02.婚約者と小さなハート②
晴天に恵まれたある日の午後。ガレッティ家のタウンハウスの庭園に五人のご令嬢が招待され、ささやかなお茶会が開催された。
盛りを迎えた春の花々を愛でるために、ガゼボよりもさらに近い場所に野遊び用のパラソルを立て、その下に席が整えられていた。
爽やかな風味を楽しめる春摘みの茶葉に合わせるのは、ガレッティ家の料理人自慢のシフォンケーキだ。
ふわふわの生地と甘すぎないクリームはどんなフルーツにもよく合い、姉妹共通のお気に入りだった。
本日添えられているのは、ソレ伯爵領の名産品の一つであるオレンジ。
伯爵夫人の透き通るような美肌の秘訣ともいわれ、王都でも大変人気がある。
さらに愛らしい花柄が描かれた小皿には、皇国から渡来したという干菓子が品良く盛り付けられていた。
令嬢達の小さな口にも収まる大きさながら、繊細な花びら一枚一枚まで精緻に象られており、目にも楽しい逸品だ。
口に入れるとほろほろと崩れ、王国の菓子とは一味違った優しい甘みが感じられる。
異国の菓子なのに、なぜか紅茶に合うから不思議だ。
供されるのは、いずれもアリーチェが姉達に相談しながら、心を込めて選んだメニューである。
しかし何よりも招待客を驚かせ、喜ばせたのは、主催者であるアリーチェの幸せそうな姿だった。
招待されたのはいずれもアリーチェと親しくしている同年代のご令嬢。そのうち三人はアリーチェと同い年で、もうすぐデビュタントを迎える身だ。
自分達と変わらない年で辺境伯を支え、たった一人で家を守っていた健気なアリーチェ。
その上、国と家の事情により、突然十二歳も年上の婚約者を宛がわれたのだ。
園遊会のような大人の目もある場所で口にするのは憚られ、手紙で訊ねるのも難しいが、彼女の心中が穏やかだったとは考えにくい。
そんな時にアリーチェから届いたのが、正式な体裁での招待状だった。
戦も終わり、彼女や辺境伯家も普通の生活を取り戻しつつある。
デビュタント後は本格的な社交も始まるため、今のうちに気安いお友達とおしゃべりを楽しみたい――表向きの仰々しさとは裏腹な可愛らしいお誘いに、ご令嬢達も喜んで参加することにした。
デビュタントの準備の大変さや、一足先にその日を迎えた年上のご令嬢からのアドバイスなど、息抜きと称した会は和やかに進んでいった。
婚約の件にも触れたが、アリーチェが「とても優しい方なのよ」と、お手本のような淑女の笑みを浮かべたため、ご令嬢達は混乱した。
アリーチェの婚約者である、護国の英雄デメトリオ・スパーダ。
寡兵で倍以上の敵軍を押し返した、自ら先陣を切って敵将の首を挙げた、剣一本で野生の熊を仕留めたなどなど、その活躍は枚挙に遑がない。
先日の園遊会でも姿を見たが、貴族はもちろんのこと、騎士の中にあってもその容姿は一際人目を惹いた。
見上げるほどの長身と屈強な身体つき、低いのによく通る声。そして極めつけは、厳めしい顔と黒革の眼帯である。
怖い。どう見ても怖い。優しさなど欠片も見えない。
さらにご令嬢の中には、家族が王城騎士団に属する者もいた。
彼らの口から語られる、「一小隊全員で挑んでもびくともしなかった」ユングフラウ山脈にも例えられる男の、どこに優しさを感じろというのか。
やはりアリーチェは、意に沿わぬ婚約を強いられたのだろう。
相手がクマ……基、厳格な騎士であることを除いても、姉の元婚約者で年も離れている。ご令嬢達が想像する幸せな結婚や恋物語とは、どうにも結びつかないのだ。
それでも愚痴一つ零すことなく、健気に相手を立てようとするアリーチェの姿に、ご令嬢達は心中で密かに涙を零していた。
と、その時だった。
「アリー」
「デメトリオ様?」
「ッ!」
屋敷の方から突如現れた大きな影に、ご令嬢達は寸でのところでどうにか悲鳴を飲み込んだ。
明るい銀灰色のフロックコートに、サファイアブルーのアスコット・タイという爽やかな装いではあるが、やはり隠し切れない迫力がある。
珍しく驚いた表情を浮かべたアリーチェは、慌てて立ち上がり、婚約者を出迎えた。
「今日は我が家の騎士達と稽古の日だと伺っておりましたのに……訓練場で何かございましたか?」
心配そうに見上げてくるアリーチェに、デメトリオは大きな身体を幾分縮め、ぼそぼそと話し始めた。
「いや、訓練は順調だったが……その、きみが初めて主催するお茶会だろう。これを渡したいと思ってな」
デメトリオが差し出したのは、彼の掌の半分ほどの大きさの小さな箱だった。
青い包みに金色のリボン。誰を表しているかなど聞くまでもない。
「まぁ……! もしかして、小さなハートですか?」
思わぬ贈り物にアリーチェの声が上擦るが、後ろで見守っていたご令嬢達は驚愕で声すら出なかった。
彼女達とて年頃の少女だ。
新作のロマンス小説や歌劇などで描かれる小さなハートに憧れ、実際に母や姉がお茶会から持ち帰った小さなハートを見て思わずため息を零したこともある。
それをまさか、あの英雄が。あのクマさんが持って来たというのか。
「デメトリオ様、開けてみてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
アリーチェの細い指が包みを開けると、中からピンク色のハートが出てきた。
「なんて可愛らしい……これは木苺、でしょうか?」
「あぁ」
ハート形の生地の表面に木苺のジャムを乗せて焼いたクッキーは、王都の下級貴族や庶民の間で人気の菓子店の品だ。
貴族夫人のお茶会で贈られる品のように値の張るものではないが、デメトリオは一目見てこれを小さなハートにしようと決めた。
「ヴィートを付き合わせて、あいつの行きつけの菓子店をいくつか回ったんだが、どうしてもこれがいいと思った」
「どうしてですか?」
「昔……きみが俺をもてなしてくれた時に勧めてくれた生クリームと木苺のジャムを思い出した」
「っ……覚えていらしたのですか?」
「当然だ」
幼いアリーチェに手を引かれ、辺境伯家のサンルームでクマのぬいぐるみと並んで招かれたお茶会。
さすがに紅茶のサーブなどはメイドが行ったが、アリーチェは小さな両手で皿を抱え、お気に入りのジャムとクリームを添えたスコーンをデメトリオに勧めてくれた。
クロテッドクリームとブルーベリージャムでは甘さが足りないと頬を膨らませる幼女とのお茶会は、大変甘く、楽しい時間だった。
もちろんあの頃のアリーチェに恋情など抱いてはいなかったが、このクッキーの可愛らしいピンク色を目にした時、彼女が初めて開く本格的なお茶会に贈る品として、これ以上のものはないと思ったのだ。
「デメトリオ様……」
「立派な淑女になったな、アリー」
木苺のジャムより甘い視線を交わす婚約者達。
その後ろでは、ご令嬢達が開いたままの口許を扇子で隠すことも忘れ、目の前の光景に見入っていた。
妻ではない、まだ正式に婚約して間もない、何ならデビュタントすら迎えていない婚約者のために、自らお茶会に足を運ぶ英雄。愛がなければあり得ないことだ。
侯爵令息が選ぶ品としては些か格が劣るかもしれないが、未婚のご令嬢の主催するお茶会に贈る品としては過不足ないだろう。
何よりも、あれを選んだ理由が素晴らしく、その上で彼女の成長を言祝ぐ想いの深さは青海にも負けていない。
榛色の切れ長の片目からも、隠し切れないアリーチェへの気持ちが滲み出ている――と、ようやくデメトリオの顔を真っ直ぐ見ることができたご令嬢達は、そこで初めて彼の眼帯が園遊会で付けていたものと異なることに気付いた。
「ねぇ、あれはもしかして……」
「え? まぁ……」
明るい日差しの下、デメトリオの右目を覆う黒い眼帯に、僅かに銀色が浮かび上がる。
よく見ればそれは黒革ではなくシルクでできた眼帯で、表面には何やら刺繍が施されているようだ。
アリーチェと親しくしているご令嬢達は、彼女が姉のマリアンジェラに師事していることも、見事な刺繍の腕前を持つことも知っている。
間違いなく、あの眼帯の刺繍はアリーチェの手によるものだと、彼女達は確信した。
「アリーチェ様、お幸せそう」
「本当に……」
自分達は何と見当違いで、愚かな勘違いをしていたのか。
デメトリオはアリーチェを慈しみ、彼女が主催する初めてのお茶会のために、わざわざ忙しい合間を縫って小さなハートを選び、自ら持参した。
アリーチェもあんなに精緻な刺繍を贈るほどデメトリオを慕い、今も彼の訪れと贈り物を心から喜んでいる。
何という愛の深さ。何という純愛。
ロマンス小説も歌劇も霞むほどの真実を見せつけられ、令嬢達は心密かにため息を零した。
「こんな素敵な恋、してみたいですね」
それからしばらくして、若いご令嬢を中心に、ハートの形をした小さなハートを贈られることが一つのステータスのように語られるようになった。
初めのうちは彼女達が小さなハートの意味を勘違いしているのでは? と首を傾げていたご夫人方も、初々しい英雄とその婚約者の逸話を知ると、同じようにハート形の品を夫にねだり、それは新たな「嗜み」として広がっていった。
あの木苺のジャムのクッキーを作る店も大変繁盛したが、店主はそれに驕ることなく、ひたむきに庶民でも手を伸ばすことができる菓子を作り続けた。
辺境伯家御用達の称号を得た後もそれは変わらず、王都で長く愛される名店となったそうだ。
小さなハートの設定は創作です。
デメトリオの評判は英雄らしく、どんどん尾ひれがついていきそうです。




