29話 最強の黒魔女
「ひゃははは! 殺したぞ! 聖騎士を殺したぞぉっ!」
呪物を持つ男はユリウスに剣を突き刺したまま高笑いを浮かべる。
しかしその表情は一変する。
恍惚とした顔から怪訝そうな顔になり、やがて顔を青ざめさせる。
突き刺さっているはずの剣が下へ下へと引っ張られていったのだ。
いつの間にかユリウスの背中には剣の刀身を超えるくらいの小さな穴があった。
そこに剣が突き刺さっていたのだ。
穴が剣を飲み込んでいく。
その力に呪物を持つ男は抗えず、思わず剣から手を放してしまった。
剣は穴に……いや、影に完全に食われた。
「な、なんだ!? なんだよこれ!?」
呪物を持つ男は無意識の内に後ずさりしていた。
影はユリウスの背中から地面の方へと移動した。
一瞬で影の範囲が広くなり、人が入れるほどの大きさになる。
そこから、ずずずと音を鳴らしながら何かがせり上がってきた。
それは人の形をしていた。
しかし人ではない。
全身を影で覆われた人影だ。
しかしそこに確かに存在する。
人型の影。顔は見えず、身体の形も朧気だった。
ただ両手両足と頭があることはわかる。
ユリウスのすぐ隣にその人影は立っていた。
おぞましいほどの黒魔力。
直視できないほどの禍々しい空気。
それを纏う異形の存在。
ユリウスは言葉を失った。
先程まで感じていた呪いの鈍痛も死の足跡も、己の不甲斐なさもすべて霧散してしまう。
それほど衝撃的な光景だった。
「お、お、おい! な、なんなんだよ、あれは!?」
「し、知らねぇよ!! ば、化け物……ゆ、幽霊? い、いや黒魔術か!?」
呪物を持つ男の後ろにいた、十数人の男たちが一斉に喚き始めた。
誰もが動揺し、頬を引きつらせている。
「な、なんだろうが関係ねぇ! ぶっ殺せ!」
呪物を持つ男が叫ぶと、その言葉に呼応するように全員が武器を手にした。
「そ、そうだ殺せ! 殺せばいいんだ! 行くぞ!」
呪物を持つ男以外が武器を手に人影へと迫る。
人影はその場から動かず、緩慢に右手を正面へと伸ばす。
そして人差し指を立てると、指先から黒い水滴が零れ落ちた。
それが地面に落ちると黒い点が生まれる。
黒い点は一瞬で膨らみ、人の頭ほどの球体になった。
球体はゴロゴロと転がり、迫りくる男たちの方へと向かっていく。
「な、なんだありゃ!?」
「あんなの無視しろ! あの人影を殺せばいいんだよ! 教会の連中は全員殺れ!!」
球体の目の前まで迫る男たち。
その刹那、球体が巨大化する。
横を素通りしようとしていた男たちを全員飲み込んでしまった。
「な!?」
声を漏らしたのは唯一無事だった呪物を持つ男だった。
球体は半透明で中の様子が見て取れた。
中で苦しそうに喘ぎ何やら叫んでいる男たち。
内部は水のようで、もがいている様子が見えた。
まるで地獄。
呪物を持つ男は恐怖に震え始める。
球体はまるで楽しんでいるかのようにうねうねと動き続け、やがて男たちが動かなくなると満足したのか、綺麗な球体の形になった。
そして徐々に縮小し、そして地面に吸い込まれるようにその姿を消してしまう。
完全に消失した。
球体も十数人の男たちも。
呪物を持つ男はわなわなと震え、人影に向き直る。
先ほどと同じ姿勢のまま、佇んでいるだけだった。
だが呪物の男は明らかに怯えている。
それはそうだろう。
こんな怖ろしいことが目の前で起きて、動揺しない人間はいない。
それはユリウスも同じだった。
先ほどまでうつぶせになって地面に伏していたユリウスだが、呪いの効果が薄まったのか、地面に膝を立てている状態になっている。
まだ立ち上がる力はないが、状況を目にすることはできた。
現実とは思えないほどの異常な光景。
それを見て、ユリウスは気付いてしまう。
隣の人影が誰なのかを。
「ひ、ひひひひ、ひひひっひひ! お、おまえ……お、俺の仲間を全部食っちまいやがったな!? ば、化け物が! こ、ここ、殺してやる。呪い殺してやるからなぁッッ!!」
呪物を持つ男は手にしていた小箱を目の前に掲げる。
黒い魔力を発しながら呪いが発動した。
禍々しい気配は人影へと迫る。
呪いは条件を満たすことで発動し、対象は逃れる術がない。
ゆえに強力で厄介な能力でもある。
それを知っているのか、呪物を持つ男は勝利を確信しニヤリと笑った。
どんな相手でも呪いには抗えない。
そう思ったのだろう。
しかし何も起こらなかった。
「……は?」
人影は悠然と佇んでいるだけで何もしていない。
呪物を持つ男は、手元の小箱を何度も確認していた。
呪いは発動している。
だが人影には何も起こっていない。
「ど、どうなってやがんだ!? な、なんで呪いが発動しねぇんだ!? あ? あ……あ、ああああ、あがああああ!? がっ……がはっ!?」
呪物を持つ男は突然、自らの喉を手で押さえ始めた。
苦悶の表情を浮かべ、唾液を垂らしている。
痙攣しながらその場に倒れた。
「呪い返し」
人影が喋った。
その声は人のものとは思えないほどくぐもっており、男か女かわからなかった。
「呪いは正しく条件を満たせば発動する。しかし発動条件を間違ったり、発動したにもかかわらず対象を呪えない場合、行き場を失った呪いが所持者や術者へ戻ってくる」
「が……な、なぜ……そんなことが……お、俺は……正確に呪った……」
「あたしは呪えない。耐性があるから」
「そんな……人間……いるはずが……や、やっぱり、化け……物……。だ、だが……こっちには人質が……ひ、ひひひ……ざまあ、みろ……」
呪物を持っていた男は小箱を離すとそのまま意識を断った。
人影は男に近づくと男の胸元に手を添える。
淀んでいた空気が僅かに澄んだ気がした。
恐らく、呪いを治療したのだろう。
人影は影を出すと、そこに呪物を持っていた男を沈めた。
ユリウスは一連の人影の行動を見て、やはりと確信する。
立ち上がろうとするも身体が動かない。
ユリウスは人影に向けて必死に叫んだ。
「ベロニカさんが人質に! 森の方へ連れ去られました!」
人影は一瞬だけピクッとすると、そのまま地面に埋もれるように影に吸い込まれていった。
すべて消えてしまった。
男たちも人影も、何もかもが。
残されたのはユリウス一人だけだった。




