花咲く戦場の時代
シュトラがこの世界に初めて降り立ったとき、彼女の鼻腔を満たしたのは鉄の錆と血の生臭さだった。空はまるで燃えているかのように赤く染まり、雲は黒い煙の筋となってちぎれていた。大地は剣戟の響きと兵士たちの叫び声で震え、遠くの地平線では炎が揺らめいていた。彼女は戦場を見下ろす丘の上に腰を下ろし、長い銀色の尾をゆらりと揺らした。その瞳は星のように澄んでいたが、どこか遠くを見ているようだった。
彼女は観察者だった。世界を旅し、生き物の営みを記録する存在。感情を持つことはないはずだったが、この戦場の光景は、彼女の心の奥に奇妙な波紋を広げていた。
戦場では、無数の兵士がぶつかり合っていた。金属が擦れ合う甲高い音、肉を裂く鈍い音、息絶える者たちの呻き声。それらが混ざり合い、まるで地獄の交響曲のようだった。シュトラの視線は、戦場の中心に立つ一人の若者に引き寄せられた。彼はまだ少年と呼ぶべき歳だったが、傷だらけの鎧をまとい、血に濡れた剣を握っていた。顔は煤と血で汚れ、目は恐怖と決意が交錯する複雑な光を宿していた。
若者は仲間を守るために剣を振るっていた。彼の周りには、数人の兵士が円陣を組んでいた。皆、疲弊しきっていたが、互いの背を預け、敵の波を押し返していた。「下がれ、ルカ!」年かさの兵士が叫んだが、ルカは首を振った。「俺がここを死守する! お前たちは負傷者を連れて逃げろ!」彼の声は震えていたが、どこか揺るぎない力強さがあった。
シュトラは尾を軽く叩き、ルカの姿をじっと見つめた。彼は敵を倒すたびに小さく震えていた。その手は血で滑り、剣を握る力も弱まっているようだった。それでも、彼は立ち続けた。倒れた仲間の名を呟きながら、まるでその名が彼を支える呪文であるかのように。
「エリオ…カイル…」ルカの唇が動くたびに、シュトラの耳にはその声が届いた。彼女は不思議に思った。なぜこの少年は、死にゆく者たちの名を呼び続けるのか。なぜ、恐怖に震えながらも前へ進むのか。
戦場は次第に静かになりつつあった。敵の数は減り、生き残った兵士たちは互いに距離を取り、息を整えていた。ルカの仲間たちは負傷者を抱え、森の奥へと退却していった。ルカだけが、血と泥にまみれた地面に立ち尽くしていた。彼の鎧には新たな傷が刻まれ、左腕は不自然に垂れ下がっていた。それでも、彼は剣を握り直し、迫りくる敵の影に備えた。
シュトラは丘から立ち上がり、戦場へと足を踏み入れた。彼女の姿は不思議なことに誰の目にも映らなかった。まるで風のように、彼女はルカの側まで歩み寄った。近くで見る少年の顔は、予想以上に幼かった。まだ髭も生え揃っていない頬には、涙の跡が残っていた。
「人間とは、なんと愚かな生き物だろう」とシュトラは思った。彼らは争い、傷つけ合い、互いの命を奪う。それなのに、なぜこの少年の目は、こんなにも美しい光を放つのだろう。恐怖と絶望の中で、なぜ彼は仲間を守ろうとするのか。
ルカの視線が、ふと遠くの丘に移った。そこには、戦火を逃れた一輪の花が咲いていた。白い花弁は血と煤で汚れていたが、それでもなお、風に揺れる姿は儚く美しかった。ルカの唇がかすかに動いた。「…生きろよ」と彼は呟いた。それは花に向けた言葉なのか、それとも自分自身に向けた言葉なのか、シュトラには分からなかった。
その瞬間、敵の弓兵が放った矢がルカの胸を貫いた。彼は小さく息を吐き、膝をついた。剣は地面に落ち、鈍い音を立てた。シュトラは動かなかった。ただ、じっとその光景を見つめた。ルカは倒れる前に、もう一度丘の花を見た。そして、かすかな笑みを浮かべて目を閉じた。
戦場は完全に静寂に包まれた。生き残った者たちは去り、死者は大地に還った。シュトラはルカの傍に立ち、彼の顔を見つめた。そこにはもう恐怖も決意もなかった。ただ、穏やかな眠りのような表情が残っていた。
「人間の愚かさは、争うことにある」とシュトラは思った。「だが、その愚かさの中に、脆くも美しい何かがある。勇気と呼ぶべきか、希望と呼ぶべきか…」
彼女はルカの剣を拾い上げ、血と泥を払った。剣は重く、冷たかった。彼女はその剣を丘の上に立て、ルカが見つめていた白い花の隣に置いた。風が吹き、花弁が剣に触れて揺れた。まるで、ルカの魂がそこに宿っているかのように。
シュトラは戦場を後にした。彼女の旅はまだ始まったばかりだった。この世界には、もっと多くの物語が待っている。人間の愚かさと、その中に隠された光を、彼女はこれからも見つめ続けるだろう。
彼女の尾が最後にゆらりと揺れ、戦場の記憶は彼女の心に深く刻まれた。それは、彼女の旅の最初の贈り物だった。