また君に会いたくて
別れと約束
秋の夕暮れ、冷たい風が窓辺を撫でる。美咲はソファに座り、膝の上で毛布を握りしめていた。彼女の視線の先には、空っぽの猫ベッド。そこにはもう、あの柔らかな白い毛並みも、蒼い瞳も、銀色の尾もなかった。ルナ、彼女の最愛の飼い猫は、一週間前に静かに息を引き取った。腎不全だった。最後までルナは美咲の手をそっと舐め、まるで「大丈夫だよ」と言うように穏やかな目で彼女を見つめていた。
美咲の胸は鉛のように重かった。ルナとの12年間は、彼女の人生の全てだった。仕事の疲れも、孤独も、ルナのゴロゴロという喉の音と温もりが癒してくれた。でも今、その温もりはどこにもない。彼女は毎晩、ルナの名前を呼びながら涙を流した。
そんなある夜、夢を見た。ルナが現れ、蒼い瞳でじっと美咲を見つめていた。その背景には、満月が浮かぶ古い神社。ルナの声ではない、どこか遠くから響く声がこう告げた。「猫塚神社へおいで。一度だけ、ルナに会えるよ」美咲は目を覚ますと、胸が高鳴っていた。夢だとしても、ルナに会えるなら。それが本当なら。
翌朝、美咲はネットで「猫塚神社」を検索した。驚くことに、それは実在した。山間の小さな集落にひっそりと佇む、猫を祀る神社。そこには「亡魂の猫と一度だけ再会できる」という言い伝えがあった。ただし、注意書きもあった。「向こうの世界には、帰さぬ企みを持つ猫もいる。心して訪れなさい」。美咲は迷わなかった。ルナに会えるなら、どんなリスクも冒す価値がある。
猫塚神社
週末、美咲は車を走らせ、森に囲まれた猫塚神社へ向かった。参道は苔むした石段が続き、両脇には猫の石像が無数に並んでいた。それぞれの石像には、名前や短いメッセージが刻まれている。「ミケ、ありがとう」「タマ、愛してる」。美咲の胸が締め付けられた。ルナの名前も、いつかここに刻みたい。
本殿は古びた木造で、屋根には猫の彫刻が施されていた。神社の周囲には不思議な静けさが漂い、まるで時間が止まっているようだった。美咲は賽銭箱に硬貨を入れ、目を閉じて祈った。「ルナ、会いたい。もう一度だけ、会いたいよ」。
その瞬間、背後でかすかな鈴の音が響いた。振り返ると、そこには白い猫がいた。蒼い目、銀色の尾。だが、それはルナではなかった。猫は無言で美咲を見つめ、まるで彼女の心を覗き込むような視線を投げかけた。美咲は息を呑んだ。「あなた、誰?」
猫は答えず、くるりと背を向けて参道の奥へ歩き出した。美咲はその後を追った。猫は参道を外れ、森の奥へと進む。木々の間を縫うように進むその姿は、まるで現実のものではないように軽やかだった。やがて、猫は小さな石の鳥居の前で立ち止まった。鳥居の向こうは霧に包まれ、何も見えない。白い猫は一瞥をくれ、霧の中へ消えた。
美咲はためらったが、ルナに会いたい一心で鳥居をくぐった。瞬間、身体がふわりと浮くような感覚に襲われ、視界が白く染まった。
向こうの世界
目を開けると、美咲は見知らぬ場所に立っていた。そこは無数の猫が暮らす、夢のような世界だった。色とりどりの猫たちが、草むらでじゃれ合い、木の枝で昼寝をし、川辺で水を飲んでいる。空は淡い紫色に輝き、遠くには満月が浮かんでいた。美咲の心臓が早鐘を打った。「ルナ、どこ?」
「美咲!」突然、聞き覚えのある声が響いた。振り返ると、そこにはルナがいた。白い毛、蒼い瞳、銀色の尾。間違いなくルナだった。美咲は涙をこぼしながらルナを抱き上げた。「ルナ! ルナ、会いたかった!」ルナは美咲の頬に顔を擦り付け、ゴロゴロと喉を鳴らした。「私も、会いたかったよ」。
二人はしばらく抱き合い、互いの温もりを感じ合った。ルナは美咲にこの世界のことを語った。「ここは、猫たちの魂が集まる場所。幸せに暮らしてるよ。でも、美咲、帰らなきゃ」。ルナの声には切なさが滲んでいた。
「帰る? やだよ、ルナと一緒にいたい!」美咲は首を振った。だが、ルナの瞳は真剣だった。「ここには、悪い猫もいるの。人間の体を奪おうとする猫たちが」
その言葉を聞いた瞬間、背後から冷たい笑い声が響いた。振り返ると、黒い猫が数匹、じっと美咲を見つめていた。その瞳は貪欲に輝き、まるで彼女の魂を飲み込もうとしているようだった。「人間、いい体だね。ちょうど欲しかったんだ」。リーダー格らしい黒猫が不気味な笑みを浮かべた。
美咲は恐怖に震えたが、ルナが前に立ちはだかった。「美咲には指一本触れさせない!」ルナの小さな身体から、驚くほどの力が溢れていた。黒猫たちは嘲笑し、爪を光らせて迫ってきた。
その時、霧の中から白い影が現れた。蒼い目、銀色の尾。参道で見たあの白猫だった。彼女は無言で黒猫たちの前に立ち、ただ一瞥を投げた。すると、黒猫たちは怯えたように後ずさりした。「シュトラ…なぜここに?」黒猫のリーダーが呻いた。
シュトラと呼ばれた白猫は、一切言葉を発せず、ただ静かに美咲とルナを見つめた。その瞳には、まるで全てを見透かすような深遠な光があった。シュトラが一歩踏み出すと、黒猫たちは悲鳴を上げて霧の中へ逃げ去った。
「シュトラ、ありがとう」ルナが囁いた。シュトラは無言で頷き、くるりと背を向けて歩き出した。美咲はルナを抱きしめ、シュトラの後を追った。シュトラは再び小さな鳥居の前で立ち止まり、霧の向こうを指し示した。そこが元の世界への出口だと、美咲は直感した。
別れの約束
「ルナ、行きたくないよ」美咲は涙を流しながらルナを抱きしめた。ルナは優しく美咲の頬を舐めた。「美咲、生きて。幸せになって。私、いつも見てるから」
「ありがとう、ルナ。また会おうね。愛してる」
「うん、約束だよ」ルナの声は、まるで風のように柔らかかった。
シュトラが静かに尾を振ると、霧が晴れ、鳥居の向こうに現実の世界が見えた。美咲はルナをぎゅっと抱きしめ、最後にその温もりを刻み込んだ。そして、鳥居をくぐった。
気がつくと、美咲は猫塚神社の参道に立っていた。ルナの姿はなく、ただ静かな風が吹いていた。美咲は涙を拭い、空を見上げた。「約束だよ、ルナ」
おかえり
月日が流れ、美咲は少しずつ日常を取り戻していた。ルナのいない生活は寂しかったが、彼女との思い出が心を支えた。ある朝、玄関の前に見覚えのある猫が座っていた。白い毛、蒼い目、銀色の尾。ルナではない。シュトラだった。
シュトラは無言で美咲を見つめ、まるで何かを伝えようとするようにじっと瞳を合わせた。美咲はふと笑い、こう呟いた。「おかえり」
シュトラは一瞬だけ尾を揺らし、音もなく姿を消した。美咲は空を見上げ、心の中でルナに語りかけた。「また会おうね、ルナ。約束だよ」