第29話 (2/3)
茫然としながら、リサレはエンギノの隣の空席を見つめていた。
彼の声は、綿の奥から聞こえるようにぼんやりと、鈍く響いていた。
まるで麻痺したように、彼女はその場にうずくまり、すべてが失われたと悟った瞬間に凍りついていた――フレームを失ったと、理解してしまったあの瞬間に。
彼のゆがんだ笑みが、目の前にはっきりと浮かぶ。まるで、本当にそこにいるかのように。
「もういいよ。……頑張ってくれてありがとう。」
幻想のフレームは、パブロンの隣で腕を組みながら、彼女の正面に座っていた。
「大丈夫。……僕は、もう家に帰りたいと思ってる。」
緑の前髪の下で、海のような青い瞳が光る。「……一緒に来る?」
リサレには、答えるべきか分からなかった。
だって彼は――本物じゃない。
心が見せた幻だった。
死者の姿を見た気がするのは、これが初めてではない。
闇の森で過ごしたあの三年間が、彼女の中に爪痕を残した。
彼女はもう正常ではなかった。
壊れていた。
捨てられたガラス瓶のように、割れた心は二度と元に戻らない。
できることがあるとすれば――それは、一度溶かしなおすことだけ。
「……一緒においで。」
彼女にしか見えないフレームがささやいた。「みんなで一緒にいよう。もう、平和に暮らそう。君の両親も、こっちにいるよ。」
リサレの目が潤み、唇がかすかに震えはじめた。
「みんな君を待ってる。……僕も待ってるよ。」彼の言葉は、羽毛布団のようにあたたかくて、抱擁のように甘かった。
何度もまばたきして、涙を振り払う。
必死で――生きるために、目を開けていた。
「……考えてみて。」幻想のフレームはそう言い残すと、ふっと消えた。
現実が彼を飲み込んだ。
残されたのは、空の座席だけだった。
目が焼けるように熱い。
こめかみの奥で頭痛が脈打ち、鋭い痛みが鼻の奥まで突き抜けた。
リサレはただ、そのベンチを見つめ続けた。
でも、何も起こらなかった。
もう、何も起こらない。
すべては――終わったのだ。
「着いたぞ!」モスが叫んだ。
彼は旅行ドラゴンを操って岩の張り出しの下、隔離ゲートのセキュリティパネル前まで進ませた。
エンギノが手をセンサーに当てると、折りたたまれたパネルが左右に展開した。
10、9、8秒。旅行ドラゴンが隔離室に進入する。
7、6、5秒。システムが加熱を開始する。
4、3、2秒。内扉が開かれた。
周囲の世界は、火がつくのを待つ油の溜まりのようだった。
リサレはその中を泳ぐことを諦め、沈みゆくばかり。
音はすべて、涙に濡れた体が築く壁に吸い込まれていく。
その壁は、彼女を五感から、そして自分自身から守っていた。
~みんな君を待ってる。僕も待ってるよ。……考えてみて。~
フレームの声が肩の上、耳元からささやかれる。
その死んだ息遣いが、彼女の首筋をかすめた。
「……あなたは幻……」リサレは、かすれる声で囁いた。「あなたなんて……いない……」
旅行ドラゴンが最後の門の敷居をまたぐと、乗っていた馬車がゆらりと揺れる。
着陸地点にたどり着き、三人は馬車から降りた。
地に足がついたその瞬間、隔離室ステーションから怒鳴り声と共に鬼の形相をした軍曹が飛び出してきた。
「誰の許可で街を出た!?」ツバを飛ばしながら怒鳴る。「エンギノ!聞いてんのか!?」
パブロンさんは、閉じた隔離ゲートの雪の結晶模様にじっと見入っていた。
まるで、それを見るのが初めてであるかのように。
しかし、宙を見つめるその視線は、軍曹の一撃によって遮られた。
拳が顔面にめり込み、エンギノは後ずさる。
彼は鋭く息を吸い込み、ゆっくりと顔を上げた。
その視線がリサレと交わった瞬間――表情が変わる。
茶色だった瞳が、真っ赤に燃え上がった。
これこそ、最初に出会ったエンギノだった。
「おまええええっ!」彼は吠えながらリサレに突進し、地面に組み伏せた。
彼女には、抵抗する力が残っていなかった。
無駄だった。
このまま殴り殺されてもいいのかもしれない。
そうすれば――両親に、そしてフレームに、また会える。
モスが走り寄り、仲間の肩を掴んで彼を引き離した。
「彼女は危険だ!」エンギノが叫ぶ。「父さんのところに連れて行くんだ!」
軍曹の視線が、地面に横たわるリサレと、興奮したパブロンの男との間を行き来する。
「デタラメだよ」モスが言った。「彼女にフラれて、八つ当たりしてるだけさ、なあエンギノ?」
エンギノはうなり声を上げ、モスの腕を振り払おうとするが――無駄だった。力では、モスが上だった。
軍曹がリサレの前に立つ。「おまえは猟師じゃない。地上で何をしていた?」
――そうだ、自分は何をしに地上へ行ったのか?
希望を? 探していた?
「おまえを拘束する。話は後で聞く。」
そう言って、軍曹は少年たちに向き直る。
「ラヴァレ、おまえはエンギノを部屋まで連れてけ。落ち着かせてやれ。」
その瞬間、リサレの中で何かが動いた。
このまま終わらせてはいけない。
今拘束されれば、きっとどこかへ連れていかれる――両親のように。
そうなれば、全てはスチュルジス家の思う壺だ。
あいつらはまた、自分の罪をなかったことにする。
また、勝つのだ。
歯を食いしばり、リサレは思い出す――
この三年間で、失ってきたすべてを。
スチュルジス家には、もう誰の命も奪わせない。
二度と、誰の命も。
頭の中に、あの赤毛のスチュルジスの蒼白な顔が浮かぶ。
「俺の死体を踏み越えていけ」それが、フレームの問いに対する彼の答えだった。
父がそうなら――
きっと、息子もまた同じだ。
「ならば、こちらもそうさせてもらうよ、ピーター。」リサレは囁いた。 「あなたの言う通りだった。大人ってやつは、時に、やりたくないことをやらなくちゃならない……時に、優先すべきことがあるの。」
彼女は筋肉に力を込め、一気に立ち上がった。
そして――走り出した。
全速力で。
旅行ドラゴンのもとへ駆け寄り、鞍に飛び乗り、ドラゴンの首元に顔を寄せる。
「お願い……逃がして。せめて、街まで。」
ドラゴンは、答えるように翼を大きく広げ、飛び立った。
「こらっ!止まれッ!」軍曹が怒鳴る。その怒声は、ツバ混じりに飛び散る。
しかしリサレは、もはやその射程圏外だった。
言葉だけが、彼女を追いかける唯一の武器だった。
だが、軍曹の言葉には――
彼女を止める力など、何もなかった。
リサレは乗用ドラゴンの背で、隔離トンネルを駆け抜ける。
目指すは――ニューシティ。