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冒険者ギルド

 どうすれば神に愛されるだろうと考えていた。神を愛するとは神の命令を守ることなのだそうだが、俺にそんなことができるのか。世界を見渡しても自分勝手に生きている人に溢れた世の中で、自分は神に愛されているし神も自分を愛しているという関係になるためには穏便な日常生活を続けるか、激動の渦に巻き込まれるかの二パターンがあるような気がしていた。

 俺は星奈さんの後ろについて歩いていたが彼女は俺の神に愛されるだろうか。俺が愛する人を神が愛するというのなら俺は彼女を精一杯愛する考えだ。それは単に子供を作らせるとかいう短絡的な発想のもとにあるのではなく、どんな時でも彼女の側に立とうというのだ。まあ俺が擁護しなくても廻る世の中だとは思うし、経済的に支えるのは困難なのだ。俺より働く才能がない人がいたら名乗り出てほしい。俺は絶対に現世では働かないと誓っていた。無理なものは無理なのだ。

 その代わりと言ってはなんなのだが、死んで蘇った暁には永遠に働くと誓っていた。神が俺を働けるようにしてくれるに違いないのだ。或いは救われた時の救われたままの永遠を送れるのだとしたら、俺は学生のままだった。それはそれで望ましい生き様なのかもしれないのだが、俺が望むのは自立自存だった。しかしながらイエスに服従するという前提の上だったのだが、キリストとはどのような職業だというのだろう。安息日を破ったと言われた時、彼は罪人や病人を癒していた。奇跡の力によって、人々を救っていくというのは素晴らしかったが、あくまでも善意の行動で金を受け取ろうとはしなかったのではないか。まあイスカリオテのユダが会計担当だったようだから、献金は受けていたのかもしれない。

 俺も献金で生計を立てられるようになったらどんなに良いだろう。星奈さんと二人で教会でも建てようか。結婚した男女は一人の人間なのだ。またパウロの発言などからしてもセックスした男女は一つになるのだとか。残念ながら俺は最早子供を作れるような下半身ではなかった。思うように張り切ることはできるのだが、出るものが出ないのだ。虚しく波打つ男根は乾ききり、静かに萎えていく。俺は子供が欲しいと思っていたが、子供は俺を親には欲しくないだろう。セックスは結婚した男女の特権だと信じているし、子供はその神からの祝福だと信じている。だから人工妊娠中絶は殺人だし罪であるとは思うのだが、そもそも中絶するようなカップルの子供ははじめから生まれてくることが幸せではないのだ。その意味で中絶に対して俺は積極的に反対できない。そもそも俺は両親が勝手に生んだために今苦しんでいるのだ。その苦しみというのはどこか偽善な響きがしたのだが、普通に生きられない、普通に幸せになれない人生などはじめからなくても良いのだ。とは言え俺はイエスと婚約している花嫁のような立場なのだ。その意味で不幸なものは幸福に、幸福なものは不幸になるのかもしれない。

 現実を見てみれば何も思い煩うことなく幸せに生きる人もいれば苦しみを抱えている人、突如通り魔に襲われて命を落とすという人はニュースで見ることがあった。俺はそのうちのどれにも当てはまらない不幸な人の代表例なのか、或いは両親が生きている間は幸福なのか、一つの試金石としたかったのは小説を書けるか否かということだった。2020年には俺は小説を書けていた。小説家になろうに投稿したもの、非公表だったもの合わせて代表作が三作品ある。神の目には留められていると期待しているが、期待通りの神でないとも知っている。神は愛なる神だとはいうのだが、無条件で人を愛するわけではないのだ。ただイエスの死と復活を信じるものを正しいと宣言して、主と告白する者を自分の養子にするというのだ。俺は神との関係は深まったり離れたりを繰り返しながら信仰を獲得してきた。2021年の5月には神に「神は光は見せないくせに信仰は求めてくる痛い奴」だと心の中で言った。するとその夜に神は俺に白い光を見せてくれた。それ以来俺は多少の誤差はあれ神のことを愛している。なぜならば神が俺のことを愛してくれたからだった。それ以来神は俺の言葉を聞いてくれているのか分からない。一度俺の祈りに応えたきり音沙汰なしだ。それでもいいのだ。イエスの気持ちも俺が信仰を持つことを良しとしているのだ。

 星奈さんは左右が赤い屋根の建物が連なる太めの路地を進んでいた。影が建物から伸びて、太陽を俺の視界から隠していた。多少ずれて歩いてみると、前の世界より少し大きいような、いやそうでもないような太陽が輝いていた。あまり見つめると視力に影響する。俺は高校時代は目が良い方だった。今では相当悪くなっている気はするが、運転免許の視力検査には引っ掛からなかった。だから一般には普通の視力の持ち主ということだろう。左右で違うのだが、それはそれで不便はない。俺はどうせ片目で生きることはないのだ。

「大山さん、今はどこへ向かっているんですか?」

「東さんが言っていた冒険者ギルドです。もう少しで着きますよ」

「ありがとうございます」

 なるほど冒険者ギルドか。どんな仕事が待っているだろう。キノコ集めとかかな。ドラゴン退治など定番かもしれない。とは言え、俺はなろう小説はあまり読んでこなかった。無職転生は最初から最後まで読んだ初めての小説でとても面白かったのだが、内容は段々と忘れていった。今思えばあれを読んでいる高校一年生の時間が俺にとって一番幸せだったかもしれない。それは大袈裟か。でも一つのことに没頭できた経験はほとんどないのだ。主人公がルーデウス・グレイラットで、主人公の親父がパウロという名前というくらいまでは覚えている。後一夫多妻制を導入していて、ロキシーとエリスと後シルフィみたいな名前の女の子三人と結婚していたはずだ。俺は男性は養う金がある限り何人の女性と結婚してもいいと考えているから、現在のカトリック教会やプロテスタントが結婚を男女二人のものとしていることには疑問を持っている。ソロモンは千人の妻と側室を持っていたという。その父ダビデも複数の妻を持っていた。

 神は男女は二人の結婚だけを許してきたわけではない背景には男性と結婚できない女性を取り巻く危機的な状況があるからだとかいうのだが、妻は金がある男性の所有物のような扱いを旧約聖書の時代には受けてきたのだ。俺は結婚するなら一人の女性ととは思わない。俺の好きになった人に全て俺を好きになって欲しいと思う。将来天国で結婚する機会があればもっと多くの妻を求めるかもしれない。死者の中から復活する時は娶ったり嫁いだりすることはないようなのだが、それは第二の復活が起こる最後の審判の後の話で、第一の復活が起こる千年王国の頃の話ではないだろう。俺はできるだけ多くの女と寝たい。それは経験としてである。永遠にではない。現実にできないことを死後の至福直観のうちに求めることがどうして悪いと言えるのか。ただし俺は彼女らを養うために働かなくてはならなくなる。神は俺にどんな仕事を与えてくれるだろう。俺はできれば数学者などになりたいと考えている。大学も数学科を出たのだが、大学院の頃に挫折し中退に追い込まれてしまった。物語の続きを描かせて欲しいのだ。そこで出会った友人たちは皆んな上手くいっているのに、なんで俺だけ。そう思うほど辛くなるのだ。それでも苦しみに身を置いているわけではなく、楽な方へと逃げていく。悲しみや辛さを先送りにしているだけだと言われたら何も返す言葉がない。俺は精一杯生きることができない身体と頭脳の作りなのだ。どうすれば良いかはわからないが、現状に甘んじることしかできなかった。俺は将来の運命を受け入れるべく餓死に挑戦したが失敗に終わった。いや、厳密には挑戦中なのだ。極力食事の量を減らそうとしても、食べたいという脳の欲求には敵わなかった。罪悪感のもと脳と心を満たしているのだった。身長が170センチメートルに対して体重が50キログラムくらいだった。働かざるもの食うべからずとは理想論であって、働けないものは生活保護を受ければ良いのだ。しかし俺は親の死後生活保護の申請を一人で最後まで通せるとは自信がない。だから罪を犯して刑務所に入ることが必要かもしれないが、それすら上手くいかないかもしれない。まあなんと言おうとなるようにしかならなかったのだが、別の世界まで来てしまった。

 結局問題の先送りではないかと感じていた頃星奈さんは歩いていた。そろそろ立ち止まるんじゃないかと予見していた。というのも武装した人々の集団が歩いたり馬車に乗っている様子が見てとれたのだ。これが冒険者ギルド方面から出てきた人ならきっと目的地は近い。俺にはどんな仕事ができるだろう。将来の夢はなんだったのか。思えば夢のない生き方をしてきた。小学生の頃も中学生の頃も高校生の頃も大学生の頃も働いている自分が想像つかなかった。それでもなんとかなると思って生きてきた。それが初めてどうにもならないと感じたのが大学院生の頃なのだ。俺は何を呪えば良いのかも分からないまま両親に受け入れられて実家暮らしをしていた。これからは一人か二人か或いはもっと多くの人とチームになって生きていくか。死んだほうがいい気がする。ただ、俺が死んだ方がいいと思っているうちは生きている方が修行になる気もするのだ。キリスト教には修行によって天国に行けることはないが、神との関係性は発展できるはずだった。しかし俺は塔に登ってそこで一生を終えたという所謂聖人が本当に神に愛されていたとは言い切れない。結局彼は自分勝手に生きて自分勝手に死んだのだ。信仰を保って死んだという人もその信仰が本当に神の前に正しかったかというのは神のみぞ知るのだ。だから「誰が天に上るか」と言ってはいけないし、「誰が底なしの淵に下るか」と言ってはいけないのだ。これはローマ信徒への手紙の十章に書いてあることだ。

「ここです」

 そう言って星奈さんが立ち止まった。そこには看板に何やら書いてある煉瓦か何か造りの建物が立ちはだかっていた。そこに出入りする人たちが何やら話しながら自分の世界に浸っているような姿形をしていた。剣を背負っている人もいれば、斧を手に持っている人もいる。人なのか亜人なのかは定かではない。エルフやドワーフもいるようなシゾアレドの今日だった。ここにいれば、いずれシャルル様にも会えるかもしれない。その言い方ではサタン様に会えるかもしれないという前の世界の日常生活と変わらないかもしれないな。俺は悪霊と夢で関わってきた人生だったが、そう言えば昨日は夢を見なかったな。悪霊は時折稚拙な夢を見せるもので、それは俺の知性を反映したものなのか、或いは彼らのそれそのままになのか悩んでいたことがあった。

 彼女に勧められるままに建物の中に入ると受付らしい女性がカウンターの奥にいた。流石にアイシャさんという偶然はなかった。彼女は今どこで何をしているだろう。俺は彼女にもまた幸せになって欲しい。そんなことを考えている場合ではない。ここで何らかの依頼やらクエストやらをこなしていくのだ。楽しみだなあと思いつつ、魔法を使うには学校に通わなければならないだろうし、剣を振るには筋力トレーニングから、いずれにしても地道な一歩が求められる。前の世界で初めてアメリカの野球殿堂入りした日本人が、一気に高みに到達する方法はない。地道に一歩ずつだと言っていた。それは本当にそうなのだと思うのだが、本当に一歩ずつ歩けている人ならフルマラソンの距離など一瞬で終えるのだ。そう言い切れるのは、どんなに辛いことがあっても歩き続けられることは才能なのだ。才能ある人が受けられる祝福の前にその程度の距離など何の問題もないというのだ。俺は自分が信じるところでは、その日本人は受けているのが過大評価とも過小評価ともとれない微妙な成績で野球人生を終えていた。もっと圧倒的な二刀流がいるのだが、彼は二度目のMVPを取った翌年の活躍が期待通りになるかはわからなかった。精神力の問題ではないと思うのだ。才能がある人は運で上振れるか下振れるか決まるようなものだから、後は上振れが平静になるように努力するべきだった。

「セイナさん。こんにちは。また新しい依頼が入ってますよ。例えばサナルのドラゴンを討伐だとか、ナフトルの地のカナー一行の遺体を回収だとか。そちらの方はお知り合いですか?」

 受付と思しきショートカットの女性が俺の方に興味を抱いたようだった。星奈さんが彼女自身と同じルーツを持つ人だと説明していた。俺はそれを聞きながら、共通の先祖はどれくらい昔の人なのかと考えていた。そんなことは無用で日本人は民族的には一つでもルーツは縄文系や弥生系、南方系など様々な血が混ざり合って多様性には富んでいるはずだった。しかし俺は自分が日本人であるということは誇れなかった。何より日本人というものの血脈が悪いということではなく相対的には全世界の人たちと大差ないし、日本人として日本人を応援するという感覚もスポーツの国の代表くらいに対するもので、それは民族としてというより国籍としてだった。

「ヒガシさん。あなたも冒険者になりたいということでよろしいでしょうか」

 受付の女性が話しかけてきた。どうやら星奈さんと少し俺について話したようだった。俺の気持ちはそれのはずだったが、どういう手続きがあるのか分からないので保留にしたい気持ちもあった。しかしここで引き下がるのは男ではない。ジェンダーの問題を引き摺り出そうという気持ちは毛頭ないのだが、男だからできること、女だからできることというのは確かにある。というのは男は女を妊娠させることで、女は子供を産むことくらいなのだが、それが結局永遠に二つの性を違えさせるものなのだ。俺は俺にできることは何かと考えながら頷いた。そして受付の女性が次に何を言うか待っていた。隣の星奈さんはどこか楽しそうな表情を浮かべていたが笑っている訳ではなかった。あくまでも真剣にと言う訳ですか。ところで俺は主イエスと共に永遠に生きる男だった。ここにキリストがいればどのようなアドバイスをしてくれたと言うのか。或いは俺が働き始めようというのを止めたかもしれない。それはそれで悪な気がするな。

「ではこちらに住所と名前を書いてください」

「住所はありません。名前は東の魔法使いです。文字は書けません」

「東さん。流石に名前は偽名でもいいので普通のにした方がいいですよ。後住所は私の所有している場所で書いておきます。そうだ私が代筆しますね」

「大山さん、ありがとうございます。名字は東。名前は魔法でごまかしてください」

「りょ、了解です」

 彼女は少し困惑した様子だったが、俺は自分の本名は隠したい。それはたとえ何であっても同じことなのではあるが、俺がどう呼ばれて育ってきたかの背景があるために蔑ろにはできない。本当の名前は人は誰でも持っている。それでも自分で付けた名前も確かに自分の名前なのだ。パウロも本当はサウロらしい。そんなことはどうでも良いのだが、俺が働けるようになったら何を買おうか。生きていく上で必要なものしかいらない。例えば音楽はなくても生きていけるのだ。それでも時々というか毎日のように俺は音楽を聴いていた。自分で作詞作曲した過去もある。人は働いて食べて寝るだけの生き物ではないのだ。それでも人生はそうやって形作られていく。聖なる安息日には働いてはいけなかったが、それはユダヤ人に与えられた規則でクリスチャンには適用外だった。むしろ世の終わりには寝る間も惜しんで毎日必死で働く方が神様に評価されるだろう。働けるうちに働いて後は遊ぶというのも金があれば良いのだろうか。ならば資産家の息子は働かなくても良いのか。そんなことはないと思うのだが、俺は自分が働けないのはなぜかと堂々巡りになっていくのを感じながら、職につく恐怖に怯えていた。星奈さんは受付の女性から紙を渡されてそこに黒いインクを羽先につけたペンで何だか分からない文字を記入していた。いずれ俺もできるようになるだろうか。印象としては古文の日本語の表記のようだった。あれを読み解けるだけでも食っていける気がする。文字を読めるというのにも格があるようだ。しかし読めない文字に意味はない。読めない小説にも意味はない。自分が理解できれば良いともとれるが、誰かに伝わって初めて小さな説と言えるものだろう。俺の書いた小説は俺以外誰も評価してくれなかったから神様にその埋め合わせをして貰おうと言うのだ。悪い動機づけからでないのは神様に証明してもらおう。神は全てのことを把握しておられる方なので、ある時ものの弾みで消してしまった俺の全ての小説を蘇らせてくれるはずだった。それが俺の希望で望む人には誰でもそれを読ませるのが夢だった。

「はい。これで一通り終わりました」

「身分証は近く発行できる予定です。今日中か、遅くても明日にはできるはずなので忘れずに受け取りに来てください。或いは記載の住所に送付します」

 そう言うと受付の女性は俺が星奈さんに書かせた紙を持って奥の部屋に消えていった。何かを始めるのにはタイムラグがあると言うのは仕方がないことなのか。とにかくこの世界でスローライフをしようと試みている俺でもあるので、多少物事が進むのが遅くても良いのだ。しかし実は双方どちらかに不手際があって手続きが上手くいかないのでは、という不安がついて回るというのも本当である。俺は被害妄想癖があるようで、最近は楽観的だが過去には苦しんだ時があった。まあそれも今となっては単なる思い出の一つに変わっているのだが、星奈さんとの関係もいつか良い思い出になるだろうか。俺は彼女との関係は発展させないつもりでいたが、この世界で結婚生活をしたくなってきた。しかしそれは人を養う覚悟がなければならないし、或いはヒモになれば良いのだが、現状俺は星奈さんのヒモだった。恥ずかしいところはどこにもなかったが、自分で生きていくという決意を神は祝福する気がするのだ。するとショートカットで普通に可愛い受付の女性が戻ってきた。

「依頼を引き受けるのは今からでもできますよ。向こうに掲示板があるので、あなたは文字を読めないかもしれませんが、セイナさんによろしくお願いしてください」

「はい」

 星奈さんは笑っていた。軽蔑の気持ちはないだろうが、俺がどう生きればいいかは彼女の手腕にかかっていた。これでは早く文字を読めるようにならなくてはいけないな。或いは依頼について直接受付の女性に聞くという手もあるな。でもあまり煩わせてはいけない。色々な葛藤がある中で、俺は星奈さんと生きていく道を選ぼうとしていた。それは甘えなのでやめた方がいい気がする。結婚生活もそうなのだが、二人以上の人間の関係というのは中々永続しないのだ。一人きりで神と結ぶ関係こそ至高なのだ。それでもこの世界では助け合って生きていく必要がある。それは前の世界でも同じだったが、俺は両親以外に頼れる人がいなかったし、彼らに尽くしてあげることが一つもなかった。

「東魔法さん、でしたっけ?」

 星奈さんはどこか悪戯っぽかった。

「向こうに掲示板があるので見に行きましょう。それと、お昼ご飯の時間も近づいてきたので、ここで何か食べましょう」

「はい」

 時間が経つのは早いなと感じながら、彼女はしっかり三食食べる人なのかなと感心した。俺は朝だけ食べて後は間食というような生活をしていたから不摂生だったのだ。それでも健康は維持できてきた。イエス・キリストは福音書によれば四十日四十夜断食したらしい。人間は絶食しても水を飲んでいれば二ヶ月か三ヶ月くらいは生きられるようだから、同じ期間断食したことがある人はいるようだが、俺には到底到達できない壁だった。

 星奈さんに促されるようにして掲示板の前まで歩いた。そこにはいくつもの紙が乱雑にはっつけられているような状態で、それを見ている人は二、三人いた。同じ依頼とやらを別のグループが競合することがないようにするためにはどうすれば良いのか。その辺はまあ上手くいっているのだろう。そう思っていると二、三人の一人が紙の一つを剥がして受付の方へ向かって歩いていった。なるほどそうやって仕事を決めているのか。だとしたら自分にできる仕事が来るまで待ち続けるというのか。俺には苦しい時間だな。そう思っていると星奈さんが一枚の紙に手を伸ばした。

「これとかいいんじゃないですか?パトモスの森で薬草集めってありますよ。一人では厳しいと思うので私と二人でってことになりますが」

「お任せします」

 その辺の事情は全然分からないのだ。彼女に頼るほかない。それはそうと薬草の効果がこの世界の何を癒すというのか。東洋医学のような医療体制が充実しているのかな。中世ヨーロッパでは薬草が使われていたかは俺は知らない。しかし世界には共通した事項というのがあるはずだから、東洋も西洋もなく並行した歴史を辿ってきた面はあるだろう。そこに人間というフォーマットの共通性があるのだと思う。星奈さんは壁ドンの体勢だったが、そこから前に進んで紙を剥がした。早速俺の仕事が始まりますかい。初仕事は草集めと、何とも微妙な響きではあるものの、物事は始めやすいところから始めるべきなのだ。俺は森の危険を知らないし、星奈さんを信頼している。そんな中で薬草を見出すことが果たしてできるのか、俺には仕事ができない無職性が宿っているというのに、それを引き剥がしにかかるというのだろうか。

「じゃあ、行きましょうか」

 星奈さんに言われて歩き出した。彼女の右後ろについて歩いていた。不自然なことはなかったが、俺らの関係はうだつの上がらない青年と後見人の少女という謎に満ちたものだったか、或いはそれ自体は善悪の判断では分かてないものであったというのか。星奈さんは取り敢えず紙を受付の女性に出して、更に他の紙に何かを書いていた。申請という作業には頭が痛くなりそうだな。俺には上手くできる自信がない。これまで一人でやってきたことといえば奨学金の申請くらいだぞ。借金を背負って生きていたが、この世界に来たからチャラだった。或いは俺の親父が払う羽目になっているかな。機関保証なので大丈夫だとは思うのだが……

 星奈さんは何か書く作業を終えて俺のところに戻ってきた。そういう表現が適切かは分からなかったが、何かもう一仕事終えたような表情だった。日本語が通じるんだからこの世界で彼女以外の人間とも関係を持つべきだったし、何か宣教旅行にも旅立ちたかった。しかしことを急いではいけない。俺は自分の身に危険が及ばない程度に頑張れば十分だと思った。無職から冒険者に格上げされそうな時、同時に素人無職から玄人無職になっただけの気もしていた。星奈さんと二人でどうやって未来を描いていくというのか、それにしてもなぜ偶然のように彼女と出会ったのか。この世界に他に日本人はいるというのか。

「大山さん、この世界に他に日本人はいるんですか?」

「分かりません。日本人のような顔立ちをした人はいます。でも東さんのように私に話しかけてきた人は他にいませんでした。もしかすると日本語が使えるという状況に溶け込んで、ある種日本人としてのアイデンティティを喪失するのかもしれません」

「そうなんですね」

 俺は自分が日本人であることは誇れなかったが、日本人であることを恥にはしていなかったし、欧米人に生まれなくて良かったような気もしていた。結局日本以外の国では生きていけないような情けなさがあったのだが、これからは俺の挑戦が始まるというのである。後は星奈さんと日々暮らしていく中で、問題点を洗い出して彼女との日々を長く保てるように努力するということか。それは前の世界でできるだけ長く両親と共にいたいというのと何ら変わらない気がする。俺は最後には苦しむ定めなのだ。それを神は喜んでいる気がしないというのは、やはり信仰は人を生かすのだろう。クリスチャンであるというだけで命の保ち方には敏感だという風潮がある気がしていた。俺は人工妊娠中絶は罪だが反対しきれないし、自殺も罪だが、俺もまた自殺できればそれに越したことはないと考えている。夢の中では悪霊に何度も殺されてきたが、目覚めて残念な気持ちになるのも片手より多い回数だった。結局イエス・キリストに会いたいのだが、それが本心かもよく分からない。両親と離れて生きるのも苦しいし、イェーシュアと死ぬまで会えないのも苦しい。生きることは全てが全てとは言わないが苦しみの一歩手前にあるのだ。やがて俺の人生は蝕まれて苦しみ一辺倒になるだろう。誰も憎めないまま窃盗、逮捕、投獄のコンボが決まるか、生活保護のウルトラCか、或いは餓死かの三択の気がしていた。まあ親父が国民年金を代わりに俺が六十か最早六十五になるまで払ってくれれば話は別だったが。

「お昼にしましょう」

 星奈さんに案内されて冒険者ギルド併設の酒場に足を運んだ。粗野や野卑。そんな感じの野郎や様々な種類の女性が食事を摂ったり酒を飲んだりしていた。俺と星奈さんは空いている席に座って、俺はというと周囲の様子に注意を向けていた。まさかここで窃盗の被害には遭わないだろうと気持ちを引き締めて彼女から渡されていた財布を握りしめた。やっぱり星奈さんが持っておくべきなのでは、万が一のことを考えればと言っても、俺は上手く物を買うこともままならないかもしれないんだぞ。それはそれとして彼女は俺を一人の人間として尊重してくれたということだろう。そのことを重く受け止めて、今後しばらくの生活の糧を得られそうなことに安堵して、今日一日を生き延びれたことに感謝しよう。

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