桜の下の約束
静かな夜、月明かりが東京の小さな路地を照らしていた。高校二年生の佐藤陽菜は、図書館からの帰り道、いつもより少し遅い時間に家路を急いでいた。彼女の手には、借りたばかりの恋愛小説が握られている。陽菜は恋愛に憧れる普通の17歳で、初恋なんてまだ遠い夢だと思っていた。
路地の片隅で、陽菜はふと立ち止まった。街灯の下に、白い毛並みの猫が座っていた。蒼い瞳が月光を反射し、銀色の尾がゆらりと揺れている。どこか神秘的な雰囲気を持つその猫に、陽菜は思わず声を掛けた。
「ねえ、こんな遅くに何してるの?」
猫は陽菜を一瞥しただけで、言葉を発せず静かに立ち上がった。その名はシュトラ。様々な世界や時間軸を旅する白猫で、普段は無口で人間の出来事をただ見つめる傍観者だ。だが、この夜、シュトラは陽菜の運命に少しだけ介入しようとしていた。なぜなら、陽菜の心に宿る純粋な初恋の輝きが、シュトラの長い旅の中で久しぶりに心を動かしたからだ。
シュトラは陽菜の前を歩き始め、まるで「ついておいで」と言うように振り返った。陽菜は不思議に思いながらも、猫の後を追った。路地を抜け、いつもの通学路とは違う方向へ。やがてたどり着いたのは、町外れの小さな公園だった。そこには、誰もいないブランコと、桜の木が一本、月明かりに照らされて静かに立っていた。
「ここ、なんだか懐かしい気がする…」陽菜はつぶやいた。
シュトラは桜の木の下に座り、じっと陽菜を見つめた。その瞬間、陽菜の胸に小さな記憶がよみがえった。幼い頃、この公園で男の子と遊んだこと。名前も顔もぼんやりしているけれど、その子と一緒に笑った時間が、陽菜の心の奥にしまわれていた。
翌日、陽菜は学校でクラスメイトの山崎悠真と初めてちゃんと話す機会を得た。悠真はサッカー部に所属する明るい少年で、陽菜とは席が隣だったが、これまであまり言葉を交わすことはなかった。授業中、陽菜が落とした消しゴムを拾ってくれたのがきっかけだった。
「佐藤、いつも本読んでるよな。何か面白い本ある?」悠真が笑顔で尋ねた。
陽菜は少し緊張しながら、昨日借りた恋愛小説の話をした。意外にも、悠真は「へえ、俺もそういう話、嫌いじゃないよ」と興味を示した。二人の会話は途切れることなく続き、陽菜は気づけば彼の笑顔に心を奪われていた。
その夜、陽菜は再びシュトラと出会った。今度は自宅の近くの電柱の下で、シュトラは静かに待っていた。陽菜が近づくと、シュトラはまた歩き出し、彼女をある場所へ導いた。それは、陽菜が幼い頃に住んでいたアパートの跡地だった。今は更地になっているそこに立つと、陽菜の記憶がさらに鮮明になった。
「あの子…悠真だったんだ…」
陽菜は思い出した。幼い頃、このアパートの近くの公園で、隣に住む悠真とよく遊んだこと。二人で桜の木の下で「大きくなったらまたここで会おう」と約束したこと。でも、陽菜の家族が引っ越したことで、二人は離れ離れになり、記憶も薄れていった。
シュトラは陽菜の横で静かに見守っていた。彼女の役目は、陽菜が自分の初恋を思い出し、その物語を自分で紡ぎ始めるきっかけを作ることだった。シュトラは決して口を利かない。だが、その蒼い瞳は、陽菜に「自分の心に従え」と語っているようだった。
次の日から、陽菜は悠真ともっと話したいと思うようになった。放課後、図書館で一緒に勉強したり、サッカー部の試合を応援に行ったり。悠真も陽菜のまっすぐな性格に惹かれ、二人の距離は少しずつ縮まっていった。
ある日、陽菜は勇気を出して悠真に公園のことを尋ねた。
「悠真、昔、桜の木のある公園で遊んだこと、覚えてる?」
悠真は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。「あ、あの公園か! 俺も最近、なんか懐かしいなって思ってた。佐藤と一緒にいた気がするんだよな…」
二人は顔を見合わせ、照れ笑いした。その日から、二人の関係はさらに深まった。陽菜は初めての恋に胸を高鳴らせ、悠真もまた、陽菜の笑顔に心を奪われていた。
季節は巡り、春がやってきた。桜の木が満開に咲く日、陽菜と悠真はあの公園で再び会った。陽菜はドキドキしながら、幼い頃の約束を口にした。
「大きくなったらまたここで会おう、って約束したよね。私、ちゃんと覚えてたよ。」
悠真は少し赤くなりながら、陽菜の手を握った。「俺も。佐藤がいてくれて、なんか…全部思い出せた気がする。ありがとう。」
二人は桜の花びらが舞う中で、初めてのキスを交わした。それは陽菜の初恋が実った瞬間だった。シュトラは遠くのベンチに座り、静かにその光景を見守っていた。彼女の役目は終わった。陽菜の物語は、これから自分たちで紡がれていく。
シュトラは銀色の尾を揺らし、静かに公園を後にした。次の世界、次の時間軸へ旅立つために。だが、陽菜と悠真のハッピーエンドは、シュトラの心に小さな温もりを残していた。
陽菜と悠真はその後も付き合い続け、大学に進学しても変わらず愛を育んだ。毎年春、桜の木の下で二人は笑い合い、初恋の約束を胸に未来を描いた。シュトラが再びこの世界を訪れることはなかったが、陽菜の心には、どこかで白猫の蒼い瞳が優しく見守ってくれているような気がしていた。