01.二人目の婚約者
『……クマさん?』
『ん?』
遠慮がちな声に気付いて足元を見下ろすと、大きな熊のぬいぐるみを抱えた幼女がデメトリオを見上げて目を輝かせていた。
金色のふわふわと柔らかそうな髪と海の色を溶かした青い瞳は、嫁いだ姉が大事にしていた人形を思い起こさせた。
『おや、アリー。お昼寝はもういいのかい?』
隣にいた婚約者は貴族令嬢らしからぬ笑い声を上げながら慣れた手つきで幼女を抱き上げると、白くまろやかな頬に自分のそれを擦り寄せた。
『お前は見る目があるねぇ。こいつはそのうち、熊よりも強くなる男だよ』
『おい待て。さすがに野生の熊と戦って勝つ自信はないぞ』
『クマさん、たおしちゃうの?』
青い瞳に涙の膜が張っていることに気付き、デメトリオは慌てた。
『いや! そのクマではなく……俺が戦うのはこの国を守るためであって……』
『まもるの? おとうさまといっしょ?』
『あぁ、そうだ』
『ふふふ。やっぱりアリーは賢いな! アリーもマリも、お嫁になんか行かないでずっと私と一緒にいておくれ。一緒にデメトリオを助けて、この国を守っていこう』
『おいおい……』
無茶を言う婚約者の腕に抱かれながら、幼女の青い瞳は逸らされることなくじっとデメトリオを見つめている。そして。
『クマのおにいちゃまはつよいのね』
子供に怯えられることが常だったデメトリオは、思いがけず向けられた輝く笑顔にしばし固まり、やがて穏やかに破顔した。
『そうだな。俺は誰よりも強くなって、この国を守る立派な騎士になるよ』
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護国の英雄と謳われる猛将デメトリオ・スパーダは困惑していた。
三年に渡る隣国との戦が終結し、自身もようやく王都に戻ったばかりだが、正直戦場にいる時よりも緊張している自覚はある。
どこから敵が現れるとも知れない森の中よりも、由緒正しい辺境伯家のタウンハウスの美しく整えられた庭園の方が恐ろしいとは、口が裂けても言えないが。
デメトリオは緊張感を誤魔化すように、首元のクラバットに手をやる。
本日の装いは身に馴染んだ武装ではなく、貴族の子息らしい正装だ。
戦場でも一際目立つ長身と鍛えられた肉体は、国境にまたがるユングフラウ山脈に例えられることもある。
顔立ちも厳めしく、軍人らしく短く整えられた墨色の髪と、護国の英雄の名に相応しい榛色の鋭い目つきのせいもあり、十代の頃から倍以上の年齢に間違われることも珍しくなかった。
デビュタントを迎える頃にはすでに一人前の騎士と並んでも遜色ないほどの体格となっていたため、同世代の令嬢達からは遠巻きにされ、使用人の子供にすら泣かれる始末だった。
その上、戦時中に受けた傷のために、右目は黒革の眼帯で覆われている。
やんちゃ盛りの甥には冒険小説に出てくる海賊のようだと好評だったが、社交界では悪目立ちすることが容易に想像できてしまい、来月に迫る夜会のことを考えると今から憂鬱だ。
軍人としては理想的な、しかしながら侯爵家の次男としては些か優雅さに欠ける自覚のあるデメトリオとしては、貴族らしい装いはどうにも窮屈に感じてしまう。
もっとも、彼が身に付けているのは出征前に誂えた衣装であり、三年に及ぶ戦場生活で一回り大きくなった体躯のせいで本当に窮屈になってしまっているのだが、今はそれどころではない。
貴族らしい豪奢な衣装を身に纏い、共に戦場を駆け抜けた愛剣の代わりに青や水色をメインに作らせた花束を手にしたデメトリオは、庭園を臨むガゼボの下、テーブルを挟んで一人のご令嬢と対峙していた。
艶やかに波打つ金糸の髪に、上質なサファイアの如き瞳。
小さな顔に並ぶパーツはどれも品良く整っており、貴族の若夫人だと言われても納得できそうな落ち着きを見せている。
しかし、レースやリボンで愛らしく飾られた空色のドレスは初々しく少女らしいデザインで、否が応にも彼女の実年齢をデメトリオに突きつけてくる。
「アリーチェ・ガレッティ嬢」
できるだけ威圧感を与えないよう、声量を抑え、ゆっくりと話しかけると、少女は怯える様子もなくデメトリオと真っ直ぐ目を合わせた。
「はい」
「もう一度聞くが、本当にいいのか?」
「お返事は父から伝えたと伺っておりますが」
「それはお父上の……ガレッティ辺境伯からのお言葉だ。君自身は納得しているのか? その、俺のような……年の離れた武骨な男との婚約、など」
言葉を選びながら問いかけると、アリーチェの長い睫毛がぱちりぱちりと二度、瞬いた。
「この婚約はもう十年以上前に家同士で結ばれたものです。姉の勝手で相手を挿げ替えることになってしまったことは、幾重にお詫びしても足りるものではございませんが」
「その件については彼女とご夫君からも詫び状を頂戴し、すでに双方納得していることだ。君が詫びることはない」
「お気遣いいただきありがとうございます。それであれば尚のこと、当家から否などありません。国の北限を守るべき辺境伯家に直系男子のいない今、武勇の誉れ高きデメトリオ様以上に次期当主に相応しい方など考えられませんもの」
すべてを覆い隠す貴族令嬢らしい微笑みを向けられ、デメトリオは思わず目を眇めた。
敵将との一騎打ちに挑む気持ちで様子を伺うが、僅かな剣先のぶれも隙も見出せず、相手の手の内が全く読めない。
これで齢十五、デビュタント前のご令嬢だというのだから、げに恐ろしきは貴族社会の荒波か、はたまた辺境伯家の教育か。
「……あい分かった。剣の他に誇るものを持たぬ身をそこまで買って頂けるとは、ありがたいことだ。こちらこそ、否などあるはずもない」
デメトリオは少女の前に膝をつくと、恭しく花束を捧げた。
「アリーチェ・ガレッティ嬢。我が妻として、生涯を共にして頂きたい」
「はい。喜んで」
そう言って微笑むアリーチェの本心は、やはりデメトリオにはまったく読めなかった。