03.婚約者の姉、もしくは元婚約者の妹①
②は区切りの関係で少し短めになります。
『どうしたんだ、アリー』
『クマのおにいちゃま……』
大粒の涙を零す幼女を抱き上げると、彼女はぐりぐりとデメトリオの胸元に顔を擦りつけた。
婚約者一家とのお茶会のために下ろしたばかりのクラバットが少々濡れたが、愛らしい未来の義妹のためならば尊い犠牲だ。
『マリおねえちゃま、今日もおちゃかいに出られないって』
『あぁ。俺もさっきルディから聞いた。昨夜から熱が下がらないらしいな』
『マリおねえちゃま、とってもくるしそうなの……いっしょにいて、よしよしってしてあげたいけど、アリーもおねつが出ちゃうかもしれないからダメって、エレオノーラおねえちゃまがおっしゃるの』
『そうだな……』
貴族令嬢らしからぬ頑強さを誇る婚約者ならともかく、まだ幼い彼女はどんな病に罹るかも分からない。厳しくも優しい義姉の判断は正しい。
しかし、大好きな姉が苦しんでいるのに何もできないというのは、心優しい彼女にとっては耐えがたいことだということも容易に想像がつく。
どうしたものかと思案していると、ふと、自分と幼女の間に挟まれて潰れている熊のぬいぐるみが目についた。
『アリー、マリが元気になった時のために、マリが好きなものを用意してあげるのはどうだ』
『マリおねえちゃまのすきなもの?』
『そうだ。アリーならこのぬいぐるみが好きだろう? 同じように、マリが好きなものがあれば、俺にも教えてくれ』
婚約者の次に顔を合わせる機会の多い彼女の好きなものはすぐに分かるが、残念ながら万事控えめなもう一人の義妹の好みは把握できていない。
ちなみに知識欲旺盛な婚約者は、本以外の贈り物には無反応だ。
ある意味分かりやすいが、そろそろネタが尽きてきたのが目下の懸念事項だった。
『えーっと……うーんっと……あ!』
『何か思いついたか?』
『あのね、マリおねえちゃまはピアノをひくのがとってもじょうずなの!』
『ピアノか』
そういえば、婚約者から話を聞いたことがある。
曰く、「マリのピアノは天上の音」らしい。妹を溺愛する彼女らしい表現だ。
『だがピアノはすでにこの屋敷にもあるし、見舞いの品としては少々かさばるな』
少々ずれたデメトリオの発言を、腕の中の幼女がすかさず軌道修正する。
『アリー、おねえちゃまにがくふをあげたいの!』
『楽譜? そうか、新しい曲の楽譜か。それはいいアイディアだ』
『えへへ』
すっかり泣き止んだ幼女の頬に張り付いた髪を除けながら、デメトリオは士官学校で耳にした噂話を思い出した。
『そういえば最近、王都では神童の曲が評判らしいな』
『しんどう?』
『ヴァイオリンの名手で、自ら作曲も手掛けるらしい。たまたま彼の演奏を耳にした王がいたく感動されて、まだデビュタント前だというのに特別に宮廷楽団への出入りを許されたそうだ』
『きゅーてー……?』
『あぁ、すまない。アリーには少し難しかったか』
『むぅ。アリー、赤ちゃんじゃないからわかるもん』
『ははは。そうだな』
子供扱いされたとむくれる幼女を宥めながら、デメトリオは決して広いとはいえない自身の交友関係を思い浮かべていた。
『確か彼はソレ子爵家の令息だったか……ほとんど付き合いのない家だが、士官学校の奴らに片っ端から聞いてみるか』
『おにいちゃま?』
『交渉事は苦手だが……ここはルディの出番だな』
『ルディおねえちゃま?』
『そうだ。あいつならきっと上手くやる。妖精の愛し子と名高い音楽家の楽譜だ。きっとマリも喜ぶぞ』
『うん!』
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二人目の婚約者にプロポーズした翌日、デメトリオは王城の回廊にいた。
「王へのご報告が終わったと思ったら次は宰相閣下、その次は軍部でさらに騎士団ですか。どうせ報告する内容は同じなんだし、全部まとめて頂けませんかねぇ」
デメトリオの後ろを歩きながらぼやくのは、ヴィート・モスカ。
中肉中背に平凡な顔立ち、良くも悪くも周囲に溶け込むのが上手いこの男は、デメトリオの士官学校時代の同期であり、王城騎士団から辺境騎士団へと移る時も道を共にしてくれた頼れる副官だ。
「そう言うな。今回の戦には王城騎士団や国軍も参戦してくださった。戦後処理でも各所に助力を願わねばならん。俺の拙い茶飲み話一つで済むなら安いものだ」
「けど、そのせいで婚約者殿と会う時間が減るんですよ? 本当なら愛しの君と一緒に散歩したり、語らったりできたはずなのに」
「それはお前の話だろう。細君は息災か?」
「おかげさまで。息子も元気いっぱいですよ。最近は生き物に興味があるようなので、今度の休暇は釣りにでも連れて行ってやろうと思います」
「そうか。今の季節なら気候もいいから、川釣りも楽しめるだろうな」
ヴィートは戦が始まる一年前に、同じ男爵家の令嬢と結婚していた。
幼なじみとの結婚は家同士が決めたものではなく、本人達の希望が通った恋愛結婚だった。
デメトリオは身重の妻を置いての出征には反対したが、ヴィートとその妻はよく似た笑顔でその心配を一蹴した。
『騎士の道を選んだ時点で、子が産まれる時も、家族と死に別れる時も、傍にいられないことは覚悟の上です。あんただってそうでしょうが。水臭いこと言わないでくださいよ』
『私も騎士の妻となった時に覚悟を決めました。どうか思う存分戦ってきてください。……何せこの人も私も男爵家の末っ子ですから、継ぐ家もないんです。手柄を立てて爵位を目指すんだって張り切っておりますので、どうぞよしなに』
そしてその言葉通り、ヴィートは最前線で奮戦するデメトリオに食らいつき、共に戦場を駆け抜けた。
デメトリオや辺境伯からの推薦もあり、年明けには騎士爵の叙爵が内定している。
「はぁ。しかしあのアリーチェ嬢がデビュタントですか。時の流れは早いもんですね」
「全くだ。背丈もずいぶんと伸びて、すっかり見違えたぞ」
女性の方が成長期を迎えるのが早いというが、まだもう少し伸びるかもしれないななどと話していると、それまで軽快についてきていたヴィートの足がぴたりと止まった。
「……デメトリオ様」
「何だ?」
「昨日はアリーチェ嬢との婚約の件で出向かれたと伺いましたけど」
「あぁ」
「もちろん、手ぶらじゃないですよね?」
「お前が言った通り、貴族街の花屋で、彼女の瞳の色に合わせた花と、髪の色に合わせたリボンで花束を作らせて持参した」
「当然、アリーチェ嬢に愛を込めて、賛辞を惜しまずに伝えられましたよね?」
「ん? 御身大きくなられたことや、健やかにデビュタントの年を迎えられたことは言祝いだが」
「……んの朴念仁がぁぁぁ!」
すっぱーんっと小気味良い音が回廊に響き渡る。
ヴィートが手に持っていた書類を丸め、上官の後ろ頭に向かって振り抜いた音だ。
「なん、だ……?」
「何だじゃねぇよバカ野郎! 親戚の子供の七つの祝いじゃねぇんだから、何でそこで背丈だの健康だのを褒めるんだよ! 仮にも婚約者だぞ!? 太陽の光を束ねたような髪だとか、海よりも深く美しい瞳だとか、あの若さで辺境伯家の奥向きを取り回す教養の深さとか、お前が褒め称えなくてどうすんだ!」
敬語も吹き飛ばして憤る副官の勢いに、デメトリオは思わずたたらを踏む。
「お前、やけにアリーチェ嬢について詳しいな……?」
「戦場帰りの俺の耳にも入ってくるくらい、お前の婚約者殿は有名なんだよ!」
「そうなのか?」
心底不思議そうなデメトリオに、ヴィートは脱力した。
「お前……いや、デメトリオ様が社交界に疎いことは重々承知の上ですがね。せめて自分の婚約者のことくらいは把握しておいてくださいよ」
「そうはいっても、彼女はデビュタント前だ。社交と言ってもせいぜい親同伴の茶会くらいしか参加できないはずだが……」
「義兄上……じゃなかった、デメトリオ様!」
「ん?」
明らかにこちらに向けた呼びかけに振り返ると、中庭に煌びやかな一団が集まっていた。
各々楽器を手にした彼らは、どうやらここで演奏の練習を行っていたようだ
「おぉ。宮廷楽団ご一行様だ」
「ということは、ソレ伯爵か?」
「はい! ご無沙汰しております、デメトリオ様。ヴィート殿もお元気そうでよかった」
一団の中から立ち上がり、優雅な礼を見せたのは、性別すら曖昧に見える美青年だった。
華奢な体躯に色素の薄い肌。
月の光の如き銀髪とアメジストの瞳。
中性的で整った顔立ちは、儚さと神秘性を感じさせる。
サミュエル・ソレ伯爵。王国宮廷楽団のソリストにして周辺国でも楽聖として名を馳せる音楽家だ。
「久しいな、ソレ伯爵。」
「いずれ義兄弟となる間柄です。昔のようにサミュエルとお呼びください、デメトリオ様。まずは無事のご帰還と素晴らしき戦果をお慶び申し上げます」
デメトリオの前に進み出たサミュエルが頭を下げると、後ろに控えていた宮廷楽団の面々もそれに続く。
「ありがとう、サミュエル。出征式での貴殿らの演奏は、戦場でも兵達の励みになった」
「そうですとも! 野営中なんか、あの時の行進曲を口ずさんで己を鼓舞する者がたくさんいましたよ」
「何と嬉しいお言葉でしょう! 我々がこうして今日も音を奏でられるのも、皆様が国境を死守してくださったおかげです。本当にありがとうございます」
喜びを滲ませるサミュエルの言葉に、楽師達も深く頷き、頭を垂れる。
「すまない、練習の邪魔をしてしまったようだな」
「練習は先ほど終わったところで、今は片付けの最中でしたからお気になさらず」
「宮廷楽団の方って音楽堂で練習されているものだとばかり思っていましたが、外に出られることもあるんですね」
「はい。次の園遊会は祝勝会も兼ねた大規模なものになりますから、本番と同じように屋外でも音を確認しておきたかったので」
「……そうか。デビュタントの夜会の前に園遊会があったか」
「祝勝会の主役が何か言ってるんですけど」
「デメトリオ様はアリーチェ嬢のデビュタントのことで頭がいっぱいみたいですね」
唸るデメトリオと呆れるヴィートに、サミュエルは「お二人は本当に良き主従ですね」とますます笑みを深めた。
「昼間の園遊会ならアリーチェ嬢も参加できますし、デメトリオ様の戦果を祝う場は婚約者の顔見せにも最適です。それに、お二人で参加されるならデビュタントの予行練習としてもちょうどよろしいかと。私の女神もそのつもりで準備をしていますし……そうだ! デメトリオ様、この後はお仕事ですか?」
「いや、宰相閣下への報告が終わったので、屋敷に戻るか騎士団に顔を出すか決めかねていたところだ」
「それでしたら、ぜひ我が家においでください。私の女神もデメトリオ様のことを大変案じておりましたので、お顔を拝見できれば安心するはずです。もちろん、ヴィート殿もご一緒に」
「そうだな……」
「ぜひ! お伺いいたします! ほら、デメトリオ様も! ソレ伯爵夫人にはまだご挨拶できてないんでしょ!」
「あ、あぁ」
デメトリオは久しぶりに鍛錬の時間を確保するつもりだったが、食い気味のヴィートが勝手に話を進めてしまう。
「では、我が家の馬車でご案内いたします。こちらの片付けの指示を出してから参りますので、馬場の方でお待ちください」
「分かった」
「よろしくお願いします、ソレ伯爵」
「はい」
馬場で案内されたソレ伯爵家の馬車は二頭立てで、伯爵家の家格に合わせた華美過ぎない造りながら、随所に「らしい」こだわりが見える逸品だった。
今のところ爵位のない副官に過ぎないヴィートは同席を遠慮し、自身の愛馬で随行したため、車内にはデメトリオとサミュエルだけが乗り込んだ。
「……揺れが少ないな」
動き出した馬車の中で、デメトリオは今までにない乗り心地に感心していた。
「はい。皇国経由で手に入れた新型のサスペンションを使用しています。私の女神の負担を少しでも減らしたかったのですが、噂がお耳に入ったらしく、王族の方や治療院からも問い合わせを頂いております」
「そうか。この馬車なら、傷病者も無理なく運んでやれそうだ」
「なるほど! では今後、辺境騎士団にも導入できるよう手配いたしましょう」
「ありがたい。よろしく頼む」
「はい! ……あの、デメトリオ様」
「どうした」
急に声を潜めたサミュエルは、しばし躊躇いを見せた後、意を決してデメトリオに問いかけた。
「皇国と関わることにお心が乱れるのであれば、サスペンションの原産国と直接取引できるように交渉いたします。その、国交のない国ですので、少々お時間がかかるやもしれませんが」
上目遣いでこちらを伺うサミュエルの様子は、伯爵家の当主とも、妻を持つ成人男性とも思えないほど愛らしい。
デメトリオは自分と同じ性別の生き物とは思えない未来の義兄をまじまじと見た後、ようやく彼の言いたいことを理解し、破顔した。
「気遣い頂き痛み入る。だが、俺は皇国や殿下に対して思うところはない。かの国の学園とその卒業生から連なる人脈は有用であるし、その学園を統括する立場にあったという殿下も良き御仁なのであろう」
「はい。僕や女神とも、義兄として良い関係を築きたいと仰ってくださいました。とても博識でありながら、それをひけらかすようなこともない、穏やかで懐の深い方だと思います」
一人称が変わり、僅かに口調に幼さが滲むのは、サミュエルが気を許している証拠だ。
昔から慕っていたデメトリオだけでなく、件の殿下に対しても、サミュエルは義兄として信頼を寄せているということだろう。
「貴殿がそこまで言うのだ。あちらが気分を害されないのであれば、こちらからご挨拶申し上げたい」
「殿下も武勇の誉れ高きデメトリオ様とぜひお会いしたいと仰っていましたよ。あちらの国では騎士は形骸化され、儀仗兵としてのお役目が重視されているそうですから」
「皇国が平和な証拠であるな。さすがは青海の叡智だ」
「はい。僕もそう思います。……園遊会には殿下と義姉上も招待されているはずです。外野が少々煩いやもしれませんので、別室に会談の場を設けられるのがよろしいかと」
「そうだな。明日も王城に上がるので、その際に手配を頼むとしよう」
その後も園遊会について雑談を交わしている間に、馬車はソレ伯爵家のタウンハウスへと到着した。
伯爵家の屋敷としては少々こぢんまりとしているが、建物はよく手入れされている。
庭の花々は常春の楽園の如く咲き誇っており、貴族や市民の間では、主夫妻になぞらえて「妖精の館」とも呼ばれていた。
ソレ家は代々王の直轄地を管理する子爵家だったが、サミュエルが宮廷楽師として王の御前近くに侍るようになると、先代は早々に嫡男のサミュエルに家督を譲り、それに合わせて伯爵位へと陞爵された。
まだ壮年の父親を押し退けるような陞爵と、管理していた直轄地をまるまるソレ家の領地とした破格の待遇。
さらにはその美貌も災いし、王との関係を勘繰る下衆な噂も流れたが、それを全て吹き飛ばしたのは彼の最愛の存在だった。
「ただいま! 僕の女神!」
「おかえりなさいませ、旦那様」
屋敷に入ると、サミュエルは出迎えた妻を力いっぱい抱き締めた。
男性としては小柄で華奢なサミュエルの腕の中にすっぽり収まるさらに小柄な体躯。
栗色のストレートヘアと翡翠色の瞳は決して珍しい色味ではないが、全体的に小造りな顔立ちと、簡単に手折れてしまいそうな儚げな雰囲気はまさに森に住まう妖精のようだった。
「ソレ伯爵夫人、久しいな」
「まぁ! お義兄様……あ、違う、えっと、デミトリオ様! よくぞご無事で……」
夫の腕の中から感極まった様子でデミトリオを見上げる伯爵夫人、マリアンジェラ・ソレ。
楽聖サミュエル・ソレの最愛にして、社交界では「妖精姫」と呼ばれるガレッティ辺境伯家の三女だ。
「夫人も息災なようで何よりだ」
「そんなに他人行儀になさらないでください。お義兄様とお呼びすることは叶わなくなりましたが、縁は途切れていませんもの。昔のようにマリとお呼びくださいませ」
「しかし……」
他家の夫人となったマリアンジェラとの距離を測りかねたデメトリオが視線でサミュエルに問いかけると、彼は大変良い笑顔で頷いた。
「確かに他の男が妻に馴れ馴れしくするのは耐え難い苦痛を伴います。でも、デメトリオ様は僕達が出逢うきっかけを与えてくださった恩人であり、大変誠実な騎士でもいらっしゃる。義兄上とお呼びできないのは残念ですが、これからも家族としてお付き合い頂ければこれほど幸せなことはございません」
「そうか……サミュエル、ありがとう。マリも良い家に嫁いだな」
「はい。夫にも夫の家族にもとても良くして頂いております。領地の気候は私の身体にも合うようですし、あちらで採れる果物のおかげで、風邪なども引かなくなりました」
「ほう。さすがは王の庭だ。姉上達もさぞ喜ばれたことだろう」
「えぇ、とっても! あら、私ったら。お客様をご案内もしないで……失礼いたしました。どうぞこちらへおいでくださいませ」
「そろそろヴィート殿も到着されただろう。誰か、サンルームにご案内してくれ」