お慕い申しております
花町の灯り
花町は夜になると命を吹き込まれる。提灯の柔らかな光が石畳を染め、華やかな着物をまとった花魁たちが扇を手に客を迎える。琴の音、笑い声、酒杯が触れ合う音が夜の帳に響き合う。そんな花町の片隅、桜の木の下に、一匹の白猫が静かに佇んでいた。シュトラと呼ばれるその猫は、蒼い目で世界を眺め、銀色の尾をゆったりと揺らしていた。彼女は決して口を開かず、ただそこにいるだけだった。まるでこの世界の住人ではなく、異なる時間軸を旅する傍観者のようだった。
花町で人気の花魁、椿は、桜の木の下を通るたびにシュトラを見つけた。彼女は他の客や花魁が気づかないその白猫に、なぜか心を惹かれた。「お前、いつもここにいるね。何をじっと見てるの?」と話しかけるが、シュトラはただ蒼い目で椿を見つめ返すだけ。椿は笑い、扇で顔を隠しながら「不思議な子ね」と呟いた。
椿は美しく、気立てが良く、客からの人気も高かったが、心のどこかで孤独を抱えていた。花町の華やかな世界は、彼女にとって仮の住処にすぎなかった。そんなある夜、椿は一人の男、悠真と出会った。彼は花町には似つかわしくない、質素な着物を着た旅人で、商人の手伝いとしてこの町に立ち寄っただけだった。だが、彼の真っ直ぐな瞳と飾らない言葉に、椿は初めて心の奥が温まるのを感じた。
「椿さん、こんな綺麗な人が、なんでそんな寂しそうな目をするんだい?」悠真の言葉に、椿は一瞬言葉を失った。彼女は笑って誤魔化したものの、その夜から二人の距離は少しずつ縮まっていった。
シュトラは桜の木の下でその光景を静かに見つめていた。彼女の蒼い目は、まるでこの物語の始まりと終わりをすでに知っているかのようだった。彼女のそばには、灰色の毛に琥珀色の目を持つ雄猫、クロが時折現れるようになった。クロは花町の路地を自由に歩き回り、椿の住む楼の周りをうろつく野良猫だった。シュトラとは異なり、クロは気まぐれで、時に椿の膝で丸くなることもあった。椿はクロに魚の切れ端をやりながら、「お前、シュトラの友達?」と笑ったが、シュトラはただ無言で遠くを見つめていた。
近づく心と約束
季節が巡り、桜の花が散っても、悠真は花町に戻ってきた。彼は椿に会うためだけに、遠くの町から足を運んだ。椿もまた、悠真が来る日を心待ちにするようになっていた。二人は花町の外れにある小さな橋でよく会った。そこは提灯の光が届かず、星空だけが二人を照らす静かな場所だった。
「悠真さん、なんで私なんかに会いに来るの?花町にはもっと華やかな人がたくさんいるのに」椿は冗談めかして言ったが、その目は真剣だった。
「椿さんが本当の笑顔を見せてくれるからさ。それが俺には何より綺麗なんだ」悠真の言葉は飾り気なかったが、椿の心を強く揺さぶった。
ある夜、椿は悠真に小さな銀の鈴を贈った。「これは私の大事なもの。持っててくれると嬉しいな」鈴は月光を受けて、まるでシュトラの銀色の尾のように輝いた。悠真はそれを大切に懐にしまい、「必ず返すよ」と約束した。
シュトラは橋のたもとに座り、二人が笑い合う姿を遠くから見つめていた。彼女の銀色の尾が、夜風に揺れてかすかに光った。クロは近くの石垣に寝そべり、気まぐれに尾を振っていたが、シュトラの静かな佇まいとは対照的だった。シュトラはただ観察するのみで、物語に干渉することはなかった。
やがて、悠真は椿に打ち明けた。「俺、椿さんと一緒にいたい。花町を出て、二人で新しい生活を始めよう」椿の目には涙が浮かんだ。花魁としての自分を、初めて一人の女として見てくれる男だった。彼女は頷き、二人は婚姻の約束を交わした。
だが、運命は残酷だった。悠真に急な仕事の呼び出しが入った。遠方の港町で商人の大きな取引があり、彼はその手伝いとして数ヶ月旅に出なければならなかった。「すぐに戻るよ。必ず椿を迎えに来る」悠真はそう言って旅立った。椿は笑顔で送り出したが、心のどこかで不安が芽生えていた。
シュトラは橋のたもとに座り、悠真の背中を見送った。クロは彼女のそばで欠伸をし、気ままに路地へ消えた。シュトラの蒼い目は、まるでこれから訪れる悲劇を予見しているかのようだった。
病の影と灰色の
季節が巡り、椿は悠真を待ち続けた。だが、悠真からの便りは途絶え、椿の身体に異変が現れ始めた。咳が止まらず、熱が引かない。花町を襲った流行り病が、椿の身体を蝕んでいた。彼女は床に伏し、日に日に弱っていく自分を感じていた。
ある夜、椿は力を振り絞って一通の手紙を書いた。彼女の咳とともに零れた血が紙に滲む。震える手で書かれた文字は、悠真への想いを綴っていた。
「悠真様、病に伏しております。けれど、今まであなたと過ごした時間が、私の人生で一番幸せでした。もっと一緒にいたかった。お慕い申しております。」
椿は手紙を折り畳み、楼の縁側に現れたクロに目をやった。「クロ、お願い。この手紙を悠真さんに届けて」彼女の声は弱々しかったが、決意に満ちていた。クロは椿の手から手紙を咥え、琥珀色の目で一瞬彼女を見つめた後、夜の闇に消えた。シュトラは桜の木の下からその光景を見ていたが、ただ静かに佇むだけだった。彼女の銀色の尾が、月光に照らされて輝いた。
クロは花町を離れ、港町を目指して走った。灰色の毛は夜に溶け込み、琥珀色の目は闇を切り裂いた。彼は野良猫の気まぐれさを持ちながらも、椿の願いを背負い、悠真のもとへ向かった。シュトラは遠くからクロの旅を見守っていたが、干渉することはなかった。
届かぬ想い
悠真は遠方の港町で忙殺されていた。商人の仕事は予想以上に長引き、数ヶ月が数年に及んだ。彼は椿を想いながらも、連絡を取る余裕すらなかった。心のどこかで、椿が待っていてくれると信じていた。
ある日、悠真が宿の軒先で休息を取っていると、ボロボロになった灰色の猫が現れた。クロだった。彼の毛は泥と血で汚れ、琥珀色の目は疲れ果てていた。クロは手紙を咥え、悠真の足元に倒れた。悠真は慌てて猫を抱き上げ、手紙を開いた。
そこには、椿の震える字と血の滲んだ紙があった。「病気の事、今まで幸せだった事、もっと一緒に過ごしたかった事、そしてお慕い申しております。」悠真の胸は締め付けられるように痛んだ。彼は全てを投げ出し、椿の元へ急いだ。
だが、花町に着いた時、椿はすでに息を引き取っていた。彼女の部屋は静まり返り、桜の花びらが床に散っていた。悠真は椿の亡魂に詫び、涙を流した。彼女の墓は、桜の木の近くに建てられていた。
シュトラは桜の木の下に佇み、悠真の嘆きを見ていた。彼女の蒼い目は感情を映さず、ただ静かに物語の終わりを刻んでいた。
灰色の墓
悠真はクロの亡魂にも感謝を込めて、椿の墓の隣に小さな墓を建てた。クロは手紙を届けた後、力尽きて死んでいた。悠真は二つの墓の前で膝をつき、泣き叫んだ。「椿、クロ、すまなかった...俺が...遅かった…、遅すぎた...」その声は花町の夜に響き、星空に吸い込まれていった。
シュトラは別の時間軸で再び目を開き別の世界を旅し続けた。彼女の蒼い目は椿と悠真の物語を永遠に記憶していた。銀色の尾が夜の闇に溶けるように揺れた。彼女はただ次の物語を観察するため歩みを進めた。