01.婚約者と小さなハート①
評価や感想、ブックマーク等ありがとうございました。
お礼も兼ねた番外編、2話に分けての更新です。
婚約者達が互いの気持ちを確かめ合った園遊会からしばらく後。
アリーチェはガレッティ辺境伯家の応接室で、長姉エレオノーラと向かい合っていた。
「お茶会、ですか?」
けぶる睫毛をぱちりと瞬かせたアリーチェに、エレオノーラは優雅な貴婦人の笑顔で頷いた。
「えぇ。戦の間は慣例通り、ガレッティ家主催のお茶会や夜会は自粛していたでしょう?」
「はい」
隣国が北限の国境に侵入したことに端を発した戦は、途中で王城騎士団や国軍なども投入されたものの、中心となったのはガレッティ家が有する辺境騎士団だった。
歴代の辺境伯夫人が社交に消極的だったこともあり、国境で有事が起きた際には「夫が命懸けで戦っている時に、自分が社交に現を抜かすわけにはいかない」という理由で自粛するのが、ガレッティ家の伝統となっている。
結婚前から社交界で名を馳せていたアリーチェ達の母でさえ、他家の主催する会には出席したが、自身が主催することは控えていたほどだ。
そのためこの数年間、ガレッティ家でお茶会が催されなくとも、それを表立って揶揄する者はいなかった
しかしそれも、戦中だったからこその話である。
「祝勝会を兼ねた園遊会も無事に終わったことですし、そろそろ小規模なものから開いてみても良い頃合いだと思うの」
「それは、私が主催する会、ということでしょうか?」
「もちろん」
小規模とはいっても、もちろん個人的に屋敷に友人を招くものとは訳が違う。
きちんと各家宛に招待状を出し、正式な返答をもらった上での会は、まさしく社交である。
「……承知いたしました」
いつになく緊張した面持ちのアリーチェに、エレオノーラはティーカップの向こう側から社交の師匠としての顔を覗かせた。
「ちなみに今、ガレッティ家が主催するとしたら、どのような名目のお茶会になるかしら」
「名目、ですか。……そうですね。先の戦で派兵して下さったり、武器や兵糧の供給等でお世話になった家の皆様をお招きする会、でしょうか」
アリーチェの答えに、エレオノーラの形の良い唇が弧を描く。
「そうね。あなたが辺境伯夫人となっていたら、まずはそういう会を開くことが望ましかったわ」
「辺境伯夫人なら、ですか?」
「えぇ。確かにあなたはガレッティ家の奥向きを立派に取り仕切ってくれています。でも、今のあなたはあくまでもデビュタント前のご令嬢。分相応の会でなければ、口さがない者に付け入る隙を与えてしまうことになるわ」
「確かにそうですね。……私が浅薄でした。」
アリーチェはしゅんと肩を落とすが、出題者であるエレオノーラは「大丈夫よ」と微笑みかける。
「あなたにはいつも、女主人として物事を考えるように教えているもの。いつもの試験なら高得点の回答だわ」
「……ありがとうございます」
「今回はまず、あなた自身の親しいお友達をお招きして、気軽な会を主催することから始めてみましょう。皆様もデビュタントの準備に追われているでしょうし、息抜きにお誘いしたら喜ばれるんじゃないかしら」
エレオノーラが道を示すと、アリーチェの表情が目に見えて明るくなった。
「そうですね。私もゆっくりお話ししたいので、お庭でお花を見ながらお茶を頂くような会にしたいと思います」
「えぇ、いいと思うわ。当日までの手順は大丈夫?」
「はい。以前お姉様のお手伝いをさせて頂いた時に書き留めております」
大変優秀で勤勉な教え子の返事に、エレオノーラは満足げに頷く。
「ではそれをなぞる形で、あなたが思う会を書き出してご覧なさい。分からないことがあればいつでも相談に乗るわ」
「ありがとうございます、エレオノーラお姉様」
その数日後。場所は変わり、ここはエレオノーラの嫁ぎ先であるベルニーニ侯爵家のタウンハウス。
侯爵家の歴史と財力を物語る重厚な屋敷に招かれたのは、同じくスパーダ侯爵家の令息であるデメトリオだ。
いずれは縁戚となるとはいえ、現状ではあまり馴染みのない他家の、それも自分の父母と同世代の当主直々の招きに、ただでさえ厳めしい顔がさらに険しさを増している。
「スパーダ様。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
長年侯爵家に仕える執事はそんな警戒心丸出しのクマさんにも動じず、主が待つ客間へと案内した。
そこは当主の書斎からの続き部屋で、ごくごく私的な客をもてなすための部屋だった。
壁紙も絨毯も落ち着いた色合いでまとめられており、趣味の良い調度品が飾られ、照明も控えめだ。
二つのソファの間に置かれたテーブルの上には、つまみと呼ぶには豪華な軽食と二人分のグラス、ラベルを見ただけで目を剥きそうになる銘酒が数本用意されていた。
「ようこそ、デメトリオ殿。まずは急な招きに応じてくれたこと、感謝するよ」
「こちらこそお招きいただきありがとうございます、侯爵閣下」
デメトリオを出迎えたオリヴィエーロ・ベルニーニ侯爵は、気さくな様子で未来の義弟に席を勧め、自分もその向かい側に腰を降ろした。
案内してくれた執事は室内には入らず、護衛の姿も見当たらない。
侍従もメイドも傍に置かない席というのは、相手との親しさの表れであり、内密の話を示唆するものでもある。
デメトリオが緊張から口の渇きを感じている間も、オリヴィエ―ロは自ら酒瓶を手に取り、吟味していた。
「君も父上に似て酒は強いのかな」
「醜態は晒さぬよう心掛けております」
「ははは。いいね。では初めの一杯はこれにしよう」
そう言ってオリヴィエーロが選んだのは赤ワインだ。
騎士団の食事会などでもよく見かける銘柄だが、彼が手にしたのは十年に一度の当たり年と評判の一本だった。
オリヴィエーロは止める間もなく手慣れた様子で封を開けると、慌てるデメトリオに持たせたグラスにワインを注いだ。
「……閣下、今度は俺が」
「おや、そうかい?」
何とか瓶を受け取り、侯爵に手酌をさせる大失態だけは免れたものの、デメトリオはすでに疲労困憊である。
「では、初々しき婚約者達に、乾杯」
「……仲睦まじきご夫婦に、乾杯」
辺境伯家の庭園でアリーチェにプロポーズした時と同じか、それ以上の緊張感。
やはり社交界は戦場なのだと改めて気を引き締めたところで、合せたグラスが澄んだ音を立てた。
侯爵に続いてグラスに口をつけると、酷い渇きもあり、デメトリオは一気に中身を干してしまった。
オリヴィエーロはその飲みっぷりを上機嫌で讃えた。
「見ていて気持ちの良い飲み方も父上そっくりだね。ほら、遠慮せずに飲みたまえ」
「は。ありがとうございます」
それからしばらくは軽食をつまみながら、当たり障りのない――王城の回廊ですれ違った時に交わす程度の近況などを語り合った。
デメトリオはいつもよりもやや早いペースでグラスを空けていたが、極度の緊張のせいか全く酔いを感じない。
逆にすっかりリラックスした様子のオリヴィエーロは、くるくるとグラスを回しながら柔らかな口調で語り始めた。
「君の父上や辺境伯とは同世代だ。よく酒も酌み交わしたし、剣も交えたものさ」
「閣下と父上達が、ですか?」
「おや、意外かい? 私は士官学校こそ出ていないが、彼らとはそれなりに打ち合えたんだよ」
「何と」
「向こうは片手と片目を封じて、だけどね。馬術ならそれなりに張り合えるが、剣となるととてもじゃないが勝負ならない。二人が本気でやり合う時は、大人しく場外から見学さ」
「……ははっ」
デメトリオが思わず相好を崩すと、オリヴィエーロも口端を引き上げた。
「社交のシーズンが終われば、辺境伯領まで出向いて狩りもしたよ。城のすぐ裏手の森で獲れるウサギがなかなか美味くてね」
「あそこのウサギは餌がいいのか、臭みも少ないですね。俺はついでに香草も摘んで帰って、一緒に焼いてもらいました」
「香草焼きか。それもいいね。私は専ら煮込みだったな。キノコと一緒に白ワインで煮込むとよく合うんだ」
「それも美味そうです」
王城では冷厳なる侯爵とあだ名されるオリヴィエーロだが、酒席では品格を保ちながらも陽気になる性質のようだ。
デメトリオも徐々に緊張が解れ、一本目のワインが開く頃には襟元を緩められる程度には場も和んでいた。
「剣では彼らと並べないが、貴族としての嗜みなら私に分がある。大きな夜会の前には我が家に集まり、誘いの交わし方や貴族の薄紙の向こう側について講釈させてもらったものだ」
「俺もよく、ベルニーニ夫人から教わりました」
「妻から聞いたよ。君と皇子妃は大変ユニークな教え子だったと」
「はい……」
嫁ぐ前から社交界で名を馳せていたエレオノーラによる講義は、身内相手という遠慮のなさも相俟って、大変厳しかった。
デメトリオは隙あらば逃走しようとするルドヴィカを抑えながら、戦術よりも難解な貴族同士の駆け引きに頭を抱えていたことを思い出し、新しく封を切った蒸留酒を煽った。
「では今度は私から、妻では教えられない貴族男子としての嗜みを伝授しよう」
「貴族男子の、ですか?」
なぜか騎士団での少々下世話な夜の話題が頭を掠めたが、オリヴィエーロはそれさえも読んでいたのか、「行儀の悪い話も追々ね」と、意味深に微笑んだ。
「一口に嗜みといっても、昔からある伝統に則ったものから、近年の流行りが定着したものまで様々だ。最近だとインクの色がいい例かな。私が若い頃は手紙の文字は黒か濃い青でないとマナー違反だと言われたものだが、今は様々な色のものがあるだろう? 自分の髪の色や相手の瞳の色で認める恋文というのはなかなかロマンがあって良いものだよ」
「もしや閣下も……」
「あぁ。妻への手紙には、彼女の瞳の色に合わせて調合したインクを使っているよ。もちろん、彼女も同じように私の色のインクで返事をくれる。濃紺に銀粉が混じっていてね、自分で言うのも何だが、なかなか美しい色合いなんだ」
「……何とも愛の深いことですね」
デメトリオも騎士団の若手からインクの色の話を聞きかじったことはあるが、まさか侯爵が妻への恋文のためだけにインクを作っているとは思いもしなかった。
「純白の白百合を手折ったからには、彼女に相応しい男であるのが私の務めだ。我が妻にはこの国で王妃の次に美しく、幸福な女性でいてもらいたいからね。老け込んでなどいられないさ」
王妃とはもちろん、オリヴィエーロの娘のことである。
当代の外戚はなかなか欲深く、何より情が深いらしい。
「……アリーの瞳の色のインクは、きっと美しいでしょうね」
海の色を思わせる婚約者の瞳の色を思い浮かべて表情を緩めるデメトリオに、オリヴィエーロも頷く。
「妻と似た色だからそこは保証できる。もし興味があるなら婚約者を誘って行ってみるといい。後で紹介状も書こう」
「ありがとうございます」
「ははは。では素直な教え子に、もう一つ最近の流行りを教えてあげよう」
そう言うと、オリヴィエーロはテーブルの上に盛られていたつまみの中から、小さな焼き菓子を選び、持ち上げた。
「それは」
「ただのチーズクッキーだ。ハート形のね」
確かにオリヴィエーロの指先が摘まんだのは、小さなハートの形をしたクッキーだ。
先ほどデメトリオも食べたが、甘さのない、チーズの風味豊かな酒のつまみだった。
「ここ数年、ご夫人方の間でクオリチーニというものが流行っている」
「小さなハート、ですか」
「といっても、別にハート形の品に限るわけじゃない。夫や婚約者から、主催するお茶会の席に届けられるささやかな贈り物、といったところかな。招待客が持ち帰るための小さな焼き菓子や石鹸などを用意して、会の途中で差し入れるんだ。妻をよろしくと言うメッセージを込めてね」
「妻に、ではなく、招待客のために贈るのですか?」
「そう。受け取った妻はまずその場で一つ開けて披露する。招待客の前で、夫のセンスの良さや、妻の好みを把握しているかどうかが試される審判の場だ」
「……」
思わず悲壮な表情を浮かべたデメトリオを、オリヴィエーロは「君達はまだまだこれからだろう」と慰め、話を続けた。
「夫婦の絆の深さと、その席は夫の目が届く場所であるということを示せるなら、自ら出向かずに人を使って届けさせてもいい。貴族夫人として夫に愛されているというのは何よりの強みになるからね。私も毎回、妻に恥をかかせないような品を選ぶのに楽しく苦心しているよ」
「なるほど……」
アリーチェが初めて正式なお茶会を主催するという話は、すでに本人から聞いていた。
幼い頃、婚約者に約束を反故にされたデメトリオを一生懸命もてなしてくれたアリーチェなら、きっと成功させるだろう。
そこにもし、自分がほんの少しでも手を貸せるなら、これほど素晴らしいことはない。
「閣下」
「ん?」
「小さなハートについて、詳しくご教示頂けますか」
酒の気配さえ感じさせない真摯な英雄の視線に、オリヴィエーロは「もちろん」と、大変爽やかな笑顔で応えた。
「ずいぶんと楽しいお席になったようですね」
「ノーラ。私達の天使はもう眠ったのかな」
「はい。もうぐっすりと」
デメトリオが辞した後、入れ替わるようにエレオノーラが部屋へとやってきた。
使用人が手早く室内を片付けているが、並べられた空き瓶の数とソファに身を沈める夫を交互に見て、エレオノーラは思わず眉を顰めた。
「お二人だけでこんなに召し上がったのですか」
「半分以上は彼だよ。それに私はいつもの薬も飲んでいるからね。さほど酔ってはいないさ」
アルコールの吸収を抑えるために腹の中に膜を張る薬は、皇国由来でそれなりに値が張る。
だが、酒席での失態一つで失脚もあり得る貴族の間では大変重宝されている妙薬の一つだ。
エレオノーラは手ずから酔い覚ましのハーブティーを用意しながら、上機嫌な夫に今夜の顛末を伺った。
「お腹の中に金貨まで仕込んだ成果はありまして?」
「あぁ。とても楽しく、有意義な夜だった。英雄殿に愛のインクや小さなハートのことも話せたからね」
「まぁ。ますますアリーのお茶会の報告が楽しみになりましたわ」
「褒めてくれるかい、奥さん」
「とっても素敵な先生ぶりでしてよ、旦那様」
妻からの手放しの賛辞に満足し、オリヴィエーロはハーブティーを口にする。
青さの残るハーブと柑橘類の香りが胸いっぱいに広がり、色濃く漂っていた酒の気配が薄らぐ気がした。
これで明日も、冷厳なる侯爵の威光は保たれるだろう。
「護国の英雄、か。騎士としてはこれ以上ないほどの傑物だが、男としては……まだまだ青いな」
「伸びしろはありまして?」
「どうだろうな。男は女で変わるものだ。アリーチェ嬢なら上手く転がして育てるんじゃないかな」
「あら。では旦那様を育てられたのは、どこのどなたかしら。私がお会いした時にはもう立派な紳士でいらしたのに」
「ははは。白百合の君は今日も手厳しいな」
オリヴィエーロは妻の手を引くと、自身の膝の上に華奢な身体を乗せ、さらさらと流れる金糸の髪に指を通した。
「私という男は君に出逢って初めてこの世に生まれたのだ。私の運命。私の半身。ノーラのいない日々などもう忘れてしまったよ」
「オリヴィエーロ様……」
小さなハートではとても収まり切らないほどの愛。
それを浴びてうっとりと微笑む侯爵夫人は、目にした使用人が顔を真っ赤にして立ち去るほどに美しかった。




