第24話 (2/3)
その9年前
年は14,596年、
嵐のシーズン73日目。
「こちらは園香・ブラックウォーターよ。あなたとは気が合うはず。もしかしたら、いつか結婚することになるかもしれないわね。」
母親はそう言って、彼と同じ年頃の少女を紹介した。その美しさは、一目で分かるほど際立っていた。
彼女は白いレースのドレスを纏い、長い濃紺の髪が腰まで流れていた。
華奢で小柄な体。傷一つない、滑らかで完璧な肌。
ラベンダー色の瞳の奥に、ウェザロンは妙な魅力を感じた。
園香の視線は鋭く、人の目を惹きつける力を持っていた。しかし、それは同時に、どこか恐ろしさを感じさせるものでもあった。まるで、今にも危険が迫っているかのような緊張感――。
彼女は自然そのものだった。雪崩のように圧倒的で、抗うことのできない力。
逃げても逃げられない存在。
母親は彼女をウェザロンの前に残し、大人たちの輪に戻っていった。
彼らはグラスに妖精の血を揺らしながら、互いに興味があるふりをして社交辞令を交わし、投資や財政、貿易法や今回の協定について語り合っていた。
「あなたがルディ?」園香が尋ねた。
「いや、俺はウェザロン。」
「そうなの。私の両親は、いずれルディと結婚するようにって言ってるけど。」
ウェザロンは、その言葉をどう受け止めるべきか分からなかった。
「じゃあ、お前はルディと結婚したいのか?」
園香は首を傾げた。
「さあ? だって、会ったこともないし。」
ウェザロンは彼女の両親のほうを見た。
彼らは談笑に夢中で、こちらにはまったく注意を払っていない。
「庭を案内しようか?」
「いいわよ。」彼女の氷のように澄んだ声には、喜びも怒りも混じっていなかった。
ウェザロンは彼女を連れ、廊下を抜けてテラスへと向かった。その先、城の裏手に広がっていたのは――
約束通り、庭だった。
だが、実際には"森"と呼ぶべき場所だった。
「うちの庭もこんな感じだけど。」園香は淡々と言った。「特別な庭だと思ってた。」
ウェザロンはむっとして腕を組んだ。「だから、特別なんだって! まだ着いてないんだよ!」
そう言って、彼は先へ進み、森の中へと足を踏み入れた。
彼はスマートに腕を差し出し、園香が木の根や落ち葉を跨ぎやすいように手を貸した。
そして、良家の娘らしく、彼女はその手を受け入れた。
近づいた瞬間、ウェザロンは彼女の香りを感じた。
それはまるで雪の結晶のように澄んでいた。
フェニックスの太陽の光が木々の隙間から差し込み、影に包まれた彼らの顔をまだらに照らす。
白樺の木々、青々とした葉、しっとりとした大地――そのすべてが光と影の舞を織りなしていた。
風の音と木々のざわめきが、まるで彼らの歩みの伴奏を奏でるかのようだった。
しかし、その旋律は突然途切れた。
二人が目的地へとたどり着いたからだ。
森の中心部――
とはいえ、それまで歩いてきた場所と大差ないように見えた。
園香は困惑し、周囲の木々を見渡した。
「それで、ここに何があるの?」
「まあ、見てろよ!」ウェザロンはしゃがみ込み、地面に積もった落ち葉や枝をかき分けた。
すると、その下から取っ手が現れ、彼はそれを掴んでハッチを開いた。
「レディーファースト!」
園香は特に驚いた様子もなく、無言のまま指示に従い、梯子を降りていった。
その先に広がっていたのは、緑に包まれた洞窟だった。
足元には、広々とした草原が広がり、周囲を淡い桜色の木々が取り囲んでいた。
風にそよぐ草の間には、不思議な花々が顔をのぞかせていた。
その形は、見たことのないものだった。
まるで雪の結晶のような星々が、何百本もの銀色の糸に連なって咲いている。
種の綿毛が、フェニックスの太陽の光を模した照明の下で、静かに輝いていた。
「この花、何ていうの?」園香が尋ねた。
「俺もよく知らない。でも、綺麗だろ?」
「うん。」
彼女は花畑の中をゆっくりと歩き、そのまま草の上に身を投げ出した。
ウェザロンも隣に横になった。「将来は何になりたい?」
園香は無気力に、荒々しい岩の天井を見上げた。
その岩は、重力に抗うように、その負荷を周囲の壁へと分散させながら静かに存在していた。「まだ分からない。あなたは?」
「俺は、将来医者になりたい。父さんみたいに。病を研究して、みんなを治したいんだ!」
「へえ? 無駄じゃない?」彼女はまばたき一つせずに言った。「みんな、死ねばいいのに。」
「何言ってるんだよ!? 自分が病気になったらどうするんだ? その時になったら、誰かに助けてもらいたいと思うだろ?」
「ううん、思わない。」園香は淡々と答えた。「パパが言ってた。この世界では、強い者だけが生き残るって。だから、弱い遺伝子を持つ人たちがいつか滅びるのは当然のことなんだって。私の家系では、誰もこの病にかかったことがない。私たちは強い。私は、この病気には絶対にならない。だって、私は生まれつき強いから。」
ウェザロンは、不機嫌そうに園香の顔を見つめた。
その美しい顔は、感情の欠如によって冷たく、無機質に見えた。
それでも、彼女は美しかった。
雪のように――息をのむほど美しく、そして同時に、どこか恐ろしかった。
その日以来、ウェザロンは何度も園香のことを考えた。
彼女の言葉が、頭から離れなかった。
病に苦しむ人々を、あそこまで無慈悲に切り捨てる人間に、彼は今まで出会ったことがなかった。
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翌朝、園香は目を覚まし、鏡を見た瞬間、鋭い悲鳴を上げた。
すぐに使用人たちが駆けつけ、事態を把握しようとした。
涙を浮かべながら、園香は両親を呼び、取り乱していた。
「お父様は今、会議の最中でお呼びすることはできません。」
「じゃあ、母さんは?」
「奥様は外出中です。少し待っていてください、お嬢様。きっと大丈夫ですよ。」
「何が大丈夫なのよ!」園香は叫んだ。「私の姿を見てよ!」
視線を再び鏡へ向けると、そこには二本の角の生え始めた自分の姿が映っていた。
ブラックウォーターの血を引くはずの自分が、感染してしまった――
自分は強い者ではなかった。
弱い者だった。
彼女の自己像は一瞬で崩れ去った。
怒りのままに鏡を手で払い落とすと、それは無数の破片となって砕け散った。
使用人たちは慌てて彼女をなだめ、割れたガラスの破片を片付け始めた。
騒ぎを聞きつけ、ウェザロンが開いた扉の隙間から顔をのぞかせた。
彼は、両家の交渉が続いている間、ブラックウォーター家に滞在していたのだ。
園香は彼の姿を見た瞬間、さらに涙を溢れさせた。
「見ないで!」彼女は叫んだ。「こんな醜い姿、見られたくない!」
「そんなことないよ。」ウェザロンは、恥ずかしそうに頬をかきながら言った。 「今でも、お前は綺麗だよ。」
「嘘つき! なんでそんなこと言うの!?」
ウェザロンは、ゆっくりと彼女に近づいた。「嘘じゃない。本当に分からないけど……お前みたいな人は、二人といない。それだけは、確かだ。」
「でも……私は弱いのよ……こんなに醜いものはない……」園香はすすり泣いた。 「生きる価値なんてない……」
「そんなことはない。」ウェザロンははっきりと言った。「だからこそ、俺は医者になりたいんだ。」
その言葉に、園香の心が少し揺らいだ。「でも……どうして? どうして弱い私が、生きる価値があるって思えるの?」
ウェザロンは眉を寄せ、静かに答えた。「簡単なことだよ。お前は、美しいからだ。」
園香は彼をまっすぐに見つめた。
その時初めて、彼の顔が意外と整っていることに気がついた。
ほんのり赤みを帯びた小さな鼻、そして、どこか優しげな瞳――彼女は、それが嫌いじゃなかった。
ふと視線を移すと、使用人たちが黙々と、彼女が生み出した混乱を片付けていた。
彼女の壊れた自己の破片を、一つずつ拾い集めるように。
彼らの動きは滑らかで、無駄がなかった。
窓から差し込むフェニックスの太陽の光が、割れた鏡の破片に反射する。
光の粒が部屋中に舞い散り、そこにいる全員の身体に淡い輝きを落とした。
まるで、この瞬間のために描かれた一枚の絵画のようだった。
その美しさに、息をするのも忘れそうになる。
――それは、深い繋がりを感じる感覚だった。
彼女は涙をこらえた。
今この瞬間、生きているという意味を初めて理解したから。
ずっと目の前にあったものに、ようやく気づいたから。
そして、静かに言葉を紡いだ。「でも……私たちみんな、美しいんじゃない?」
ウェザロンは、少しの間、言葉を失った。
そして、小さく微笑みながら、静かに答えた。「そうだな。でも、お前は――とびきり、綺麗だよ。」
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父親が会議を終えて部屋に来ると、園香は泣きはらした目のまま彼に飛びついた。
「おやおや、一体どうしたんだ?」彼は園香の腕を掴み、その視線をじっと見つめた。「……お前、その顔のそれは何だ?」
再び涙があふれそうになったその時、父親の手が彼女の額に伸び、左側の角をそっと掴んだ。
彼はまず優しくその表面を撫で、それから思い切り引っ張った。
「――あっ!」
彼女は強く引っ張られ、前に倒れるかと思った――
しかし、実際にはバランスを崩し、後ろにのけ反ってしまった。
慌てて後ろ足で踏みとどまる。
父親は、右手にその角を持っていた。
「なんだ、お前仮装でもしてたのか? 今日はコスチュームパーティーか?」
園香は、呆然と父親の指に挟まれた角を見つめた。
その根元には――接着剤の跡?
彼女はすぐさま、こめかみの銀色の糸に指を走らせた。
強く擦ると、ゴムのような質感の何かが剥がれ落ちていく。
「……わ、私は……病気じゃないの?」
彼女の呟きに、父親は微笑んだまま答えた。「そうだ。お前は病気じゃない。」
「……本当に?」
答えを待つまでもなく、彼は園香の表情からすべてを読み取った。
「どうやら、誰かに騙されたようだな。」
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「ウェザロン!」拳を振り上げながら、園香は一直線に彼の元へと突進した。
彼女の額は、もうすっかり綺麗になっていた。接着剤の跡は、一つ残らず消えていた。「よくもやってくれたわね!」
ウェザロンは微動だにせず、ただ彼女の視線を探すように見つめた。 「それでもまだ、俺が医者になりたいって言うの、バカげてると思うか?」
園香はドキリとして、拳を下ろした。
その瞬間、ウェザロンは彼女の淡い瞳の奥に、今までとは違うものを見つけた。
それは、これまで抱いていた恐れを和らげる何かだった。
いつか彼の妻になるかもしれない少女――その圧倒的な存在感に、彼はずっと怯えていた。
だが今、彼は雪崩を鎮めることに成功したのかもしれない。
園香は、まっすぐにウェザロンを見つめた。
彼女の声は、どこか慎ましやかだった。「それでもまだ……私のこと、綺麗だと思う?それも嘘だったの?」