女性の落下・遊牧民父系核家族という脅威・共同体家族の発現・中国
中国は日本よりも歴史が長く、農耕開始は9000年前から確認されている。
また中国は日本と違い漢字を創作した。
ただし冶金(青銅器)は西方から伝達した模様だが。
ともかくも甲骨文字の発見は紀元前1500年となる。
+2000年、計3500年前に農耕が開始された。
+5000年すれば農耕開始時期とだいたい近似するだろう。
また最初の中華王朝・殷は紀元前1600年頃、3600年前に成立した模様である。
殷(商)の状況は甲骨文字にかなり残っている。
殷の王が死ぬと、弟が後を継ぎ、その後長男の子供が後を継いだという。
これは王家でさえ長男を継承者とする直系家族の風がなかったことを示す。
また兄弟の継承を示唆している一方、女性への配慮も十分にあった。
甲骨文字は、王が母親や女性の先祖へ多数供養したことを残している。
甲骨文字の記録によれば商朝末期から周王朝にかけて、長男相続が根付いたと判ぜられる。
周辺への伝播には多少時間がかかったようで、かつ中国には広さもあった。
上海広東という地方には、いまだ核家族の痕跡があるともいう。
ともかく紀元前1000年ごろから直系家族期が始まった。
この時代に中国由来の差別的なものが出ているのは特筆すべきで代表は儒教だろう。
父>兄>弟、男>女というイデオロギーが完全に固着した。
ただ中国は広く、日本にはない別の要素が存在した。
現在の中国の内モンゴル自治区、甘粛省に遊牧民がいたのだ。
彼らは当時中華の西端で秦と呼ばれる国家と隣り合っていた。
遊牧民、特に馬を使った遊牧民の誕生は、3500年以上前という。
彼らの分布は非常に広く、西はウクライナの果てから東は満州となる。
遊牧民の家族システムは当初は未分化な核家族だった。
だが彼らは中東で定住農耕民と接した。
遊牧民は定住農耕民を羨ましがった。
とくに農耕民が生み出す青銅器や鉄器は高性能な馬具をもたらす。
遊牧民の暮らし方ではそれらを真似できない。
ただ真似できる部分もあり、それが直系家族だった。
だが長子に2倍の財産を残す意味は遊牧民にはない。
遊牧民の活動限界は上述の通りウクライナから満州までと広大すぎる。
ゆえに遊牧民が着目したのは長子優遇ではなく、男子優遇、男尊の部分だった。
家族内で男子を尊重し、女子を軽視すると何が生じるか。
それは男子に無条件で居場所を与えることであり父への畏怖が生まれる。
これは家族の軍隊化と同義であり、家族内男子の兵士化になる。
やり方は簡単で、未分化核家族時代にもあった一時的同居核家族化である。
ただし遊牧民はこの一時同居を、父方の家族のもとに限定したのだ。
未分化の時代であれば、母方の家族のもとに一時同居することも多くあった。
それを廃し、父(男)側に力点を置いた。
他にも未分化核家族には、近接居住核家族という読んで字の如くの形態がある。
これについても父方の核家族のみが近接居住するスタイルに変更した。
それまで父に比べてほとんど同等の地位があった母方を落としたのだった。
戦闘力を高める、という意味で父系の核家族は決定的に優れていた。
権威的に統率される、というのは軍隊の第一歩だからだ。
今ではウクライナから満州に至る遊牧民の全てが、父系核家族を取る。
これは父系核家族が、そのほかのシステムを駆逐したためと思われる。
父系核家族という強力な家族システムを取る遊牧民と定住農耕民は隣地する。
するとその化学反応として、農耕民側にも変化が起こる。
もっとも大きな化学反応は戦闘力を増した遊牧民が侵攻する事で生じる。
馬の機動力+家族を軍隊化する父系核家族の威力は凄まじい。
その代名詞モンゴルの名は今なお世界に鳴り響く。
ただしただ隣地して暮らすだけでも効用はあった模様で、それが秦に見える。
古代中国史は知らないが、トッド先生曰く当時は馬の引く戦車が主力だった。
秦王はこれを廃し騎兵部隊を導入した。
隣地する遊牧民の影響は確実と思われる。
そしてこの時、どうやら父系核家族の戦闘力を理解し、幾らかを導入したようだ。
始皇帝はその後広東省を征服する軍隊を動員する。
その際、浮浪者や自営業者と並んで、極貧のため婿入りして身売り同然の男子が徴兵されたとある。
極貧のため婿入りした男子とは後の蔑視の視線と思われる。
それはつまりは母方居住の男であり、父系をとる秦朝がそれを嫌った処置だろう。
ここに直系家族と父系核家族の融合が始まった。
融合の仕方としては、より戦闘力を高める方向を取る。
すなわち父のもとにすべての兄弟=男の子供が残りそれぞれが家族を作る。
1つの家族に3つ以上のカップルが入る共同体家族の誕生である。
共同体家族は父親が権威的であるも兄弟は同率とされている。
これを証明するのが紀元前127年の推恩の令となるとか。
ただしこの段階で共同体家族化が完了した訳ではまったくない。
むしろ端緒についたばかりと言える。
その後中国をたびたび襲う父系核家族の遊牧民の侵攻が徐々に彼らを変えた。
始皇帝から始まった共同体家族が完全に中国に定着したのは1100年前となる。
直系家族から共同体家族への転換は都合1000年かかった計算になる。
直系家族は入婿のように実は割と女性の地位を落とさないからだ。
共同体家族は完全に女性の地位を落とし、後継の条件として認めない。
そのため完全に共同体社会が根付いた時期は、女性の地位の落下を確認すればよい。
すなわち女性の地位の完全落下を示す纒足は、紀元900年に現れた。
これをもって中国の共同体家族化が完了したと見て良い。
ただし直系家族の記憶も残る模様で、儒教はそれ以後も尊重された。
また兄弟は平等とされながらも、年による序列は厳格につけられるのが中国の特徴となった。
ともかくもこのようにして出来上がった共同体家族であるが、この家族形態は危険だった。
父親に権力が集中する一方、息子の妻たちの確執が甚だしかった。
このため父親が死ぬと、共同体家族は速やかに解体に向かう。
非常に緊張を孕み、壊れやすい家族構造だった。
そのためか中国がとった形の共同体家族形式は、その後爆発的解体を迎える。
これには共産主義という二重破滅の想像力が絡むため、ロシアの項で見る。