第二夜
両親を交通事故で喪った研究者を挫折のたびに救うナゾの存在!
今宵もご所望のお話をさせていただく所存にございます。
おや、なんと!
昨夜のお話がお気に召しましたとは光栄の極み。
では今宵もご披露いたしましょう。
語るは俗神。八百万神の名の通り、神とは申せ、下賤の部類に数えられるものどもの話でございますゆえ、中には矮小な姿をしておるものも多くございます。
なにせ、ヒトの想いが作り出したもの故、その情念が固まりましたものであり、姿かたちが時にヒトの想いの対象である他の動物や、あろうことかヒトの作り出したる造物に寄ることもございます。
それではこんなお話をひとつ。
北風の吹きすさぶ寒い夜でございます。
失意の若者がとぼとぼと歩いておりました。
名を栗上悟朗と申します。
彼の顔に精気がなく、歩みに力がないのもそのはずで、大学受験に失敗したようです。
第一志望の有名校でした。
街はこの時間になっても恋人たちや千鳥足の酔客でにぎわい、悟朗は自分の孤独感をより強く感じておりました。
どうしても受かりたかった。
どうしても東京理科学大学へ進学したかった。
どうしてもあの大学で最先端の知識を身につけたかった。
そして、育ての親である岸谷さん夫妻にうれしい報告をしたかった。
悟朗は失意のうちに街をさまよっておりましたが、いつしか駅へとつながる陸橋に差し掛かっておりました。
喜々として恋人に語り掛ける若い女の声。サッカー談義に熱の入るサラリーマン酔客たちの声。酔いにまかせて鼻歌を歌う千鳥足の年配紳士。
そして幾重にも重なる靴音。向かいのビルに映し出された電光掲示板の企業広告にあわせて響く明るい音楽。
風が一瞬それらの音をかき消すと、悟朗はふと自分がいかに矮小で醜い存在なのかに思い至りました。
両親を喪ったのは五歳のころでした。
交通事故でした。両親は無残にも居眠り運転の大型トラックに追突された車内で亡くなりましたが、悟朗は車外へはじき出されたことが幸いして一命をとりとめ、その後を施設やら親類の間を行き来して育ちました。
そんな悟朗でしたから、幼いときより自分自身の将来は自分でつかみ取っていかねばならないという想いが強く芽生えておりました。
体力に自信がなかったので勉学で身を立てる以外にないと考えた彼は、小学校から成績優秀な秀才として学問の徒となることにすべてをかけました。
あちこちをたらい回しにされたことで、悟朗はこの年代の子ならほとんど経験がないような孤独の中で成長しました。
ですから、小学生時代は愉快な思い出などなにひとつない時期となりました。
着の身着のまま、荷物といえども両親の遺影と遺品を入れた小さなビロードの箱、あとは勉強道具しか持たないままでの放浪生活でしたが、遠い親戚が面倒を見てくれることになり、そこから悟朗の人生が切り拓かれることとなったのです。
岸谷夫妻。自らの子を持たなかったこの親類夫婦は、遠い血筋の悟朗を不憫に思ったのか、引き取りを決意してくれました。
当初は仮の親子としての信頼関係を築くことに執心していた夫妻でしたが、学問にしか興味のないようなそぶりの悟朗にあわせて、いつしか彼の成長の妨げになるものは徹底的に排除してくれるようになりました。
おかげで中学生のあいだは勉学に集中することができました。
そんな彼が成績優秀者に与えられる奨学金で有名進学校である高校へ進むと、目標はさらに明確化しました。
学問のためと読み進めた本の中から、科学に対する興味が増し、いつしか科学者をめざそうと志すようになったのです。
科学者になって社会をもっとよくする。そしておじさんとおばさんに恩返しをする。
育ての親となってくれた岸谷夫妻への想いもあり、悟朗の向学心に拍車がかかりました。
そして自分のような不幸を背負う子供がいない社会を作る。
そう信念を醸成させた悟朗はある時、たまたま見かけた雑誌に載っていた大学教授のインタビュー記事に心を奪われました。
その人物の語り草は自分が漠然と思い浮かべていたこととをきれいに形にしてくれるものでした。
交通システムを自動化し、交通事故のない世の中にする。その構想こそ、悟朗が胸に秘めていた曖昧模糊とした理想を現実のものとしてくれるものでした。
このヒトなら自分を高みに導いてくれるにちがいない。
悟朗の目標はこの大学教授のもとで学ぶことと定まりました。
猛勉強のうえに猛勉強を重ねて、進学校の担任もお墨付きを出すほどに実力を高めたうえでの受験でしたが、なんの不足か、不合格の憂き目にあってしまい、失意のうちに夜の街をさまようこととなってしまったのでした。
人生初の挫折を前にして、悟朗は自分の驕りや、これまでの自分の積み重ねに不足があったものとして自分を責める以外に心をまとめることができないでいました。
死のう。
父と母が待つ世界へ……。
ぼんやりとした決意を胸に、悟朗は陸橋から下を走る国道を見下ろしました。
幾重にも連なる車列がまるで天国へ誘うかのように光り輝くさまを見つめていると、死は決して苦痛を伴わないのではないかと錯覚してしまいます。ましてや育ての親が受けるであろう悲しみには思い至ることなどできません。
思わず手摺に身を預けたその刹那、彼は現実に引き戻されたのです。
「トンボ?」
電光看板と派手なネオン、それに街路樹を彩る無数の電球、いまではLEDというんだそうですが、そんな美しい光に彩られた夜の街を一匹のトンボが飛んでいくのを見たのです。
トンボがこの季節に飛ぶ姿などありえないので、悟朗はしばらく明るすぎる夜の空を探しました。
気のせいか。
あるいはあの世への門出を祝ってくれる神様の使いかもしれない。
そんな冗談で胸のうちを整理して、ふたたび手摺に手をかけようとしたとき、
手摺に羽を休めるトンボを発見したのです。
腰の部分にペンキでも付けたかのような濃い水色の部分がありました。
「ギンヤンマだ」
幼き日の記憶を頼りにそう推定するのですが、どうも腑に落ちません。なにせ二月の上旬です。この季節に秋を生きぬき、冬を越そうとするトンボなどあろうはずがありません。
しばらくトンボの様子をうかがっていましたが、やがてそっと手を伸ばしてみました。
すると、幼き日の父との情景が胸のうちに浮かびました。
「悟朗! こっちだ、こっち」
暑い夏はセミを追いかけてすごしました。秋の便りが聞かれる頃になってトンボの存在を知った四歳の悟朗は、その奇妙な飛翔体を夢中になって追いかけました。
そのころ、悟朗の住んでいた家は郊外の田畑がまだ残る中に建てられた集合住宅にありましたので、こうして父とともに散歩がてらに出かければ、さすがにカブトムシはムリでもこうして身近な昆虫に触れる機会はいくらでもありました。
「ギンヤンマだ」
父が腰をかがめて小声で言いました。
その視線の先に水路に伸びた背の高い草の葉があり、そのトンボが羽を休めていました。
「じんまんま?」
父は大きな複眼を前肢で拭くような動作をするギンヤンマに魅入られているようでした。
「ギンヤンマだよ」
悟朗もその小動物を食い入るように眺めました。
体長に比して立派な四枚の光り輝く薄翅、頭部と胸部は鮮明な黄緑色で、腹部との境には表現するのが憚られるほどに強烈な光を放つ濃い水色をしています。
「オスだ」
悟朗の父はわが子の昆虫好きに対応するためか、事前に知識を仕入れていたようで、詳しくその生態について解説しました。
しかし悟朗はそんな話にはまるで耳を貸さず、この神秘の色彩を放つ昆虫の美しさに心を奪われていたのです。
「きれい」
そうつぶやくと手を伸ばした悟朗を感じて、ギンヤンマは飛び去ってしまいました。
「あ」
逃がしてしまい絶望する悟朗の小さな肩に手を置くと、父は言いました。
「ごらん。あんなに高く飛ぶんだね」
空を指さす父の向こうの青空にギンヤンマが風に乗る姿が悟朗にも見えました。
「すごーい! じんまんま、すごーい!」
「父さん」
ふとつぶやいた言葉に反応して冬のギンヤンマが飛び立ちました。あの初秋の日、あの用水路で見たギンヤンマのように。
夜空を見上げましたが、トンボの姿はもう見つけられません。
しかし、心を閉ざす氷のような想いが突然溶けはじめ、重しが取れるかのように心が軽くなるのを感じました。
ギンヤンマはネオンの街を見下ろしてどこかへ飛んでいってしまいましたが、悟朗の心に静かな生への炎を灯していってくれたのです。
中学入学以来、今の養父、養母のもとで世話になることになって以来の目標
が潰えたとはいえ、それがすべてではないと自分に言い聞かせることができました。
「明日は滑り止めの発表あるしな」
「ギンヤンマ? おいおい、二月だぜ」
親友の洲上雄太に話したところで信じてくれません。彼は中学以来の親友で、昆虫好きであることを通じて友情を深めました。
そんな彼は昆虫好きが高じて生物学を志すほどになり、今春みごとに志望する大学の生物学科への進学を決めていました。
古い民家の二階にある彼の部屋で、二人はささやかな祝勝の宴を催しておりました。
「あのねえ。いくらなんでもそれ、ありえないからね」
雄太は言います。
「ギンヤンマは学名Anax parthenepe。全国どこでも観察できるけど、実は亜種のA.p.juliusで、生息範囲は東アジア全体だ。我が国では十二月に観察された例もあるにはあるが、今年の冬は寒いから越冬して二月に元気な個体なんて考えられないよ」
さすがの知識を披露する雄太ですが、それでも悟朗は食い下がります。
「しかし見たんだ」
缶コーラを一口飲むと、雄太は続けました。
「そら、おまえ、不合格のショックで幻覚でも見たんじゃねえの」
その説にはある程度の合理性を感じるものの、あの時見たのは確かにギンヤンマでした。
それも立派な体格で、あの初秋のギンヤンマに負けず劣らずの見事な個体。まるで天国の父が遣わしてくれたかのように、記憶の扉を開き、弱りきった
心を蘇らせてくれた存在です。
幻覚などであるはずがありません。
「ま、とにかく八王子工科大学工学部合格おめでとう!」
狭いアパートにアルミ缶で乾杯する音が響きました。
大学でも悟朗の向学心は明るく、学内でも最優秀の生徒に与えられる奨学金を手にして、育ての親の負担軽減を果たしました。
そして長年あこがれていた東京理科学大学の教授に書いたメールがきっかけで、彼の研究室に出入りすることも叶いました。
所属する大学での勉学と、理想としていた教授の研究の手伝いという二足の草鞋でしたが、悟朗はそれをものともしない勢いで研鑽を積み、ついには主席卒業という偉業を果たしました。
所属の大学はもちろん、あこがれの教授もまた彼を大学院に誘いましたので、育ての両親と相談の上、受験に失敗した東京理科学大学で交通システム自動化の研究をつづけることとしました。
そして大学院を卒業後、満を持して大手自動車メーカーに就職、先進技術開発課に配属されました。
彼は学問一辺倒の学者肌ではなく、社交性に富み、社会で通用するだけの一般常識も備えておりましたので、社内でもしっかりとした位置を確保するようになり、周囲から一目置かれながらも、誰からも愛される存在となっていきました。
やがて、大きな転機が訪れます。同期入社の菅原今日華と親密な関係を築くようになったのです。
ちょうど社内で自動運転技術の開発が正式にスタートするころでしたが、彼女への配慮にも抜かりのない悟朗は順調に交際をつづけ、いつしか結婚を意識するようになりました。
交際は先進技術開発課の多忙化とともに進捗しましたが、出張や学術会議への参加で会えない時間があったとしても、彼女への気遣いを忘れぬよう心掛けたことで、深い絆が生まれていると信じるようになっておりました。
そしてその年のクリスマスの日、給与月額の三か月分を擁する婚約指輪を胸ポケットに忍ばせて、ついに求婚とあいなったのです。
会うのは実に三か月ぶりでしたが、その間も電話やメールに、はやりのSNSで連絡を取り合っており、何ら不足はないはずでした。
しかしその日の今日華は待ち合わせに遅れてきたうえ、どこか浮かぬ顔でした。
確信を胸に抱く悟朗にとっては些細なことのように映り、たいして気にもなりません。
半年前から予約してあった高級レストランへ彼女を案内しようとしますが、今日華はなぜか手袋をしているのに手が冷たいからと言って、悟朗と手を繋ごうとしませんでした。
同じような目的の恋人たちで埋まるレストランで二人は用意された席につきます。やがて食前酒が運ばれ、二人は軽く乾杯しました。
ハレの門出を祝うつもりの乾杯をしたのは悟朗の方だけでした。
「話があって」
悟朗が切り出す前に今日華が口を開きました。出鼻をくじかれた悟朗はおとなしく今日華の話を聞くことにします。
「実は……」
深刻な顔つきの今日華にただならぬ気配を感じて、悟朗は身を乗り出すように彼女の次の言葉を待ちました。
「あたし、悟朗と別れたいの」
想像を絶する切り出しでしたから、悟朗は狼狽してしまい、最初の料理を運んできた給仕に返事もできませんでした。
「じつは父から縁談を勧められてて」
悟朗は自分の出自に問題があるのかと動転しました。たしかに今日華の家柄は孤児である悟朗とはつり合いの取れないものでした。
勤め先の自動車製造会社に直接部品をおろす下請け企業で、すこしクルマに詳しい人なら名前を知っているような企業を経営している一族でした。
今日華に弟がいることで、家業を継ぐ話にはならないだろうとの前提で、交際を続けてきました。
たしかに先方の両親には目通りはかなわぬものの、今日華の話ではけっして悪印象を与えているわけではないはずでした。
「エスジェイテックのスギハシ社長の御曹司なの」
衝撃で腰を抜かしそうでした。エスジェイテックは今日華の実家にとってはかけがえのない取引先なのは悟朗も知っていました。
どうあがいても一介の研究者で、しかもサラリーマンでしかない悟朗に勝ち目はありません。
しかし今日華の両親は悟朗と娘の交際を知っているはずです。あまりに酷い仕打ちではないでしょうか。
「ど、どうして……」
それしか言葉になりませんでした。
「交際して一年半。悟朗は優しいし、いつもあたしのこと大事にしてくれるけど……」
家業を守るための家筋の選択であるとの理由ならまだ承服もできたでしょうが、今日華の口をついて出たのは悟朗に対する不満でした。
「いつも研究の話ばっかで」
致命傷でした。仕事に打ち込む姿を認めてくれているとばかり思っていましたが、今日華は普通の恋人たちがするような普通の交際を望んでいたのです。
それを知らずに自分は認められている、愛されているんだと考えていた自分の愚かさに目の前が真っ暗になりました。
今日華はこの場を最後の晩餐にするつもりだったので、食事は普通にこなしましたが、一人三万円のコース料理はまったく味がしませんでした。
おまけに悟朗がさらに傷ついたのは、別れ際でした。
クリスマスプレゼントを用意してくれいると思っていた紙袋から別れの記念品まで出して、最後に握手まで求められました。
「新年からは転属願いが受け入れられて東京本社の営業課に配属されることになったからもう会えないよ。ここでお別れ。いままで本当にありがとう」
失意とはこのことでしょう。
ドライな今日華のふるまいに何ら抵抗することもできずに、怒りの感情に行きつくこともなく、彼女の言うがままに離別に同意した自分が情けなくてしかたありません。
悟朗はクリスマスイブの賑わい華やかな夜の街をさまよいました。
しかし受験に失敗した夜のようにまさかこんなことで死のうと思うわけにもいかず、ヤケ酒をかっ食らう気にもなれず、誰かにすがりたくても、こんな時に誰にどう説明していいかも思いつかず、ただ漂泊の時を過ごします。
胸ポケットには婚約指輪があり、その重みに気も狂わんばかりですが、かといってテレビドラマのように投げ捨てる勇気もなく、ただ、行きかう人々の間を浮遊するかのように歩きました。
ふと立ち止まった先にクリスマスツリーがありました。近くのデパートと商店会が駅前を華やぐように設えた立派なもので、色とりどりの光を放ちとてもにぎやかです。
見上げると、ツリーとなった大きなモミの木の最上にトップスターと呼ばれる星形の飾り物が目に留まります。
自分の吐いた白い息にかすむその輝きを見つめているうちに、そのそばを飛ぶものを見つけました。
「あ。あれは」
チョウでした。夜間とはいえ、照明演出のため明るい駅前広場に大きな黒いチョウが飛んでいるのを見たのです。
「そ、そんなバカな」
十二月末の寒空にチョウなんて飛ぶはずがない。ツリーの演出のひとつかと思い、しばらく目を凝らして見守りましたが、ゆっくりと優雅に飛ぶその姿に確信が芽生えました。
「カラスアゲハだ」
蝶はゆっくりと降下してくると、モミの木のまわりを優雅に旋回しながら、やがて木の根元にある植え込みの柵に留まりました。
思わず手を伸ばしたのは捕まえたかったからではありません。その動作が遠い記憶を呼び起こすことを知っていたからです。
「ママ! ママ、来て!」
もとの家族は山に近い環境の集合住宅の一階に居を構えていましたので、悟朗は小さいながらも占有庭のある環境で育ちました。
母はパートの傍ら、庭で季節の花を育てていました。昆虫好きの悟朗はここで色とりどりの花を目当てに集まる虫たちを眺めるのが好きでした。
そしてその夏の日、とびっきりの客が訪れたのです。
洗濯物を片付けた母が庭に出てきました。
「見て、見て! おっきなチョウチョ」
悟朗の指さす先に夏の花が咲いており、そこで黒く大きなチョウが舞っていました。そのチョウはやがて優雅なふるまいで花に降りると、人間などそっちのけで蜜にありついたようです。
「まあ、黒い、おっきなチョウね」
都会育ちの母も見たことがないようで、しばらくそのチョウの様子を見守りました。
と、不意に幼い悟朗が手を伸ばしました。
「ゴロちゃん!」
母は捕まえようとする悟朗を制止し、もっと見ていようと提案しました。
胸のうちに母の想いが伝わるのを感じて、悟朗は捕まえたい衝動を収めることにしました。
チョウはそんな悟朗の心のうちを知ってか知らずか、庭の花々の間をいったりきたりしながらご馳走を堪能しているようでした。
「黒いチョウチョ。なんて名前かな」
「さあ。ママも知らないけど、すごくきれいで素敵ね。あ、羽の模様がきれい」
花にとまった黒いチョウは、実は黒一色ではなく、ビロードのような光沢のある深い青色にも見えました。そして印象的なオレンジ色の文様が後翅を彩っています。
それを知った母の嬉しそうな横顔はこの後、悟朗にとってかけがえのない記憶となりました。
「母さん」
雑踏の向こうで時計塔が時刻を告げます。
ふと目を離した隙にそのカラスアゲハが飛翔すると、悟朗の目の前を横切りました。
真っ黒だと思っていた蝶の後翅には鮮やかなオレンジ色の文様がありました。
母が美しいと褒めたたえていたものですから、悟朗はその記憶を鮮明に思い起こすことができました。
あの母との思い出ののち、成長した悟朗はその時の強烈な印象から、そのチョウチョがカラスアゲハという名であることを突き止めました。
ですので、いま、眼前を舞う蝶がカラスアゲハであることは疑いようがありません。
今日華にはフラれてしまいましたが、それが人生に及ぼす影響などわずかにすぎない。そもそも分不相応だからフラれたのではなく、彼女が研究に身を置く自分になじまないだけなのだ。
そう思うと、やっぱり婚約指輪を投げ捨ててやろうかと思いましたが、購入価額を思えばできません。
「もっといいコ、探そっと」
「あのねえ」
正月の炬燵に褞袍を着た雄太があきれ顔です。
「クリスマスイブに飛ぶカラスアゲハなんていませんから」
向かいで日本酒をすする悟朗が反論します。
「いや、見たんだよ。あれ、ぜってぇカラスアゲハ。後ろのとこにオレンジ色の文様があったからな」
「いやね。そら確かにPapilio dehaanii、カラスアゲハの雌の特徴だけんども」
ニヤついて雄太が答えます。
「するってぇと、悟朗くんは人生における最大級の挫折を経験するたび、季節外れの昆虫に救われるってことかい?」
今は大学の研究室に残る雄太が借りている部屋は、昆虫の標本だらけの狭苦しい場所でした。場所は実家から一人住まいのアパートに代わりましたが、雰囲気はまるで同じです。
「ああ、たしかに」
大学受験失敗の夜のことも思い出しました。
「なんか、もう神様の使いとかそんなんじゃねえの」
揶揄するつもりで言ったのか、本気なのかはわかりませんが、雄太の指摘はその通りだと思えました。
おもむろに座布団を丸めると、横になってシミだらけの天井を見上げます。
「おいおい、寝るなよ。これから麻雀だぞ。増田と倉橋、呼んでんだから」
今日華との別れからまる一年が経過しても、正直に言うと傷は癒せていませんでした。女のヒトの考えがわからないので怖くなり、今までのように職場の女性と気軽に口を利くこともめっきり減りました。
それに社内とはいえ、研究部門の限られた人間の巣窟ですから、今日華と別れたという噂はあっという間に拡がり、最初のころは匂わせ質問をしてくる女性社員もいましたが、今はまともに返事もしなくなった悟朗に声をかける者はいません。
しかし。
「栗上さん、書類、ここ置いておきます」
今日華より一年後輩の深町美鈴は地味な存在でしたが、仕事はテキパキこなしますし、配慮や気配りにおいては右に出る者がいないほどの実力者でした。
黒縁のロイド眼鏡をかけ、肩までの髪を後ろでまとめた姿を通していましたので、いわゆるお局さまのような存在にもかわいがられ、話し上手で卒がなく、研究が本分の社員というむつかしい位置にある男たちには恰好の息抜き相手として愛されていました。
「ありがとう」
「あ、それから第一試験課の大谷さん、メールのお返事ほしいっておっしゃってましたよ」
「あ、そだ。忘れてた。ありがとう」
パソコン画面から視線を移すと書類といっしょに缶コーヒーが置かれています。
「あ、深町さん、これ」
「ごめんなさい。わたし、お先に失礼します。コーヒー淹れられないなら、せめてもの気持ちです」
研究室の入り口で舌を出して笑う美鈴の美しさに初めて気づきました。
「あ、ありがとう、深町さん……」
「あんまり、長居しないでくださいよ。サービス残業ばっかだと、わたしが課長に勤怠管理のことで怒られちゃいますから」
そう言い残して手を振りながら出で行く美鈴の後ろ姿を見送りながら、悟朗は長らく忘れていた感情を思い出しました。
自動運転プログラムの開発は難航し、部門刷新が行われて悟朗は富士山麓のテストコースに隣接する研究棟に移ることになりました。昨今の経費節減強化策により、会社の将来を決定づけるはずの先端技術開発部門だというのに、規模が縮小されてしまったのです。
深町美鈴は辞令により、ほかの事務職の女性たち何人かとともに、別部門で事務職を続けることになりました。
お別れ会が開かれ、皆で惜別の話が盛り上がる中、悟朗は美鈴の横顔ばかり見ていました。
このころの悟朗は副主査という地位にあり、専門知識で他の社員に大きな差をつけるほどになっていましたので、あいさつもしなければなりませんし、もう会うことがなくなる社員たちにも一人ひとり声をかけたかったのですが、どうしても話をしておきたいのは美鈴ただひとりでした。
宴もたけなわな頃、美鈴がお手洗いに立つのを見逃しませんでした。
自分の携帯電話に着信があったふりをして、会場を抜け出すと、それとはなく美鈴を探しました。
宴会場は日本庭園をたたえた和食レストランでしたが、中庭の照明に照らされた白砂とよく整えられた緑は美鈴の戻りを待つ悟朗の目を、つかのま楽しませてくれました。
しかしやがて庭園の明かりの中を飛ぶ何かを探している自分に気づきました。
トンボとチョウのことを思い出したからです。
親友の雄太が言うように冬に飛ぶ昆虫なんてありはしない。あれは失意の底にあった自分の見た幻覚なんだろうか。
それとも本当に神が差し向けてくれた救いの手だろうか。
今宵、深町美鈴に告白してフられたあとはどんな救いがあるのだろうか。
皮肉めいた自問自答を繰り返していました。
と、そこへガラスに映る美鈴に気づきました。
「あ」
「あ、じゃありませんよ。こんなところで何してるんですか?」
「い、いや。その」
「さ、戻りましょ」
木造りの廊下を進む美鈴はいつもと違う白に花柄のワンピースを身に着けており、身体の線がきれいに出ています。その後ろ姿に縋りつくように切り出しました。
「ふ、深町さん」
「はい?」
驚いて振り返る美鈴はトレードマークの黒縁眼鏡をはずして返事しました。
こんなにきれいな黒い大きな瞳をしていたのかと、悟朗は我を忘れて吸い込まれるように見入りました。
「ど、どうかしましたか?」
「あ、あの。オレ、深町さんのこと何にも知らなくて」
一瞬の間を置いて、深町美鈴が微笑むと手にしていたハンドバッグから自分の携帯電話を取り出しました。
「詳しくは明日、聞こうじゃないか」
そうおどけて見せた彼女が魔法のように携帯電話を操作すると、悟朗の胸ポケットで携帯電話が鳴りました。
「ど、どうしてプライベートの番号知ってんの?」
「えへへ。ストーカー行為」
美鈴は社内で見せているような地味な女性ではありませんでした。髪を下すと色気も増し、眼鏡をはずすとその黒い瞳が魅力を倍増させる、そういう女性だったのです。まあ、もちろん悟朗の贔屓目ではあるのですが。
さて、そんな二人が意気投合し、行き着くところまで行くにさほど時間はかかりませんでした。
とんとん拍子に話が進み、二人は将来を誓いあいました。そのころには悟朗たちの努力の結晶が大きな成果となっており、革新的な新技術による自動運転車の第一弾が新製品として市場をにぎわせましたので、悟朗はまとめて休暇を申請し、認められてハワイで結婚式を挙行する運びとなりました。
結婚式の面倒を見てくれる斡旋会社での打ち合わせを済ませた日、二人は食事のためにレストランに立ち寄ります。
「招待者の一覧もオッケーだし、手配と名の付くものは全部準備完了ね」
美鈴が言いましたが、そこで浮かぬ顔の悟朗に気づきます。
「どうしたの?」
思案のあげくという間で、悟朗が切り出しました。
「うまく話せないんだけど」
悟朗は実の両親の遺影をハワイに持ち込むかどうかで悩んでいると告げました。式に参加する育ての両親が実の両親の扱いに気遣いを見せていることを話したのです。
自分たちは悟朗の実の親ではないことで、気兼ねがあるというのです。
「悟朗くんはどうなの?」
美鈴は単刀直入です。
「そりゃあ、どっちもホンモノの親に違いないよ」
「じゃあ、それでいいじゃない」
「そ、それって?」
「両・両親並び立つぅ」
美鈴の笑みに救われる思いでしたが、岸谷夫妻の気兼ねを思えば、生みの親には遠慮してもらったほうが良いというのが悟朗の心根でした。
しかし、それでもどこか心のうちに、育ての親に不義理ではないかという後ろめたさも残ります。
逡巡している悟朗を後目に、テーブルの下でなにやらゴソゴソしていた美鈴が自分の携帯電話の画面を掲げました。
「え? なに?」
「お母さまにメールしたよ」
「お、お母さま?」
「うん。悟朗くんのお母さん」
悟朗は少し慌てました。
「な、なんて」
「前のご両親のご遺影をハワイにお連れしてよろしいでしょうかって」
「えー!」
悟朗は周囲の客が振り返るほどの大声をあげてしまいます。
「もちろん、お返事はイエスだよ。だって、悟朗くんのお母さまやお父さまはホントにお優しいもの」
「病めるときも貧しきときも……」
白人の牧師が誓いの言葉を引き出すための文言をこなれた日本語で話すのを聞きながら、雄太は友人としてこの結婚式に参加できたことの喜びを、悟朗の育ての親に話していました。
「そうね。彼も彼なりに苦しんだ時期もあったけど、よくぞここまで立派になって……」
そう言うと育ての母親はうれし涙に溺れてしまいます。
「わたしたち夫婦が養育を決意したとき、悟朗くんはすでに完成れていたよ。しっかりと自分の立場と使命を認識し、それに向かって一直線に進んできたんだ。自動運転システムの開発は、交通事故で亡くなられた実のご両親への想いからだろうが、挫折もあったろうし、苦境もあったろう。なのに、一言の愚痴
も聞いたこともなければ、泣き言ひとつ口にしなかった」
育ての父がハワイの青い空を見上げます。
「まあ、それはわたしたち夫婦には不満でもあったんだが」
育てのご両親の想いに触れて、今度は雄太の胸がいっぱいになってしまいました。
「悟朗くんは立派です。それにご両親も」
そう言うのが精一杯の雄太は涙を落とすまいと顔を上げました。
教会の白い屋根には青空を突き抜けるようにして十字架が設えられています。
そこを飛ぶものを見つけて、昆虫学者の卵でもある雄太は目を凝らしました。
「え?」
トンボとチョウが舞っていました。
「そ、それって」
わあと歓声があがったのは、一連の儀式を終えた若いふたりが誓いの口づけをしたからです。
その喧噪をよそに、雄太はトンボとチョウが舞う空を凝視しつづけました。
「うん、トンボはギンヤンマ。そ、それに蝶はクロアゲハ……、い、いや、カラス、カラスアゲハだ。どっちもこの島にゃ生息してないぞ」
「おい、なにやってんだよ! クライマックスだぞ!」
悟朗の亡き実の父と母の遺影を胸にした中学時代からの同級生である増田と倉橋にせかされて、雄太も祝福の輪に入りました。
両家が招待した参列者のほかに、たまたま通りがかっただけの観光客も含めて大きな祝福の輪の中にいる悟朗と美鈴に、雄太が話しかけようとしたとき、義理の母がハンドバッグから何かを取り出したのが見えました。
ちいさな古いビロードの箱でした。
箱の中はタイピンとブローチがあります。
きれいな七宝焼きの黄緑と水色が美しいギンヤンマのタイピンと、黒にオレンジ色が鮮やかなカラスアゲハのブローチ。
祝福の渦の中にいた悟朗が美鈴を引き連れて育ての母に向き合いました。
「悟朗さん、今日はね。ご両親にも来ていただいているの」
タイピンとブローチを見せた育ての母は「実の」という言葉を使いませんでした。
「お母さん、ありがとう。うれしいよ」
そう言うと悟朗は美鈴を抱き寄せました。
「でもね、お母さん。ぼくの両親はあなた方ですよ」
美鈴がうんと頷きました。
母はうれしさのあまり、横にいるの父の腕の中に崩れてしまいました。
そして悟朗は青い空を見上げました。
「ねえ。それでいいよね、もう一組の父さん、母さん」
悟朗の見上げる青い空を、ハワイにいるはずのないギンヤンマとカラスアゲハがまるで踊るかのように舞っていました。
「大発見だ! オワフ島に新種のトンボとチョウだ! 写真撮らなくちゃ。今世紀最大の発見だぞ! こりゃ、学会がひっくりかえるぞぉ! あ、カメラ、カメラ」
第二夜 形見虫