05.婚約者と軍馬
副官殿が何か物言いたそうにしていますが、誰が何と言おうとこれはデートです。
辺境伯家のタウンハウスの敷地内には、王都内にある屋敷としてはなかなかの規模の馬場と厩舎が備え付けられていた。
武を重んじる辺境伯家らしいその場所に、その日は幼女の涙混じりの声が響き渡った。
『アリーもいっしょにいくー!』
『今日はダメだよ。ウェリアの丘まで日帰りで行くから、かなりの早駆けになるんだ。今度また連れていってあげるから……』
『やだー! きょうがいい!』
『やれやれ……困ったな』
身に馴染んだ乗馬服姿の婚約者は、自分の愛馬に縋りつこうとして乳母に止められている妹を扱いかね、こちらを伺ってくる。
『……俺は構わないが……』
『ダメ! 私が構う! 神話歴の春の月七日に女神が降臨して若菜を摘んだという伝承を再現して、具体的にどんな野草を摘んだのか、文献と比べるためにサンプルが必要なんだ! ちなみに春の月っていうのは大陸歴でいうと……』
『……というわけだ、アリー』
『ふぇ……』
幼いながらも、こういう時の姉に言葉が通じないことは理解しているらしい。アリーチェは乳母のスカートの裾を握り締めながら、必死に涙を堪えていた。
デメトリオは愛馬から降りると、アリーチェと視線を合わせるために彼女の前にしゃがみ込んだ。
『アリー』
『クマのおにいちゃま……』
『ウェリアの丘には王都の中では見かけない花も咲いている。土産に摘んでくるから、マリと一緒に待っていてくれるか』
『……いっしょにいっちゃダメ?』
『今日はな。だが、アリーが自分で馬に乗れるようになったら、その時は一緒に行こう』
アリーチェは少し考え込んだが、ようやく小さく頷いてくれた。
『いい子だ、アリー』
ふわふわの金髪を撫でると、ようやくいつもの笑顔が戻ってきた。
『やくそくよ、おにいちゃま。アリーがおうまさんにのれるようになったら、いっしょにつれていってね』
『あぁ、約束だ』
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ソレ伯爵家を訪れてから数日後。デメトリオはアリーチェを誘って王都郊外の牧場へと出かけていた。
牧場とはいっても、小動物と触れ合えるとか、酪農体験ができるといった観光客向けの施設ではない。
「何て綺麗な毛並み! それに、乗馬用の馬よりずっと大きい……」
「軍馬には強さと体力、それから戦場でも一歩も退かぬ胆力が求められる。何世代にも渡って野生馬などと交配を繰り返し、それでも実際に戦場に出られるものは半分にも満たないそうだ」
「皆様の知恵と努力の賜物なのですね」
二人が真剣に見入っているのは、王家の勅命で育成されている軍馬だ。
王家直轄の牧場であるここでは、王城に納められる乳製品を賄うための家畜の他に、軍馬も飼育されている。
調教師や厩舎に勤める者達は王城の使用人と同等の身分が保証されており、ここで育てられた馬は騎士団や国軍へと配属されていくのだ。
「軍馬以外にも、王族に献上されるものや近衛隊の儀式に用いられる馬もいるはずだ」
「あちらにいる細身の子達でしょうか。とっても綺麗な子ばかりですわ」
「あれは手柄を立てた騎士に褒賞として贈られる馬だな。どれも一流の血統を誇るものばかりだ」
「まぁ……道理で」
今日のアリーチェは、貴族令嬢が狩猟の見学やピクニック――要するに、野遊びに出る際の装いだった。
落ち着いた色みの赤いドレスは装飾こそ控えめだが、くるぶし丈のスカートの裾や襟元などに榛色で凝った刺繍が施され、まるで青々とした草原に咲いた一輪の花のような愛らしさだ。
だが、華やかなドレスとは裏腹に、華奢な足元はしっかりと履き込まれた飴色の革の編み上げブーツで固められている。
豊かな金の髪を編み込んでまとめている点も、日差し除けのために日傘ではなくボンネットを選んだ点も、実用性を重んじるデメトリオには大変好ましかった。
「デメトリオ様の愛馬も大柄な子ですよね。真っ黒で目の間だけ白い、とても賢そうな子。確かお名前はマキシモでしたかしら」
自身の愛馬の特徴や名前までさらりと口にしたアリーチェに、デメトリオは僅かに瞠目し、頷いた。
「よく知っているな。俺の体格と戦い方では並みの馬ではもたないと言われてな。特に軍馬の血が濃いものをこちらの牧場から譲り受けたのだ」
「ではここは、マキシモのご実家でもあるのですね」
その後もアリーチェは、馬場を駆け回ったり草を食んだりと自由に過ごす馬を飽きる様子もなく眺めながら、デメトリオに質問を投げかけたり、近づいてきた馬の鼻先に触れたりと、牧場の散策を楽しんでいるように見えた。
――二人目の婚約者との初デートの場所を伝えた時、目を剥いたヴィートに正気を疑われた。
曰く、年頃のご令嬢は馬が勇ましく駆ける姿よりも、美形の役者が歌い踊る姿を見る方が喜ぶものらしい。
しかしデメトリオは、マリアンジェラの「あの子の芯は変わらない」という言葉を信じて押し切った。
小さな淑女は先日屋敷で結婚を申し込んだ時よりもずっと自然な笑顔を見せているので、今のところデメトリオの判断に間違いはないようだ。
「アリーチェ嬢も以前、乗馬を習いたいと言っていたな。その後は如何された」
「姉に教わって多少は練習しましたが、馬の方が儚くなってしまってからはすっかり遠のいてしまいました」
「何と。代わりの馬はいなかったのか?」
「我が家の馬も軍馬の血が混じったものが多く、気性が荒かったり体格が良すぎたりで、私に合う子が見つからなかったのです。練習に付き合ってくれていた子はもともと姉の愛馬でしたが、かなり老齢でしたし」
「姉の……もしやノエミか?」
「まぁ! 覚えておいででしたか」
「もちろんだ。月毛が美しく、賢い馬だったが……そうか。亡くなったのか」
騎士や兵士と同じく、馬もデメトリオにとっては大切な戦友だ。
ルドヴィカの愛馬だったノエミは戦場にこそ出ることはなかったが、彼女の奔放さに振り回されたという意味では一番の同志と言えるだろう。
デメトリオは自然な仕草で目を閉じ、亡き同志の冥福を祈った。
その様子を見守っていたアリーチェは、ドレスの隠しから小さな包みを取り出すと、目を開けたデメトリオに差し出した。
「デメトリオ様」
「これは?」
「……革のものは丈夫だけれど、通気性が良くないと伺いました。お屋敷で過ごされる際などにお使い頂ければと思いまして」
受け取った包みを開けると、中から出てきたのは黒いシルク製の眼帯だった。
よく見れば、銀混じりの黒い糸でスパーダ家の紋章とデメトリオのイニシャルが複雑にデザインされた形で刺繍されている。
光の加減で浮かび上がるそれは、目立たないのが惜しいと思わせるような素晴らしい出来だった。
「この刺繍はアリーチェ嬢が?」
「マリお姉様ほどではありませんが、私も嗜む程度には刺せましてよ」
「あぁ、ソレ伯爵夫人は職人顔負けの腕前だとサミュエルが自慢していたな。……しかし、これもなかなか見事な出来だ」
「お褒めに与り光栄です」
つんっと澄ました顔で礼を述べるアリーチェの頬には、僅かに朱が走っている。
それに気付かないほど刺繍に見入っていたデメトリオは、贈られた眼帯をいったんアリーチェに預けると、自身の頭に手をかけた。
「デメトリオ様?」
「あぁ、せっかくだからここで着けてみようと思ったのだが……すまない、少しあちらを向いていてくれないか」
「なぜです?」
「ご令嬢に見せるにはそぐわないだろう」
その途端、アリーチェの眦がいつぞやの玄関ホールの時のようにきっと吊り上がる。
ただ、その目に滲むのはあの時のような侮蔑の色ではなく、やるせなさと悔しさだった。
「見くびらないでくださいませ。私は北限の守りを預かるガレッティ家の娘、ゆくゆくは辺境伯の妻となる者です。夫となる方が国を守るために負われた傷を見て怯えるような薄情者ではございませんわ」
「アリーチェ嬢……」
勇ましくもいじらしい婚約者の言葉に圧倒されたデメトリオは、素直に謝罪を口にした。
「すまない、失言だった」
「許します。ところでデメトリオ様、そのお召し物で地面に腰を降ろすことに抵抗はございまして?」
「いや」
「ではこちらに座ってくださいませ。私が着けて差し上げます」
言われるがままに青々とした草の上に腰を降ろすと、アリーチェはドレスが地につくことも厭わずにデメトリオの正面で膝立ちになった。
眼帯の紐を緩めるためにアリーチェが身を寄せると、甘い花の香りがふわりと漂った。
ソレ伯爵家で振る舞われた紅茶に使われていたような南国の花ではなく、厳しい環境にも負けずに生き抜く可憐で小さな北限の花を思わせる香りは、辺境伯家を守ろうと常に背筋を伸ばしているアリーチェによく似合う。
目を閉じてその香りに想いを馳せている間に、すでに身体の一部にように馴染んでいた眼帯が外された。
アリーチェは一度姿勢を戻すと、傷痕の残る右目にそっと触れた。
「痛みはありませんの?」
「もう一年も前のことだからな。時折引き攣ることはあるが、それも慣れた」
「……」
じっと傷痕を見つめるアリーチェの表情に、嫌悪感は見られない。
ただただ気遣わし気な視線を受けて、デメトリオは妙に据わりが悪い心地をごまかすようにもぞりと身動ぎした。
「アリーチェ嬢」
「あ……申し訳ございません! 今着けますので」
名を呼ばれたアリーチェは慌てて自身が作った眼帯を手に取ると、再び身を寄せながらデメトリオの右目にそれを宛がい、元のものと同じ位置で紐を結んだ。
目に当たる部分はシルク製だが、紐は解けにくいようにわざわざ別の素材を編んだ平紐が使われており、アリーチェの細やかな気遣いが伺える。
「加減はいかがですか? きつすぎたりしませんか?」
「いや、大丈夫だ。鏡はあるだろうか」
「はい。こちらをどうぞ」
アリーチェが差し出した小さな手鏡を受け取り、デメトリオは「ふむ」と頷く。
「布製の眼帯は病人のように見えると思い込んでいたが、これは立派な装飾品であるな」
「恐れ入ります」
「着け心地もさることながら、何より風通しがいい。これから暑い季節に向けてありがたい品だ」
「お気に召して頂けてよかったです」
一針一針丁寧に刺された刺繍に触れていると、実家や騎士団で耳にした古くからの風習が思い出される。
「……武功と無事の帰還を願って恋人から贈られる刺繍入りのチーフは、騎士の憧れだ」
「っ……そう、ですわね」
「俺には無縁のロマンだと思っていたが、まさかこの年になってこのような品を贈られるとはな」
「えっ!?」
デメトリオの言葉に、アリーチェは令嬢らしからぬ声を上げた。
「どうした?」
「あ、あの、刺繍入りのチーフ、お持ちではなかったのですか?」
「そうだな」
「で、でも、姉からは……」
「ルドヴィカか? 君も知っての通り、彼女の刺繍の腕前は少々芸術的過ぎてな。実用に耐えんということで、結局日の目を見たものは一つもなかった」
「えぇ……」
アリーチェは呆然とした様子で「そんな……十年も婚約していらしたのに……」とか、「でもお姉様が刺繍を完成させたところ、見たことないかも……」などと呟いている。
デメトリオはそんな婚約者の横で何度も刺繍を指先でなぞりながら、満足そうに口端を引き上げるのだった。