羽根の少女
空からの来訪者
黄昏の空は茜色に染まり、畑の土はまだ昼の熱を帯びていた。少年アレンは鍬を手に、汗と土にまみれながら黙々と働いていた。両親を早くに亡くし、村外れの小さな家で一人暮らす彼にとって、畑仕事は生きるための唯一の術だった。17歳の彼の目は、どこか遠くを見つめるような寂しさを宿していた。
その時、空に異変が起きた。雲を裂くような鋭い音が響き、アレンは顔を上げた。空から何かが落ちてくる。いや、落ちるというより、よろめきながら降りてくる。それは――少女だった。白い羽を生やした、まるで絵画から抜け出したような美しい少女。だが、彼女の羽は血に濡れ、片方は折れたように不自然に垂れ下がっていた。
少女は畑の端に倒れ込み、弱々しく息をついた。アレンは鍬を放り出し、駆け寄った。
「大丈夫か!? 何があったんだ!」
少女は蒼白な顔でアレンを見上げ、かすれた声で呟いた。
「……逃げて……彼らが……来る……」
その言葉が終わるや否や、遠くから馬の蹄の音と甲冑の擦れる音が聞こえてきた。丘の上に現れたのは、黒い鎧に身を包んだ王国の騎士団。赤い旗に刻まれた剣と茨の紋章が、夕陽に不気味に光る。
「異教徒の天使め! 逃がすな!」騎士の一人が叫んだ。
アレンは直感的に動いた。少女を抱き上げ、近くの藪に身を隠した。少女の体は驚くほど軽く、羽の柔らかさが彼の腕に触れた。騎士団は畑を踏み荒らし、辺りを探し回ったが、幸いにもアレンたちの姿を見つけることはできなかった。
藪の中で、少女は意識を失っていた。アレンは彼女の傷を見た。羽の付け根から血が流れ、肩には矢の傷が残っている。騎士団の仕業だ。アレンは唇を噛み、少女を自分の家に運ぶことを決めた。
その時、藪の奥でかすかな気配がした。アレンが振り返ると、そこには白い猫が座っていた。目は深く澄んだ蒼色、尾は銀色に輝いている。猫は無言でアレンを見つめ、まるで彼の心を見透かすような眼差しだった。
「お前、どこから……?」アレンが呟くと、猫はすっと立ち上がり、森の奥へ消えていった。
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家にたどり着いたアレンは、少女を粗末なベッドに寝かせ、傷の手当てを始めた。少女は時折うめき声を上げたが、目を覚ますことはなかった。
夜が更け、アレンは少女のそばで椅子に腰かけ、眠気をこらえながら見守った。なぜ自分がこんな危険を冒しているのか、彼自身にも分からなかった。ただ、少女の無垢な顔と、騎士団の冷酷な叫び声が、胸に焼き付いて離れなかった。
天使の名
翌朝、少女は目を覚ました。彼女の目はエメラルドのように輝き、だがそこには深い悲しみが宿っていた。
「ここは……? あなたは……?」
「アレンだ。昨日、畑に落ちてきたお前を見つけた。騎士団に追われてたみたいだな」
少女は体を起こそうとして顔を歪めた。傷がまだ癒えていない。アレンは慌てて彼女を制した。
「無理するな。名前は?」
「……リリア。わたしは……天界の使者。でも、ここでは異教徒と呼ばれる」
リリアの声は弱々しかったが、どこか気品があった。彼女は自分の羽を見下ろし、折れた片方をそっと撫でた。
「騎士団はなぜお前を追うんだ?」
「この王国は、天使を神の敵と定めた。わたしはただ、争いを止めるために来ただけなのに……彼らはわたしを捕らえ、処刑しようとしている」
アレンは拳を握った。村の噂で、王国が異教徒狩りを激化させていることは知っていた。だが、それがこんな少女にまで及ぶとは。
「ここにいれば安全だ。騎士団は村まで来ない」
リリアは首を振った。「彼らは執念深い。わたしを放っておくはずがない。あなたまで危険に……」
「心配するな。俺には関係ないさ」アレンは笑ってみせたが、心の中では不安が渦巻いていた。
その時、ふらりと現れたシュトラが窓辺に飛び乗り、外をじっと見つめた。遠くで犬が吠え、馬の蹄の音が近づいてくる。アレンは立ち上がり、窓から覗いた。騎士団だ。村の入り口に現れ、村人たちに何かを尋ねている。
「リリア、隠れろ!」
アレンはリリアを物置の奥に隠し、シュトラを腕に抱えた。シュトラは嫌がる様子もなく、ただ静かにアレンを見上げた。
騎士団が家に近づいてくる。アレンは深呼吸し、ドアを開けた。
「何か用か?」
騎士の隊長が冷たい目でアレンを睨んだ。「異教徒の女を見なかったか? 白い羽を生やした女だ」
「知らねえな。俺は畑仕事で忙しいんだ」アレンは平静を装った。
隊長は家の中を覗き込んだが、何も見つけられなかった。シュトラが突然、隊長の足元にすり寄り、甘えた声で鳴いた。隊長は一瞬気を取られ、舌打ちして踵を返した。
「見つけたらすぐ報告しろ。さもないと、お前も異教徒の仲間として処刑だ」
騎士団が去った後、アレンはリリアを呼び戻した。彼女は震えながらも、アレンに感謝の目を向けた。
「ありがとう……でも、わたしはもう逃げられないかもしれない」
「そんなこと言うな。俺がなんとかする」アレンは自分でも驚くほど力強く言った。
シュトラは再び窓辺に戻り、空を見上げていた。その蒼い目は、遠い世界を映しているようだった。
追跡の影
夜が村を包み、星々が冷たく瞬く中、アレンはリリアを連れて家を出た。騎士団が再び戻ってくるのは時間の問題だった。リリアの傷はまだ癒えきっていないが、じっとしているわけにはいかなかった。
「どこへ行くの?」リリアが小声で尋ねた。彼女の羽は折れたまま、弱々しく揺れている。
「森の奥に、昔の猟師小屋がある。そこならしばらく隠れられる」アレンは背負った麻袋に食料と布を詰め、慎重に周囲を見回した。
シュトラが無音で彼らの前を歩き、まるで道案内をするように森の奥へ進む。その銀色の尾が月光にきらめき、まるで星の欠片のようだった。アレンはシュトラの不思議な存在感に戸惑いながらも、なぜか安心感を覚えた。
森は深く、木々の間を風が囁く。リリアはアレンの手を握り、震えを抑えようとしていた。「ごめんなさい……あなたをこんな目に……」
「俺には日常茶飯事さ」アレンは軽口を叩いてみせたが、心臓は激しく鼓動していた。
猟師小屋にたどり着くと、アレンはリリアを藁のベッドに寝かせ、簡易な包帯で彼女の傷を改めて手当てした。リリアは目を閉じ、静かに呼吸を整えた。その横で、シュトラは窓枠に座り、森の闇を見つめていた。
「シュトラ、お前は何者なんだ?」アレンが呟くと、シュトラは一瞬だけ彼を振り返り、蒼い目でじっと見つめた。だが、すぐに視線を外し、再び夜の彼方へ目を向けた。
翌朝、アレンが水を汲みに小川へ向かうと、遠くで馬の蹄の音が響いた。騎士団が森に踏み込んでいる。急いで小屋に戻ったアレンは、リリアを起こした。
「リリア、行くぞ! 騎士団が近い!」
リリアは蒼白な顔で頷き、アレンの手を借りて立ち上がった。だが、彼女の足取りはおぼつかなく、羽の傷が悪化しているようだった。シュトラが先頭に立ち、まるで知っているかのように岩場へと導いた。
岩場の奥に小さな洞窟があった。シュトラがその入り口で立ち止まり、アレンたちを振り返った。アレンは迷わずリリアを連れて中へ入った。洞窟は狭く、湿った空気が漂っていたが、隠れるには十分だった。
「ここでじっとしていろ。俺が様子を見てくる」アレンはリリアに言い、洞窟の入り口に戻った。シュトラはそこに座り、静かに彼を見上げていた。
「頼むよ、シュトラ。リリアを守ってくれ」アレンが言うと、シュトラは小さく鳴き、まるで了解したかのように尾を振った。
アレンが森の外れまで戻ると、騎士団が小屋を囲んでいるのが見えた。隊長が叫ぶ声が響く。「異教徒の女は近い! 森を焼き払ってでも見つけ出す!」
アレンの胸に怒りがこみ上げた。だが、単身で騎士団に立ち向かうのは無謀だ。彼は洞窟に戻り、リリアに状況を説明した。
「リリア、このままじゃダメだ。お前を空に帰さないと」
リリアは首を振った。「わたしの羽はもう飛べない……それに、天界への門は王都の聖堂にある。でも、そこは騎士団の拠点……」
アレンは歯を食いしばった。「なら、俺がそこまで連れて行く。絶対に諦めない」
リリアの目に涙が浮かんだ。「なぜ……そこまでしてくれるの?」
アレンは一瞬言葉に詰まり、照れくさそうに笑った。「さあな。放っておけなかっただけさ」
シュトラが二人の間をすり抜け、洞窟の奥へ歩き出した。そこには、岩の隙間からかすかな光が漏れている。アレンとリリアが近づくと、それは小さな水晶の欠片だった。シュトラが前足で軽く叩くと、水晶が輝き、かすかな振動音を立てた。
「これは……?」リリアが息を呑んだ。「天界の欠片……門を開く鍵になるかもしれない」
アレンは水晶を拾い、リリアに渡した。「なら、希望はある。行こう、リリア」
王都への道
アレンとリリアは夜の闇に紛れ、森を抜けて王都を目指した。シュトラは常に少し先を歩き、危険を避けるように彼らを導いた。リリアの傷はアレンの手当てで少しずつ回復していたが、羽の折れた痛みは消えず、彼女の顔には疲労が色濃く浮かんでいた。
二人は村々を避け、川沿いの古い街道を進んだ。途中、野宿をしながらリリアは天界の話を少しずつ語った。彼女の故郷は雲の上に広がる光の国で、争いや憎しみがない場所だった。だが、地上の王国が天使を敵視し始めたことで、彼女は平和を求める使者として遣わされたのだ。
「地上の人々は、なぜこんなにも憎しみ合うの?」リリアが焚き火の前で呟いた。
アレンは薪をくべながら答えた。「さあな。俺も親を戦争で失った。理由なんて、いつも後から付けるもんさ」
リリアは悲しげに微笑み、アレンの手をそっと握った。「あなたは優しい、アレン。地上にも、こんな人がいるんだね」
アレンは顔を赤らめ、慌てて手を引いた。「バ、バカ、変なこと言うなよ!」
シュトラがクスクスと笑うような鳴き方をした。アレンは睨んだが、シュトラは平然と尾を振って立ち去った。
数日後、二人は王都の外れにたどり着いた。高い城壁に囲まれた都は、聖堂の尖塔が天を突くようにそびえていた。だが、門は厳重に守られ、騎士団が巡回している。アレンはリリアを隠し、市場の雑踏に紛れて情報を集めた。
「聖堂の地下に、古代の門があるらしい。でも、騎士団の総司令部がそこにあるんだ」アレンが戻ってリリアに告げた。
リリアは水晶の欠片を握りしめた。「その門なら、天界に帰れる。でも……」
「でも、じゃない。俺が何とかする」アレンは力強く言った。
その夜、二人は下水道を通って聖堂の地下に潜入する計画を立てた。シュトラが下水道の入り口まで案内し、まるで全てを見通しているかのように振る舞った。アレンはシュトラに囁いた。「お前、ほんとにただの猫か?」
シュトラは答えず、ただ蒼い目で彼を見つめ、闇の中へ消えた。
聖堂の罠
下水道は悪臭と湿気に満ちていたが、アレンとリリアは互いを支え合いながら進んだ。リリアの羽が狭い通路に擦れ、彼女は痛みを堪えた。やがて、聖堂の地下に通じる鉄格子が見えた。アレンが力を込めて格子を外すと、そこには広大な石造りの回廊が広がっていた。
回廊の奥には、巨大な石の門があった。門には古代の文字が刻まれ、かすかな光を放っている。リリアが水晶を掲げると、門が共鳴し、低い振動音が響いた。
「これだ……! この門なら、わたしを天界に帰せる!」リリアの声に希望が宿った。
だが、その瞬間、背後から甲冑の音が響いた。騎士団の総司令官が、数十人の兵を率いて現れた。
「異教徒の天使よ、逃げ場はない! その少年も共犯として処刑だ!」総司令官が剣を抜いた。
アレンはリリアを庇うように立ち、ナイフを構えた。「リリア、門を開けろ! 俺が時間を稼ぐ!」
リリアは涙を浮かべながら水晶を門に押し当て、祈るように呟いた。門の光が強まり、風が巻き起こる。だが、騎士団が一斉に突進してきた。
アレンは必死に戦ったが、数の差は圧倒的だった。彼は腹に剣を受け、膝をついた。「リリア……早く……!」
リリアは叫びながら門に力を注いだ。だが、彼女も矢に撃たれ、倒れ込んだ。門の光が弱まり、希望が消えかけるその瞬間、シュトラが現れた。
シュトラの蒼い目が異様な光を放ち、銀色の尾が空を裂くように振られた。すると、時間が止まったかのように騎士団の動きが鈍り、空間が歪んだ。シュトラはリリアのそばに歩み寄り、彼女の額に鼻を触れた。
リリアの体が光に包まれ、傷が癒えていく。折れた羽が再生し、輝きを取り戻した。アレンもまた、シュトラの光に浴し、傷が消えた。
「シュトラ……あなたは……?」リリアが驚愕の目で呟いた。
シュトラは答えず、ただ静かに門の方を向いた。門が完全に開き、光の階段が天へと伸びる。
「行け、リリア!」アレンが叫んだ。
リリアはアレンを抱きしめ、涙を流した。「ありがとう、アレン。あなたを絶対に忘れない」
彼女は羽を広げ、光の階段を登り始めた。シュトラがその後を追い、振り返ってアレンを見た。その蒼い目に、感謝と別れの意味が込められているようだった。
空への帰還
リリアが天界の門をくぐると、門は静かに閉じた。アレンは聖堂の地下に一人残され、騎士団はまるで何事もなかったかのように撤退していった。シュトラの力によるものか、誰もアレンを追わなかった。
アレンは村に戻り、畑仕事の日々を再開した。だが、彼の目はもう寂しさだけを宿してはいなかった。リリアとの出会い、シュトラの不思議な存在が、彼の心に新たな光を灯していた。
ある夜、アレンが空を見上げると、流れ星が一筋、輝いた。その光はリリアの羽のようで、彼は微笑んだ。「元気でな、リリア」
遠く、別の世界でシュトラは銀色の尾を振って歩いていた。彼女の蒼い目は、次の物語を静かに見つめていた。