3話 ラインハルト・フォーゲル
ルーロンド帝国による侵略戦争からしばらくして。
バファリス王国の謁見の間。
無駄に煌びやかなシャンデリアや美術品が並んでいる。
部屋は百人程度が入っても余裕があるほど広く、弱小国家であるバファリス王国にしては分不相応であることは明白だった。
豪奢な玉座に座るはバファリス王国の国主ラインハルト・フォーゲル。
二十代中盤でまだ若い。
前代の国王が数年前に病気で崩御したため、継承したのだがいささか威厳に欠ける様子だった。
顔は青ざめており、視線はあちこちに動いている。落ち着きがまったくなかった。
それもそのはず、彼の正面には災厄の黒魔女テレジアが頭を垂れていたからだ。
漆黒の衣を身に纏い、漆黒の髪で白き顔を覆い、漆黒の魔力にて呪う。彼の者の目を見てはならない。見れば即座に死の呪いがかけられよう。
そんな噂を数え切れないほど耳にしている。
各地にテレジアを派遣したのは王であるラインハルトであったが、それは近くに彼女を置きたくなかったというくだらない理由もあった。
そのせいでテレジアは戦争が起きる度に前線へと送られてしまったのだ。
当然、ラインハルトはこう考える。
恨まれていないだろうか、と。
不安だ。めちゃくちゃ怖い。しかし、そうも言っていられない状況だ。
なぜなら戦争は終わってしまったのだ。
テレジアの黒魔術が異常に強すぎて、他国が頭を下げてきたくらいだ。
要約すると「もう戦争はしません、同盟を結びませんか? 賠償金も払うし、技術提供もするし、色々と優遇するんで、黒魔女テレジアを我が国に攻め入らせないでください、お願いします! 本気で!」という内容の書状と共に親善大使が何人も自国を訪れた。
大陸は平和になった。めでたしめでたし。
ではあるのだが。
目の前にいる呪いの権化みたいな存在が、ラインハルトの心を蝕んでいく。
近くで見たのは初めてだが、本当に怖かったのだ。
王たるもの威厳を保たなければならない。
謁見の間には官僚や近衛騎士、側近たちもいるので、逃げるわけにもいかない。
ごほんと、誰かが咳払いをした。
隣に立っている宰相の野郎が、せっついてきたのだ。
馬鹿野郎! 主人たる余が呪い殺されてもいいってのか! と叫びたかったが、ぐっと我慢した。
「……さ、先のルーロンド帝国の侵略戦争にて敵兵の大半を殺さず、戦闘能力を一時的に奪った上で返還したことで、より心的な被害を与え、戦意を奪った。加えて膨大な遺恨を残さずに済んだ。その効果は絶大で、敵国は敵意をなくし、結果、同盟することとなった。ほか、長きに渡る戦争での敵対勢力の迎撃にも尽力した。その多大なる功績を残した、黒魔女テレジア。よくやった。貴殿のおかげで我が国は平穏を取り戻し……たと思う」
目の前の呪物がいなくなれば、本当に平穏が訪れるのだが。
しかしその呪物が自国に平和をもたらしたのだ。
処分できるような相手でもないし、追放するのも無理。
そばに置いていたら心臓が幾つあっても足りない。
どうにか穏便にどっか行ってくれないだろうか。
しかし、テレジアがいなくなれば抑止力も国防力もなくなる。
などと葛藤していたら再びの咳払いと、宰相の睨みが思考を霧散させた。
ひくひくと己の頬が痙攣するが、ラインハルトは無理やり抑え込んだ。
「十年に及ぶ、宮廷魔術師としての任務を完遂し、自国の安寧を得るべく尽力した貴殿には、褒章を与えよう。何がよいか?」
バファリス王国では貢献度に併せて王から直接、褒賞を授けることになっている。
基本的には金品か叙爵程度のもので済む。
だが、テレジアの場合は貢献度が群を抜いているし、むしろ国王以上に国のために働き、結果を出している。
ラインハルトは思った。
どうしよう、王位を譲れとか言われたら。断ったら呪われちゃうよな、と。
だくだくと汗を流しながらもテレジアの言葉を待った。
歴戦の勇士である近衛騎士たちも緊張から表情をこわばらせていた。
戦闘の素人である官僚たちであれば尚のこと。
全員の顔が言っている。ここから逃げたい、と。
そんな中、テレジアは緩慢に頭を上げ、長い髪の隙間から二色の瞳を輝かせる。
そして小ぶりな唇を動かした。
「聖女になるべく、修道院への入会を許可していただきたく存じます」
ん? んん? 今、なんと?
ラインハルトは想像だにしていなかった言葉に、あんぐりと口を開きながら首を傾げた。
隣の宰相も同じような顔をしていた。
「……今、なんと申した?」
「聖女になるべく、修道院への入会を許可していただきたく存じます。ですが、我が国に危機あらば、はせ参じますのでご安心ください」
同じ文言に補足が追加された。
どうやら何か勘違いさせてしまったようだが、ラインハルトの頭にはそんな気遣いも、配慮も汲み取れる余裕はなかった。
聖女? 聖女だと?
「聖女とは清らかなる乙女であり、世界の安寧の象徴であり、人々を助け、救い、癒し、導くあの聖女か?」
「はい」
「各地に慰問し、怪我人や病人を助け、その身が穢れようと、心は清浄なる存在であり、慈愛の心を持って人に接する。女神シアの申し子である聖女と申したか?」
「はい。その聖女です」
ざわめきが生まれ、それは一瞬にして大きくなる。
誰もが動揺し、表情を険しくしていた。
それはラインハルトも同じだった。
声には出さない。言葉にはしない。だが、こう思った。
何を言っちゃってんだこの呪い娘は、と。
「せ、聖女? 黒魔女が?」
「そんなことが可能なのか?」
「いや、それよりなぜ聖女に? ……一体何をお考えか」
官僚たちから次々に疑問の声が上がる。
黒魔女が聖女になるなんて前代未聞だ。
双方は真逆の存在である。
本来なら重なることのない間柄だ。
「……貴殿は黒魔女だな?」
「はい。黒魔女です」
「……黒魔力を持つ、黒魔術を使う女性、それが黒魔女だ。白魔力を持ち、白魔術を使う女性である聖女にはなれないのでは?」
「私は白魔力も持っています」
テレジアは手元に白い魔力の小さな光を生み出した。
それは間違いなく白魔力であった。
確かに黒と白の魔力を併せ持つ女性も存在する。
だが非常に稀であり、しかも大体は魔力の量は少ない。
二つの魔力を持つということは、両方の才能がないというのが常識だが。
しかし目の前にいるのは災厄の黒魔女テレジア。
彼の物は災厄そのもの。畏怖の象徴。呪いの権化。
つまり、一般人の常識など通じない。
聖女になる条件は三つ。
一つ、十八歳以下の女性であること。
二つ、白魔力を持っていること。
三つ、清廉潔白な人物であること。
三つめは怪しいが、最初の二つはテレジアも満たしている。
確か彼女は十八歳。
何とか間に合いはする。
ならばバファリス王家の推薦があればできなくはないだろう。
先程までの恐怖はどこへやら、ラインハルトは思考の海に飛び込んだ。
そして数瞬後、これ、丁度いいんじゃね? と閃いてしまう。
「わかった。それでは貴殿の修道院への入会を許可する。手続きはすべてこちらでするゆえ、安心しろ。入会は問題なくできるであろう。褒賞はそれでよいな?」
「はい。陛下のご寛大なお言葉に感謝いたします」
テレジアは深く頭を下げる。
彼女のつむじを見ながらラインハルトはニヤァと笑った。
修道院が存在する聖シア教会は自治区であり、事実上の独立国家である。
他国が手出しできない治外法権の特別な国家なのだ。
つまりバファリス王国から、黒魔女がいなくなる上に、彼女には手出しができないということ。
これは一見、危険な状況だ。
弱小国家のバファリス王国から国防の要である黒魔女がいなくなるということは、丸裸になることと同義である。
しかしテレジアは自国が危機的状況になれば助けに来てくれると話した。
それはつまり平時は留守にし、必要な時だけ戻ってきてくれるということだ。
こんな都合のいい契約があるだろうか? いや、ない!
バファリス王国に籍を置いておくように仕向ける必要はあるが、黒魔女という危険な存在を自国へ置き続けることも避けたいラインハルトからすれば、これ以上ない提案だった。
常日頃、黒魔女の存在は国民や兵士たちに過剰な緊張感と恐怖心を与えている。
黒魔女関連の意見書の提出数は毎月すごいことになっているのだ。
やれ黒魔女の呪いのせいで怪我をしただの、やれ恋人に振られただの、やれ姿を見てしまったため悪夢に悩まされているだの、やれ人生が上手くいかないだの、と黒魔女が関係しているのかわからない文句まで出てくる始末。
馬車を黒塗りにしたり、黒い服を着るように指示を出したりしたのは王であるラインハルトだったのだが、それは黒魔女という存在をより強調し、他国へけん制する意味があったためだ。
つまり、テレジアに対する悪評の半分はラインハルトのせいなのだが、本人はそんなことは忘れてしまっていた。
ラインハルトは頬をひくひくと動かした。今度は恐怖ではなく、気を抜けば上がってしまう口角を何とか抑え込むために。
そんな感情を誤魔化すように玉座から勢いよく立ち上がるラインハルト。
「今、聞いた話は他言無用! 誰にも話してはならんぞ! もしも話せば、どうなるか、わかっておろうな!」
ばっと手を突き出しながら、威厳を表した。
ざわめきは一瞬にして消え去り、官僚や騎士たちが敬礼した。
満足したラインハルトは再び玉座へと腰を下ろす。
修道院入りは簡単だが、聖女になることは非常に困難だ。
黒魔女とバレないように偽装が必要だし、何より聖女見習いとして入会しても、聖女になれるのは極一部。
もし正体がバレたらテレジアは二度と修道院へ入れないだろうし、教会の治療や保障は受けられない。
まあ、ラインハルトにとってはどっちでもよいのだが。
仮に修道院入りした黒魔女の正体がバレても、被害を受けるのはテレジアだけ。
バファリス王国へ抗議の連絡は来るだろうが、問題ない。
知らぬ存ぜぬを通すだけのこと。
そもそもテレジアの力はバファリス王国で管理できるレベルではない。
それは世界中の誰もがわかっているはずだ。
テレジアがバファリス王国の国防を担ってくれさえすればいいのだから、他は些末なこと。
それに長年に渡る褒章がこの程度で済むなら安いもの、いや激安だ。
しかし。
なぜまた聖女なんかに?
まあいい。自分から出て行こうと言うのだ、これ以上考える必要はないだろう。
ラインハルトはこれでバファリス王国は真の意味で平和になると、笑みを浮かべるのだった。