36話 大聖女ベアトリス
「ここが大聖堂……」
テレジアは感嘆しながら辺りを見回していた。
美しいステンドグラスが壁や天井を彩っている。
大聖堂に入れる人間は数少ない。
聖女でさえ許可がなければ入れないのだが。
入り口の巨大な扉を通ると、見通しのいいホールが迎えてくれた。
テレジアは案内の男性に続いて歩いているところだった。
居住地区付近に警備はいなかったのだが、さすがに大聖堂は衛兵が配置されているようだった。
ホールを抜け、奥の扉を通る。
その先に長い廊下があり、無言で歩を進めた。
窓からは外の風景が見える。
聖シア教会自治区の構造は、外周の慰問地区、その内周の居住地区、そして中央付近に礼拝堂や大聖堂がある。
もちろんそれ以外の施設、例えば図書館や倉庫などもあるのだが、テレジアはまだ行ったことがなかった。
廊下を進むと守衛のいる扉を何度か通る。
次第に人の姿がなくなる。
最後の扉を前に、案内の人はいなくなってしまった。
誰もいない。目の前にあるのは簡素な両開きの扉だけだ。
意を決して扉をノックするテレジア。
「お入りなさい」
鈴の音のような声音が響く。
テレジアは思い切って扉を開いた。
純白で染まった部屋。
一人で住まうには広すぎるほどの規模で、天蓋付きのベッドや煌びやかなシャンデリア、華美な装飾が施されたタンスなど、一般貴族ではお目にかかることさえできない高級品ばかりが置かれている。
その部屋の主は豪奢な、それでいて清廉なソファに腰かけていた。
大聖女ベアトリス。
銀髪の乙女。
彼女は女神を思わせる柔和な笑みを浮かべ、テレジアを見つめていた。
「し、失礼いたします。テレジアと申します」
「よく来てくれました。そこにかけて」
言われるままに、ベアトリスの正面まで移動するテレジア。
向かい合うようにソファが並んでおり、テレジアはベアトリスの対面に座った。
なんだか落ち着かない。
黒魔女の時はもっとどんよりとして、陰鬱な雰囲気が漂っている部屋に住んでいた。
しかしこの部屋はどうだ。
まるで天国だ。
なんだかいい香りもするし、やはり落ち着かない。
目の前のテーブルには入れたての紅茶が入ったティーカップが置かれていた。
なぜ入れたてなのだろうか。
テレジアが来る時間がわかっていたということなのだろうか。
そんな些末な疑問は一瞬にして霧散してしまう。
(……目の前にあの大聖女ベアトリス様がいるなんて!)
聖女を目指そうと思ったきっかけの人物。
以前、黒魔女として戦場に赴いた時、ベアトリスが前線へ慰問にやってきたことがあった。
大聖女という身分ながら危険を顧みず、戦地の兵士たちを癒しにやってきたのだ。
簡素ながらも純白の衣服を身に纏い、他の聖女と共に土や血に汚れながらも必死に彼女は患者を癒していた。
そして、多くの人達に感謝されていた。
慈愛と慈悲をもって、すべてを愛し、すべてに愛されていた。
テレジアは全く逆の存在。
同じように土や血に汚れても、誰も周りには集まってくれない。
人を倒し、壊し、打倒すればするほど人は離れていった。
(あの時、あたしは羨ましいって思ったんだ。だから……)
誰を憎むでも、怒るでもなく、テレジアはただベアトリスのようになりたいと思った。
それは純粋な憧憬だった。
けれどそれはベアトリス自身にというよりは、ベアトリスの人生に対してだった。
彼女のような人生を歩みたい、そう思った。
「シスタークレアから話は聞いていますか?」
「え? い、いえ。大聖女様からお話があるとだけ」
「では何が何やらわからない状態でしょうね。早速本題に入りましょう。あなたには呪いをはじめとする、黒魔術治療専門の聖女として働いていただきたいのです」
「黒魔術治療専門……?」
「ええ。授業や審査の内容を加味して、あなたには通常の慰問には向いていないことがわかっています。それは自覚があるでしょう?」
確かに怪我や病気の治療が自分にできるとは思わない。
そもそも診断さえまともにできないのだから。
「ですのであなたには教会創設以来、初めての黒魔術治療専門聖女となっていただきたいのです」
「あ、あたしが最初なのですか?」
「それはそうですよ。そもそも黒魔力を持つ聖女は一人もいませんから。災厄の魔女、テレジアさん」
あまりに普通に、淡々と図星をついてくるものだから、テレジアは一瞬何を言われたかわからなかった。
しかし数秒を経て、まずい状況だと気づく。
目の前には美しいほど完璧な笑顔があった。
「警戒しないで。あなたの素性は調べがついています。そもそも、バファリス王国のラインハルト王の推薦があるのですから、素性を調べないわけがないでしょう?」
「うっ! そ、それでは最初からご存じだったのですか?」
「ええ。一応、バファリス王国からは寄付金を沢山いただいていますから、無碍にもできませんからね。様子見をしていたのです。ああ、ご安心を。知っているのは私を含めて、数人程度。この事実が広まることはないでしょう」
ほっと溜息をもらすテレジア。
せっかく聖女になったのに正体がバレてしまっては意味がない。
またあの生活に戻るのはごめんだった。
「さて、そろそろ二人も来るはずですが」
「二人?」
テレジアが小首をかしげると、扉がノックされた。
そして入ってきた人物に気づくと、テレジアは勢いよくソファから立ち上がった。
「ユリウスとベロニカさん!?」
ユリウスとベロニカは戸惑った様子だった。
二人とも聖女と聖騎士の正装をしている。
聖伴の儀の時と同じ格好だ。
それはテレジアも同じだった。
「失礼いたします、聖騎士のユリウスと申します」
「聖女のベロニカと申します」
「二人とも、テレジアさんの隣に座ってください」
三人で顔を見合わせつつも、無言でソファに座った。
並びは左からベロニカ、テレジア、ユリウス。
表情から察するにユリウスやベロニカも事情を知ってはいないようだった。
とにかく落ち着こうと、テレジアは紅茶を口に含もうとした。
「今、テレジアさんが災厄の黒魔女であることを話したばかりなのですが」
「ぶふぅっ!?」
紅茶を口に含んだ瞬間、思わず吐き出してしまうテレジア。
綺麗に散布された紅茶がベアトリスの顔に吹きかかる……ことはなかった。
ベアトリスの目の前に影の板が現れ、紅茶を飲み込んでいた。
咄嗟の行動だった。
ベアトリスへの崇敬、そして己の罪悪感、やっちまったという焦りから無意識に影を顕現させてしまったのだ。
影は主人の吐き出した紅茶を飲み込むと、そのまま消失した。
しんと静まり返る室内。
左右からは驚きの視線を受け、正面からは笑顔の視線を受ける。
一気に全身に汗が噴き出す。
激しく動揺したテレジア。
もう後戻りはできないということはわかった。
しかし何を言えばいいのかもわからなかった。
「見事な黒魔術ですね。お二人もそう思いませんか?」
どうしよう。
ユリウスは事情を知っているが、ベロニカは知らないはずだ。
もしもこの事実を話すと言われたら止める術はない。
終わった、と思っていたのだが。
「素晴らしいと思います。わたくしは慰問中にあった襲撃で、テレジアさんに助けられたので余計にそう思いますわ」
「…………へ?」
ベロニカは落ち着いた様子で、むしろちょっと嬉しそうにそう言い放った。
テレジアは何が起こっているのかすぐに理解できず、間抜けな声を漏らしてしまう。
「助けていただいた時の反応がテレジアさんっぽかったですから。あの後、ずっと観察していたのですが、やはり間違いないと思っておりました。ですから驚きは少ないですわ」
「そ、そうなのですか」
テレジアとしては完璧に隠していたつもりだったのだが。
思わずユリウスの方を見ると、困ったように苦笑するだけだった。
彼も襲撃者から守ってくれた人影はテレジアだと気付いているし、ベロニカが気付いていることにも気付いていたのだろう。
つまり気付いていなかったのはテレジアだけである。
「さて、先ほどテレジアさんに話していたことをもう一度話します。テレジアさんには黒魔術治療専門の聖女として働いていただきます。そしてベロニカさんには従聖女としてテレジアさんが癒せない一般的な治療を行っていただき、ユリウスさんにはテレジアさんの正体がバレないように動きつつ、様々な面でサポートをしていただきます。今後は三人で各地を慰問しつつ、一般的な治療と呪いなどの黒魔術の治療を並行して行ってください。教会に黒魔術関連の治療依頼があった時には、あなた方に伝えますので、その任に当たってもらいます。影による移動があれば、臨機応変に移動が可能でしょうし、最強のテレジアさんがいればどんな問題も解決できるでしょう。ということで話は以上ですが、何か質問は?」
早口でまくし立てられた上に、衝撃の出来事ばかり。
テレジアの頭はまともに働いていなかった。
しかし、それを助けるようにベロニカが優等生らしく手を上げる。
「質問ですわ。呪いや黒魔術の治療を専門とする別の聖女はいらっしゃるのですか?」
「いませんよ。そもそも呪いを治療できるのは私くらいなので」
「え!? 大聖女様のみですの!? 数は少ないですがいると聞いていたのですが」
「いません。私が呪いを治療できるのは、歴代最大の白魔力を持っているからです。強引に力技で治療しているにすぎず、それができるのは私だけです。そして正式な治療をするには、必ず黒魔力が必要になる。つまり白魔力と黒魔力の素質を持っている人物である必要があるのです。まず両方の魔力を持つ人間は稀で、更に女性である必要があります。そして、どちらかの魔力の才能がなければ、片方の魔力を補えないです」
「それは黒魔術や病気などへの耐性の問題でしょうか?」
「そうです。後は単純に黒魔術による危害を受けている場合、術者や呪物があるということ。そして敵意を持っている人物がいるということ。自衛できる人物でなければ危険ですからね。テレジアさんは最強の黒魔女ですし、黒魔術の知識も豊富、そして繊細な白魔力の操作で呪いなどの治療もできるわけですから適任なのです。ただ、彼女だけだと診断も出来ず、通常の治療もできませんから、ベロニカさんが不可欠。そして表立って戦えて周りが見えている人物。そして男性である人物が必要です。女性だけの旅だと問題が多いですからね」
二人の会話を聞き、少しずつ平静を取り戻すテレジア。
確かにベアトリスの言う通り、適任な気がする。
「それと正体がバレてはいけないのは変わりません。聖女が黒魔力を持っているというだけでも大問題ですが、その正体が災厄の黒魔女だと露呈すれば、教会の権威も失墜しますからね」
「そ、それだけ問題があるのにあたしを聖女にしてもいいのですか?」
「それだけ状況は切迫しているということです。以前から黒魔女や呪物による被害は多かったのですが、一部は私が出向き治療をしていました。ですがバファリスを中心とした侵略戦争が終結したことで、より被害が増えたのです。元々、黒魔女や犯罪者集団などは傭兵のような仕事をしていたらしく、急に働き口がなくなったわけですからね。反教会派が次の雇い主になっても不思議はありません。それがなくても山賊や盗賊に身を落とす輩も少なくないですから」
災厄の黒魔女が聖女をしている、なんて露呈すれば教会への批判は殺到するだろう。
この機に乗じて反教会派が勢いを増す可能性もある。
だがその危険を承知でテレジアを受け入れるつもりのようだ。
呪いや黒魔術による被害は余程甚大なのだろうか。
「同じなのですよ。現状維持しても徐々に教会の信頼は落ちていき、黒魔術による被害は拡大していく。あなたを受け入れてもいつか正体が露呈したら、教会の信頼が地に落ちる。速いか遅いかの違いでしかない。ですが前者は解決策もなく、教会全体を蝕む毒を放置するだけ。いずれ死に至る病です。しかし後者は完治する可能性はある。ある日突然、死んでしまうかもしれませんが。まあ、仮にそうなっても悪あがきはできますよ。知らぬ存ぜぬを通すとかね」
危険な会話をしているというのに、ベアトリスは片目をつぶって愛嬌を振りまいていた。
豪胆というかなんというか。
さすが大聖女と呼ばれるだけはある。
「テレジアさん、あなたの任務は呪いや黒魔術治療だけではありません。反教会派を始めとする、被害を広める組織や人物を見つけだして打倒し、無辜の民を救うことに尽力してください。白と黒の間、そう『灰の聖女』として」
思ってもみなかった展開だった。
ただ聖女として人を救いたいと思っていただけだった。
けれど黒魔女の力を使って人を救える道もあるのだと知った。
聖女として、そして黒魔女として生きる、そんな道もあるのだと。
(黒魔女の自分は好きじゃなかったけど……今も、好きじゃないけれど。でも、否定しなくてもいいのかな? あの時の自分も、その力も、そして今の自分も全部、ダメじゃないって思ってもいいのかな?)
過去の積み重ねがあるから今がある。
黒魔術を必死で鍛錬し、人のために使おうと思ったこともあった。
そしてその結果、人に疎まれ、忌み嫌われた。
そんな自分が、黒魔術がイヤになったこともある。
でもそんな過去があるから、大聖女ベアトリスの提案があるのだ。
だったら。
迷う必要はないのかもしれない。
「……やります」
ベアトリスはほんの少しだけ安堵したように嘆息した。
彼女もテレジアに断られたらどうしようかと思っていたに違いない。
相手は最強最悪災厄の魔女。
誰も彼女を止めることはできないのだから。
ベアトリスにとっても賭けだったのだろう。
それはつまり、それくらい状況が切迫しているということでもある。
「わたくしもやりますわ。テレジアさんの……いいえ、テレジア様のお傍にいます。恩には義で返すのが信条ですの。そして……以前からテレジア様と共にありたいと思っておりましたの。このベロニカ、全身全霊で命を賭してテレジア様を支えると誓いますわ」
ん? 様?
言葉が妙に重い気がした。
なんだか違和感を覚えて、テレジアはベロニカを一瞥した。
ベロニカのテレジアに向ける視線が、なんというか、熱を帯びている気がしたのだ。
その視線は以前と違い、妙な情が籠っている気がした。
情愛というよりは尊敬……いや、それを超える崇敬、崇拝の域。
ちょっと怖く感じて、テレジアはベロニカから目を逸らし、助けを求めるようにユリウスを見た。
「私も異存はございません。テレジア様に救われたこの命。テレジア様に捧げると誓います。私は……以前、テレジア様を疑っていた。災厄の黒魔女は悪辣な存在だという噂を信じてしまっていた。ですがそんな事実はなく、テレジア様は清廉潔白で、そして聖女然とした素晴らしい方なのだと気づきました。このユリウス、テレジア様と共に人々を救う旅へ赴くことになんら迷いはございません」
んんん? こっちもなんかおかしいぞ?
以前は少し警戒心があったが、先日の夜以降なんだか様子がおかしかった。
テレジアを見る目が怪訝な感じから、真剣な感じに変わっていたのだ。
それに妙に彼の姿を見ることが増えた。
監視というより、警護しているというか。
姫を守る騎士のような。
とにかく明らかにテレジアを見る目は変わっていたのだ。
訝し気な感じだったのが、主人を見るような目に。
本当の聖騎士のように、いやそれを超える生涯を捧げた騎士のような振る舞いだった。
(ふ、二人ともどうしちゃったの!?)
こんなに好意的な視線を向けられたことは過去に一度もない。
少し方向性が変だとは思うが、明らかにテレジアを慕っている様子だった。
あたふたとするテレジア、温かい視線を向けるベロニカ、真剣な視線を向けるユリウス。
そしてそれを見るベアトリスの表情は柔らかかった。
「ふふふ、とてもいい感じの三人ですね。あなたたちに任せれば問題ないでしょう」
ベアトリスは立ち上がり、テレジアの手をぎゅっと握り、三人の顔を見つめた。
「頼みましたよ、テレジアさん、ベロニカさん、ユリウスさん」
大聖女ベアトリスが誰かに頼みごとをすることは少ない。
そして彼女が衛兵や世話役、付き人を伴わず誰かと会うこともまたほとんどない。
それは信頼の証ではなく、誠意の証だった。
それをテレジアも、ベロニカも、ユリウスも理解していた。
互いの顔を見合わせ、そしてすぐに大きく頷くと。
「「「はい、お任せください」」」
三人の口から自然とその言葉が出ていた。




