第29話 覚悟
「うわっ……なんだ、あれ……」
思わず翔が声を上げた。
無理もない。
私たちの目の前にいるのは――蝶などではない。
“神”だった。
巨大な翼を持ち、圧倒的な存在感を放つそれは、生き物というより概念に近い。
森を喰らう怪物――その正体が、ただの魔獣であるはずがなかった。
◇ ◇ ◇
――およそ一時間前。
「で? どうするんだよ」
「……?」
「作戦だよ、作戦!」
翔の言葉に、天空神は一拍遅れて「ああ」と声を漏らした。
(そもそもマリネって、でかい蝶なんだよな……)
どうやって倒すか。
リュミエには「退治する」と言ったものの、正直、天空神の中には拭えない違和感があった。
この森は異様なほど広い。
植物の種類も多く、生命の密度も濃い。
――本当に、ただの“大きな蝶”なのか?
何か、まだ隠しているものがある気がしてならない。
そんな思考の末、天空神はひとつの結論に辿り着いた。
「翔。私が前線に出る」
「え?」
「聖夜神が?」
翔と天空神の声が、見事に重なった。
聖夜神は腕を組み、得意げに笑う。
「作戦はシンプルよ」
彼女は淡々と語り始めた。
「おそらく、あの蝶――考えるタイプじゃない。
視覚、聴覚、嗅覚……五感で判断する直感型」
「じゃなきゃ、私たちがいるのに堂々と森を吸うなんてしないでしょ?」
「……なるほど」
「そういう相手はね、奇襲で叩くのが一番なの」
「あんた、そんなこと考えられるタイプだったんだな」
「蝶の前にお前を叩くわよ?」
軽口を叩き合う二人。
だが――天空神の胸の奥で、違和感は消えなかった。
(……おかしい)
「どうかした? 神様」
翔の声に、天空神ははっとする。
「……とりあえず翔は、リュミエと一緒にここから離れないで」
「え!? 俺も協力する!」
「……正直に言うね」
天空神は一瞬だけ目を伏せ、言葉を選んだ。
「リュミエのこと、完全には信用してない」
「は!? 見ただろ!? あの笑顔! 困ってるんだよ、リュミエは!」
その瞬間――
ウォォォォォォォォォッ!!
空気が裂けた。
鼓膜を直接殴りつけるような、凄まじい咆哮。
「――っ!? 耳が……!」
マリネの鳴き声だった。
近ければ近いほど、音量は指数関数的に増幅される。
前回、マリネが現れた地点と現在地の距離は約数百メートル。
その時の音量は――約85dB。
だが今回は違う。
距離、約1メートル。
音量――150dB。
音が届くまで、わずか0.003秒。
(まずい――!)
『この音圧……神でもギリギリ意識を保てるレベルだ!
翔は失神どころじゃない、脳が耐えられない!!』
天空神の思考が爆発的に加速する。
(バリア? いや、破られる)
(亜空間転送? 空間を開くまでが遅い)
(天界転送の方が早い……?)
――違う。
(……もう一つある)
(成功率は低い。ミスれば、全滅)
(でも、やるしかない)
一か八か――
天空神の思考時間、約0.0001秒。
「――――」
そして。
タイムストップ――発動。
世界が、凍りついた。
発動者以外の時間の流れを完全に停止させる能力。
発動自体はとても簡単だが、解除の順番を誤れば、発動者自身の記憶が消えることもある。
最悪の場合、二度と解除できない。
この能力を扱える神は、五大神の中でもほんの一握り。
――それでも。
天空神は、迷わなかった。




