歯車の街
歯車が唸り、蒸気が吐息のように立ち昇る街、クロノヴェル。この街は巨大な時計台を中心に、まるで生き物のように動き続ける。無数の歯車が絡み合い、金属の軋む音が住民の日常を彩る。ここでは時間が全てを支配し、時計台の針が一秒進むごとに街の運命が刻まれる。
路地裏の小さな工房に、少女エリシアが住んでいた。彼女は17歳、亜麻色の髪をポニーテールに束ね、煤で汚れた作業着をまとい、壊れた機械を修理する日々を送っていた。彼女の隣にはいつも幼馴染の少年、ルカがいた。ルカは明るく、夢想家で、いつかこの街の歯車を全て理解し、新しい未来を築くと語っていた。
だが、三日前、ルカは死んだ。時計台の修理作業中、歯車に巻き込まれ、命を落とした。エリシアの心は空っぽになり、工房は静寂に包まれた。
その日、エリシアは工房の片隅でルカの遺品を整理していた。工具箱、設計図、末完成の小さな歯車時計。彼女の手が震え、涙が設計図を濡らす。その時、工具箱の底から一枚のメモが滑り落ちた。ルカの走り書きだった。
「時計台の心臓部、時を戻す歯車。街の禁忌。代償は重い。」
エリシアの目がメモに釘付けになった。時を戻す? そんなことが本当に可能なのか? 彼女の胸に希望が灯ったが、同時に恐怖が這い寄った。クロノヴェルの掟は厳格だ。時計台の「時を戻す歯車」を動かすことは重罪であり、成功した者も二度と元の人生には戻れないと噂されていた。
工房の窓辺に、白い猫が座っていた。シュトラ。蒼い目と銀色の尾を持つ彼女は、いつからかエリシアのそばに現れるようになった。無口で、ただじっとエリシアを見つめる。エリシアはシュトラに話しかけた。
「ルカを助けたい。どんな代償でも払うよ。」
シュトラは答えず、蒼い瞳を細めただけだった。彼女は時間と世界を旅する猫。この街も、彼女にとっては無数の物語の一つに過ぎない。
時計台への道
エリシアは決意した。ルカを救うため、時計台の心臓部へ向かう。彼女はルカのメモを握りしめ、工房の工具を詰めた革袋を背負った。クロノヴェルの中心にそびえる時計台は、街の象徴であり、禁忌の場所。そこに近づくだけで衛兵に捕まる危険があった。
街は夜の帳に包まれ、歯車が低く唸る音だけが響く。エリシアは路地を抜け、衛兵の巡回を避けながら進んだ。シュトラは無音で彼女の後を追い、銀色の尾が月光にきらめく。
時計台の入り口は巨大な鉄の門で守られていた。エリシアはルカから教わった機械の知識を頼りに、門の錠を解いた。カチリと音が響き、門が開く。彼女は息を呑み、中へ滑り込んだ。
時計台の内部は、まるで別の世界だった。無数の歯車が複雑に絡み合い、蒸気と油の匂いが充満している。中央には巨大な振り子が揺れ、時を刻む音が鼓動のように響く。エリシアはルカのメモを広げ、指示をたどった。「心臓部は最上階。歯車を逆転させる鍵が必要。」
最上階への階段は果てしなく続き、金属の軋む音がエリシアの心を締め付けた。途中の踊り場で、彼女はふとシュトラを見た。シュトラは静かに階段を登り、まるでエリシアを導くように先を行く。エリシアは呟いた。
「君はなんで私についてくるの?」
シュトラは振り返らず、ただ尾を軽く振った。彼女の蒼い目は、まるでエリシアの心を見透かすようだった。
心臓部と代償
最上階にたどり着いたエリシアは、息を切らしながら目の前の光景に圧倒された。巨大な歯車がゆっくりと回転し、その中心に輝く鍵穴があった。「時を戻す歯車」。ルカのメモに描かれた鍵は、エリシアがいつも首にかけていたペンダントだった。ルカが作ってくれたものだ。
彼女はペンダントを鍵穴に差し込んだ。歯車が軋み、低い唸り声を上げた。その瞬間、時計台全体が震え、時間が歪むような感覚がエリシアを襲った。彼女の耳に、街の古老が語った言葉がよみがえる。
「時を戻す者は、自らの時間を差し出す。戻した分だけ、命を削る。」
エリシアはルカの笑顔を思い出した。彼の声、彼の手の温もり。彼女は目を閉じ、鍵を回した。
ガチャッ。歯車が逆回転を始めた。時計台の針が狂ったように逆走し、街の時間が巻き戻る。エリシアの体に激痛が走った。彼女の命が、時間が、歯車に吸い取られていく。彼女は叫んだ。
「ルカ! ルカを助けて!」
シュトラは静かにエリシアを見ていた。彼女の蒼い瞳には、悲しみとも諦めともつかぬ光が宿っていた。シュトラは知っていた。この選択がエリシアの運命を変えることを。
だが、その瞬間、シュトラの銀色の尾が一瞬輝いた。彼女はエリシアのそばに歩み寄り、軽く額を擦りつけた。それは、シュトラにとってこの世界で初めての「干渉」だった。
戻った時間
エリシアが目を開けると、彼女は工房にいた。目の前にはルカがいた。生きているルカが、笑顔で歯車を磨いている。
「エリシア、ぼーっとしてどうした? また寝不足か?」
エリシアは涙をこらえ、ルカに抱きついた。ルカは驚きながらも、優しく彼女の背を叩いた。
「なんだよ、急に。なんかあったか?」
エリシアは首を振った。彼女の体は弱っていた。時を戻した代償で、彼女の寿命は大きく削られていた。それでも、ルカが生きていること、笑っていることが、彼女の全てだった。
シュトラは工房の窓辺に座り、二人を見つめていた。彼女の蒼い目は、どこか穏やかだった。エリシアが気づくと、シュトラは静かに立ち上がり、窓から姿を消した。まるで、彼女の役割が終わったかのように。
月日は流れ、エリシアとルカは工房で小さな歯車時計を作り続けた。エリシアの体は弱く、長くは生きられないと医者に告げられていたが、彼女は笑顔を絶やさなかった。ルカは彼女を支え、二人は毎日の小さな幸せを積み重ねた。
ある日、工房の窓辺に白い猫が現れた。シュトラだった。エリシアは微笑み、シュトラに手を伸ばした。
「ありがとう。あの時、君がいてくれたから、私は頑張れた。」
シュトラは無言でエリシアの手を舐め、銀色の尾を振った。そして、彼女はまた姿を消した。次の時間軸、次の物語へと旅立つために。
クロノヴェルの時計台は、今日も静かに時を刻む。エリシアとルカは、歯車の街で、短くも輝く人生を生き続けた。