大山星奈との魔法の特訓
俺は幸せだろうか? 一人で生きている限りこの疑問は尽きないかもしれない。それでも俺は一人で生きていくわけではない。俺に関わる全ての人を幸せにする義務を負いながら、その全てを実現できずにいるのだ。自分の笑顔が人を笑顔にするくらい簡単であれば、俺はいくらでもニヤついているだろう。そうすれば神に報いられるというのだ。隣で眠る星奈さんは安らかな表情をしている。これだけで俺は十分満足に受けていると言えるのだろう。それでも慣れは恐ろしいもので、やがてそれにも何も思わなくなるはずだ。幸せは日常の中に既に来ていることで、振り返ってみれば取り止めのないことに過ぎないのだろう。俺はそれを自分のものにしようと必死なのか。いやそんな物欲はない。俺にあるのは不安なのだ。今の暮らしも続けられなくなるのは時間の問題だった。どこかから現れる英雄を待っているのでは遅すぎる。俺は死ぬまで生きる覚悟で前進しなければならない使命を負っているのだ。それでも苦しみのために立ち止まるのだ。それは少し鳩尾を蝕む程度の痛みかもしれない。或いはあらゆる言葉で形容できない不快感の掛かりなのだろう。
そのどれも俺を痛めつけるのだが、俺は哀れではない。結局偽善者なのだ。俺は苦しみから逃れて安全地帯上で声のない叫びを聞かせようとして、泣けもしないのに涙を拭っているのだ。そんな情けない人間が他にいたら良かったのに、俺の罪も少し紛れるかもしれない。とか、前例がない方がまだ哀れんでくれる神様かもしれないとか思っていた。全てのことはかつてあり、今もあり、これからもあるのだ。しかし神の歌は今初めて歌われることもある。それ以後永遠に続けられる祝福の中に潜っていくというのだ。天才になれれば苦労しなかった。苦悩の中で何かを生み出せれば少し人を待たせても良かった。締切に間に合わなくてもいいし、フランス行きの飛行機の予約を一日遅らせても許されるのだ。それはある漫画家の行為の観察だったが、テレビ番組で放送されていた。俺は尊敬というものを覚えたのだが、漫画は人の命に必要か。それを言えば全ての仕事は命懸けなのだろうから、命を救う波動をたたえているに違いないのだ。俺はそのどれも満足にこなすことができない。果たして俺の命は誰のために費やされているというのだろう。正しく自分のためだけに生きている男には自分のためだけの時間しかなかった。時々星奈さんに何ができるだろうかと考えるのであるが、まず思い浮かぶのは彼女の命令に従うことである。男性が女性の言いなりになるのは神の視点では良くないなとか。或いはそれは一般論としてはそうであり、全て祝福を受ける関係は特殊なものなのだと言い訳しようとしていた。俺は彼女と共に生きていくつもりもあったが、彼女が離れていくならそのままにするつもりだった。どこへ行こうと構わない。それでも俺のためにしてくれた全てのことに報いるつもりだった。それは天国へ昇って後には実現できるだろう口約束だった。実際には何の契約でもなかったのだし、言葉で交わされたわけでもない。世界の約束の一つではあるぞ。とか、俺も彼女を信仰に導いた功績があるのだ。とか自慢していいこともあった。誇りに持てるのはイエス・キリストに関することの全てであって、それ以外は邪悪に思えた。それでも俺は俺の書いた小説は聖書の一部と言っても遜色ない自信がある程度あったから、永遠に生きられるようになった手前、声を大にしても良かったと思う。
「東さん待っていてください」
彼女はそういうと冒険者ギルドの受付の女性のところに向かっていった。彼女が色々と申請の類をこなしてくれるようだった。次はどこへ行くというのか。俺には分からない。それでも不幸になるつもりはなく、幸福を宣言する所存だ。それが俺の矜持なのだ。好きな音楽を聴いている時間のように続いていく全てなのだと感じていた。今朝は起きると星奈さんがいなかった。俺は最近眠れなくなっていたが、この世界に来て変わっていた。ありがたい限りだった。常に目を覚ましておきたかった気持ちもあったが、夜は飛ばしていきたかった。俺は太陽が好きなのだ。ずっと真夜中でいいのに、とは思えない。青い空と白い雲の背景が気持ち良いのだ。そう信じて、日々新しい太陽を迎えている。まあ曇りの日もあるのだが、それはそれで明るい。雨が降っていても朝や昼や夕方は夜より明るいのだ。当たり前のことを言っているように思われるに違いないが、太陽光発電は快晴でないと使い物にならないわけではない。それでも効率は落ちるものだなと一人で巡らせていた。それを分かっているのかどうか、星奈さんは何かを羽の先についたインクで書き続けていた。彼女の話によれば、サーガーグとかいう魔物を安全に討伐するとのことだった。その前に魔法を教えたいということは、勘のいい俺は多分結界魔法を教えてくれるのだと思う。それは自然の発想によるので不思議なところがない。彼女がサプライズな女性ならいざ知らず、実際には素直で良い子だった。いや、俺より大人なのだ。実際の年齢は分からない。聞くまでもないかもしれない。俺は二十五歳くらいなのだ。誕生日はまだ迎えていないはずだから、この年齢のまま移行したはずなのだ。本来なら働き盛りといっていい頃に俺は家で寝てばかりだった。実際には寝ることもできないのだ。何もできずに悔しい時間と諦めの境地を行き来して、何かを生み出そうと試行錯誤するのである。そして口遊むメロディーに満足したかと思ったら、三週間は何も新しいものが出てこないのである。それは普通のことなのか、いや、才能がないことの表れだったか。才能がある人は毎日新しい何かを携えてくるはずだった。インドの魔術師として知られた数学者は夢で女神様に公式を教えてもらったとして、毎日幾つもの定理をこしらえていた。俺にはできない芸当だ。この女神様というのが天使の力なのか、悪霊の力なのかは分からない。栄光を主に帰していない時点で分かったようなものだったが、俺が決めることではなかった。どんな聖人も教会が認めるから聖人であるわけではないはずなのだ。いや、聖人という称号は神の王国のものではなく、人の国のものなのだから、認めるのが教会でもいいのだろう。俺の意見はコロコロと変わりやすいのだ。信念があるようでないのかもしれない。本当に頑なに信じていることは昔から変わらなかったが、あれほど確信していた聖書無謬説からは脱落していた。神は何でもできるが、そうするとは限らないのだ。人間は何もできないし、そうするしかないのだ。その意味は定かではなかったが、俺と神との間の平安を確立するにあたって、信じられることは少なくしていった。カトリックはその点多くを間違えていると思うのだが、どれがそれかは俺には分からない。無責任だとは思うが、それでも許容範囲内ではまだあると思うのだ。世の終わりが近づけば、そこからも逸脱して、堕落の極みに落ち込むだろう。その時人は信仰は天から降されるのだと知るであろう。その時がいつかなど俺には分からない。俺の死後だと思っていた。しかし俺は訳のわからないところに来てしまった。いずれ元の世界に帰れるかもしれないが、それは最早望まない。俺は天国へ行きたいのだ。神とイエスと幸せに暮らしたいのだ。そこに少なくない人を招きたいのだ。それを許す神だと信じている。俺の友人を信仰に引き摺り込むことはついにできなかったが、俺と共に学生時代を過ごしてくれた功績があるし、それは優れた信仰の形だと思うのだ。幸福な人として永遠に捕まえられてもいいと思うのだ。中々断言できることではないし、俺は究極イエスさえいれば後はどうでもいいので、家族友人が地獄に落ちても構わない。それでも救われるのであればそれは素晴らしいことだと思う。俺の信仰はどこまで広がりを見せるというのだろうか。必ず世界を変えるに違いない。そう信じている。しかし世界はバターにフォークを突き刺すほど簡単には動かないものなのだ。世界というのは社会というのと大差ない気もするのだが、自分が変わるしかないのだ。世界も社会も勝手に存続していくし、どこかの時点で滅ぼされるはずなのだ。イエスが来たら最後なのか、第六の封印が開かれればその時だと思う。それは黙示録に書いてあるのだが、俺は黙示録の作者の神は俺の神だと思いたい。希望的観測なのだが、あれほど聖書と呼べる聖書も中々なかったし、聖書にしては面白いのだ。内容はというと象徴的に描かれているから、全てを把握するのは俺の頭脳では困難だった。
「東さん、終わりました。明日までにサーガーグの草原に行くことになりましたよ」
「そうですか。了解です。ところで魔法を教えてくれるとのことでしたが、それは結界魔法のことですか?」
「そうですね。それもありますし、ディとラーについても魔法語ですが説明するつもりです。もう覚えました? なら終わりみたいなものなんですが、私たちが話す言語でどういう意味かについてちょっと話しますね」
「お願いします」
「ディは『大きく』という意味で、ラーは『速く』という意味です。今ここで魔法は使えないので移動してから続きを言います」
なるほど。ディをヘール・タガラアハーに組み込めば炎を大きくできるのかもしれない。そんな単純なことでいいのか。いや、英語を中学生の頃に学んだ時は文法と単語を交互にやる感じだったっけ? 個別指導のバイトをしていた時に中学英語の担当になったことがあるはずだが、今となってはどう指導していたか思い出せない。まあテキスト通りにやらせて、俺は現場監督だけだったような気もする。この意味では、この世界の書物を一人で読めるようになれば独学が開始できるはずだった。しかし今のところ星奈さんの助けがいる。甘んじて受け入れてはいるが、それでは俺の成長にはならないのではないか。でも才能がある人というのは初めから八割方できるのだ。後の二割が努力の配分だと思うのだが、俺は初めから二割もできないし、努力しても三割しかできるようにならない気がする。後の七割の断絶のために言語活動が止まってしまう。つまりうまく言葉に表現できないが、単語単語でしか言いたいことを言えないし、単語も思い出せなくなるというものだ。俺が英語を理解できない理由と同じところだと思う。星奈さんはこの世界の文字体系を読み解けるのだから、それだけでも十分祝福に値する。メジャーリーグに挑戦した日本人が英語を話せるようになっていくことにどこか嫉妬心を抱く俺だった。俺は野球の才能もないのだ。そもそも運動神経が悪いのだ。筋肉もついていないのだ。脂肪はそこそこだった。腹は少し出ているかもしれない。餓鬼のような俺だった。情けない姿を晒して生きていくしかないのか、とか死ねるほど強くも弱くもないのだと嘆きの中に戻ろうとしていた。
星奈さんに「ついてきてください」と言われて歩き出した。冒険者ギルドの外に出て、左右灰色の壁が立つ道を進み、並木を超えて噴水を抜けた。更に並木を抜けた頃に人の少ない広場に出た。大きさはというとサッカー場よりは広い気がした。まだこの都市の構造を俺は分かっていないんだよなあ。と考えながら、彼女の後ろを歩いていた。彼女は何かを考えているのか腕を組んでいた。正確にいうとローブのような格好の中に両手をそれぞれ突っ込んで、何かを隠しているようだった。警戒心の表れだったのか、それが彼女なりの魔法使いの姿だったのかは定かではない。
石畳の地面がどこかひまわりの種のように張り巡らされていると感じていた時、星奈さんは俺に振り返った。その時の姿が美しいように感じて、少し惚れそうになった。まあ俺は人を好きになってはいけないのだが、自然の成り行きなら仕方がないのだ。美しい人を美しいと言うのは罪ではないのだ。それを壊す全ての罪に俺は繋がれている気がしながら、彼女が何か話し出すのを待っていた。しかし、彼女との間を風が流れていった。隙間風のようだったのか、少し距離が空いた。気分は悪くなかったが、永遠の距離を思った。本当のところ、おれと彼女は日本では永遠に遠い二人なのだ。距離というのにも色々あると思うが、マンションの隣の部屋でも友達よりは遠いのだ。そういう意味で、ここで関係を断たれれば次に会うのは天国か地獄か。おれの行き先と彼女の行き先が別れていくのを感じていた。俺はそう言えば自分のと言えるのか、お下がりのタルマードの杖を持っていた。彼女に対してアドバンテージであれるはずもなく、劣化性能の気がした。彼女も杖を持っているのだ。その力を本当に発揮する時に俺は死ぬのだ。生まれ変わるのだ。新しく生まれるのだ。と信じていた。俺はもうボーンアゲンしたクリスチャンだった。自覚的回心を経て、今日まで至るのだ。これを否定することは聖霊による働きの否定であり、その罪は究極許されることがなかった。まあ、悪霊の力によって救われたのであれば、俺はその悪霊に地獄での罰を減免してもいいと思う。なお俺は奨学金を減免にならなかった。それはそれで残念な思い出だったが、捨てる神がいれば拾う神もいるのだ。そういうわけで、俺の懐は半ば潤っていた。ある程度天引きのようなことが家族間で行われるのだが、それは瑣末な問題だった。俺は俺を生かす全てに感謝しなければならなかったが、それは永遠に続くことではないのだ。
「東さん、私はあなたのおかげで本当に大切なことが何か分かりそうな気がしました。ありがとうございます」
「ああ、そうですか。俺としては自分のありのままの全てを明かしただけのつもりです。あなたに言えないこともありますが、それでもいずれ全てを明らかにするつもりでいます」
「その時にはよろしくお願いします。それはそうと、魔法の基本、ヘールについては既に学びました?」
「はい。ヘール・メメンディスコー」
俺は杖を斜め上に構えてその言葉を放った。それと同時に土塊の塊が俺が投げるよりはゆっくりと放物線を描いて広場の真ん中から外れたところに落ちていった。こんな魔法が何になるの。俺は自分の命を失う手段を得ようとしているのか。いつでも死ねるという自信があれば今死のうとは思わないんだよな。何より生きることは延長、延長、再延長の延命措置で大往生なのか、それとも往生際が悪いだけなのかは分からない。それでも俺の命が続く限りは俺の鼓動を止めるつもりはなかった。花も嵐も踏み越えていくのが人間なのだ。と近年亡くなった有名人が口にしていた。俺はその言葉の通りかは分からなかったが、同じ場所で生きるという決意のもとに暮らしに帰っていくのが本当の人間なのだと思う。ガザ地区の住民にはガザ地区での生活がある。それを再現するのが重要なのだ。俺はイスラム教徒は嫌いでも人間は嫌いではないのだ。いや嫌いかもしれない。とにかく俺は俺と関係のある人間は基本的には好きだった。それ以外の人をも愛せるかといえばそうではなかった。だから俺は全ての人に滅んでほしいとも思っていたし、例外として俺の関係者は救われて欲しかった。身勝手な思想だとは思うが、究極イエスと二人きりになれればいいのだ。それでも彼は多くの人を報酬に受けるのだ。
「完璧ですね。火の魔法はタガラアハーやナアギャー、氷の魔法はサアグー、土の魔法はメメンディスコーやラデンホグドー、風の魔法はセラードなどがあります。ここに、ヘールを組み合わせるのが魔法の基本の二語です」
へえ、色々あるんですね。知らなかった。タルマードさんとは違った内容と教える辺り体系化されているのかいないのか。俺は自分が好きなように魔法を使えば良い気がしていた。何が自分の好みなのかを魔法の杖に反映させるのだ。それが俺の唯一の自己表現となるのだ。彼女の言葉で魔法は発動しなかったが、魔法は基本的に手の先から現れるようなのだ。だから下手に構えている時に魔法を口にすると暴発する恐れもあるのだと思う。これは俺の想像なのだが、その上魔法の才能が下の中くらいはあるはずの俺にとって注意が必要かは定かでない。それでも心を配るに越したことはないのだと思う。星奈さんを殺すことは俺の望みではない。これからどんなことがあろうと、彼女は俺に対する報酬のほとんどなのだ。彼女と同じ家に天国では住むのだ。それは言い過ぎか。たまには俺の家にも招くくらいの気持ちでいよう。
「ここから更に応用ですが、見ててください。ヘール・ディ・ラデンホグドー」
彼女の構えた杖の先に野球ボールほどの大きさの石のような塊が現れてそれが広場に放たれた。それは時間差で地面に当たって砕けたように見えた。中々恐ろしいな。ディがあるかないかでこんなに違うのか。それもこれも魔法の杖の力なのかなとか責任を逃れようとする言葉を考えていた。俺の力ではなく、俺はただきっかけを作るだけなのだ。仕事をするのはあくまでも杖なのだ。そう自分に言い聞かせようとしていた。俺は自分の杖を握りしめて声に出さずディ、と呟いていた。そうしても何も始まらないのだった。
「東さんはどれくらい魔力があるのか分かりませんよね。私はディを三回重ねるのが限界です。やってみますか? 見つかったらまずいかもしれません。でも予行演習なので多めに見てもらおうって感じです。メメンディスコーにディを付け加えてください」
「やってみますね。メメンディスコー・ディ・ディ・ディ・ディ・ディ……」
俺は自分の体には何ら変化を感じないまま構えた杖の先の土塊や岩の塊が大きくなっていったのだが、同時に空気の入っていない気球のように張りがないように感じた。星奈さんは俺の言葉の岩に押されて見えなくなっていた。これは危険かな。どうすればいいだろう。とか思っていると薄らいで消えた。残された煙の向こうに星奈さんが立ち尽くしているのが見えた。
「東さん、私も初めてなのでよくわからないです」
彼女はそう言いながら近づいてきた。誰かに見られていたらまずかったかな? そう考えて周囲を見渡してみると、俺たちの煙を吸わないような位置で俺たちを見つめる見物客の姿が見えた気がした。野次馬というより、単に何が起こったのか気になったんだろう。このまま逮捕とかになるときついな。そんなことを考えていた。
「俺は魔法の才能はあると思いますか?」
「何かの機能不全を起こしているのかもしれません。魔法学校でもこうした才能のテストを行うことがあるんですが、最大でも五回くらいが目安なんです。四回でも珍しいですけどね。でもその時には本当に実態を持って危険なんです。魔法の杖によって増幅された力は全てを破壊することを厭わないんです」
魔法の才能がないとは言わなかったが、俺は異端なのだろう。まあ良い。俺は俺のままでいいのだ。それを神は受け入れてくれるはずだし、そうなるように神が俺を作ったと思うのだ。魔法の才能がなくても生きていけるはずだし、死ねばその瞬間から天国なので些細な問題なのだ。どうすれば彼女を救えるかを考えるのも時間の無駄になった今日この頃の至福直観余生スキームだったので、俺はというと魔法を使う以外の方法で生きる道を探したいと思う。本当のところは魔法で無双したかった気持ちもあるのだが、強大な力には責任が伴うのだ。俺は自分の責任を自分で負えると言い切れるほど大人じゃなかったし、彼女もまだ俺は子供でいいと見ているはずだった。そもそも年上なのか年下なのかも分からない。年下かもしれないな思っている。いつか逆転する時が来るでしょう。その時にはあなたに全てを委ねます。そのつもりだった。
「大山さん、炎の魔法で試してみますね。ヘール・ディ・ディ・ディ・タガラアハー」
すると直径で言うと二メートルを超える火の塊が現れて、俺の目の前を直進した。しかし熱さは僅かにしか感じなかった。星奈さんとは離れた方向を目指すようにしていたが、野次馬が丁度移動していたようで、いや単なる通行人に直撃を免れないようだった。危なっかしいな。俺はどうするか迷っていたが、これでは運転免許を返納するボケ老人と変わらないではないかと思った。ただし、強大な力には責任を伴うのだ。
「離れてください!」
俺の言葉に反応したのかしなかったのか、結局火だるま。と思ったら何事もなくその場に立ち尽くしていた。やっぱり俺の魔法というのは使い物にならないのか。すると星奈さんが口を開いた
「この杖に問題があるんでしょうか」
「一回交換してやってみます?」
「そうですね」
俺は星奈さんの杖を手にして、もう一度魔法の文言を呟いた。しかし結果は同じようだった。星奈さんが俺の杖で魔法を使うと効果があるようだった。俺への呪詛の結果がここに現れているのではないか、とか、俺はもう何もしてはいけない運命なのかと苦しみそうになった。それでも魔法を使えないというのは安全なので、日常生活への回帰なのだった。これでは独り立ちできないのだが、彼女はどういう計画を練ってくれるだろう。俺はそれを受け入れて、一人で冒険者業をこなしていく気はあるぞ。ただし、それはしばらくの訓練期間を要すると思うのだ。一人で生きていけるほど甘い世の中ではない。時には行政からの支援も受けるべきだった。異世界から来た人を受け入れる器はありますでしょうか。難民も受け入れられないような日本とは違うのか。まあ日本は日本なりによくやっていると思うよ。と上から目線で色々物事を評価するのだ。俺はというと、日本にはお世話になっていたし、日本国籍がなければただちに無国籍だったのだ。この世界に国籍という制度が確立しているかは分からないが、古代でも人口調査くらいはしていたのだろう。
「私の見立てでは、東さんはヘール・メメンディスコーが限界で、ヘール・ディ・メメンディスコーから問題が生じるようです。今度はヘール・ラー・メメンディスコーで試してみましょう」
「ヘール・ラー・メメンディスコー」
すると土塊は速くなった気はしなかったが、回転量が上がっている気がした。それに触れるとどうなるかは分からなかったが、星奈さんは少し不思議に思っているようだった。やはり俺は異端の魔法使い故、人と同じようには魔法を扱えないのか。それはそれで気分がいいような、いや、一人で生きていけないのであれば意味がない。このままでは、いつまで経っても彼女頼りの異世界だぞ。中世ヨーロッパは俺が生きていけるほど甘い世界ではなかったはずだ。それはインターネットが普及した世の中でギリギリ生きていけないくらいの俺だったから、よく痛感している。
「東さん、どうやら空回りしているようですね」
「そんなことがあるんですか」
「私も初めてなので興味深いです」
そんな呑気なことを言われても仕方がないのだが、俺はどう生きていけばいいかの瀬戸際なのだ。彼女の納得は俺の溜飲を下げることはない。とにかく矛盾した態度がそこにあると思うのだ。二人で作り上げていく魔法というのがあってもいいと思うのだが、それは実際には彼女由来の魔力に頼るしかないというものではないか。俺は自分の魔力の量を確かめることができずにいるのだが、それはある意味では凄いことなのではないか? 確かめてみよう。
「大山さん、魔法語というのは口にできる言葉の量に限界があるんですか? たとえばディを五回重ねることが難しいとか」
「そうですね。言葉にならなくなっていく感じです。舌や唇は動いているはずなのに声が出てこないというようなものです」
「それなら俺はその辺の束縛から逃れているということで良いんじゃないでしょうか? ヘール・ディ・ディ・ディ・ディ・ディ・ディ・サアグー」
俺の言葉に従って氷が広がり始めた。俺の目の前が凍り始めたのだが、全く冷たくない。これでは特殊効果に過ぎないではないか。それにしても俺は魔法の才能がある意味ではあるようだし、ある意味ではないのだ。仕事にはできないが、遊ぶことはできる。それくらいが俺には丁度良い。そう自分に言い聞かせるようにした。本当は魔法を使って格好良く活躍したい気持ちがあるような気がするのだが、俺は自分の力を制御して全てを丸く治められるほど有能ではないのだ。彼女にとってそれは望むことではなかったはずだが、俺の魔法にも今後何か使い道があるはずだ。もしかすると悪魔が俺が魔法を使うのを禁止しているかもしれない。彼らの働きによって、俺が不利益を被っているのだとしたら、そっこくイエス・キリストの名前で追い出すべきだったが、この世界はそもそも何かも分からないのだ。俺の夢物語のようなものなのだ。もしかすると悪霊の類が一切いない楽園かもしれないのだ。どうすればこの状況を良くしていけるかを考えている中、星奈さんがタルマードさんの杖を握って何かを考えているようだった。
「東さん、結界魔法なら使えるかもしれません」
「本当ですか?」
「杖を上か下に構えてフィーン・フィーネーと言ってください」
「上にします。フィーン・フィーネー」
すると結界が張られて、何かの半透明の文字のようなものが半球状の障壁に映し出されていた。これは使える魔法なのか。実際に物理的な攻撃を防いでくれるのか。魔法から守ってくれるのか。星奈さんと一緒に試すしかない。とにかく今は彼女に俺の全てを委ねる時なのだ。俺は彼女のために生きているようなものなのだ。彼女が死ねば俺も死ぬ。それは運命なのだ。しかし逆はありえないが、時間差では同じことなのだ。人間は皆死ぬ。
「触れられるか、後壊せるか試してみますね」
すると彼女は俺の結界に触れた。するとやや低反発な抵抗を見せた後にゆっくり中に手が入っていった。これは果たして? 壊せるかというのはどういうことか? 俺は自分の命を守る穴熊にもなれないのか。いや籠城作戦はもっと狭いところで試みるべきなのだ。狭い換気扇の向こうにいたグルのようにかって、不謹慎だな。死人もいるんですよ。そんな気持ちだった。だから不要に触れる相手ではないのだ。ぼかしていて良かったと思うが、真正面から扱ったところで気遣いとしては変わらない気もするのだ。
「ヘール・メメンディスコー」
星奈さんは結界から少し離れたところに立って杖を構えていた。俺のフィーン結界に向けて土塊が飛んできたのだが、それは境界付近で減速しこぼれ落ちた。流石俺の結界。というか彼女の手加減によるものなのだよな。だから何も誇れないのだ。そう思って、次はどうするのか待っていた。彼女は特に驚いた様子は見せなかったからこれが普通の振る舞いということだろうか。何もかも想定外では立ち行かんぞ。俺は想定内の命の縁取りに監禁された男なのだ。命から逃れた先に手に入れられる栄光を求めていたが、そんなものより食料の方がありがたかったし、飲料水で喉を潤したかった。しばらく喉は乾いていなかったが、この生活を続ければどうか分からない。苦しまないように生きていければいいと思いつつ、苦しみが俺には必要なのだと、やがてくる死の結末に備えようとしていた。
「杖を構えててください。ヘール・ディ・ラー・ラデンホグドー」
彼女の言葉と共に岩の塊が瞬間的に俺の結界目掛けて進んできた。殺すつもりか。と思ったが、そこはプロの見解に任せます。俺は何事も素人で分かりかねます。と逃げようとしていた。そんな姿勢ではいけないと分かっていたが、星奈さんとの関係は信頼によって成り立っているのだった。また、魔法は言葉だけでなくそこに込めた思いも影響するかもしれない。それは俺の予想だったが、それは俺が魔法を使えないところから来たものだった。半ば投げやりな気持ちになって、魔法語を口にしているからこの世の神に通じないというのだ。いや全ての神は神々の神の支配下に置かれるぞ。俺はヤハウェを信じるぞ。その決意の元に星奈さんが俺を殺さないようにと、杖を額にかざして自分の身を守るような体勢を取っていた。なお星奈さんの魔法は俺の境界を越えそうになったところで崩れ落ちて、パラパラと無効化されていた。これは魔法に意味があるのではないか。それはそうと結界はいつまで張られっぱなしだというのか。このままでは彼女と一緒に寝られないではないか。そう思っていられるうちが幸せだったに違いない。俺は杖を構えるのをやめた。すると結界が解けるように消えていった。
「結界の魔法は使えるようですね。良かったです。壊そうかと思ったんですが、壊せませんでした。それはそれで才能があるということだと思いますよ」
星奈さんはどこか満足そうな表情を浮かべていた。俺には魔法を扱う才能が一部あると言っても良いのかもしれない。結界魔法か。どんな気持ちでそれを使ったのかは分からなかったが、俺には何も起きないという信念に満ちていた。信じる者が力を得るのだ。
「大山さん、魔法というのはそれを言葉にする時の心のあり方でも現れ方が変わってきたりしますか」
「それは信仰のようなものなのですが、確かにあると思います。歌を歌う時に色々な気持ちを込めると伝わり方が違ってくるのと同じだと思います」
「そうですか」
それではあまり変わらないのでは? とか、歌手は歌手で魂込めて歌っているからプロなのだとか、色々思うところはあった。重要なことは、彼女も俺と同じ立場であるということだ。俺は気持ちが乗りやすいタイプなのだと信じよう。これによって、魔法を使えるわけではないが、同時に魔法を使えないというわけではない。どこか魔法の使用に対して馬鹿らしいと思っていたことが反映されたのかもしれない。気をつけようと思う。俺は一体どうすればいいというのか、それでも一つ確かなことがあった。
「大山さん、サーガーグ討伐の時に俺一人で身を守れるということですよね」
「きっと東さんなら大丈夫です」
それが確認できただけで大きかった。後は明日か明後日か、それとも今日中にかは分からないが、この都市を出発してサーガーグのところに行くというのだ。冒険者業の始まりだというのだ。始まりといっても、既に初仕事は終えていた。その給料を受け取れたかは分からなかった。その辺のことは星奈さんに任せていた。俺は幸先が良いような悪いような分からない気持ちになった。それでも彼女との異世界ライフを堪能できそうで楽しみが広がった。俺は楽しい時は何か危険が迫っているのではないかと注視するようにしている。それは俺が幸せになってはいけないという世界の約束のためにそうだった。それでも天国に行けば全て幸せになれるはずだった。あくまでも地上生涯での話だった。何ができる男でもないのだ。本当に何もできないのだ。だが、魔法は確かに使えるし就職試験には有利に働くだろう。彼女の助けを受けながら自立自活を果たしていきます。待っていてください神様。必ずあなたのところへ行きます。その時には俺に報いてくれた全ての人に報いてください。俺は信仰の話も彼女としたかったが、今はその時ではないような気がしていた。
周囲を見渡してみると野次馬が数十人、帯になって集まっていた。円の弧のように集まっているもので、何か言いたげな気がした。魔法使いというのはこの世界でもありふれたとは言わないものの、ああそうか、魔法の杖は基本持てないのか。ならば物珍しさで駆けつけたんだなと勝手に納得していた。彼らの本当の気持ちは分からなかった。星奈さんがここを選んだ理由はわからなかったが、究極人目を気にする人ではないのだろう。俺は以前は人からどう思われているかが気になって仕方がない時があったが、今となってはどうでも良かった。
「大山さん、見られてますけど大丈夫ですか」
「多少はいいんじゃないですか? 一応犯罪ではありません。それはそうと、今日はこの辺で休憩しましょう。タルマードのところに行ってもいいかもしれませんね」
「それは今日は止めておきます」
俺は星奈さんと同時に歩き始めた。そして広場に続く道に入っていった。その途中で「魔法使いさん、精が出るねえ」なんていうような適当な声が聞かれた気がした。俺は返事をする気にはならなかったが、適当に頭を下げていた。俺には魔法の才能があるのだ。ないと言えばないのだが、あると言えばあるのだ。その自信に満ちていた。彼女は俺と何かを話したいかと思ったが、俺は彼女との間に話題を見つけることに苦労していた。色々と思い浮かべようとするのだが、何もないのだ。出身地のこと、本当の名前のこと、この世界で生きてきた全ての時間のこと。彼女が一人で乗り越えてきた物語を俺にも共有して欲しかったが、それは強いて望むことではない。俺はというと、自分の言葉が彼女を傷つけることにならないかと危惧していた。突然その時は訪れるというのである。まあ俺の言葉で彼女の心が動いたというのは一つの事実としてあるぞ。そんなことを思いながら歩いていると、彼女から、ここは工房ですね。とか、ここは洋裁のお店ですね。とか次々に新情報が入ってきた。俺はそれを「へえ」と受け流すように聞いていた。どうすれば彼女を喜ばせることができるだろうか? それをするためにはイエス・キリストという二人の間の主人に頼るしかないかとか考えていた。実際にできることと言えば、彼に祈りましょうと提案することくらいなのだ。この世界でどのような信仰が繰り広げられているのかは俺には分からなかったが、星奈さんは既に異端の信仰からは離れていると期待したかった。それでも人は逆戻りすることがあるのである。一度の救いは永遠の救いではなかったのですか。と神に聞きたくなるが、本当には最初から救われていなかったのではないですか。と言われれば反論の余地などないのだ。だからヒトラーなんかもキリスト教徒であるはずだが、彼が救われるかは行いの悪さ故に分からない。彼が全て悪いわけではなくあの頃のドイツの風に任せて演説して意思決定していただけなのだ、とか、いや、それを自分のものにしたのは自分の責任なのだとか考える。ユダヤ人を虐殺したのは悪いことだと思う。彼らはイエス・キリストを信じさえすれば完全なのだ。ユダヤ人として生きていくことは構わないと思うのだ。そこに一点欠けているだけの罪人なのだ。ムスリムとは格が違うのだ。とその辺の評価は人には中々打ち明けられない。ムスリムであるだけで犯罪かと言えば、俺は神の前では罪だと思う。それを積極的に信じているか、それとも消極的に受け取っただけかで処遇は異なると思うのだ。しかし永遠の運命を隔てていることには変わりないと言える。
広場に行く時に通ってきた二番目の並木に近づいていた。俺は木漏れ日が降り注ぐ道を星奈さんと並んで歩いていた。彼女はどこか楽しそうな仕草をしていた。彼女の横顔を眺めてみると、微笑みが見えた。可愛いなあ。俺もこんな人と結婚できれば幸せだっただろう。彼女は今は一人の身なのかもしれないが、やがてこの世界に染まるのかもしれない。十分にその傾向は見られるのである。実際に魔法学校に入学し、卒業までしているようである。俺は前の世界で大学を出るのが実力の限界だった。彼女はこの世界に来た時何歳だったんだろう。日本語が扱えるという状況であるにしても、一人でセーフティネットに引っかかるように動けたというのか。誰かの支援を受けてきたというのか。本当のところは見えてこなかった。俺は別にこれは聞かなくてもいいと思っている。大事なのは今であり、これからである。過去はあくまでも背景に過ぎないのだ。過去に生かされているとはいうが、今に見える分をありがたがっているだけで十分だと思うのだ。俺は星奈さんに「俺は魔法で食っていけますか」と試しに呟いてみた。すると彼女は「どうでしょう」と言ってはぐらかすだけだった。それでもいいが、俺としては生きていけるとも生きていけないともどちらかの評価をもらえればそのつもりで生きるし死ぬ気でいる。死ぬことは俺にとっては生きることより現状難しかったから、仕方なく生きていたし、生きていれば楽しいことも時々やってきた。たまに世界に革命が起こることを期待しているのであれば、俺は自分の部屋のベッドに寝転がって命捧げる時を待つだけで十分である。前の世界は中々停滞していたように思う。二十一世紀になってからというもの進化したのはスマートフォンくらいか、とか人工知能に期待が集まっていたなとか思い出していた。彼女はその辺の事情に詳しいだろうか。俺はというと全く詳しくない。星奈さんの髪が揺れるのを横目にしていた。揺れるといっても風に数本が靡く感じだった。それに触れると全て壊れてしまいそうだった。俺は彼女と一緒に歩いていたが、彼女にとっては幽霊のような存在だったかもしれない。俺にとって彼女は実態があるのかないのか分からないが、確かに彼女も食べ物や飲み物を口にする女性だった。食べない女性はそれはそれで俺は好きだったが、食べる女性もそれはそれで好きだった。結局皆好きなのだし、嫌いなところもある。俺は自分が好きな人には永遠に生きてほしいし、嫌いな人には永遠に死んでほしい。全ての人に同じ態度を取れる人間ではないのだ。そういう意味では神とは程遠いなと感じながら、神でさえ愛する者は愛するし、愛さない者は愛さないのだと言葉にした。俺はこの辺の思想を星奈さんにどう伝えていくかで思い悩んでいた。確かに永遠に生きる者はいるが、同時に滅びる者もいるのだ。その板挟みになっているのが俺であるし、彼女であるというのだ。魔法使いとして生きていく所業に神はどう報いてくれるというのだろう。俺の仕事は俺の食事や睡眠を含めて全てそうだった。雑務をこなしているわけではなかったが、それでも本当に食べて寝るだけの命はあり得なかった。或いは障害者になれば神にも社会にも哀れまれたのかもしれないと思うが、不幸なソクラテスである方がいいのだ。俺はかつて幸福なら豚でも良いと考えていたが、その考えは撤回することにした。俺は自分という存在がどこから来てどこへ行くのか知りたい。神によって賢くされた暁には永遠に知的な生産ラインを拡充していくつもりでいた。ただし、それは死後起こると期待される変化だった。俺はどうにかなると思い込んで生きてきたが、どうにもならないのだと転換した時があった。それが入院中に気がついたのだった。その日以来俺は神に祈り続けているが、俺の言葉を聞くほど愛のある神であるとは信じていない。というより死ななければ話を聞くつもりがないのだ。だから俺は死にたいのだ。死にたいのに死ねないのだ。餓死すれば全てが解決すると信じているが、それは本能が避けたかった。俺は彼女に食べ物を恵んでもらっている身だからありがたく食べるべきだったし、それ以上思い悩むのは先の話にするべきだった。
気が付けば既に噴水が目の前にあった。俺は近くにベンチがあったので、座ろうかと思った。彼女がどうするか見定めようとしていると、彼女から「座りますか?」と聞かれた。俺は願ってもないことだったので、「はい」と答えて彼女と並んで座った。彼女の魔法使いの衣装が噴水の飛沫に濡れていた。それは俺も同じだったが、虹が出ていた。虹は神と人との和解の印なのだよなと考えつつ、噴水を目の前にして、水が噴き上がる様子に魔法を想像していた。ここで俺の魔法を繰り出せば何か新しい現象が起こるかもしれない。いやそんなことを彼女は望まないだろう。では何をしていれば彼女から喜ばれるというのだ? 俺には分からない。とにかく、彼女と言葉を交わすのだ。そんな気でいた。しかし俺と彼女のそれは熟年夫婦のそれだったから、そこに会話がなくても気まずくないのだ。次に何食べようかとか、この都市に根を下ろして生きていくのかとか、他の都市に拠点を移すことがあるのかとか、聞きたいことは色々あった。そのどれも野暮な気がして、彼女の自然に任せればいいのではないか。俺はそこに自分の意思を入れ込む余地がないのだと推察した。俺の科学的根拠のない彼女との生活の延長にある天国での暮らしに思いを馳せていた。本当にできることは数少なかった。彼女と何を話せばいいのかも分からない。その状況を察してくれているのかどうか、彼女は自分の話をしようとはしなかった。俺のことも詮索しようとはしなかった。あなたのことをもっと知りたいと言えば別だったかな。それとも今二人を繋ぎ止めているものはイエス・キリストその人なのだ。と、彼に対する話題を作ろうとしたが、中々難しいのだ。キリストのことだけで生きていくことができれば、俺の命は全てクリアしたようなものだった。それを実現するために修道士になりたいなとか、いや、それは神の祝福を遠ざけることなのだ、とか、それとも人の世で普通に働かないことでも神は祝福されますか、なんて思っていた。修道院というのはどういうことをされている方達の集まりなのか俺には定かでなかった。しかし祈りを生活の根幹に置いていることは想像できた。祈りは仕事か、と、俺には向かないなと思った。俺は言葉として保持できることが少ないのだ。だから、自分の中に祈りの言葉として持っていることは、俺もうこんな世界いやです。生きたくありません。滅ぼしに来てください。ということくらいだった。それもオリジナルの形からは変わっていたから、俺の信仰は原形を留めていなかったのではないか。それでもイエスの復活を正しいと宣言できたあの日から俺の目は開かれている。心に割礼を受けたのだ。また心に洗礼を受けたのだ。そこに人の業を必要とはしないのだ。それでも確かに人と関わることの重要性は分かっている。それでも俺は俺のことを好きでない人とは基本的に絡みたくないのだ。友達も少ない方がいいのだ。友達という言葉の価値を下げずに天国に行くのだ。その所存だった。俺は友達のためなら命を捧げてもいいと思っているし、正直誰のためでなく命を捧げてもいい。安楽死できるならするかもしれない。いや、簡単には死なないのだ。俺は苦しんで死ぬのだ。そのために将来は金がなくなれば犯罪をせずに餓死するのだ。生活保護は貰えればありがたかったが、本当に必要としている人のところに行き渡るべきだったし、病気で働けずに生きているのと、働かずに生きてきたのでは話が違う。果たして俺は病気だと思っているところがあるのだが、俺は障害者ではないはずだった。しかし現実問題としてはそうではなかった。それは悲しいことなのか、喜ばしいことなのか分からない。星奈さんは恐らく健常者だよなと信じたかったが、これは人狼ではないのだ。それが発覚して失われる命でもないのだ。俺は彼女と少しの期間協働していくのだ。ビジネスの関係にやましいことはないが、プライベートでも常に一緒だった。寝食を共にしているんだから仕方がない。そんな彼女は何か食べたいかなとか、食べているところも可愛いんだろうなと考えていた。




