱かれていた。まだ小柄な体の猫は、少年の胸にぴったりと体を押しつけるようにして丸くなっている。つややかな黒い毛並みは陽の光を受けてわずかに輝き、その小さな尻尾がゆっくりと揺れていた。


猫は時々「ナーン」と甘えるように鳴きながら、少年の腕にぺろぺろと舌を伸ばす。温かな体温と優しい匂いに包まれながら、猫は安心しきった様子で目を細めていた。


少年――ノアはそんな猫の頭を優しく撫でる。

指先が毛並みをなぞるたび、猫の体から小さな喉の音がこぼれた。


あったかい。あったかい。

ずーっとこのままがいいな。

あったかいな。あったかいな。

ノアは優しくて大好きだな。


黒い猫はゆっくりと目を閉じる。

まるでこの温もりを体の奥まで覚えておこうとするように。


あぁ、暖かいところに行きたいな。

ノアにあいたいな。


――そんな昔の記憶が、ふいに青年の頭をよぎった。


一瞬だけ遠い過去を見てしまったような感覚。

だが次の瞬間、青年の表情が一気に険しく歪む。


「くそっ、あいつらのせいで思い出さないようにしてたもん思い出しちまったじゃねぇか」


苛立ち混じりの舌打ちが、森の静けさの中に響いた。青年の目はどこか苛立ちと焦りが混ざったように鋭く細められている。


そう言い捨てると、青年は背を向け、足早に森の奥へと消えていった。木々の影の中にその赤い髪が溶け込むように見えなくなる。


その頃――


崖の近くでは、翔と天空神が相変わらず同じような会話を繰り返していた。


「なー神様」


「何?翔」


「身体乾いた?」


「まだ」


二人は先程からずっとこんなやり取りを繰り返していた。漂流してここへ流れ着いたため、当然タオルのようなものなど持っているはずもない。天空神はまだ海水で濡れたままの髪を指で軽く払うが、太陽の熱だけではなかなか乾かないようだった。


翔は砂浜に座り込み、膝を抱えながら大きく息をつく。


「この会話20回目だよ」


天空神が少し呆れたような声で言うと、翔はぐったりと疲れた顔をしていた。目の下にはうっすらと疲労の色が浮かび、漂流の疲れがまだ抜けきっていないのが分かる。


翔はふと森の方へ視線を向けた。


「てかあいつなんなんだろうな」


思い出したようにそう呟く。


天空神は腕を組み、少しだけ考えるように目を細めた。


「いやあれは確定であの動物でしょ」


その言葉に翔は顔をしかめ、困惑の色を浮かべる。どう見ても青年の姿は完全に人間だったからだ。


「ねぇ翔。あの男の服見てなにか思わない?」


天空神はどこか意味ありげに微笑みながら問いかける。


「中世ヨーロッパ風だけど……なんかあるのか?」


翔が首をかしげると、天空神は得意げな顔でビシッと人差し指を立てた。


「正確には刺繍よ。あれはルールの代理人の使者しか許されない刺繍なの」


「ルールの代理人?」


聞き慣れない言葉に翔の眉がぴくりと動く。


それから天空神は、少し得意そうな表情でルールの代理人について説明し始めた。


ルールの代理人とは、この世のルールそのものを管理する役目を持つ神のこと。

世界の秩序や法則を監視し、必要があればそのルールを調整する存在だ。


神の世界にも上下関係があり、もしルールを変更する場合は、最上位の階級である五大神へ説明しなければならない決まりになっている。


「っていうやつなの」


説明を終えると、天空神は軽く肩をすくめた。


「へぇー使者って事は使い的なやつ?」


翔が興味深そうに聞き返す。


「そんなもんよ。でもそんなやつがある事をやらかしたの」


その言葉の直後だった。


森の奥から、青年が再び戻ってきていた。


ルールの代理人という言葉を聞いた瞬間、思わず飛んで帰ってきてしまったのだ。青年は崖の影に身を潜めながら、天空神たちの会話を盗み聞きしていた。


(あいつら知ってるのか!?しかも神っぽいな……何者なんだ!?)


青年は目を細め、息を潜めながら耳を澄ませる。


その時、天空神が翔に問いかけた。


「翔はさ、ノアの箱舟って知ってる?」


「あー聖書の?」


翔が思い出したように答える。


ノアの箱舟とは――


それは聖書に記されている有名な物語の一つである。


昔、世界は人々の悪行によって満ちていた。

それを見た神は、世界を大洪水で一度清めることを決める。


しかし、ただ一人だけ神に正しい人間だと認められた男がいた。

その男の名はノア。


神はノアに命じる。

「大きな箱舟を造りなさい。そして家族と動物たちを乗せなさい」と。


ノアは神の言葉に従い、巨大な船――箱舟を造った。

そこにはノアの家族と、地上の様々な動物たちがつがいで乗せられたと言われている。


やがて大洪水が世界を覆い尽くす。

雨は四十日四十夜降り続き、大地はすべて海に沈んだ。


だが箱舟だけは沈まず、長い航海の末、洪水が引いたあとアララト山にたどり着いた。


こうしてノアと動物たちは生き延び、世界の生命は再び広がっていったと伝えられている。


この出来事は現在でも「ノアの箱舟」として聖書の中で語り継がれている。


――というのが聖書の内容だが、この中に出てくる神の正体がルールの代理人なのだ。


「でもねーこいつやっちゃったの。この大洪水をね創造神に説明し忘れたのよ」


天空神は呆れたように肩をすくめた。


それからルールの代理人は創造神にとんでもなく怒られたという。怒鳴りつけられ、終始ビクビクしながら震えていたらしい。当時は報告説明の前に焦りすぎてテンパり、そのままノアの箱舟の計画を実行してしまったのだ。


その結果、世界の秩序を破ったとして天界から重大な罰が下された。


今後永遠に浮世への進行を禁ずる。

そして、ルールの代理人の任期を大幅に減らす。


この二つの罰を受けたとされている。


「以上があのバカ……ルールの代理人についてよ」


天空神は少し呆れたような顔で話を締めた。


「へぇーじゃあ今もその人がルールの代理人?ってやつやってるの?」


翔が興味深そうに聞く。


「違うわ。さっきも言った通りルールの代理人は罰として任期が減らされたの。今は2代目ルールの代理人が管理してるよ」


「へぉー」


翔は遭難していることすら一瞬忘れたように感心していた。


その後ろで――


青年は目を大きく見開いていた。


(なんだアイツ!?なんでルールの代理人のこと!)


頭の中に疑問が渦巻き、胸がざわつく。じっとしていられなくなった青年は、ついに崖の影から姿を現した。


「おい!お前だれだよ!?」


鋭い声で天空神に問いかける。きっと今の話を聞いて出てきたのだろう。相手はルールの代理人の使者だ。隠す必要はない。


天空神は少し考えるように首をかしげたあと、あっけらかんと笑った。


「んーまぁいいか!私は第23代目五大神の天空神だよ」


その言葉を聞いた瞬間、青年の目は大きく見開かれた。驚きと動揺がその顔にはっきり浮かんでいる。


そして青年はゆっくりと天空神へ近づく。


震える声で、必死に問いかけた。


「ノアは今何処にいるんだ!?」

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