30話 人影
村から少し離れた森の奥、そこに襲撃者たちの野営地はあった。
簡素な天幕が置かれており、篝火がそこかしこに点在している。
まさかこれほど近くにいたとは、ベロニカも気づかなかった。
ベロニカは縄で拘束された状態で、襲撃者二人に連れられて奥まった場所にある天幕の中へと入る。
中には粗末な寝具と松明があるだけだった。
「あ!」
ドンと背中を押され、ベロニカは地面に倒れた。
両手を塞がれているため受け身が取れずに肩と頬を強かに打ち付けてしまう。
鋭い痛みを感じ、ベロニカは顔をしかめた。
「おいおい、丁重に扱えよ。エッフェンベルクのご令嬢だ。傷ものにしたら価値が下がる」
「面倒だな。女なんて適当に扱えばいいのによ」
「仕方ねぇだろ、命令なんだからよ。それに金が入りゃ、美味い酒にありつけるぜ。なんせルーロンド帝国の大貴族様だ。そりゃもう莫大な金を出してくれるだろうさ」
「へへへ、違いねぇ」
下卑た笑いを浮かべる襲撃者の男たち。
ベロニカは下唇を噛みながらも上半身を起こし、地面に座った。
本当にどこに行ってもついて回る。
家名なんてものは必要ないというのに。
ベロニカは男二人をキッと睨んだ。
「……何か勘違いしていらっしゃるようですが。わたくしはすでにエッフェンベルクの家名を捨てた身。身代金を払う理由はありませんことよ。無駄働きですわね」
襲撃者の男二人は怪訝そうにしながら顔を見合わせる。
そして堪えきれないかのように笑い始めた。
「おいおい、ご令嬢ってのはここまで世間知らずなのかぁ? 驚きだな、まったく」
「な、何がおかしいのですか!? わたくしは家を出て聖女に……」
「おまえがどう思おうが世間の見方ってのは変わらねぇんだよ。仮に絶縁していてもな、血のつながりは消えねぇ。娘を見殺しにしたら、家名に傷がつくんだよ。大貴族なら余計にな」
ベロニカは何も言い返せない。
それくらいはベロニカも理解していたが、説得できるかもしれないと考えていた。
だが、男二人は見た目に反してしたたかなようだった。
「上級貴族様ってのは平和ボケしてて笑えるなぁ。仮に俺らがそれを信じたら、おまえは慰み者にされて殺されるか、奴隷として売られてたんだぜ? 俺たちが賢明でよかったな。女神シアとやらに感謝しなよ? ぎゃはははは!」
あざ笑う二人の男。
ベロニカは黙して、地面を見つめることしかできない。
男の言っている言葉は、あながち間違いでもなかった。
家を出れば、聖女になれば、自由になれると思っていた。
今もそうだ。
自分であれば説得できると、そう勘違いしていた。
ずっとそうだった。
何をしても優秀で、何をしても周りが認めてくれる、そんな人生を歩んできた。
親に言われるがままに生きてきたのだ。
それが正しいのだと思ってしまった。
しかし、幼い頃から決まっていた婚約を前にふと考えてしまった。
自分の人生はこれでいいのかと。
命令に従い生きて、何の価値があるのかと。
その思いが生まれた時、聖女の慰問に遭遇した。
人の寄る辺となる存在がいる。
彼女たちは誰かに命令されて生きているのではなく、自分の意思で生きている。
聖女になるには家系、肩書、血統は関係ない。
最低限の資質と己の努力、そして信念が必要。
今の自分とは反対の人生に憧れを抱いた。
そう思った要因には兄の存在があった。
幼い頃から優秀だったベロニカに比べ、兄は劣等生だった。
何をしても上手くできず、間が抜けていて、常に失敗ばかり。
いつも両親に怒られていた。
そんな兄が父の推薦で騎士団に入った。
本人は明らかに素質がないのに、無理やり入団させられたのだ。
本人に意志なんてない。
ただ両親の言うことに従っていただけだ。
そんな兄は……。
男はふんと鼻を一鳴らしするとベロニカを見下ろした。
「しかし、憐れな奴らだな。妹は人質にされて、兄はバファリス王国侵略戦争の失敗の責任を負わされて、処罰の対象になってるんだろぉ?」
「確か無能の癖に家名だけで成り上がって、大隊の副隊長に任命されたんだっけか?」
「七万だとよ。それが一瞬でやられたんだ。そりゃ責任取らなきゃなあ?」
「隊長は副隊長に罪を着せたって話だぜ。お飾りの坊ちゃんだって話だし、政治なんてできゃしねぇだろうに。口裏合わせたんだろうよ。可哀想にな」
ベロニカは顔を上げて何か言い返そうとしたが、言葉は出ない。
男たちが言っていることは事実だからだ。
ベロニカは兄の背中をずっと見ていた。
穏やかで優しく、愚かな兄。
彼の口癖は「お父様の命令だから」だった。
誰にも何にも抗わず、流れに身を任せて生きている。
そんな彼の姿を見続けて、ベロニカはようやく気付いた。
自分も同じなのだと。
ただ能力があっただけで、結局は同じ人生を歩んでいる。
そう思うと怖くなり、すべてを投げだして逃げ出したくなった。
だから修道院に入った。
そうすれば家とは縁が切れる。
そしてそれを止めることは誰にもできない。
聖女を目指すのはとても尊いことで、誰もが認める素晴らしいことだからだ。
抵抗があっても最終的には認めざるを得ない。
それはベロニカの両親も同じだった。
もしも大聖女となれば、吹聴せずともエッフェンベルクの出だと広まる。
そうすれば家の評判は上がるからだ。
体のいい言い訳だった。
だが、聖女になりたいと思ったのは本当だ。
両親の操り人形として生きるくらいなら、誰かのために生きる方がいい。
自分自身の人生がないなら、他人の人生を背負えばいい。
そうすれば空虚な自分に少しは価値が生まれると思った。
それがなぜこんなことに。
ベロニカは歯噛みしながら両手をぎゅっと握った。
悔しくて悲しくて言葉にできない複雑な感情が胸中を巡る。
自分の人生は一体何なのかと、そう思わずにはいられない。
「お? おお? 泣くのか? そうだよなぁ、負けん気が強そうな顔をしてるけど、悲しい時は泣いちゃうよな、女だもんなぁ?」
泣くわけがない。
貴族だの、女だの、そんな記号的な言葉で括られてたまるものか。
初めて自分で決めたのだ。
聖女になると。
だから泣かない。
その結末が凄惨なものであったとしても、誇りを持って胸を張る。
(わたくしはわたくし! もう何にも、誰にも惑わされたりしない!)
ベロニカは顔を上げる。
覚悟を決めた人間の顔だった。
恐れも怯えもない。
まっすぐに男たちを見つめた。
「……なんだこいつ。舐めてんのか? ああ!?」
怒鳴られてもベロニカは怯えない。
まったく動揺しないベロニカを前に、男たちは苛立っている様子だった。
「生意気だな。気が変わった。別に少しくらい傷つけても問題ねぇだろ」
「そうだなぁ。殺さなきゃいいだけだ。よおく見りゃいい女だし、聖女ってのは清廉潔白じゃなきゃなれないんだろう? だったら汚してやろうじゃねぇの!」
男二人はじりじりとベロニカににじり寄る。
酒と体臭が混じった不快なにおいを漂わせながら。
男たちは手をベロニカへと伸ばした。
ベロニカは目を閉じ、そして祈った。
「女神シア様。この愚かな者たちに慈悲を。己の罪を贖い、省みる機会をお与えください」
「女神シアなんてもんは何にもしねぇ! 誰も助けちゃくれねぇんだよ! バアァァカ!」
男がベロニカを嘲笑った。
その瞬間。
「あ? あ!? ああああ!? ぎゃあああああ!?」
突如として悲鳴が上がった。
ベロニカは思わず目を開く。
視界に広がったのは黒。
漆黒に染まった地面だった。
ベロニカの周囲を避けるように、地面は黒一色になっていた。
その黒……いや、影は二人の男を飲み込んでいく。
「た、たすけ……ぐ……ぷ……」
男二人はもがきながら沼に沈むように、影の中へと埋もれていった。
完全に姿を消すと同時に地面から何かがせり上がってきた。
それは人の形をしていた。




