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森での収穫〜魔法の演習

 俺はどうにもならないと知っていながら、それでも最後はどうにかなると信仰していた。その思いが届いたのかどうかは分からないが、今のところは星奈さんとの関係を保てそうだった。彼女は複数の男性から争奪戦になっても良いほど良い女性である。まあ俺と彼女の関係に男女は無意味であり、哀れむ人と哀れまれる人のそれなのだ。彼女は俺に幾つかのものを渡していた。その中には袋や財布や地図や食料に方位磁針のようなものも含んでいた。これらフル装備で俺はパトモスの森に来ていた。今まで問題にしていなかったけどパトモスって聞いたことあるな。それは偶然として片付けておこう。偶然は案外重なるもので、他国の王の名が日本語の意味で卑猥に聞こえることも俺の生まれた世界ではあったのだ。神の存在を認識するべきか、単なる偶然として片付けるべきかは人々の信仰によるのである。

 ところで俺は冒険者ギルドの身分証を受け取っていた。数日もかからず翌日には受け取れた。顔写真は貼られていなかったが、小さなカードのような形でおそらく俺の名前が書かれてあったのだろう。星奈さんに聞いて、どこが名前か把握していた。俺のこの世界での名前は東魔法ということになるが、漢字という概念は消失しているようなので、ヒガシ・マホウということになる。まあどこか残念な響きな気もするが、本名で活動するより身を隠せる気がして都合が良い。知られたところで何もないのだが……

 俺はかなり高い木に右手を当てて壁ドンの姿勢で立ち尽くしていた。星奈さんは近くにいなかった。こういう時彼女がいてくれないと危険を回避できないんだよなあ。と思いつつ、一人の時間を精一杯楽しめと言われているような気もした。俺の手元には袋があり、そこに薬草を入れているのであるが、どれがそれか見分けをつけるのは案外難しい。だから適当な雑草も混ざっているはずなのだが星奈さんが選別してくれるだろう。それは勝手な期待と言うところか。

 上を見ると木漏れ日がキラキラしていた。時間帯で言えば午前中の昼前といったところが。太陽は出ていて、雲の隙間をすり抜けるように日光を降ろしていた。中々気持ちいい採集日和と言った様相を呈していて、俺は星奈さんが戻ってくるのをただ待っているだけではいけないと思っていた。しかしそれ以上何ができるわけでもなく時間は過ぎていく。指示待ち人間である俺は自分の行動を自分で決めるのが難しかった。恥を晒して生きているな、と思いつつこれを俺の主人が見ていたらすぐに叱りつけるだろうと思った。俺の本当の神はどこにいるのだろう。なぜ神は隠れることを望んだのだろう。前の世界にもこの世界にも神の威力は確かに示されているはずなのだが、無神論が一定の勢力を誇るほどには神はその姿を見せないのだ。恥ずかしがってないで出てきてください。俺は見えるものも見えないものも同じテンションで信じます。その思いは中々通じないのだった。右を見るとそこに小さな鼠のような生き物が走っていた。俺はそれを捕まえる方法がないかと考えていた。

 そんな都合の良い方法などないのだ。或いは魔法に頼るべきなのだが、俺の魔法の全てはタルマードさん由来のタガラアハーなのだ。それもチロチロと灯火を繰り出す程度で破壊力など微塵もない。まだ何かを燃やした実績はなかったが、少しは人の心を動かすことの出来る可能性に俺は喜んでいた。人と人との結びつきが仕事を生むのではないか。まあ一人黙々一つのものを作り続ける職人という人生もあるが、俺は彼らに対する無条件の尊敬を抱くほどに手先は器用でなかったし、頭はそれ以上に不器用だった。悔しくてたまらないがその気持ちをぶつける先がないのだ。そうやって歩き出す。星奈さんはどうやら俺の位置を把握する方法があるのか「待ってなくてもいいですよ」と言ってくれていた。ではお言葉に甘えてということで、森の中を散策する。こういう時に俺を一人にするのは虐待では? と謎の憤りに近い感情を想像してみるが、実際のところ怒りは湧いてこなかった。死ぬ時は死ぬ身として、今生きられている全てに感謝すべきだった。苦しまないように生まれてきたかったが、あの両親の子供としては不可能だったかも知れない。遺伝が悪いのだ。環境が悪いのだ。そんなことの繰り返しでは何も前に進まない。俺は常に前進していなければならないのだ。それは信仰を深めるという意味で言いたかったのだが、その度に神は俺の前に試練にならない試練を分厚い壁として立ちはだかせる。越えなくてはならないわけではないのだとして、引き返すのだ。後ろ向きに進んでいるのも前進の一端を指すのではと、言い訳を考えているのは情けない男の性分であった。

「東さん、見てください。こんなに集まりました」

 星奈さんが俺の目の前に急に姿を現して、袋の中身を見せた。そこには俺が集めていた草木の類の数十倍と推定される薬草の塊が見えた。はい負けました。そうやってすねるから俺はいつまで経っても成長できないのか。女に仕事で劣る男に生きる価値などあるのか。全ての人間は生きるべきなのか。本当の意味で生きるべき人間は神の子であるイェーシュア以外いないのだが、神の愛は全ての人を覆うのだ。その後人々は篩にかけられていく。生きる定めか死ぬ定めか、永遠を隔てるものは神の光によって明らかにされるだろう。闇の中を生きているものは闇に還る。光の中に生きているものはさらに強い光を見る。俺の命は今は光に灯されているが、いつまで続くか分からなかった。月を見上げている時、それを同じ時に見ている人と同じ方向に歩いていけるだろうかとも考えるのである。神は太陽、月、惑星、星座のいずれも配置したのである。初めからそこに置いたのか、それともそこにあるように調整が効くようにビッグバンを起こして、後で辻褄を合わせたというのか……思えば世界は非常に複雑で多重構造になっているところが、破綻することなく存在し続けている。これは神の存在を暗示するものというだろう。セロやセロズなどという偽の神には不可能な芸当なのだ。神は全ての構造の造り主であって、それを管理しているのがたとえ悪魔であったとしても、神の偉大さに乗っかっているだけだというのは明らかなのだ。

「沢山集まりましたね」

 俺と星奈さんは帰りの馬車の中で並んで座っていた。彼女の顔を見ると満足そうに晴々としていた。美しいとはこのことかな。働く女性は格好いいのだ。働く男は当たり前なのだ。それでも当たり前のことを当たり前にこなせる人には祝福があるだろう。善行とは途方もなく難しいことではなく今自分にできることの全てなのだ。それを全て逃げずにこなせば誰でも聖人になれるのだ。カトリック教会が認める人が本当に聖人かは定かではなかったが、俺の思う聖人は有名ではないのだ。人知れず死んでいく善人ならざる善人を神は報いると思うのだった。ただし行いを積めば人は知られるようになるというのも一般的な規則のうちだった。俺が信じているところでは、全ての人は罪人だが、同時に善人の芽もあるのだ。それを育てて果樹に仕上げて実をならす人が本物だと言うわけだ。俺は以前の世界で自分の行動によって社会を変えようとしている女性インフルエンサーの存在をテレビ番組を通して知ったのだが、社会は絶対に個人でも集団でも変えられないと思う。結局変わらない或いは変わる自分が確かに存在するということを示せるに過ぎないのだ。そうやってグラデーションの一部として社会に浸透して自分の行き場に還っていく。それだけで素晴らしいことだと思う。

「明日はどうします? 私からも東さんに魔法を教えましょうか?」

 既にシゾアレドの街で馬車から降りていた俺に彼女はそう話しかけた。

「そうしてくれるとありがたいです」

 俺はそう答えて彼女と一緒に歩いていた。食事をこれまでに何度か済ませていて、俺はまだお腹が空いていないながら、何か食べておきたい気持ちになっていた。それを伝えるかどうか悩んでいる時に様々なルーツを持つだろう人や人ならざる者にすれ違って、人間の構造は果たして全員同じものと言えるのかと考えていた。前の世界では高校生は毎年入れ替わり三年に一回は一新されるはずなのに、甲子園の野球少年たちは毎年熱戦を繰り広げていたし、自動車教習所は潰れることなく新米ドライバーを送り出していた。人間はできることが並行しているのだと言葉にしていた。人にできることは自分にもできる。そう言う気づきと共に人間社会は回っているのだ。しかしプロの中のプロには絶対なれないような壁があったし、同じ職業の中の比較はできても職業が違えば全く業務は変わるはずなのだ。しかし全ての仕事は必然的に似ているような気がした。一つの仕事ができれば同時に十の仕事ができるのだが、一つの仕事ができなければ同時に十の仕事ができないのだ。この意味で多様性に満ちた仕事空間で多才であったり二刀流であるという場合には、根本が違う二つのものの取り合わせを要求すると思うのだ。俺は満足に働ける肉体や頭脳ではなかったが、それは同じことを続けることの難しさに苦戦していたからかもしれない。今日できていてことが明日にはできないだろう不安に襲われるのだ。実際にはそんなことはないだろうが、劣化していく自分に責任を取らせたくないのだ。どんな試験も最早俺が受ければ落第確定だった。運転免許も今となっては至難の資格だろう。それだけ俺の能力は低下し続けていたが、単に自信を失っているだけだろうか。俺は星奈さんに満ちているような自信が欲しかった。彼女にも自信はないかもしれない。それでもこの世界でなんとか生き延びている。サバイバルに成功するというのはそれだけで祝福だと思うのだ。俺は彼女と共に生きるだろうか。彼女の心を救うことができるだろうか。言葉を持って人の心を動かすというのは本当に難しいことなのだが、永遠に側にいるという誓いを立てて時間差で死ねるほど俺の精神は強くない。弱いところに強さがあり、強さは弱さを孕むのだと、誰かが言いそうな言葉を考えていた。

「ヒガシくん、セイナと依頼をこなしに行っていたんだって? どうだった? 初めての感じは」

「俺は大山さんがいなければ何もできないという感じでした。独り立ちできれば理想なんですけど現状に甘んじて彼女の庇護下に置かれているのも心地良いという思いを捨てきれなくて」

 タルマードさんと冒険者ギルドの入り口近くで話していた。星奈さんは中に入って掲示板を見ていたように思う。俺の仕事を探してくれていたりして。それは希望的観測だったが、俺はタルマードさんと魔法の特訓をするんだった。星奈さんも手助けしてくれるのかな。どっちでも良いのだが、先生と生徒の関係が続くといつか卒業という時を迎えそうで寂しかった。それはそれで祝福なのだと受け入れるべきだった。タルマードさんはどうやらシゾアレドに広い家を持っているようで、そこで俺に魔法を教えてくれるとのことだった。魔法にはどんなものがあるだろう。俺が想像するのは火や水や氷や風や土や、人の心を動かしたり未来予知したりなどありきたりな一式しか思いつかなかった。魔法というものは何を起源としているのだろうと想像してみたが、何かの言葉ではないかと結論付けようとしていた。この世界にはどうやら魔法語という日本語とは別の言語体系があるようで、その意味を把握することはできなかった。意味ある音というものがあって、それが魔法を繰り出す原動力になっているというのか。

「では東さん、行ってきてください」

 星奈さんは右手を胸の辺りまで上げてそれを左右に振っていた。永遠にさようならというわけではないはずだが、彼女との時間が途切れてしまう。まあまた夕方か夜には再開するはずだし、食事は星奈さんのお金と責任で食べているようなものだからすぐ再開するはずだった。俺はタルマードさんに連れられて、彼の家まで歩いていた。それまでにどんな会話をすればいいか分からない俺はとにかく黙り込んでいた。彼は魔法使いとしてはどれほど優れた人物だというのか。想像もつかない。魔法使いというのはどういう人物を指しているのだろう。単に魔法を使えれば魔法使いだというなら俺は既に東の魔法使いだった。東魔法の次回作にご期待ください。というような話ではなかったのだが、魔法語を覚えれば良いような気はしていた。俺の記憶力が耐えてくれるかな。それとも日本語が混ざっていて覚えやすいとかいう偶然の幸運が紛れ込んでいないか。

「ヒガシくん、これは僕からの贈り物なんだけど、君にお下がりの杖をあげるよ。もうだいぶ古いんだけど、まだまだ使えると思う。新しいものに乗り換えていたから持て余していたんだよね」

 タルマードさんはそう言うと俺に木の杖を渡した先の方には宝石のような物体が埋め込まれているようだった。ここで魔法を使えば危険極まりないなと思って周りを見るとタルマードさんの居間らしきところだった。俺はもう彼の家に入っていて、歓迎を受けていた。使用人らしき人はいなく、そこそこ綺麗にされているが埃が完全には無くなっていない空間だった。早速魔法の訓練と行きますか。そう思って、唇と舌を動かして無音でタガラアハーと表現してみた。気持ちは十分だったが何も起こらない。それは当然か。

「この家には魔法を使いやすい部屋があるから、そこでいくつかの魔法を教えるよ。昨日教えたのは覚えている?」

「タガラアハーですよね」

「そうだね。今は杖は持たないでね。というより構えないでね。僕の家が炎上したら周りの人にも死人が出るかもしれない」

「杖って使い方によっては危険なんですね」

「そうだね。だから普通魔法学校に入学しないと手にできないし、卒業しないと自分のものにもできない」

 このたとえ方があっているか分からないが場合によっては拳銃のような扱いを受けるだろう。この世界観のもとで火薬が存在するか、銃などが流通しているかは謎なのだが、俺にとって不思議なことは銃は必ず発明されたものなのかと言うことである。歴史の中で必然的に生まれてきたものなのか、それとも偶然の産物であの時発明者の一人でも欠けたら現代の軍事に銃はなかったと言うのか。どちらでも構わないような気はしない。歴史というのは予め定められているし、計画されていた通りに行われていく。神の壮大な意志の下にあって、何事も想定外はあり得ないのだ。だから救われる人間は初めから決まっているしその人数は多いとは言えない。それでも十分大勢の群衆が俺の主を讃えるだろう。どの立場であってもである。王の王、主の主となって再臨するのである。再臨がどうも遅れているということは俺は許したくなかったが、それが神の決定であり確かにそこにある世界がそこに止まっている時点で神を讃えるしかなかった。終わりの時は父である神以外には子も神の子らである天使も知らないのだ。

「じゃあ、杖を構えてメメンディスコーって言ってみて」

「メメンディスコー」

 すると俺の前に土塊が現れた。これが第二の魔法ですか……そう思いつつ、その小さな粒を手にとってみた。するとすぐに潰えて音も立てずに消え去った。

「これを前に放つときは、ヘール・メメンディスコーっていうんだ」

「ええとヘール・メメンディスコー」

 俺の目の前の無機質な壁に弾丸のように土塊が放たれた。なるほど、拳銃代わりになるのか。それは使えるな。そう思った。俺も前の世界でそう言った危険物を手にできていれば仕事を得られたかなと考える。実際には越えるべき壁が多すぎて難しいだろう。ヘール・メメンディスコーか、なら応用でヘール・タガラアハーだな。そう思って、小さく呟いてみた。小さすぎて反応してくれなかったようだ。

「おいおい。あんまり勝手なこと言わないでくれ。この部屋はまあ魔法の訓練用に設計されているから安全だけど、そうじゃなかったら黒焦げだったかもしれない。俺の言うことに基本は従ってくれ。プロの言うことを聞きなさい」

「分かりました。すみません」

 俺はとりあえず謝っておいた。それほど後悔はしていない。後悔するほどの結果も伴わなかったが、場合によっては放火殺人で死刑になってもおかしくないのだ。俺は死刑になった方がまだ気分が良い人間であったが、いざ死ぬとなれば目一杯反抗してしまうかもしれない。タルマードさんは他にもサアグーという氷の魔法を教えてくれた。これがあれば冷たい飲み物が飲みたい時は冷蔵庫いらずだな。いやそんなくだらない目的のために魔法があるのではない。もっと崇高な所業のはずなのだ。なぜ俺には魔法の才能が僅かながらにあるというのか。全く何もなければ全てを呪って死ねたのに。これでは中途半端に生きなくてはいけないぞ。まあ天国への近道は祈り働くことだと思うのだ。自殺の苦しみを通過儀礼にしてはいけないのだ。俺は死にたくても死ねない男なのだ。かつては女であれば良かったのにと思うこともあったが、女であれば尚更耐えられない世の中だと思う。それは前の世界のことで、その延長として現世のことも指している。神はなぜ俺をこんな目にあわせるというのか。星奈さんに愚痴を聞いてもらいたかったが、あくまで俺は自分の神に完全に信頼をおいているという体でなければ彼女が信仰に入る可能性は一つもなくなるだろう。自分が満足に信じられない相手を人にも信じさせようというのは傲慢なのだろうか。それでも俺は完全に俺は俺のいうことの方が正しいという確信の中に生きていた。星奈さんが何を言おうと神の前で義であるのは俺だというのだ。神様は俺の主張を受け入れるだろう。それは星奈さんが俺から信仰を獲得するまでの間だと本当は言いたかった。夫婦になれば一人の人間として俺のために彼女も清められて天国行きの資格を得られるだろう。この世の多くの人を救うために多数の女を娶るという考えは悪の動機付けだろうか。いや素晴らしい計画だと言われるかもしれない。自信はないのだ。俺はどうすればイエスを喜ばせられるか知らない。神の命令を守ろうにも神は俺に何も命令していない。強いていうのであればこっちに来いというのだ。では神よ。どうすれば良いのですか。知るか。自分で考えろ。とでも言われるのだ。いいえ。あなたの方がよくご存知です。と言えば教えてくれるだろうか。

「東さん、今日はどんな魔法を習ったんですか?」

「ああ、土の魔法と氷の魔法くらいでした。後はそれを上手く繰り出せるように反復練習という感じです」

「そうですか。順調ですね」

 彼女は俺の前で笑っていた。食堂で食事を摂っていたのである。俺は彼女の笑顔に満足感のある一日である気がして、とても気分が良かった。いや俺は満ち足りてはいけないのだ。あくまでも不満に満ちて死ぬのが俺なのだ。そう言いつつ、彼女が珍しく肉のようなものを口に入れるのを見つめていた。俺はというと今度は野菜を食べていた。立場が逆転したようだったが、今は重いものを腹の中に入れる気がしなかったのだ。こういう時に野菜というのは役に立つ。そう思って、彼女にメニューを聞いてハラケイルという名の野菜だったなというのを思い出した。

 俺はタルマードさんから貰った杖にタルマードの杖という名前とも言えない名前を付けて携えていたのだが、それを星奈さんにも見せていた。彼女は「本当は駄目なんですけどね」とヒソヒソと話した。まあ俺は東の魔法使い故に、タルマードの杖の携帯を許されるのだ。そう自分に言い聞かせるようにして、俺はあくまでも信頼されているという安心感の中で、軽く違反を犯そうと試みた。彼女に向かって何か軽く魔法をかけてからかってみようかと思ったが、思いのままとどめた。これは少しストレスのかかる我慢だったように思う。俺もたまには暴れたい。まあ彼女のことだから、自分の身を守る手段は幾らでもあるだろう。そう思って、今度パトモスの森辺りに行った時に精一杯解放しようと思った。肉体と精神を解き放つことをテーマにしようとしたら、これ以上優れた手段もないのではないか。少なくとも俺にとって、まあステージ上で力の限り踊るなどというのは恥ずかしいし力量が不足しているところから来る不都合のため遠慮しておきたかった。星奈さんはどうやって休日を過ごしているのだろう。そもそも人間は働くだけの生き物ではなく、休日の過ごし方でも善し悪しがあると思うのだ。自己研鑽に励むもの、だらけて一日を終えるもの。まあ自分の人生なんだから善いも悪いも自分が振り返って決めるところなのだが、俺は常に忙しさが苦手だった。のんびり生きていきたいのだが、それが許されるのは学生時代までなのだ。後は執行猶予中の身。罪悪感を抱えて生きていくのだが、一月のうち一日でも働けば気分は違うだろう。それでも一度働き出すと止まらない人間の円環に囚われそうな気がしていた。そこから抜け出せたものを成功者と呼べるのかもしれないと考えていた。つまり、同じ労働の一日の繰り返しから抜けて人生をクリアする。それには十億円くらいの利益を一度上げなければならないような気がした。現代では会社勤めでは人生をクリアすることは困難で、生涯現役時代まで迫っていた。まあ年金暮らしで一生を終える人がほとんどだから、人生というのはある意味では簡単なものなのだ。ほとんどの人にとって実は人生というものがイージーモードである中で、相変わらず俺にとってはハードモードだった。共産主義社会でも働かなければならないのだからどうにもならない。俺は共産主義は理想論としてはありだったが、現実としては官僚による富の独裁が許せなかった。市民に苦しい生活を強いて指導者であるスターリンなどが裕福に暮らすのは理不尽だと思うのだ。そのような人物が天国を受け継ぐのはおそらく難しい。不可能かどうかの断言は俺には許されていない。全ては神の決定なのだ。

「ヘール・サアグー」

 俺は誰もいない空間でそう言って杖を振った。すると氷の煌めきが杖の先から放たれて、空気を切り裂いてその場を冷やしていった。なんか美しいが、俺はこれをどう命に変えていくべきかと考えていた。魔法の氷によって生きる術があるというのか。それは分からなかった。ただ一人になれているということに神との時間を二人きりで過ごそうという時の演出としては高尚すぎたかもしれない。あとはヘール・メメンディスコーを猟銃代わりに用いれば完璧だな。と頷いてその場に座り込んだ。見上げた時には空が暗くなっていた。遠くにはこの都市シゾアレドの王城が佇んでいた。俺はやがてそこに行くだろうか。王宮魔術師になるというのも悪くはないな。そう考えつつ、杖を振っていた。この世界の既得権益のような魔法使いの有り様を想像して、無限に広がるかもしれない俺の生き方は果たして俺の能力の限界によってどこまで制限されるのだろうと思った。どこか世の中が静かに沈みきっている雰囲気がする中で、俺はどう立ち上がっていけば良いのか。この世界の中でキリスト教を広めるというのは夢のまた夢なのか。いずれにしても、俺は自分の信仰を守り抜くつもりでいた。俺の信仰が問題視されて死刑を宣告されようと、俺は強く信仰を告白するつもりだ。その様子を見て俺の神を信じるものが出てくるかもしれない。それはあくまでも希望的観測だったのだが、晴れて聖人になれるのだ。いうことはない。ペトロもパウロも喜んで死んでいった。そこに俺が加わるというのはどんなに素晴らしいだろう。自殺願望もあるのだが、それが全てではない。現に俺が生まれた世界でもパキスタンなどはキリスト教の迫害が激しかったと聞いている。キリスト教が禁じられた世界など俺には考えられない。日本も鎖国時代には踏み絵などで信者とも言えない信者の炙り出しを行っていたようだから無関係ではない。しかし俺は日本人を代表していないし、日本人でいるつもりはないのだ。結局のところ、俺は俺であるというのに過ぎないし、実際問題日本国籍を生まれ持っていたというだけなのだ。だから日本人になることは難しいことではないのだが、世の中の外国人の中には日本人になりたくてもなれない例というのは幾らでもあるだろう。俺は自分の命の特権とも言えるその資格をありがたく行使してきたのだ。実際国から支援は受けられていたし、それが生涯続くものではないにせよ神に感謝できるほどには文字通りありがたいことだったのだ。人生何があるか分からない。この後にもっと良いことが起こるかもしれない。しかし俺にとっては悪くなる一方だと思えたのだ。後はここに魔法書のようなものがあれば、しかも文字が読めれば独学で魔法を使いこなせるようになったはずなのに……そう思って人生は取り合わせがうまくいく人といかない人がいるものだと言い聞かせるようにした。タルマードさんも星奈さんもそれらしきものを持っているとは言っていなかった。もしかすると図書館にはあるのかもしれない。人生勉強かな。星奈さんに習って文字を読めるように努力するべきか。それは或いは俺が楽譜を読めるようになる程には難しいことかもしれない。自学自習に復習の時間を終えて、一日の過ごし方を見直そうとしていた俺は今日はどこにも帰る気が起こらなかった。たまにはこうして夜を明かすのも良いかもしれない。そう思って、空を見ると大きなほぼ満月が上っていた。この世界でも月は一つなのかな、そう考えて月に向けて杖を伸ばしていた。

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