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俗神夜話  作者: 蘭芳琳楠


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3/3

第三夜

核兵器搭載米軍機行方不明の報を受け、閣総理大臣を議長として開催される緊急安全保障会議。

政府首脳ら参加者に緊張が走る中、行方不明空域の近くに総理大臣の孫娘が滞在していることがわかり……。


 今宵もご所望のお話をさせていただく所存にございます。


 おお、昨夜のお話にご感動をいただけましたか。お気に召しましたとは光栄の極みと存じます。

 では今宵も俗なる神をご披露いたしましょう。


二夜も続けて俗なる神の中でも特に低級の者を紹介いたしましたので、ここはひとつ、もう少し高級な者をご紹介いたしましょう。

まあ、高級とはいえ、広く知名度があるからという意味ほどのことでございまして、決して天変地異を司るなどの能力に長けた者のことではございません。

それではこんなお話をひとつ。




「啓介さん!」

 母の声が響きました。

「そろそろ出かけないと遅刻しますよ」

「お母さん」

 啓介と呼ばれた少年が自室でもぞもぞしております。

「どうしたの」

 母がついに家事の手を止めて啓介の部屋にやってきました。

「ないんです」

 啓介が申し訳なさそうに言います。

「まあ。今度は何が見つからないの」

 母はあきれ顔で言います。

 啓介少年は無くし物の常習犯。いつもきまって急ぎの時に大事なものが見つかりません。

「今日提出しなくてはならない宿題のノートが見つかりません」

「お部屋はくまなく探したのかしら」

「ええ。昨日、仕上げて、それで」

「そのあとどうしたの」

「それが……」

 母がため息をつくと、部屋を見渡します。

「ここにないようなら」


「総理、午後からは打ち合わせのあと、ダミネシア共和国大統領との会談が午後三時、そののち……」

「ああ、わかっとるよ」

 そう言うと蒲原(かばはら)(けい)(すけ)内閣総理大臣は政務担当秘書官を手招きしました。

「楠下くん。見たまえ」

 秘書に差し出したのは自分の私用スマートフォンの画面でした。

 そこには真夏の強い日差しのもと、刺激的な水着姿で微笑む美女の姿がありました。

時刻は12時55分。休憩時間とはいえ、一国の首相が首相官邸で見せる写真として適切かどうか、政務担当秘書官の楠下は一瞬凍りつきました。

「孫だよ、孫。孫の玖瑠美(くるみ)だよ」

 蒲原総理には目の中に入れても痛くないほどかわいがっている孫娘がいた。そのことを思い出した秘書官は苦笑いしました。

「お、お孫さん、ですか?」

「何を勘違いしとるんだね、キミは。まあ、いい」

 椅子にもたれかかり、自分のスマホを返せとばかりに手で合図すると、蒲原総理はにやにやしながら続けます。

「今、夏休みで丸島にでかけとるらしいんだがね」

「そ、そうでしたか。で、八丈島の丸島ですか」

「そうなんだ。こんな写真を送ってくれるんだよ」

 自慢の孫を語るその顔は、普通のおじいさんそのものです。あの厳しい政争を戦い抜いて政敵を打ち破り、この椅子に座ることを許された唯一の男、といった印象は沸いてきません。

 相好を崩す総理にひと時の安らぎを感じた楠下でしたが、次の瞬間ふたたび凍りつきました。

 執務室のドアがけたたましいノックのあと、乱暴に開けられたのです。

 ここではそんな動きは禁忌されておりましたが、飛び込んできたのは国家安全保障担当の係官でしたので、それほどの緊急事態であることに察しがつきました。

「どうした」

 首相は落ち着いて尋ねました。

「米軍機が我が国の領空内で消息不明となりました」

「ふむ。それくらいはわたしへの報告の必要もなかろうて。殉職者が出た場合は速やかにお悔みを言っておけ」

 首相が手もとの茶碗を覗きこみました。茶がわずかに残っています。

「それが」

「なんだ? まだ要件があるのかね」

「横田の米軍司令官からの報告では行方不明機は戦術核を搭載しており……」

「なんだって!」


「母さん」

 困り顔の少年の肩を母は優しく抱きました。

「みつからないんです」

 母は今にも泣き出しそうな少年の顔の高さに背を屈めました。

「こんな時にはいい知恵があるのよ」

 母は優しく微笑みます。

「ナイナイの神様にお願いしてみるといいわ」

「ナイナイ? の神様ですか?」


 緊急招集によって集まることができたのは榎木防衛大臣、篠田官房長官と葛本官房副長官、伊藤内閣危機管理監の四人でした。たまたま安全保障関連の打ち合わせが予定されていたため、大臣級が近くにいたことは幸運といえましたが、情報関連の責任者はまだ到着していません。

 場所は首相官邸地下の危機管理室に移されました。

「アメリカ空軍の作戦機が極秘訓練中にエンジン不調により作戦機が一機行方不明となりました。所属と搭乗者の情報は照会中です」

(くぬぎ)統合幕僚長、到着です」

 軍服の男が一礼すると席につきました。

「桜井くんはまだか」

「桜井内閣情報官はあと三分で到着の予定です」

 着席した者の取り巻きなどが右往左往する中、榎木防衛大臣が総理に耳打ちしました。うんと頷くと、総理は全員の注意を引くための咳払いをします。

「時間がない。緊急安全保障会議を開催する。これまでの情報を整理する。伊藤くん、頼む」

 首相に指名されて、銀縁眼鏡の男が立ち上がりました。

「これまでの情報では消息不明機は三沢基地第35戦闘航空団第14戦闘飛行隊所属のF-16D型。搭乗員は二名。演習内容は非公開。機体の最終確認地点は北緯31度51分16.9秒、東経140度57分16.1秒」

「八丈島が近いな。それに丸島。それにしても東京に近いところで」

 椚統合幕僚長がつぶやきました。

 総理がのけ反ったのを、篠田官房長官は見逃しませんでした。

「総理、どうかなさいましたか」

 そう尋ねられると蒲原総理は取り繕いました。

「べ、米軍との連絡を密に。それから……」

 そこまで言うと、うなだれる首相に注ぎの指示を仰ごうとしましたが、肝心の首相はうわの空のようです。

「総理。蒲原総理」

 皆が議長席の蒲原総理に視線を集めます。

「あ、いや。失敬。そ、それで、か、核兵器について頼む」

 気を取り直して蒲原総理が伊藤危機管理監に指示を出しました。

「種類、起爆装置のオンオフについても現在確認中です」

「起爆装置のオンオフだと!」

 蒲原が絶句している横で、榎木防衛大臣が机を叩きます。

「そもそも我が国は非核三原則を遵守する姿勢を戦後一度たりとも崩しちゃおらん。それを事前通告もなしに持ち込んだ挙句、事故まで起こしやがって」

「桜井内閣委情報官、到着されました」

 扉が開くと、身幅の狭い紺色のスーツに身を包んだ女性が現れました。コツコツとハイヒールの音が響きます。

「さ、桜井くん」

 首相のか細い声に頷くと、桜井内閣情報官は席に着きました。

「遅くなりました。現時刻においては情報不足です。申し訳ありません。現在収集中の情報はわたしの」

 彼女は小型のタブレットとかいう情報機器を開いて見せました。

「手元に逐一入ってまいりますので、会議はそのままお続けください」

 しかし張り詰めた空気のなか、口を開く者はいません。

 各係官が世話しなく動き回っていますが、会議のテーブルに着いた者は微動だにしない時間が過ぎていきました。

 ここでようやく給仕係が各員にお茶を出しますが椀に入ったものではなく、緊急事態時専用のペットボトルです。

「情報衛星は?」

 伊藤内閣危機管理監が一気に口に運んだお茶を口元からこぼしながらテーブルに戻すと、ようやく口火を切りました。

「現在、消息不明地点付近で情報収集中」と桜井内閣情報官。

「米軍だ! 米軍の動きはどうだ」

「横田から情報収集機とみられる小型機が発進した以外は動きがありません」

「何をのんきなことをしているんだ、米軍は!」

 榎木防衛大臣が怒鳴ります。

「首相、お電話です」

 政策秘書官が声をかけます。

「あとにしてくれ」

「在日米軍司令官、第五空軍司令官ジョン・ホールデン空軍中将からです」


「そうよ。ナイナイの神様。あなたみたいなおっちょこちょいを助けてくれる神様なの」

 啓介は理知的で、どこか大人びた考えを持つ少年でしたので、こんな母の言葉が頭に入ってきません。

「もう時間がありません。遅刻と宿題忘れの両方を犯すくらいなら、遅刻は避けたいと思います」

「まあまあ、そう慌てないで」

 母は微笑みました。


 電話の向こうでたどたどしい日本語で謝罪したホールデン中将でしたが、遭難救援の申し出をした総理には丁寧な言葉でNOを突きつけました。

「そ、それに核だ。核を回収せにゃならん」

 総理が吠えるように言うと自動翻訳で英語が流れるのが、危機対策室にいる全員にわかります。

「オモウシデはありがたいデス。しかしこれはベイグンのフショウジ。カイケツはベイグンがはかりマス」

 たどたどしい日本語で言うのが誠意だとでもいうのか、ホールデン中将は続けた。

「スベテ、ベイグンでカイケツします」

「そうだ、潜水艦救難艦を派遣しよう」

 防衛大臣の榎木が割って入ります。

(ふね)を動かすとなると、マスコミに漏れやすくなります」

 小声で横やりを入れるのは杉林国家安全保障局長です。

「かん口令を敷く。報道協定ではなく、かん口令だ。情報漏洩は是が非でも防ぐ」

 語気を強めた篠田官房長官が横目で蒲原を見ました。

 無言の蒲原の額には脂汗がにじんでいます。

「遭難地点の水深は?」

 椚統合幕僚長は陸上自衛隊の所属ですが、経験豊富な司令官ですのですぐに必要な情報を求めてきます。

「深いところで300メートル。海溝に落ちていなければですが」

 あらかじめ調べてあった数値に私見を交えて報告する桜井情報官。

「そ、それじゃあ、引き上げどころか」

「発見もままならんぞ」

 皆が顔を見合わせる中、蒲原のスマートフォンが素っ頓狂な着信音をあげました。

 国家の存亡にかかわるような事態のさなかだというのに、蒲原はスマートフォンの画面に見入りました。

 それはまたしても孫娘の玖瑠美からの連絡でした。もちろん彼女はこの件を知る由もありません。

「そ、総理」

 思わず篠田官房長官が漏らします。

「す、すまん。孫が。孫娘が丸島に滞在中なんだ」


「ナイナイの神様にお願いしてみましょう」

「ど、どうすればよいのでしょうか」

「いいこと。私の言うとおりに繰り返してちょうだい」

 母がニッコリと微笑みます。

 台所の窓を開けると母は啓介少年を手招きしました。

「は、はい」

 少年は半信半疑でしたが、藁にもすがりたい思いですので、母の言う通りにします。

「さ、ここからお願いするのよ」

 窓の外に向かって母が大きな声を出しました。

「ナイナイの神様、ナイナイの神様。宿題のノートはどこですか」

 啓介少年も続きます。

「ナイナイの神様、ナイナイの神様。宿題のノートはどこですか」

 母の言葉を繰り返す啓介ですが、そんなことを呟いたところで見つかる道理はありません。

 泣きそうな顔の啓介少年に母は優しく問いかけます。

「昨日、宿題を終えたのは自分の部屋でしたか?」

 母は落ち着き払って啓介少年の前に立ちます。

「はい」

「じゃあ、そのあとはどうしたのかしら」

「えと」

 啓介少年は昨夜の自分の行動を思い起こしました。

 自室で読書をしているとき、厩から馬が鳴くのを聞いた。そこでこっそり部屋を出て、裏に回って階段を下り、勝手口から厩の様子を見に行ったのだ。

「あ」

「何か、思い出したの?」

 母は笑顔でした。

「馬小屋に行ってみます」

 啓介少年が駆け出しました。


 重い沈黙が続く危機管理室には張り詰めた空気がありました。

「そ、総理のお孫さんがそんなに近くに滞在しているなんて」

 危機管理に対応するための決定権者たちが顔を見合わせました。

「これは一刻もはやく見つけださんといかん」

「しかしどうやって」

 再びの沈黙が流れます。

 総理の眉間には大粒の汗が浮いています。空調はじゅうぶん効いているはずなのですが。

「そ、そうだ」

 篠田官房長官が口を開きます。

「住民の避難はどうします?」

「極秘にしているんですよ」

 椚統合幕僚本部長が答えました。

「そ、そうだった」

 官房長官は孫娘を心配する総理に配慮したつもりなのでしょうが、よりいっそう重くるしい空気となってしまいました。

「し、しかし万一、起爆でもしようものなら、伊豆諸島もろとも我々も吹っ飛んでしまうぞ」

 榎木防衛大臣が吐き捨てるように言いましたが、あきらかな失言でした。

政権ごと消し飛んでしまうと危機感を強調したかったのでしょうが、総理は孫娘の身を案じているのが明らかですし、そもそもそんなことは言われなくても承知のうえです。

 ここへ来て、総理がようやくハンカチで額の汗を拭きました。

「総理、避難命令を出せば、核持ち込みの事実を公表したことになり、政権の維持が困難になることは明白です。いかがでしょうか」

 篠田官房長官とて苦しい選択ですが、あえて総理に発言を求めます。

 しかしまた湧いて出る脂汗の蒲原総理は微動だにしません。

 ですが、総理の心中には様々な思いが去来していました。

 孫娘を避難させたい。しかし、公表は政権転覆の危機を招くことが不可避だ。

 しかし、玖瑠美を救い出したい。これまでの人生の積み重ねのすべてを失ってでも孫娘を避難させるべきだ。しかし、核持ち込みを公表すれば、アメリカとの信頼関係に重大な支障をもたらすことも事実。自分がせっかく手に入れたこの地位と名誉も霧散することになる。

 円卓を囲む全員が蒲原の次の発言を待ちました。

 そして沈黙の長い時間が流れました。


「あった!」

 (うまや)飼葉桶(かいばおけ)を置く場所に手ぬぐいといっしょにノートがありました。

「お母さん、ありました! ありました!」

 啓介少年は小躍りして喜びました。

「ほら、見つかったでしょ。ナイナイの神様にお礼を言いなさい」

 啓介少年は理知的な子供でしたので、ノートの発見が昨夜の行動を振り返った結果であることを理解していましたが、今は何より見つかったことを喜びたかったので、素直に従いました。

「ありがとうございます、ナイナイの神様!」


「椚陸将」

 口を開いたのは蒲原首相でした。

「はい」

 エリート軍人らしく首相に向き直りました。

「特殊部隊を派遣して……」

 そこまで言うと蒲原は周囲を横目で見て発言を躊躇しました。

「いやいやいや。それはいかん。すまん失言だ。議事録からは削除してくれたまえ」

 蒲原首相は丸島に自衛隊を派遣して、孫娘を救出するよう指示しようとしたのでしょうか。

 その意向は皆まで言わずとも、安全保障会議の参加者全員に伝わりました。

 威厳と冷静さを保とうとする蒲原でしたが、心の中では目に中に入れても痛くないほどの孫娘のことが心配でたまりません。

「総理。ここはひとつ、お孫さんには密かにそこを離れるようにご指示なさってはいかがでしょうか」

 提案したのは篠田官房長官でした。

 蒲原は一瞬、動揺しましたが、すぐに内閣総理大臣としての威厳にすがりつきました。

「ならん。そんな私事を挟むことなどできん」

 そこで末席にいた者が手を上げました。

 蒲原は議長でもありますので、その者の発言を許しました。松伏という名の内閣広報官です。

「SNSで厚木が騒がしいとの投稿が相次いでいます」

「くっそ。この情報化社会では隠ぺいなどは図れんか」

 榎木国防大臣が吐き捨てました。

「横須賀から海難救助艦が緊急出航したとの情報も……」

「もういい!」

 蒲原が珍しく声を荒げました。

 席を立った彼は大きなマルチモニターを間近で確認しました。

「いっそ、公表してはどうだろうか」

 と呟くように言いました。

「そ、それはいけません!」

 これまで発言のなかった葛本官房副長官が慌てて立ち上がりました。

「そんなことをすればパニックが起きます。それに野党からの追求が……。い、や、訂正します。議事録削除を。い、今は静観をつづけるべきかと」

「いや、核です。万が一起爆などしたら、政権転覆レベルで済みません。ここは地域住民と観光客の避難を優先させるべきです」

「保身と受け取られようがなんだろうが、公にすることで生まれるダメージは計り知れません」

「核兵器とはいえ安全装置があるはずだ。すぐに起爆などすまい」

「いやあ、深海に沈んだらどうなるかわからないぞ」

 皆が堰を切ったように其々の思いをぶちまけ、ああでもないこうでもないが続きました。

「ああ、もうわかった!」

 その場を諫めたのはやはり最高決定権者の蒲原でした。

「とりあえず、米軍の報告を待とう。下手に動いて詰むくらいなら、じっくり待ってからでも遅くはあるまい」

 何の根拠もない、しかもごく当たり前の意思表示でしたが、妙に皆が納得してしまいました。ただ、蒲原だけが孫娘のことを思い、胃が締め付けられる思いでした。

「待ちましょう」

「米軍の出方を」

「そうだ、待とう」

「待てば海路の日和ありだ」

 皆がやや投げやりな発言を繰り返しているそこへまたあの素っ頓狂な着信メロディが流れました。

「す、すまん。孫だ」

 手許のスマホとやらの画面を見た、蒲原が思わず立ち上がりました。円卓の全員が注視します。

「おじいさま、ね、ね。これ見て見て。海岸にこんなのが打ちあげられてたよ」

 そのキャプションを添えられた画像を、震える手で隣席の榎木防衛大臣に示しました。

「あ、あったぞ! こ、これだっ!」

 そこにはビキニ姿の玖瑠美や友人たちといっしょに、巨大な漂着物が写っていました。オレンジ色の葉巻型の巨大な物体です。

「く、玖瑠美、今すぐそこを離れろ!」

 メッセンジャーアプリの画面に叫びましたが、それは通話状態にはなっていません。文字と写真を送ってきただけですから。

「こ、これは!」

 榎木防衛大臣がのけ反るように立ちたがりました。

「やった! 見つかったぞ!」

「見つかっただけだ! これをどうするかだ!」

「か、回収だ。回収の部隊を派遣しよう!」

「自衛隊より海保が周辺にいます!」

「米軍へ連絡を!」

「島の警察に連絡して、島民、観光客を避難させましょう!」

 皆が口々に叫ぶ中、冷静な人物がすっと手を上げました。

 普段、老獪な政治手腕を揮う豪傑たちばかりのはずでしたが、この時ばかりは混乱状態です。その動きを見据える者はいません。

「ちょっと待った!」

 我慢ならなくなった桜井内閣情報官の声に、皆が彼女に視線を向けました。

 彼女はすくっと立つと、自分のタブレットを抱えたまま、円卓を回り込んで蒲原に歩み寄りました。

「これ」

 画面にはオレンジ色をした葉巻型の物体が写っていました。

「……、SV-01A外洋型観測ブイ基本仕様」

 それが、さきほどの首相自身のスマホに送られてきた孫娘さんからの写真のものと同じであると一目見れば明白でした。

「こ、これは?」

 首相は力の抜けた状態で座ったまま、彼女に問いました。

「環境省が太平洋に設置した潮流観測用のブイです。これは製造元のホームページの画像です。調べましたが、先々週に丸島近海に設置されている一基が消息不明になっています」

 一同が落胆のため息をついた。

 へなへなと床に座り込む者もいました。

 長い沈黙が続き、タバコを吸いに出る者があり、一時休憩のような状態になりました。

 蒲原首相も秘書を伴って、危機管理室を後にします。

韮崎(にらさき)くん、玖瑠美に帰るよう伝えてくれ」

 公設秘書の韮崎はこの時間を利用して蒲原が自分で電話をかけるものと思っていたので、少し驚きました。

「ひとりにしてくれ」

 そう言い残すと蒲原は私室に入りました。

 カーテンを開けると、いつもと変わりない大都会東京の日常がそこにありました。


「おかあさん、ありがとうございます!」

 啓介少年が嬉しそうに駆け込んできました。

「お礼ならナイナイの神様に言いなさい」

母の笑みを受けて、少年がはにかむように言いました。

「昨日の夜、厩舎に馬を見に行ったんです。遅い時間でしたが、嘶きが聞こえたので」

「あらまあ。そうなの」

 母は笑顔で応えました。

「そしたら、オルフェウス号が起きていて、思わず(たてがみ)をなででいましたが、その時にノートを持ったまま出かけていたようです」

「そう。そうなのね。よかったわね」

 母が白い歯を見せましたが、啓介少年の心配事は遅刻の方に移りました。

「行かねばなりません」

 慌てる啓介少年の背中に母は言いました。

「ナイナイの神様、本当にいるでしょう! また、何か失くしものをしたら、今日のようにおまじないしなさい」

「そうですね、お母さん。ありがとございます。で、でも」

「急いでいるのでしょ。まだ何かあるの?」

「ナイナイの神様って、どんなお姿なんですか?」

「さあ。おかあさんも知らないのよ」


 窓から見る東京はいつものように営みを続けています。

 東京が高度経済成長期にあった幼き日のことを思いだします。

 亡き母はまた失くしものをしたらと言った。

 あの日から何度失くしものをしただろうか。

 多くのものを(うしな)い、多くのものを得てきた人生だったが、最後の最後にほんとうに大きな失くしものをしたのかもしれない。

「おかあさん、ナイナイの神様にお願いしていいですか」

 蒲原啓介の母はあの出来事のあと、間もなくしてこの世を去りました。

 風邪をこじらせての急逝でした。

 蒲原は母のあの笑みを思い出します。

 そして窓を開けると(おもむろ)につぶやきました。

「ナイナイの神様、ナイナイの神様。核のミサイルはどこですか」

 もちろん、その呼びかけに続いて、行方不明の核兵器の所在について考えをめぐらすヒントを与えてくれる母の姿はありません。

 それでも一国の首相となった啓介少年は繰り返し、声を上げました。

「ナイナイの神様、ナイナイの神様。核のミサイルはどこですか。どうかお助けください」

 その問いかけを繰り返しながら、蒲原は心の奥にそっとしまっておいた母の思い出に浸っていました。

「母さん……か」

 いつも優しかった母。早くにして旅立ってしまった母。

 そんな母の優しさにこんな事態になってから(すが)りたくなるとは。

 歳を重ねるにつれ喪われゆく母の面影を思い浮かべます。

 思えば、政治家となり、多忙に多忙を重ねる中、母の姿を思い浮かべることもなくなっていた蒲原啓介は、ふと母の言葉を思い浮かべるのです。

「啓介さんは人の役に立つオトナになるんですよ。それがナイナイの神様へのお礼にもなりますからね」

「お礼……ですか」

「そうですよ。だから、そろそろ学校へ」

「あ」


 蒲原啓介が感傷的な想いにふけっているとき、けたたましくドアをノックする音がありました。

 ドアを勢いよく開けたのは篠田官房長官でした。

「総理!」

「なんだね、篠田くん」

「米軍からの連絡です」

 そのあとを追うようにして杉林国家安全保障局長が入ってきました。

「そ、総理。まんまとやられました」

「なんだって?」


『親愛なる日本国内閣(ジャパンキャビネット)のみなさま。この度はお騒がせいたしました。三沢基地所属の訓練中の作戦機が行方不明となった件は、無線機故障による誤報であり、当該機は先ほど、三沢基地に無事帰投いたしました。なお、訓練に使用しておりました実弾兵器につきましても模擬弾であることをお知らせできず、誤った情報として提供してしまいました。重ねてお詫びするとともに、このような事態の再発防止にむけて、改めて誠心誠意取り組む所存です』


「な、なんだ、これは」

 呆然とする一同の中で伊藤内閣危機管理監が口を開きます。

「核兵器喪失時の日本政府の対応力を試す訓練だったんですよ」

「くっそ!」

 榎防衛大臣がテーブルを殴りつけました。

 そのあと、シンと静まり返る危機管理室に高笑いする者がいました。

「あはははは。我々は米軍にまんまとイッパイ喰わされたのか」

 椅子にへなへなと座りこんだ蒲原総理でした。その笑いにつられた何人かが笑いだし、それに合わせて取り巻きたちもひきつった笑いを起こしました。

「あー、韮崎くん。玖瑠美には帰ってこなくていいと連絡してくれたまえ」

「総理、これは安全保障上の大きな失点です。すぐアメリカ政府に働きかけて、情報漏洩防止処置の依頼を」

 耳元で訴える伊藤管理監を手でさえぎる蒲原総理は言いました。

「わかっとる。わかっとるよ」

 核兵器の喪失はなかった。丸島にでかけている孫の玖瑠美も、蒲原内閣の信頼も守られた。米軍のわけのわからぬ罠に嵌ってアタフタしたが、終わりよければすべてよし。

 内閣も自分の政治家生命も安泰だ。

「ありがとうございます、ナイナイの神様」

 蒲原に誰にも気づかれぬようにそっと涙を拭いました。脳裏にはあのころの母の姿がありました。


 そこへ危機管理室の電話が鳴りました。

 重要案件用の直通電話機ではなく、内線用の電話でしたが、篠田官房長官が興奮しているせいか、その電話を取りました。

「ん? なんだ?」

 電話はハンズフリーでスピーカーから音声が出ました。

「こちら正門警備です」

「なんだ、今は特別管理体制だぞ」

「それがどうしてもといいまして」

「どうしても?」

「はい。老人が蒲原首相に呼ばれたと言って来ております」

 皆の視線が総理に集まりました。

「老人? いや。外部の者など呼んでおらん。帰ってもらえ」

「承知いたしました」

 電話はそれで切れました。

「さ、さあ。後始末が必要だ。みな、各部門の処理を頼みます」

 蒲原総理が皆に発破をかけました。


「さあさ、じいさん、帰った、帰った。だいたいあんたみたいなモンを総理が呼ぶわけないわ」

 警備係員があしざまにあしらうと、着古した上着に爪先に穴が開いた革靴の老人が伸び放題の白い髭に隠した顔で苦笑いしました。

「呼ばれたから来たんじゃが、どうやら用なしのようじゃて」



第三夜 ナイナイの神様


第4夜は2026年4月公開予定!

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