鏡に映るのは
シュトラは白い毛並みに蒼い目を湛えた猫だった。その尾は銀色に輝き、月光を浴するたびにまるで星屑をまとうようだった。彼女は世界を渡り歩き、時間軸を滑るように旅する存在だった。人間の喜びも悲しみも、彼女にとってはただの風景の一部でしかない。無口で、ミステリアスなその姿は、まるでこの世のものではないかのようだった。シュトラは決して干渉しない。彼女はただ、見つめるだけだ。
その日、シュトラがたどり着いたのは、現代のとある大都市だった。ネオンが瞬く繁華街、ガラス張りのビルが空を切り裂くようにそびえる場所。彼女は路地の片隅に座り、通り過ぎる人々の喧騒を静かに眺めていた。人間たちは忙しなく動き回り、笑い、泣き、怒り、そして欲望を追いかけていた。シュトラの蒼い目は、その全てを冷たく映し出す。
ふと、彼女の視線は一人の女性に留まった。女性の名は美咲だった。二十代半ば、整った顔立ちに華奢な体躯。彼女は高級ブランドのバッグを手に、美容クリニックの看板を見上げていた。その瞳には、期待と不安が混じり合っていた。
シュトラは尾を軽く振った。彼女には分かっていた。この女性が、これからどんな道を歩むのか。だが、シュトラは干渉しない。ただ、見届けるだけだ。
美咲は鏡の前に立っていた。クリニックの待合室は清潔で、白い壁には高級感漂うアートが飾られていた。彼女は自分の顔をじっと見つめた。鼻は少し低め、目はもう少し大きくてもいいかもしれない。肌は悪くないけれど、もっと透明感が欲しい。彼女はため息をついた。
「もっと綺麗になれるよね…」
初めての施術は、ほんの小さなものだった。二重まぶたを少し強調し、鼻にヒアルロン酸を注入するだけ。手術室に入る前、彼女の手は震えていたが、医師の穏やかな声に安心させられた。数時間後、鏡に映る自分を見て、彼女は笑顔になった。
「すごい…! 本当に、私、綺麗になった!」
その日から、美咲の日常は変わった。友人たちは彼女の変化を褒め、SNSにアップした写真には「いいね」が殺到した。彼女は自分が輝いていると感じた。鏡を見るたびに、心が満たされた。
シュトラは美咲の住むマンションの屋上にいた。銀色の尾を揺らし、夜の街を見下ろしながら、彼女の部屋の明かりを見つめた。美咲は今、鏡の前で新しいメイクを試している。シュトラの蒼い目は、まるでその心の奥まで見透かすようだった。
数ヶ月後、美咲は再びクリニックを訪れていた。最初の施術の満足感は、すでに薄れつつあった。鏡を見るたびに、別の「改善点」が目につくようになった。顎のラインが少しぼやけている。頬骨がもう少し高ければ。唇も、もっとふっくらしていた方がいい。
「次は、もっと完璧になれるよ」と、彼女は自分に言い聞かせた。
二度目の施術は、顔の骨格を微調整するものだった。痛みは予想以上だったが、医師は「美しさには代償が必要」と笑った。術後、腫れが引くまで数週間かかったが、鏡に映る自分を見た瞬間、彼女は再び笑顔になった。
「これだよ…これが本当の私!」
だが、その喜びは長くは続かなかった。新しい顔に慣れると、また別の不満が湧いてきた。目尻が少し下がっている気がする。額の形が理想的じゃない。彼女はネットで美容情報を漁り、海外のセレブの写真をスクロールしては、自分の顔と比べた。
シュトラは美咲の部屋の窓辺に現れた。彼女は気づかない。美咲はスマートフォンの画面を見つめ、整形手術のビフォーアフター動画を繰り返し見ていた。シュトラの蒼い目は、彼女の心の揺れを捉えていた。それは、まるで渦に飲み込まれるような、止められない欲望の流れだった。
一年が過ぎ、二年が過ぎた。美咲の顔は、かつての彼女とは別人のように変わっていた。鼻は高く尖り、目は不自然なほど大きく、唇は過剰にふっくらとしていた。彼女は毎月のようにクリニックに通い、施術を重ねた。ボトックス、フィラー、糸リフト、レーザー治療…。彼女の財布は底をつき、借金が増えていったが、止めることはできなかった。
「もっと、もっと綺麗にならなきゃ…」
鏡に映る顔は、確かに「美しかった」。だが、それはまるで人工的に作り上げられた人形のようだった。友人たちは彼女を褒めるのをやめ、そっと距離を置くようになった。家族は心配したが、美咲は聞く耳を持たなかった。
「誰も私の気持ちなんて分からない! 私には、これが必要なの!」
ある夜、シュトラは美咲のベッドの足元に座っていた。彼女は泣きながら鏡を見ていた。最新の施術で、顔の左右のバランスが崩れていた。医師は「修正可能」と言うが、彼女の心はすでに限界に近かった。シュトラは静かに彼女を見つめた。その蒼い目には、憐れみも同情もなかった。ただ、事実を映し出すだけだった。
美咲の心は、施術のたびに少しずつ壊れていった。彼女は鏡を見るたびに、自分が誰なのか分からなくなった。かつての自分の写真を見ても、記憶がぼやける。彼女は笑うことも、泣くことも、表情を自然に作ることも難しくなっていた。
「ワタシ…キレイ?」
彼女は鏡に問いかけた。だが、鏡は答えない。ただ、歪んだ顔を冷たく映すだけだった。
ある日、彼女は新しいクリニックを見つけた。そこは、最新の技術で「完璧な美」を約束すると謳っていた。美咲は最後の貯金をはたき、施術の予約を入れた。手術室に入る前、彼女はふと窓の外を見た。そこには、白い猫がいた。蒼い目と銀色の尾を持つ、ミステリアスな猫。
「…あなた、誰?」
シュトラは答えない。ただ、じっと彼女を見つめるだけだった。美咲は笑った。笑顔は、ひどく不自然だった。
「見てて。私、絶対に綺麗になるから。」
手術は失敗した。医師のミスか、彼女の顔がすでに限界だったのか。美咲が目覚めたとき、鏡に映る顔は、かつての美しさの欠片も残っていなかった。彼女は叫んだ。叫び声は、夜の街に虚しく響いた。
シュトラは再び路地にいた。彼女の尾は銀色に輝き、蒼い目は変わらず冷たく澄んでいた。美咲のマンションの明かりは、もう点いていない。
次の世界へ、次の時間軸へ。シュトラは立ち上がり闇の中へ消えた。彼女の背後で、ネオンが瞬き続ける。人間たちの欲望が、果てしなく渦巻く街で。