02.婚約者の姉
『クマのおにいちゃま!』
『アリー。元気だったか』
『はい!』
小さな幼女はデメトリオを見つけると、当たり前のように飛びついてくる。
婚約者を真似てぬいぐるみごと抱き上げてやれば、婚約者よりもさらに高い視線に幼女はきゃっきゃと声を上げて喜んだ。
『おにいちゃまはおねえちゃまに会いにいらしたの?』
『あぁ。海外の軍記物語が手に入ったから意見を聞かせろと呼び出されたのだが』
『ルディおねえちゃま、さっきノエミにのっておでかけしたよ? ご本に出てきたのとおなじ木がちかくにあるかもしれないって、とってもうれしそうだった!』
『はぁ……またか。あるかもしれないということは、ない可能性の方が高いんじゃないのか?』
相変わらず自由奔放な婚約者の振る舞いに苦笑を零すと、腕の中の幼女が物言いたげに見上げてくる。
『おにいちゃまも、おねえちゃまといっしょにお出かけする?』
『そうだな……今から追いつけるとも思えないし、そもそもどこに行ったのかも分からないからな。ここで待たせてもらう方が賢明だろう』
『じゃあ! おねえちゃまがもどられるまで、アリーがおにいちゃまをおもてなししてあげる!』
『ははは。これはこれは。お気遣い、痛み入る』
『えへへ。じゃあね、じゃあね、サンルームにいきましょう! カルロにおちゃとおかしをおねがいするの! おにいちゃまと、クマさんと、アリーと、三人でおちゃかいをするの!』
『それはすごい。お茶会を主催できるなんて、立派な淑女だな』
『うん! アリーね、エレオノーラおねえちゃまみたいなすてきなしゅくじょになるの!』
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王国の北限を守るガレッティ辺境伯家には、麗しい四輪の花があった。
その美貌と立ち居振る舞いから淑女の鑑と称えられ、社交界に君臨する長女。
王立学園の設立に奔走し、自身も才媛と名高い豪胆な次女。
芸術家達から女神と慕われ、数多の作品に影響を与える三女。
そして、齢十五にして辺境伯家の奥向きを取り仕切る手腕が評判となった四女だ。
代々騎士団長や近衛騎士を輩出してきた武勇の誉れ高き侯爵家の次男として生を受けたデメトリオは、王城騎士団に籍を置いていた十七歳の時にガレッティ家の次女・ルドヴィカと婚約した。
長女が早々に他家へ嫁いだこともあり、デメトリオはガレッティ家の後継者として婿入りすることが決まっていた。
二つ年下のルドヴィカは幼い頃から少年のように闊達で弁舌が立ち、学問に関する討論で年上の博士を言い負かすこともあるほど負けん気が強かった。
本を読むだけでなく、自ら馬を駆ってフィールドワークに出ることも好むルドヴィカは、父祖のような立派な騎士を目指して訓練に励んでいたデメトリオにとって、肩を並べて歩いて行ける戦友のような女性だった。
だからルドヴィカが海を越えた先の学問の都に留学したいと希望した時も、彼女の意思を尊重し、辺境伯を説得する側に回った。
デメトリオ自身も、騎士団で名を上げ始めた頃であり、お互いに成長した上で夫婦となるのも自分達らしいだろうと笑い合い、彼女を留学先へと送り出した。
しかし、隣国の不穏な動きが二人の結婚に待ったをかけた。
以前から領土欲を隠し切れていなかった隣国が、山賊の討伐という名目で国境を越え始めたのは三年前のことだった。
デメトリオはルドヴィカの帰国を待つことなく、未来の岳父の名代として辺境伯領の北端に当たる前線へと出陣した。
当初の目的は国境を侵す隣国の兵を追い返すことだったが、何度か小競り合いを繰り返すうちに、それだけでは治まらないと覚悟を決めた。
隣国を侵略する意図はないが、適当なところで手打ちとしてしまえば、再度の侵攻を許してしまうことになる。
祖国防衛のため、何よりも、婚約者の生まれ故郷であり、いずれは自身が治めることになる辺境伯領を危険に晒さないために、デメトリオは軍を進めた。
辺境伯自らが王へ進言したことも幸いし、辺境伯家の兵だけでなく、王城騎士団や国軍からも多くの派兵が行われた。
途中、自身の負傷や食糧が不足するなどの問題も起きたが、デメトリオは出征以来一度も戦線を後退させることなく、隣国の国境軍を壊滅させるに至った。
賠償問題や傷病兵への慰労等の戦後処理も残っているが、デメトリオは王都に戻って王への報告を済ませると、取るものもとりあえず婚約者の実家である辺境伯家のタウンハウスを訪れた。
そしてつい先ほど、二人目の婚約者に正式に婚約を申し込んだのだ。
「そもそも私はあの子の留学自体に反対しておりましたの。母は早くに亡くなりましたし、私とマリは他家に嫁いだ身。父とあなたを支え、家を盛り立てていくべき立場にある者がすべてを放り出して他国へ留学だなんて。それを快く許したあなたもあなただと、今も思っておりましてよ」
「相変わらずルドヴィカには手厳しいな、ベルニーニ侯爵夫人」
辺境伯家の応接室でデメトリオと向かい合って座るのは、エレオノーラ・ベルニーニ侯爵夫人。
ガレッティ辺境伯家の長女であり、社交界に咲き誇る「純白の白百合」その人である。
髪と瞳の色は末妹のアリーチェと同じ。金糸の髪は一筋の乱れもなく真っ直ぐ背中を飾り、サファイアの瞳は少し垂れ目がちで、ぽってりとした唇は珊瑚色の紅で潤っている。
身に纏うドレスは王都の流行の最先端――いや、彼女が好んで身につけるものこそが流行となると言われるほど影響力のある貴婦人であり、親子ほども年の離れたベルニーニ侯爵が溺愛しているというのも頷ける美貌の持ち主だ。
エレオノーラは優雅な所作で紅茶を口にし、ほうっとため息を吐いた。
「お父様は口ではあれこれ仰いますけど、自分と似ているルドヴィカには昔から甘いのです。マリはルドヴィカを絵本の英雄のように褒め称えるばかりですし、私以外にあの子を諫める者がおりませんでしたの」
悩まし気な侯爵夫人は、つい手を差し伸べてしまいたくなるような危うげな魅力に溢れている。
例え既婚者と言えど、ここにいるのが一般的な男性であれば、ロマンス小説のワンシーンが再現されたかもしれない。
しかし残念ながら、今彼女と向かい合っているのは、貴族男子としては落第どころか入学さえ危ぶまれるほどの朴念仁だ。
「そういえば、ルドヴィカはよく姉上に叱られたと言ってはうちの屋敷に逃げ込んできたな。泣くどころか、自分は悪くないのにと憤っているのが彼女らしかった」
子供の頃のことを懐かしむだけの様子に、エレオノーラは目を細める。
「デメトリオ様は、本当にあの子のことをよく理解して下さっていましたのね」
「俺はこの通り、武一辺倒のつまらない男だ。普通のご令嬢からは獣のようだと敬遠されることはあれ、親しく話しかけられることもない。ルドヴィカこそ、俺のことをよく理解し、支えてくれたと思っている」
「まぁまぁ。あの子のことをそんなに想ってくださっていたなんて」
エレオノーラは大仰な仕草で驚いて見せ、その上で心持ち声を潜めて続けた。
「……あんなじゃじゃ馬娘と婚約だなんて、あなたには苦労をおかけすると案じておりましたの。でもまさか、ここまでしでかすとは思いませんでしたわ。……この家から逃げ出した私が言える立場ではありませんけども」
エレオノーラはデメトリオより一つ年下で、年頃は合う。
騎士として未来を嘱望されていたデメトリオを辺境伯の後継者として望むのであれば、長女であるエレオノーラと婚約していてもおかしくはなかった。
だが、彼女は幼い頃から「自分には辺境伯夫人は務まらない」と言い続けてきた。
そしてその言葉通り、エレオノーラは早いうちに他家へと嫁ぎ、デメトリオの婚約者はルドヴィカに決まった。
「近年のベルニーニ侯爵家の評判を聞く限り、あなたなら辺境伯夫人としても充分役目を果たされたと思うが」
「あら。私は大したことはしておりませんわ。全ては夫と家の者達のおかげです」
デメトリオの些か優雅さに欠ける賛辞には謙遜して見せたが、実際、エレオノーラはベルニーニ侯爵家やその領地で「理想の貴婦人」、「救いの御使い」と崇められている。
ベルニーニ侯爵の前妻は近隣諸国にまで悪名が轟くほどの「悪女」だった。
財産を食い潰し、社交界で浮き名を流し続けた彼女の所業により、侯爵家は一時期、爵位の返上すら考えるほどに追い詰められていた。
その前妻を「追い出して」侯爵家の立て直しに一役買ったのが、齢十八で侯爵家に嫁いだエレオノーラなのだ。
「ベルニーニ侯爵領で作られた武器には、俺も戦場で大変助けられた」
「護国の英雄にそう言って頂けて、夫や領地の職人達も喜びますわ」
「……侯爵家が優先的に戦地に武器を融通してくださったと辺境伯からも伺った。本当に、感謝している」
古くから良質な鉄が採れる鉱山を有していた侯爵家は、優れた製鉄技術を持つ職人も多く抱えており、建国の頃から王国の武器庫と呼ばれていた。
今回の戦でも、デメトリオ自身の愛剣を筆頭に、ベルニーニ産の武器は大いに活躍した。
どれほど消耗しても惜しげもなく供される武器のおかげで押し返せた戦局も、救えた兵の命も多かった。
その武器の供給に、辺境伯家の出身であり、侯爵の寵愛を一身に受ける夫人の意向が無関係なはずはない。
「夫の仕事のことはよく存じ上げませんが、我が領で作られた武器が国を守るために使われたことは嬉しく思います。おかげで我が国を土足で踏み荒らされることなく戦が終わりましたもの」
「ありがたいお言葉だ」
「それに、あなたがガレッティ家や妹から被った迷惑を鑑みれば、この程度のことではお詫びにもなりませんわ。婚約者が戦地に向かったというのに、留学先から戻っても来ない、挙げ句の果てには他の男性と恋仲になって婚約解消だなんて。話を聞いた時は、私も婚家を追われることを覚悟しましたのよ」
「夫人……」
「夫からは、例え自分が侯爵家を追われることになっても君を離すことはないと仰って頂きましたけど。ふふふ。あの方ったら、巷では冷厳なる侯爵閣下だなんて呼ばれて王城でも一目置かれる重鎮でいらっしゃるのに、私に対してはまるで歌劇に出てくる若い貴公子みたいにとっても情熱的ですの」
「……夫人……」
少女のように頬を染めるエレオノーラは、新婚の頃よりもさらに幸せそうに見える。
戦地に行く前もルドヴィカと並んで散々惚気話を聞かされたが、侯爵との仲は冷めるどころか益々深まっているようだ。
学問以外にロマンを求めない気質のルドヴィカは、そんな姉の様子をいつも呆れたように見ていた。
『私には一生理解できないな』
婚約者である自分に向かって平然と言ってのけるのも、彼女らしかった。
「……ルドヴィカは優秀だ。彼女が得た知識はいずれ辺境伯家にも益になると考え、背中を押した」
「えぇ、えぇ。あの子の行いは、結果的にガレッティ家の益どころか、大きな国益となりましたわ。だからこそ、醜聞どころか美談として二人の仲が大々的に広められ、小説や歌劇のモデルにまでなったのですけど」
「お相手がお相手、だからな」
デメトリオは戦場に届いた詫び状の優美な手蹟を思い浮かべて苦笑したが、エレオノーラの怒りは治まらない。
「だからといって、あなたに対する不義理はなかったことにはなりません。その上、アリーとの婚約も受け入れて頂いて……何とお礼を申し上げてよいか」
「いや……むしろこのように武骨で年の離れた男が相手では、アリーチェ嬢の方が不憫ではないかと」
デメトリオの脳裏に、完璧な貴族令嬢の笑みを浮かべるアリーチェの姿が浮かぶ。
自由奔放な婚約者の影響もあって忘れがちだったが、貴族令嬢というのは、例え意に沿わない婚姻であっても家のためとあれば笑顔で飲み込まざるを得ない立場だ。
デメトリオに向けられた彼女の笑顔が、本心からのものであるとは限らないのだ。
「あら。でもあの子は……」
「夫人?」
エレオノーラはしばし思案していたが、やがて妹よりもさらに洗練された貴族夫人の笑みを見せた。
「私が口を挟むことではありませんわね。どのような経緯であれ、あなた方は婚約して、いずれ夫婦となる間柄。まだまだお忙しいとは思いますが、どうか少しでもあの子との時間を持ってあげてくださいな」
「それは……もちろんだ。婚約者として、彼女を疎かにするつもりはない」
「まぁ。頼もしいお言葉。ルドヴィカと同じようにはいかないかもしれませんけど、アリーも私の自慢の妹です。きっとあなたを支えて、立派な辺境伯夫人となりますわ」
「あなたのお墨付きとは頼もしい限りだ」
「ふふふ。そうそう、アリーのデビュタントの支度を手伝うので、しばらくはこちらに伺うことも多くなります。何かありましたらお声がけくださいね」
「あぁ」
「今度はぜひ当家にも遊びにいらしてね。護国の英雄とお会いできるなんて、息子も喜びますから。それでは、また」
エレオノーラは優雅な貴婦人の礼を見せると、控えていた侍女と護衛を連れ、応接室を後にした。
残されたデメトリオが嘆息しながらクラバットを緩めていると、同じく控えていた辺境伯家の執事が紅茶のお代わりを注いでくれた。
「あぁ、すまない」
「いいえ。こちらこそ、お帰りになるところをお引き止めして申し訳ございませんでした」
「いや。少々不意打ちだったが、いずれ侯爵家にも挨拶に伺わねばと思っていたので、ちょうどよかった」
ガゼボでの対面の後、婚約者のアリーチェは顔合わせと形ばかりのプロポーズが済むと、デビュタントのドレスの仮縫いがあるとのことで早々に席を立った。
デメトリオもすぐに実家のタウンハウスへ戻るつもりだったが、そこにエレオノーラが現れ、先ほどの茶会と相成ったのだ。
「エレオノーラ殿は侯爵家でも辣腕を揮われているようだな。昔、ルドヴィカと悪さをして叱られたことを思い出した」
震え上がる猛将に、執事は穏やかに微笑む。
「デメトリオ様はエレオノーラ様にとってはお身内も同然ですから、気安くお話しされるのでしょう」
「……あれは気安いのか?」
「今後、夜会などでエレオノーラ様をお見かけする機会があればご理解頂けるかと」
「……そうか」
そういえば、茶会の冒頭のエレオノーラは何だか昔と雰囲気が違ったな……などと考えながら紅茶を飲み干し、デメトリオはようやく席を立った。
「馬車は表に回してございます」
「分かった」
執事の案内でデメトリオが玄関ホールへ向かうと、頭上から名を呼ぶ声が聞こえた。
「……デメトリオ様?」
「アリーチェ嬢」
玄関ホールの正面に設えられた階段から降りてきたアリーチェは、婚約者の姿を見て不思議そうに首を傾げた。
「もうお帰りになったものとばかり思っておりましたわ」
「あぁ、そのつもりだったのだが、思いがけず君の姉上とお会いしたので……」
「姉?」
次の瞬間、アリーチェの眦がきっと吊り上がり、蔑むような視線がデメトリオへと向けられた。
「あらそう。それでこんな時間まで。お姉様とは、さぞかしお話が弾まれたのでしょうね」
「アリーチェ嬢?」
「お気をつけてお帰りくださいませ。……カルロ、デメトリオ様に鏡を貸して差し上げて。そのような格好で屋敷から出られては、余計な噂も立ちましょう」
「お嬢様、しばしお待ちを」
「私は夕食の時間まで部屋で休みます。それでは、ごきげんよう」
執事の制止を振り切り、デメトリオが挨拶を返すよりも早く、アリーチェは奥へと引っ込んでしまった。
あれほど完璧な淑女ぶりを見せていた少女とは思えない様子にデメトリオが驚いていると、カルロと呼ばれた先ほどの執事が言いつけ通りに鏡を掲げて見せてくれた。
「あぁ、クラバットが緩んでいたのか。絹は着心地はいいのだが、滑りが良すぎてすぐに解けてしまうのが難点だな」
鏡に向かってクラバットを締め直していると、その向こう側からカルロが気遣わし気に声をかけてきた。
「デメトリオ様。先ほどのお嬢様のお言葉は……」
「ん? あぁ。さすがは辺境伯家のご令嬢だ。身だしなみにも気を遣って頂き、感謝する。俺はあまり頓着しないもので、家族や部下にもよく小言をもらうのだ」
「は……」
「明日からしばらく王城に出向く故、こちらには伺えそうにない。手紙は侯爵家の者に届けさせるので、よろしく頼む」
「かしこまりました。……本来であればお嬢様がお見送りに出られるべきところを、失礼いたしました」
「気にすることはない。男の俺でもデビュタントの準備には苦労した。女性で、しかも母上もいらっしゃらないのだ。アリーチェ嬢も大変だろう」
「お気遣いいただき、感謝いたします」
「至らぬ婚約者だが、何か役に立てることもあるだろう。気軽に相談してほしいとアリーチェ嬢にも伝えてくれ」
「承知いたしました」
深々と頭を下げるカルロに見送られ、デメトリオは侯爵家の馬車に乗り込んだ。
一人きりの車中で一息吐いたデメトリオは、三年ぶりに顔を合わせた二人目の婚約者の姿を思い浮かべた。
完璧な令嬢としての笑顔と、必死に感情を押し殺しているように見えた先ほどの姿。
だがその向こう側に浮かぶのは、大きなぬいぐるみを抱え、満面の笑みを浮かべる幼女の姿だ。
『クマのおにいちゃま』
黒革の眼帯に触れながら、デメトリオは自嘲するように口端を引き上げた。
「やはり野生の熊は手強かったぞ、アリー」




