絶対核家族至上主義者・ブリカス
これも有名な話だが、英仏は途中まで同一の国だった。
仏独は11世紀に別れたとみて良いが英仏の結婚生活は15世紀まで続いた。
百年戦争で断絶されるが、それまではけじめのない関係だった。
そのイギリスも、とくにイングランドはローマ帝国の直轄領だった。
それでここでもローマが残した大規模農場が荘園として残存した。
このため他の平等主義核家族地域と同じように核家族が保存された。
だがイングランドの核家族は平等主義核家族とはかけ離れていた。
かれらは相続を、遺言により自由に決め、子供への平等性を気にしなかった。
この不平等さは遺言を残す風習にあるのではないかとされるが詳細はまだ不明。
注意が必要なのはこれは、直系家族の長男に全相続のような定型がないことだ。
遺言により例えば次男に全相続、次女に全相続なども可能で例もあるようだ。
すなわちここには平等はなかったものの「自由」があった。
この家族型も、例に漏れず16世紀の宗教改革の煽りを受ける。
イギリスの宗教状況は複雑で、国教会とプロテスタントが実戦に入る。
イギリスは一時共和国となったりクロムウェル独裁となったりと混乱している。
結局国教会の元鞘運営となるが、家族システムはその他地方と同じく強化された。
イングランドで強化されたのは「核家族」そのものの部分だった。
16世紀以後の資料を見ると、イギリスは狂信的な絶対核家族主義者に変化した。
すべての子供はティーネイジャーとなると、末子さえも家から追い出される。
男子の75%、そして女子もなんと67%が10代で生まれた村から他所へ転移した。
某村落の教会記録では、100戸余の内、2カップルある家は1戸のみだった。
このような「核家族化」に厳格な型を絶対核家族と呼ぶ。
彼らは遺言で自由に振る舞い子供の同居をほとんど許さない。
ブリカスの子供たちはニートはおろか成人後の一時的な同居すら許されない。
子供たちはティーネイジャーに達するとほぼ生まれ故郷の村から放出される。
富農の息子さえ「派遣の慣例」という風習で外に出された。
この積極放出は、間違いなく近親婚回避のためだった。
近親婚不可で数百人が限度の村落の場合、外に出なければ婚姻できないのだ。
それでもあまりに早い放出のため、初婚年齢はかなり上昇した。
生涯独身率も、ここでも24%まで上がったという。
英仏独の家族型に共通しているのは、16世紀の宗教改革の影響を受ける点である。
それまでは核家族や直系家族といっても厳格ではなかった。
だが宗教改革の煽りを受けて、それぞれの家族型が先鋭化している。
イギリスが光るのは、性根が入った先鋭化だったことだ。
厳密に核家族化を遂行すると、老いた夫婦や孤児、未婚者等の規格外が発生する。
通例それらは各近親家庭に収容されて扶養されるものである。
だがこの扶養を各家庭に委ねるという事は、核家族化の妨げになる。
このためイギリスは弱者への福祉に打って出た。
ブリカスはなんと関ヶ原の合戦の翌年1601年、救貧法を制定したのだ。
この福祉は伊達でなく、1660−1740年に11万件もの給付記録が残る。
統計的に人口の5%、60歳以上の高齢者の45%が給付を受けていた計算となる。
またその給付額も成年労働者の80−90%が目安とされたという。
社会福祉は、ドイツ帝国のビスマルクによって始まったと言われる。
明確な間違いで、その始まりは安土桃山時代のブリカスである。
ちなみにこのような法ができるという事は、以前より習慣があったことを示す。
事実それ以前にも、荘園主や富農や貴族が地域の弱者に給付していた事が確認できる。
中世に出現したこの福祉の目的は、権力者の利益を超えた位置にある。
なぜなら核家族への助力とは、自領の若い労働力を他所に渡す事になるだからだ。
それは権力者にとって財産の毀損と同義になる。
これを可能にしたのは宗教の力・信仰心が故である。
荘園主にしろ富農にしろ貧農の核家族を扶養を請け負ったのは、キリスト教の教え、近親婚厳禁を下々に厳守させるためだ。
イギリスの村落は平均200人程度しかいない。
子供を村から放出しない限り、近親婚は避けられないのだ。
だから自らの財産とも言うべき小作農の子供たちの放出を、弱者扶養までして積極応援した。
この傾向は16世紀の宗教の激化に並行して激化した。
そして救貧法が制定され核家族は絶対化され、絶対核家族となった。
ブリカスはユニークと言われるが、調べるとそれほど違いはない。
だが安土桃山時代に福祉を確立した点は間違いなくユニークな点だった。
そしてこれがイギリスのその後の勃興の最大理由となる。
女性6割以上、男性7割以上が生まれ故郷を離れる体制は人口流動制が高い。
このためイギリスで素早い都市化が完了した。
イギリスは史上最初に人口の半数が都市居住民となった国家でもある。
そして潤沢な都市の若年人口こそ、産業革命の基盤となる。
ドイツの項で見た通り、核家族よりも直系家族地域の方が識字化は早い。
それにもかかわらずイギリスが、史上最初に産業革命を成し遂げた。
理由は核家族の保全からの国家の都市化にあったわけだ。
少子化に苦しむ現代において、英仏が高い出生率を維持する理由もここにある。
都市化により総人口の過半が都市に移行するのが現代社会である。
そして都市は、ローマ帝国時代と変わらず直系家族や共同体家族が狭くて作れない。
養老孟司は少子化の原因を、東京なんかで人が暮らせるか、と言った。
この場合の「人」は、「直系家族思考の人」と置き換えられるだろう。
元来、都市とは、核家族のみ生存可能な空間なのだろう。
日本の若い女性が、親の面倒を見る長男は普通の男ではないと言った。
ネットでかなり叩かれたが、核家族が主流の現状では彼女たちの方が正しいだろう。
核家族には親の扶養は重すぎる負担となる。
大規模家族型をしていた国々は、家族概念の変遷に戸惑い対応できていないのだ。
ただし事情がわかると、誰かを責めるのは難しくなる。
なにしろ家族システムは一度の変更に1000年、5000年かかってしまう。
それを現代のわずか2世代(50年)で直系家族は死に絶え核家族が台頭した。
制度上の混乱が生じるのは当然だろう。
ともかくこのようにイギリスはフランスと同様、核家族を確立した。
そしてここから、英仏から近代化の鍵「自立した個人」が立ち上がるという。
核家族は幼少の子供を家庭から放出する。
両親の元に戻らぬ自立した人間から自立した個人が立ち上がる。
それは共同体家族の父権で自立を妨げられる子供との鮮やかな対比となる。
自立した個人がなければ近代化は実現しない。
英仏の専門家は、自らの家族システムを、こう得意げに語る事が多い。
ただこの、核家族から「自立した個人」が立ち上がる、という主張は鵜呑みにすべきでない。
イギリス、そして核家族をとるフランスの歴史を見ると「自立した個人」という強いものよりも、むしろ個人と家族の弱さが目立つ。
核家族から自立した個人が立ち上がるのは事実かもしれない。
だがその核家族は、これまで見た通り、手厚い手当がなければ成り立たない。
イギリスにおいてそれを可能にしたのは、近代思想である「平等」とは程遠い階級社会なのだ。
荘園主、富農、貴族等の上層階級の福祉が、貧農の絶対核家族を実現させたのだ。
その動機は16世紀キリスト教の激化であり、キリストの教義・近親婚厳禁を下々にまで実現させるためだった。
これは非常にイギリス的=絶対核家族的である。
絶対核家族は自由を大切にするが、平等を露ほども気にしない。
厳格な階級社会の中で、ようやく成立可能だったのが絶対核家族なのだ。
これが近代化の鍵だとされると、フラ公がフランス革命で掲げた錦の御旗「平等」の立つ瀬がない。
しかし現代でこの平等が、あまり顧みられてないのも事実ではある。
イギリスで近年、この伝統の福祉が絶ち切られた。
サッチャーの始めた新自由主義が福祉を止めたのだ。
するとイギリスの絶対核家族は、これほどの伝統にもかかわらず即座に揺らいだ。
家庭が貧困し、子供は両親の家から出られず、親族の助け合いが復活した。
驚くべきことに一部では近親婚(イトコ婚)すら復活傾向にあるという。
それは絶対核家族から未分化核家族への巻き戻りのようにも思える。
パラドクス的だが「自立した個人」の原資となる核家族の保存には社会の大きな支援がいる。
核家族は、支援がなければすぐに壊れるほど、非常に弱いものだ。
まして核家族の中に存在する個人は、それ以上にか弱い。
===============
英仏独の記述をみて驚くのは、トッド先生が宗教をかなり重視している点だ。
以前は家族型がすべてに優先し、宗教はその後についてくると書いていたと思うのだが。
16世紀の宗教改革が、欧州のすべての家族型を活性化し激化したことを明記している。
やはりナポレオンの言う通り、想像力こそが人と禽獣を分けるものなのだろう。
近代化、歴史には大枠があり大枠のながれは変えられるものではない。
だから人間の想像力程度が、これほどまでに歴史を変幻させ、時に逸脱させられるものだというのは驚きだ。