第36話 爽やか愛想笑い
夕方の海辺には、BBQの香ばしい匂いがまだほんのりと残っていた。さっきまで賑やかだった砂浜も、肉を焼く音や笑い声が少しずつ落ち着き始め、代わりに波の音がゆったりと耳に届くようになっている。遠くの水平線は夕焼けで赤く染まり、その上をゆっくりとクルーズ船が揺れていた。
その船を見上げながら、天空神は目を輝かせていた。
「やっぱり楽しみだなクルーズ船」
弾んだ声だった。普段はどこか威厳のある(?)神らしい話し方をする彼女だが、今は完全に普通の少女のような表情をしている。瞳はきらきらと光り、口元も自然とほころんでいた。
その隣で翔も同じ方向を見ながら小さく笑う。
「俺もまさか学生のうちに夜景見ながらクルーズ船乗るとは思わなかったわ」
感心したようにそう言いながら、翔は海の向こうに停泊している船を眺めた。夕焼けの光を受けて白い船体がほんのりと橙色に染まっている。高校生の夏休みでこんな体験をするとは、自分でも少し不思議に思っていた。
二人の間には穏やかな空気が流れていた。
潮風が吹くたび、砂浜に立ててあったBBQの簡易テントが小さく揺れる。クラスメイトたちの笑い声や片付けをする音が、少し離れた場所から聞こえてきていた。
翔は腕時計をちらりと見た。
「あと1時間で船だから、そろそろBBQかたずけるか」
そう言って立ち上がろうとした、その瞬間だった。
ぐいっ、と袖を引っ張られる。
「?」
振り向くと、天空神が翔の腕を掴んでいた。
さっきまで楽しそうだった顔が、今はどこか気まずそうに曇っている。
「海で遊ばなくていいの?」
少し遠慮がちな声だった。
天空神の視線は砂浜の方へ向いている。そこではクラスメイトたちが海で遊んでいて、水しぶきと笑い声が絶えず上がっていた。
翔はその様子をちらっと見てから、ぼりぼりと頭を掻いた。
そして少しだけ困ったような顔で天空神を見る。
「おれは別にあの時楽しくなかったんだ」
その言葉は、あまりにもあっさりしていた。
天空神は一瞬、きょとんとした顔になる。
意味が理解できない、と言いたげに首を傾げた。
「なんで?笑ってたでしょ?」
純粋な疑問だった。
確かに、さっき海で遊んでいた時、翔は周りの女子たちと一緒に笑っていた。楽しそうに見えたのは事実だ。
だが、その言葉を聞いた翔は――
「は?」
という顔で口をぽかんと開けた。
まるで「何を言っているんだこいつは」という表情だった。
数秒ほどそのまま固まったあと、翔は深くため息をつく。
「いいか?神様」
そう言いながら、翔は天空神の肩にぽんと手を置いた。
そして――
にっこりと笑う。
だがその笑顔は、どこか妙に整いすぎていた。
爽やかではあるのに、逆に作り物のような、不自然なほど綺麗な笑顔だった。
「これをな、愛想笑いって言うんだよ」
その瞬間。
天空神の顔が一気に青ざめた。
「気持ち悪っっっなんだその顔!?」
思わず一歩後ろに下がる。
本気で引いた顔だった。
翔はその反応を見ると、満足そうに鼻を鳴らした。
「遠くから見てたなら気づかなかったんだと思うが、俺は学校にいる時も他の女子と喋る時もこの顔だ」
そして自分の顔を指差しながら続ける。
「この顔でキャーキャー言われる。おれはイケメンだからな」
胸を張って言い切るその姿に、天空神はしばらく無言だった。
そして一言。
「清々しいなおい」
呆れた声だった。
その直後、天空神はすっと手を伸ばし、翔の額に人差し指を当てた。
翔は「ん?」と目を瞬かせる。
天空神は少し考えるように目を細め、それから口を開いた。
「では私が今お前の顔を見て気持ち悪いと思ったのは」
そこで一度区切る。
そして腕を組み、どこか得意げに言った。
「お前が私の前では楽しいと思って笑ってるからだな」
フフン、と小さく鼻を鳴らす天空神。
どこか誇らしげで、自信満々な顔をしている。
その様子を見た翔は――
一瞬目を見開き輝かせていた。
「……あはは」
そして突然笑い出した。
腹を抱え、口を大きく開けて、遠慮なく笑っている。
さっきの作り笑いとは違う、本当に楽しそうな笑い方だった。
「いやーやっぱり神様は面白いね」
涙が出そうになるほど笑いながら翔は言う。
「俺は神様のことバカにしてる時もこんな感じで笑うよ」
「何?あんた殴られたいの?」
天空神がむっとして拳を握る。
その拳を翔の目の前に突き出し、軽く威嚇する。
その時だった。
「ちょっとあんたたち」
背後から声がした。
振り向くと、桜が呆れた顔で立っている。腕を腰に当て、完全にツッコミ待ちのような表情だった。
「もうクルーズ船乗るらしいわよ」
その言葉に、翔と天空神は同時に目を見開いた。
「えぇ!?まだあと40分はあるのに!?」
翔が慌てて時計を見る。
確かに予定よりかなり早い。
だが桜は肩をすくめるだけだった。
「まぁ善は急げとも言うしねー」
そして砂浜の方を指さす。
「今入ってないのはあんたらだけよ」
言われて周囲を見ると、本当にクラスメイトたちはもうほとんど移動していた。BBQの道具も片付けられ、みんな船の方へ向かっている。
翔と天空神がぽかんとしていると――
「ほら行くわよ」
桜は二人の腕をそれぞれ掴み、
「ちょ、待っ――」
「引っ張るなって!」
抗議する声も聞かず、そのままズルズルと砂浜を引きずっていったのだった。




