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第33話 (2/15)

 

 3年前

 

 14,602年

 嵐の時期 第10日



「きっと大丈夫だよ、うちの太陽。」父さんはそう言って、夜になって帰ってきた。

 そして、リサレの手に一輪の花を渡した――

 盗まれた希望の形をした、百本の透明な星の糸。

 リサレは花の頭を口に入れ、噛んで、飲み込んだ。

 そのほろ苦く甘い味は、癒しを約束してくれるようだった。

 花を飲み込んだあと、突然、目まいに襲われた。

 ベッドに横になるしかなかった。

 父さんは彼女を寝かせ、優しく毛布をかけてくれた。

 その目に宿る愛情は、彼女が深い眠りに落ちる前に見た最後の光だった。

 再び目を覚ましたのは、居間が騒がしくなったときだった。

「コバヤシさん!おい、コバヤシさん!」

 荒々しい声が飛び交っていた。

 どの声も、聞き覚えがなかった。

 ドン、と音がした。

 その直後、父さんが部屋に飛び込んできた。

 息を切らせ、肩で呼吸しながら。

 頬には赤い斑点が浮かび、

 白髪は乱れて額にかかり、曇った眼鏡の端まで垂れていた。

 ――何かがおかしい。

「すぐに逃げろ!裏口から出て、できるだけ遠くへ行け!俺たちのことは待つな!」

 それ以上の説明はなかった。

「でも……父さんと母さんは……」リサレの頭には、聞きたいことが山ほどあった。

 だが、父さんの顔がすべてを物語っていた。

 彼女は口を閉じた。

 父さんは、彼女の額にキスをした。「私たちは、お前を愛してる。」

 そう言い残し、彼は部屋を去った。

 リサレの耳に、自分の血が脈打つ音が響く。

 数えきれないほどの思考が頭を駆け巡り、

 何をすればいいのかをめちゃくちゃに叫んでいた。

 彼女は髪をかき上げて気づいた。

 角も、鱗も――消えていた。

 肌はなめらかで、病は消えていた。

 本来なら、喜ぶべきことのはずだった。

 だが、彼女はただ、机の上に掛けられた一枚の絵を見つめていた。

 そこには、一面に広がる菊の花畑が描かれていた。

 ……だめだ。

 逃げるだけなんて、できない。

 リサレは勢いよく振り返り、部屋を飛び出した。

 父のあとを追って、階段の手すりまで来たとき、

 居間に集まっていた暗いローブの者たちが目に入った。

 その者たちの衣服には、どれも氷のバラの紋章が刻まれていた。

 ――魔法使いたち。

 スタージス家の手先。

 そして、父さんの同僚たち。

 リサレは柱の陰に身を隠し、手すりの間から下を覗いた。

 四人の魔法使いが、両親の腕を掴んで拘束し、

 その手を背中で固定して逃げられないようにしていた。

「やめろ、放してやれ!」父さんが叫んだ。

「彼女は何もしていない!罰を与えるなら俺だけにしろ!家族には手を出すな!彼らは無実だ!」

 魔法使いたちのうちの一人が、父に歩み寄った。

 他の者と比べて、彼はずいぶん小柄だった。

 その目は漆黒に光り、まるで死者の頭蓋に開いた穴のように不気味だった。

 第一国家魔法使い――

 リサレは彼の名を噂で聞いたことがあった。

 その名声は常に先回りして届く。

 なにしろ彼の姿は、どんな場所でも目を引いたからだ。

 ――深紅のパージェンカット。

 群衆の中でも一目でわかる特徴だった。

 彼は、この百年で最も優秀な卒業生の一人とも言われていた。

 国家魔法使いはリサレの父の肩に手を置いた。

 その瞬間、父は力を失って崩れ落ち、声ひとつ上げることなく動かなくなった。

 リサレの目が見開かれる。

 母がすすり泣きながら叫んだ。

「いや……いやあ! 彼に、いったい、なにを、したのぉぉぉっ!!」

 魔法使いは今度は母に向き直り、その肩を掴んで魔法をかけた。

 彼女の声も、夫と同じように、かき消された。

 リサレは信じられない気持ちで一歩後ずさった。

 ――音を立てすぎた。

 すぐに、自分の失敗に気づいた。

 脳裏に浮かんだのは、ひとつの言葉だけ。

 ――逃げろ。

 リサレは駆け出した。

 足が勝手に動き、家の裏手へと運んでくれた。

 走れば走るほど、目に水が溜まっていった。

 彼女の耳には、魔法使いたちの声が追ってきていた。

「娘もいるはずだ!」

「全員連れて行くんだ! 見つけろ! 永遠にかかってもな!」

 その声を背に、リサレは素早く物陰へと身を潜めながら走り抜けた。

 魔法使いの言葉が、胸の奥にこだましたまま、

 ただただ町をまっすぐ走る。

 どこでもいい。とにかく、遠くへ。

 息が切れてきたころ、初めて彼女は思った。

 ――どこへ?

 必死でまいてきたつもりだったが、追っ手はすぐそこまで迫っていた。

 そして、彼女にはもう体力が残っていなかった。

 息を荒げ、空気を求めて口を開く。

 あと五分も持たない――そんな予感があった。

 フェニックスの太陽が光を弱めていく。

 家々が赤と橙に染まる頃――

 誰かが叫んだ。「見つけたぞ!」

 その声とともに、五人の影が彼女を追いかけてきた。

 リサレは、こぼれ落ちる涙から逃げるように走った。

 人生で最も全力のスプリントだった。

 ――そして、転んだ。

 バンッ。

 石畳に倒れ、必死に立ち上がろうとしたが、体に力が入らなかった。

 疲れていた。

 怖かった。

 両親のことを思い出す。

 希望なんて、もうどこにもなかった。

 リサレはまぶたを閉じた。

 ――両親なしで、どうやって生きていけばいいの……?

「いたぞ!」

 声がどんどん近づいてくる。

「盗みなんかしたら、どうなるか思い知らせてやる!」

 リサレは目を開けた。

 ……どうして?

 どうして父さんが、自分を助けたことを「後悔」しなきゃいけないの?

 どうして、すべての人に与えられるべきものを奪ったことを、悔やまなきゃいけないの?

 彼女の目の前に、黒い迷宮の入口が広がっていた。

 理性ある人間なら誰も足を踏み入れようとしない、地獄のような場所。

 でも、リサレは――もう理性を保ってはいなかった。

 だから、そこへ逃げ込んだ。

 辺りは真っ暗だった。

 自分の手すら見えなかった。

 ランプのようなものは、何も持っていない。

 リサレは、自分から罠に飛び込んでしまったのだと気づいた。

 魔法使いたちがもう追ってこないのは、彼女自身が死を選んだと見なされたからだ。

 涙が一筋、頬を伝って流れた。

 ――クソッ……

 彼女は必死に、暗闇の中でも何かを見ようと目を凝らした。

 この闇に慣れれば、きっと何かが見えてくる。

 きっと時間がかかるだけだ。

 そうであってほしい。そうじゃなきゃ困る。

 リサレは自分に言い聞かせた。

 ――お願い、お願い、お願い……!

 どれほどの時間が経ったのかわからない。

 絶対的な闇に包まれながら、奇跡を待って立ち尽くしていた。

 そして、その奇跡は訪れた。

 徐々に、周囲の岩壁の形が見えてきた。

 目が、ようやくこの世界に順応し始めたのだ。

 リサレは深く息を吸った。

 希望が胸に湧き上がる――でも、喜びはしなかった。

 もう、そんな勇気はなかった。

 やがて視界ははっきりし、黒い霞は消え、ついに彼女は目の前にあるものを見た。

 ――岩に刻まれた四つの切り込み。

 その隣には、トンネルの入り口。

 背後にも、いくつかのトンネルが続いていた。

 リサレは思い出した。

 この切り込み……フレームとゴドが残したものだった。

 彼女はその印に従って進んだ。

 何時間も、何時間も、通路を歩き続けた。

 やがて脚は重くなり、身体はぐったりとしてきた。

 寒さが体を包み、喉の奥は乾燥でひりついていた。

 水を求める渇きに苦しみながらも、リサレは決して足を止めなかった。

 ようやく湖にたどり着いたとき、彼女は水へ飛び込み、夢中で飲んだ。

 喉の渇きが癒えたあと――彼女は初めて、大声を上げて泣いた。

 そして、涙とともに、その湖の岸辺へ、これまで奪ってきたものを返した。

 ~ちゃぽん。~

 音がして、彼女は驚いて振り向いた。

 暗闇の中、水溜まりの端に、何かの影がしゃがんでいた。

 その瞳は明るい赤で光り、

 顔は長い黒髪に縁取られていた。

 口をわずかに開けたその姿から、鋭く尖った歯がのぞいている。

 リサレは凍りついた。

 その野生の人魚は、彼女に手招きをしていた。

 リサレは首を横に振った。

 次にこのモンスターがどう動くのか、じっと観察しながら、

 いつでも逃げ出せるように備えた。

 だが、人魚はそれ以上近づいてこなかった。

 ただその場に座り、じっと待ち続けていた。

 動かずに、ただ静かに。

 リサレの意識がぼやけていく。

 この迷宮の中を歩き続けて、体力は限界を迎えていた。

 冷気が岩壁の隙間から容赦なく入り込み、

 服の袖の中にまで忍び込んでくる。

 本物の太陽がこの火山の中では届かなくても――

 その沈みゆく気配だけは、はっきりと感じ取れた。

 温度が下がっていく――それこそが、黒い迷宮が危険とされる最大の理由。

 リサレには、ここで夜を越す力はなかった。

 考えなきゃ……と、彼女は思った。

 でも、何も浮かばない。

 寒い。

 身体が震える。

 彼女は丸まった。

 意味はなかった。

 まぶたが重い。

 このまま眠ってしまったら――

 ……寒い。

 ……あの人魚が……

 リサレの瞼は、ゆっくりと閉じられた。



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