中華街の双子
香りと喧騒
その街は、色と音と香りに満ちていた。赤と金の提灯が軒先に揺れ、屋台から立ち上る湯気は五香粉と醤油の濃厚な香りを漂わせる。狭い路地には、焼き栗を売る老人の声、麻雀牌を叩く音、子供たちの笑い声が響き合い、まるで生き物のように脈打っていた。ここは、名を伏せられた国の中華街。異国の風をまとったこの場所は、昼も夜も賑わいを見せ、訪れる者を食欲と好奇心で誘う。
陳凱は、その喧騒の中心を縫うように歩いていた。四十代半ばの彼は、瘦せた体にくたびれたジャケットを羽織り、顔には無精ひげが伸びている。だが、その目は鋭く、周囲の動きを一瞬たりとも見逃さない。彼は「仲介人」として、この街の裏側を知る男だった。表では肉まんや春巻きが売られ、観光客が記念写真を撮る一方で、路地の奥では見えない取引が進行していた。人身売買、麻薬、偽造通貨――。陳凱は、それらの闇を繋ぐ糸だった。
彼の手に握られた紙袋からは、ほのかに肉まんの香りが漂う。今日は特別な「仕事」の日だ。路地の突き当たり、薄暗い倉庫の前で、二人の子供が待っていた。双子の姉弟、林芳と林翔。十歳ほどの彼らは、汚れた服をまとい、怯えた目で陳凱を見上げた。芳の髪は乱れ、翔の頬には煤が付いている。それでも、二人の目はどこか似ていた。まるで、かつて陳凱が愛し、失った誰かの瞳のように。
「これを食え」
陳凱は紙袋から肉まんを取り出し、二人に手渡した。芳は恐る恐る受け取り、翔は姉の袖を握りしめた。
「ありがとう、おじさん……」芳の声は小さく、震えていた。
陳凱は答えず、ただ二人をじっと見つめた。その瞬間、彼の胸に奇妙な疼きが走った。この双子、どこかで見たことがある――いや、そんなはずはない。妻が死に、子供を失ったあの日から、陳凱の人生は闇に沈んだままだった。
そのとき、路地の奥から白い影が動いた。白い毛皮に青い瞳、尾は銀色に輝く猫。シュトラだった。彼女はこの街、この時間軸に漂着した旅猫だ。無口で、ミステリアス。彼女の目は、まるで全てを見透かすように陳凱と双子を眺めていた。だが、シュトラは干渉しない。ただそこに佇み、物語の行く末を見守る。
裏の取引
倉庫の奥では、男たちが低い声で話していた。麻薬の入った木箱が積まれ、紙幣の束がテーブルに並ぶ。買い手は東南アジア系の組織、売り手は地元の裏社会を牛耳る「黒龍会」。陳凱の役割は、双方の信頼を繋ぐこと。そして、今回の取引には「特別な品」――双子の姉弟が含まれていた。
「子供はどこだ、陳?」黒龍会のリーダー、張が太い指でタバコを弾いた。
「外だ。準備はできてる」陳凱の声は平静だったが、心臓は早鐘を打っていた。
「よし。連れてこい。あと、例の粉も忘れるな」張の目は欲に濡れていた。
陳凱は頷き、倉庫を出た。外では、芳と翔が肉まんをかじりながら、互いに寄り添っていた。シュトラは少し離れたゴミ箱の上に座り、尾をゆらゆらと揺らしている。彼女の青い瞳が陳凱を捉えた瞬間、彼の頭に過去の記憶が閃いた。
――十年前。妻、梅との日々。彼女は妊娠していた。双子を授かっていたのだ。だが、出産の夜、病院での事故。梅は死に、子供たちは「死産」と告げられた。あの時の絶望が、陳凱を裏の道へと導いた。だが、この双子……彼らの目、鼻、口元。それは梅の面影そのものだった。
「まさか……」陳凱の声は震えた。「お前たち、どこで生まれた? 親は誰だ?」
芳が顔を上げ、首を振った。「覚えてない……ずっと施設にいた。お母さんもお父さんも、知らない……」
翔が付け加えた。「でも、施設の人が言ってた。僕たち、特別だって。高い値段で売れるって……」
陳凱の頭がぐらりと揺れた。施設、双子、高い値段――。全てが繋がった。彼の子供たちは死んでいなかった。病院で誰かに奪われ、闇の市場に流されたのだ。そして今、陳凱自身がその子供たちを売ろうとしている。皮肉な運命だった。
シュトラの尾が一瞬、鋭く動いた。彼女は知っていた。この物語の結末を、時間の流れを。だが、彼女はただ見つめるだけだ。干渉はしない。
決断の夜
その夜、陳凱は決めた。双子を逃がす。たとえそれが、自分の命を危険に晒すことになっても。取引の時間は深夜零時。黒龍会と買い手の組織が倉庫で顔を合わせる。陳凱は、双子を連れて逃げる隙をその混乱の中で作るつもりだった。
彼は芳と翔を路地の奥に隠し、囁いた。「俺を信じろ。絶対にお前たちを助ける」
芳が小さな手で陳凱の袖を握った。「おじさん、なんで? 私たち、知らない人なのに……」
陳凱は目を閉じた。「お前たちは、俺の――」言葉を飲み込み、彼は立ち上がった。「とにかく、動くな。俺が合図したら走れ」
倉庫に戻ると、張が不機嫌な顔で待っていた。「遅えぞ、陳。子供はどこだ?」
「連れてくる。ちょっと手間取っただけだ」陳凱は平静を装い、ポケットの中でナイフを握りしめた。
取引が始まった。麻薬の箱が開けられ、紙幣が数えられる。買い手の組織のリーダーが、双子の引き渡しを求めたその瞬間、陳凱は動いた。ナイフを抜き、張の脇腹を狙った。だが、張は素早かった。銃を抜き、陳凱の肩を撃ち抜いた。
「裏切りやがったな、陳!」張が叫び、倉庫は一瞬で混乱に包まれた。買い手の組織も銃を構え、銃声が響き合う。陳凱は血を流しながらも、倉庫の裏口へ向かった。そこには、芳と翔が待っていた。
「走れ! 路地の奥へ!」陳凱は叫び、双子を押した。芳が泣きながら翔の手を引く。シュトラがその横を音もなく走り、まるで二人を導くように路地の角へ消えた。
流血の先に
陳凱は血を流しながらも、双子を追った。黒龍会の追手が迫る中、彼は最後の力を振り絞り、路地の出口にある小さなボートに二人を押し込んだ。「この川を下れ。街の外に出たら、警察に駆け込め。俺の名前を言え。陳凱だ」
「おじさん、一緒に!」芳が叫んだが、陳凱は首を振った。「俺はここで食い止める。行け!」
ボートが流れに乗り、双子の姿が闇に消えた瞬間、シュトラが再び現れた。彼女の青い瞳は、まるで陳凱に「よくやった」と語っているようだった。
追手が来た。陳凱はナイフを握り、立ち向かった。銃声が響き、彼の体はさらに傷を負った。だが、彼は笑っていた。初めて、自分の人生に意味を見出した瞬間だった。
数日後、街の外れにある小さな墓地。陳凱は、包帯に巻かれた体で梅の墓前に立っていた。双子は警察に保護され、施設ではなく安全な場所に引き取られた。黒龍会は警察の摘発を受け、壊滅。陳凱自身も、裏切り者として追われる身ではあったが、生きていた。
「梅、俺、やっと見つけたよ。お前が残してくれた宝物を……」彼は墓石に触れ、涙をこぼした。「大切にするよ、ありがとう。」
背後で、シュトラが静かに座っていた。彼女の銀色の尾が、そよ風に揺れる。陳凱が立ち去るのを見届けると、彼女は音もなく姿を消した。次の世界、次の時間軸へ。彼女の旅は続く。物語は終わり、また新たな物語が始まる。