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俗神夜話  作者: 蘭芳琳楠
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第一夜

山の中で奇妙な出会いを果たしたふたりの男が見たものは……。


 今宵はお招きにあずかり、恐悦至極に存じます。

 おお、それはたいへんな失礼をば。

あいさつなど無用とのことで、それではさっそく、ご所望のお話をさせていただく所存にございます。


 ごほん。

 この島国においては、八百万(やおよろず)(がみ)と申しまして、ありとあらゆるものに神が宿ります。

 神と申しましても高尚な全能神などではなく、ヒトの思いの拠所となりました物や事象にまで神が降りてまいりまして、時にそれがヒトの知るところとなりますと、ある時は恐れられ、またある時は崇拝され、また別の機会ではヒトの心の支えにさえなるということもございます。

 今宵はそれらの低級で卑しく、また愚かでさえある者どものお話を紡ぎに参ったというわけでございます。


 ええ、そうです。神とはいえ、それこそ鰯の頭も信心からという言葉もございます。なにせ、ヒトの思いより湧き出るものですので、低級で俗なるもの故、

 大陸や遠い西洋の神と違って、それこそ俗物的な者どもでございます。

 中には悪さをする者もございますから、一般にヒトからは妖怪だの、物の怪だの、あるいは幽霊なり、お化けなどと呼ばれることもございますが、それではいかにもなものに聞こえてしまします。そこで、ここでは俗的な神ということで俗神……という呼び名にてご紹介させていただきましょう。

 それではこんなお話をひとつ。



「ああん、恥ずかしい」

 ロリータ服というんだそうですが、なにやら西洋のゴシック様式を取り入れた服装をした男でございます。丁寧に化粧までしておりますが、中年特有の脂ぎった顔では化粧の乗りも悪く、どこをどうとっても女性には見えませぬ。

 しかしそれはこの男の主観世界では関係のないことでございまして、いわゆる女装趣味と申しまして、日常の抑圧から逃れるために、男はこうして山中に出向いては変装し、自分の姿をスマホとかいう現代機器で写真に撮っては悦に入っておるわけでございます。

 今日も今日とていつもの山に出かけた男はそこで素早く着替えると、丁寧な化粧を施し、編み上げのブーツまで履いて日常から切り離された可憐な少女「絵梨花」になりきっておったのでございます。

 まあ、素性を明かしますと、この男、サクワ家具という地元ではある程度名の通った家具店の営業をしておりまして、名は塚口肇(つかぐちはじめ)と申します。

 四十代もまもなく終わろうかという年頃で、市内のマンションに同い年の妻と二人の娘とともに生活をしておりますが、まさかこの男にこのような趣味があろうとは、妻や子は知る由もございません。

 その塚口、最近ではスマホの写真をSNSとかいう情報を共有する便利な仕組みを利用して、他者にも見せて満足を得ておるそうで、今日も会社から与えられた営業用のワンボックス車にこっそり乗せた衣装ケースの中から、最近誂えたばかりのピンクのやや丈が短いワンピースを取り出してきて、誰も来ないのをいいことに、立派な杉の木のまえで少女がとりそうなポーズをつけては写真に収まっておりました。

「きゃあ、こんなポーズなんで恥ずかしくって見せられません」

 塚口、いや、絵梨花はスカートのすそをカメラマンだと思い込んでいる自撮り棒に三脚がついたものにくくりつけたスマホのレンズに向けておりました。

 里山から進んでやや標高の高いあたりですので、人っ子ひとり通りませんが、それでも近くに住む者もあるとのこと、また隣の県へ出る峠道から一本林道に入った場所ですので、それなりの警戒感もいだいてはおりましたが、こういった至極の時になるとつい前後左右のことは頭から離れてしまいます。

「絵梨花、恥ずかしいっ!」

 思わず声も大きくなりますが、そこは山あいのことですので、誰に聞かれるわけもないのですが、この日は違いました。

 完全になりきっていたとはいえ、そこは経験豊富な営業マンでもあるわけですから、塚口のアタマの醒めた部分が少しばかり離れた山道にある人影を感じ取ったのです。

 しまったぁ。いまの声、聞かれたかも。

 思わず身を潜め、やり過ごしたものの、自分の今の姿を見られていたかもしれないと思うと、塚口はしばらくその場を動けませんでした。

 しかし人影はそんな塚口を気にする様子もなく先へと進んでいったようで、やがて杉の木陰に消えていきます。

 ホッとしたのもつかの間、塚口のアタマに変な予感がよぎります。

 今の人影が歩むのは廃道になったはずの古い道で、自分もいちど行ったことがあるのですが、先には沢にかかる古い橋があり、使用が禁止されるほどに老朽化しております。また、その先には廃棄された集落の址が残りますが、訪れる者もありません。

 伊達や酔狂で廃村を訪ねる趣味の輩もいると聞きますが、脳内で再生されたその姿にイヤな予感がさらに強くなります。

 トボトボと歩く猫背の姿。

 まさか。

 塚口はこの人里離れた山道でひとり行く若者の姿が、そういった趣味のヒトのものとは思えず、何か悲壮なものを抱えているように感じたのです。

 自殺志願者か。

 塚口はそう考えると、居ても立っても居られなくなり立ち上がりました。

新調したばかりのピンクのフリルがついたゴスロリワンピースの裾にアレチヌスビトハギの種子、いわゆるくっつき虫というやつですが、それが無数につくのもいとわず、下草の茂る雑木林を進み、山道をめざしました。

 しかし、ここでブーツの踵が汚れることを思い起こして躊躇します。

 あの人物がもし死のうとしているのだとしても、自分には関係ないではないか。

 それに身長180センチのゴスロリファッションのおっさんが出現すれば、むしろやっかいなことになりかねない。

 ただの思い過ごしだ。彼はただのハイカーだ。少し道に迷っているだけだ。いや、あの廃村に進んで、自分と同じような性癖を満たそうとしているだけに違いない。

 そう自分に言い聞かせて三脚の元へと戻ろうとしますが、良心の呵責が再び頭を擡げます。

なにかのっぴきならない事情があるのだろうか。

 こんな場所に歩を進めるということは、やはり悲壮な決意があればこそなのではあるまいか。

 都会の真ん中ならいざ知らず、ここで彼を止めることができるのは間違いなく自分ただひとり。

 塚口は意を決して踵を返しました。


「お、おーい。き、君ぃ!」

 若者は紺のヤッケに黒いバックパックを背負ったハイカー風でした。

 もしかしたら、本当に散策しているだけなのかもしれないという想いが一瞬走りましたが、メンテナンスされず老朽化した橋から三十メートル下の沢をのぞき込んでおりましたので、塚口の予想はあながち間違いではないようです。

「こ、こんなところで何してるの?」

 息を切らせて180センチ、85キロの男が丁寧な化粧とウィッグをつけて駆け寄ってきたので、青年はギョッとして身を反らしました。

「ひょっとしてバカこと考えてるんじゃないだろうね」

 息を切らせて猛進してきた塚口に肩口を掴れると、青年は萎縮したのか答えることができないでいます。

「あ、ごめん。わ、わたしは通りがかりの者なんだけど……。あ、これはわけがあってね。コスプレなんです」

 コスプレイヤーなる人種が人里離れた山の中を通りがかるという、いささか理にかなわぬ説明をしたものの、青年はどこかホッとしたような表情を浮かべました。

「あ。そうです。怪しいモンじゃありません。塚口。塚口っていいます」

 青年はやや置いてから返事をしました。

「クスミです。楠が美しいと書いて楠美といいます、楠美信也」

「あ、ああ。そう」

 冷静になれると急に恥ずかしさが湧いてきて、塚口は一歩後退しました。

 すると青年はすかさず橋の欄干に手をかけ、身を乗り出そうとしました。

「ダメだ! ダメだよ!」

 体躯で上回る塚口がつかみかかると、いとも簡単に引き剝がされてしまいます。

「な、なにがあったか知らないけど、バカなこと考えるんじゃないよ!」

 力任せに向きなおらせると華奢な楠美の両肩をしっかりとつかみ正面に対峙した塚口が言います。

「死んで花実が咲くもんか。こんなことしたって誰も喜ばないんだからな!」

 そういうと、楠美は思い当たる何かに行き着いて、その場に力なく崩れ落ちるとしくしくと泣き出しました。

 居心地の悪くなった塚口は煙草を思い出しましたが、ロリータ服には用意がなく、撮影場所に置いてきたことを思い出して、しかたなく大きく深呼吸しました。

 森の芳香フィトンチッドが胸を満たし、秋の気配が色濃くなったことを知ります。

「これも何かの縁だ。こんなんでよければ話、聞いてあげるから、とりあえず山を下りよ」

「縁?」

「そうだよ。ロリータコスプレおじさんと自殺志願者の出会いってな」

 冗談のつもりでしたが、楠美は余計に落ち込んだようです。

「と、とにかくだ。とにかくここはいかん。こんなとこにいちゃあ、また変な感情に流されちまう」

 半ば強引に若者を橋の欄干から引き剥がすと、絵梨花は巨躯を駆使して楠美をクルマのところまで連れ戻りました。

「さ、帰ろ」

 いつものルーチンでは撮影が終わればすぐに着替えるのですが、この状況では手を離したとたんに何やらしでかしそうで、厄介ごとに首を突っ込んだ自分に苛立つ想いもありましたが、塚口の持前のやさしさはとにかく彼といっしょに山を下りることを選択していました。

「一緒に街まで戻ろ」

 頭の中では保護したと言って警察に引き渡す選択肢を想定しましたが、このロリワンピのままでは根掘り葉掘り聞かれることになってしまうので避けたほうがよさそうだと判断しました。そこで自分が相談相手になって、思いとどまらせることができればそれでいいという判断に至りました。

「とにかく話を聞くよ」

 そう言うとピンクのフリル付きワンピース男はクルマを反転させ、深い杉の森を後にしました。


「あれえ」

 絵梨花のままクルマを運転することがリスクの高いことであることはわかっているつもりでしたが、とりあえず麓の駅がある場所まで送り届けるつもりでした。車中で彼があんな行為に至った経緯を共有してあければ、少しは心の負担も軽くなり、今日は思い直して帰宅するだろう。

 その先はというと、申し訳ないが知ったこっちゃない。

 絵梨花は山道を急いで下ったつもりでしたが、日没が影響してか、進路を誤ってしまい、おまけに楠美の身の上話に気を取られてか、ずいぶんと時間が経過してから間違いに気づく始末。あわてて、ナビゲーションシステムなる機械の助けを借りようとしたものの、あろうことか、山道を深く入りすぎたせいで画面の表示には道路を示す線すら表示されない山奥に行き着いてしまっていました。

「ちっくしょう。道を間違えちまった」

 聞くと楠美は就職活動がうまくいかない大学生で、来年春の就職が今も決まらない就職難民だというのです。

 今のご時世、職が決まらないくらいの話はどこにでもあり、飯が食えて、寝る場所さえあれば天国だくらいに考えている塚口にとっては、いかにも現代の若者的な悩みであると映ったようです。

「ま、とにかくそんなに苦にすることないよ。就職できなけりゃできないで、なーんぞあるもんよ」

 無責任な言いぐさですが、塚口のこれまでの人生経験がそう言わせています。

 何の取り柄もない自分だが、良妻に恵まれ、子宝にも与れ、小さな会社とはいえ営業部課長の責を負っている。おまけにわずかな小遣いの範囲内とはいえ、趣味の女装を満喫することも許されている。

思えば自分も三流大学を卒業して入った会社では続かず、職を転々とした経験を持つ。

 人との縁に支えられ、わずかな成功とわずかな失敗を繰り返したことが今の自分を作っており、胸を張って自慢できることなどないが、かといって後ろ指を指されることもない人生を誇りに思っている。

 だからそんな想いを、人生の初めの方のわずかな躓きで絶望する青年にもわかってほしくて言ったつもりの言葉でした。

「縁だよ、縁。縁がかならずめぐって来るからさ」

「そうなんでしょうか」

 楠美はか細い声で反論しようとしたようです。

「そうだよ、そう! バイトで入った会社で気に入られて、そのまんま正社員なんてよくある話だろ。なにもエントリーシート送って入る会社だけが会社じゃないって。だってオレがそうだもん」

 焦りながらもハンドルを握る塚口、いや、絵梨花の横で、楠美は少し顔を上げたようです。

「あ、なんなら、自分で起業したらどう? 青年企業家って、あこがれるなあ」

 茶化したつもりはなかった絵梨花でしたが、楠美はまたうつむいてしまいました。

「ぼくにはそんな才能なくて」

 しかたなくクルマを止めて慰めたり、励ましたり。ずいぶんと時間を使ってようやく楠美が顔を上げたころには、あたりはすっかり闇の中になっていました。

「とりあえず会社にはメールして直帰ってことにしたけど」

 自分のスマホをダッシュボードに放り投げると、絵梨花、いや塚口がため息をつきました。

「会社?」

「あーうん。このコスプレは趣味でね。いちおう今は勤務中」

 苦笑いする塚口がもういちどカーナビの操作を試みましたが、画面には道路を示す白い線すら現れません。

「ずいぶん、山奥へ来ちまったってことだな」

 あきらめた塚口は小腹がすいたとき用に用意していたチョコレート菓子を楠美に差し出すと、別のチョコレート菓子の袋を開けました。

「すまないね、迷っちまって。あ、そうだ。母ちゃんとかに連絡しとかなくていいのかい?」

「母は実家です」

「ああ。そうか」

 チョコレート菓子をペットボトルのコーヒーで流し込むと、絵梨花は今来た道を戻るためにギアをバックに入れました。

 周囲には明かりはなく、雲に見え隠れする月明りが頼りですが、道幅は自動車が折り返すには狭すぎました。

「あっちゃあ」

 左の後輪を脱輪させてしまいました。


「せーの!」

 ふたりでバンパーを持ちあげようとしますが、積載量一トンのワゴン車はびくともしません。

「ふう。万事休すか」

 スマホで自動車保険のサービス窓口へ電話しましたが、ここでは電波が届かないようで反応がありません。

「ボクのケータイも圏外です」

 困り果てた絵梨花でしたが、人生経験の長い塚口でもあるわけですから明るく振る舞います。

「ちょっくら電波の届くとこまで行ってくるわ」

「え、でも」

 楠美はいくら誰も来ない夜道とはいえ、そのコスプレで大丈夫かと言いたかったのですが、絵梨花はそれを悟っていました。

「あー、心配しないで。誰も来ねえから」

 しかし絵梨花が一歩を歩みだしたそのとたん、自動車のヘッドライトが彼女を照らしたのです。


「こりゃダメやね。明日ン朝、ロープで引っ張ろかいな」

 軽トラックに乗ってやってきた小柄な老人は言いました。

「えー! 今日はムリっすか?」

 絵梨花が肩を落とします。

「明日、会社休まなくちゃいけなくなる」

 楠美が申し訳なさそうにするので、それ以上は悲観的なことを言わないようにします。

「しかたない。車中泊といくか」

 ゴシックロリータの衣装を身にまとった絵梨花、いや塚口の容姿にはなんの反応もない老人は、自分の軽トラックの荷台を整理しはじめました。

「ちょっと寒いけンど、ここ乗りなせえ。ワシの家で今夜は休むといい。なあに。すぐそこじゃて」


 ほんの数百メートル登ったあたりに小さな集落があり、そのいちばん奥に老人の家がありました。

 どうしてあそこでUターンしようとしたのか、自分の愚かさを悔いる絵梨花を後目(しりめ)に、老人は土間に設えてある蝋燭に火をつけました。

 どうやら電気は通っていないようです。

「こっちへ」

 大きな古民家でした。

 真っ暗な「にわ」に蝋燭の灯がともると、時代劇に出てくるような囲炉裏がわかりました。

 シンとした空気の中にわずかなカビの匂いがします。

「ちょっと楽にしててな。ろくなモンがないけンど、腹に足しになるもん用意するでな」

 薄い座布団をすすめると、囲炉裏に火を入れた老人は炊事場へ向かい、手際よく米を炊き、汁物の準備に取り掛かります。

 その間、絵梨花は楠美の身の上話を聞きました。東北の出身であり、大学のためにこの土地に来たこと。

 同じゼミやサークルの同級生たちはみな就職を決めたのに、自分だけがいまだに決めることができないこと。ここでの躓きがその後の人生における可能性に与える大きな負の可能性。

「んなことはねえよ」

 ゴスロリファッションのままの絵梨花が胡坐を組みなおして言います。

「オレだって最初に就職した会社は長続きしなかったけど、その後はなんとかなってるよ」

 楠美が顔をのぞき込むようにして見るので、絵梨花は少しむず痒くなりました。

「あー。その、つまり、こんな地方都市の小規模企業じゃ自慢にゃならないことはわかってるよ」

「いえ」

 楠美の顔に精気が戻っているのが、ほの明るい行燈(あんどん)の灯でもわかりました。

「塚口さんは立派です」

「年商十億ぽっちの中小企業だぜ」

「そんなんじゃないです。なんか、こううまく言えないけど、充実してるんだろなって」

「そうだ、そうだよ。充実してるもん」

 そう言うと絵梨花はフリルの袖を振って見せました。

 楠美が笑ったので、絵梨花は彼がようやくつまらない考えから離れてくれたと思いました。

「でもボクにはとうていムリだ」

「な、なんだよぉ。まだダメなのかい」

 落胆する絵梨花は老人が鍋を持ってきて現れたので、そちらに向き直りました。これはまだ時間が必要だ。

「ささ、つまらんもんですけンど、どうぞ召し上がれ。シロメシもじき炊き上がりますンで」

 老人が鍋を囲炉裏にかけると、木製のシャモジで取り分けてくれました。

 具の多い味噌汁で、いい匂いがします。

「こりゃありがたい。遠慮なくいただきます」

 木の枝を削り出したような箸でお椀の具を口に運ぶ絵梨花は、楠美が手をつけないことを小声で注意します。

「ほら。せっかく用意してくださったんだからさあ」

 そこへ老人が今度は飯櫃(めしびつ)を手に戻ってきました。

「さ、こんなもんしかないけンど」

 麦の混じった白いご飯と、大根の漬物が用意され、三人で囲炉裏を囲みます。

「そちらさんはお若いけえ、こーんなもンは口に合わんかもな。すまないねえ」

「いえいえ。ちょっと体調が悪いんです。せっかく用意していただいたのに、申し訳ありません」

 絵梨花が代わりに謝ると、老人は欠けた前歯を見せて笑いました。

「あんたはおもしろい服装をしとるけンど、こちらのお若いさんとは親子さんかね」

「あー、いえ。さっき沢で知り合いまして」

 俯く楠美を後目に絵梨花が適当な出会いの話をでっちあげます。

 老人はご飯を頬張りながらうんうんと頷きながら聞いています。

「で、道に迷ったわけでして」

「そうかいそうかい。ここらあたりに他人(ひと)(さま)がおいでンなるこたあ、めったにないもんで、なあんにも用意がなくてすまないねえ」

 老人がまた謝るので、二人して恐縮していると、茶をすすってから話を始めました。

「あの赤い、といっても今はもう錆びちまって塗装の色もわからんのだけンど、沢ンところに橋がありますじゃろ」

「あ、そうそう。そこいらあたりで出会ったんです」

「あそこの集落が寂れちまってからは下の沢へ身投げをする輩がいて困ってるンですわ」

 老人の切り出しに楠美だけではなく、絵梨花ものけぞりました。

「いやね。そりゃあ、わからんでもないンよ」

老人は続けました。

「今のご時世、生きていくのも辛かろうて、そんな想いに走ることも、まあもっともなことよ」

 絵梨花が楠美の様子を覗きこみます。

「しかしな。せっかくこの世に生を享けたんじゃて、おおいに楽しんまんとのぉ」

 楠美はまた俯いてしまいます。

「はっは。このおじいさんには敵わねえなあ。なにもかもお見通しってわけだ」

 絵梨花が服装に似つかわしくない豪快な笑いで場を取り繕いました。

 そこで老人はぴんと背を伸ばして楠美に向き直ります。

「よかったら、ワシにも事情を話してはくれンか」

 楠美は弱々しく頷くと、絵梨花に話した内容を繰り返しました。

 老人はその間、茶をすすり、漬物をポリポリと齧りながら聞いています。

「ってことは、就職失敗が苦になったンじゃな」

「はい」

「バカなことをしでかすところをこのヒトに救われたってこったな」

「そ、そうなんです」

「よかったなあ。そりゃ、ンとよかった」

 老人が天を仰ぎます。

「もうこんなバカなことしでかすンじゃねえぞ」

 老人が一瞬だけ険しい顔をしました。

「で、でも。就職できないなんて、ほんとに恥ずかしくて。あ、なにも大企業にとか、そんな欲はないんです。普通の普通でいいんです。でもそれさえ叶わないなんて辛すぎます」

 老人は優しい眼差しで楠美を見つめた後、ぼそっと口を開きます。

「お前さん、いまおいくつじゃね?」

「二十二です」

「浪人や留年の経験はねえンだね」

「あ。それはありません」

 老人が微笑みました。

「いささか古い資料じゃが、中学生千人がその後たどる人生を政府がまとめとります。高校へ進学した者970人。高校を三年で卒業できた者896人。四年制大学へ現役で進学した者413人。大学を四年で卒業できた者331人。そのうち正規雇用にたどりついた者240人。正規雇用後三年以内に離職しなかった者163人」

 老人の語りに楠美だけではなく、絵梨花もぽかんと口を開けたままになりました。

「お前さんはいま、大学を四年で卒業できた331人のうちのひとりじゃよ。普通っちゅうけンど、上位三割に入っとるから、普通じゃなくて、ほれ、ナンちゅうじゃったかな。上位者」

「エリート?」

 絵梨花が口を挟みます。

「おお、それそれ。エリートじゃ」

 そう言うと老人は高らかな笑い声をあげました。

「次の狭き門をくぐるためにゃあ、そりゃそれなりの努力も必要じゃろうが、それ以上に縁も必要じゃ。今はたまたま縁がなかっただけじゃて。焦ることはない。エリートのお前さんなら必ず乗り越えられるだろうて」

「ボクがエリート?」

 半信半疑の楠美はまだ信じられない様子です。

「そうじゃよ。それに縁は自然に湧いてくる。縁があれば、その縁を大切にすることじゃな」

「縁」楠美は噛みしめるように言いました。


 秋の深まる山奥の古民家で、少しカビくさいけれどしっかり天日を浴びた布団にくるまって二人も休みました。老人はもうとっくの昔に大きな(いびき)をかいています。

「なあ。聞いたかい」

 寝付けずに絵梨花、今はゴスロリファッションを脱いでおりますので、塚口が口を開きました。

「このおじいさん、あんな統計資料、どっからひっぱってきたのかね」

 シンと静まり返った夜の闇の彼方で獣の鳴く声がします。音といえば、ほかには森の木々の葉擦れの音だけです。

「たしかにおじいさんの言うとおりだ。普通に大学を出ることだけでもエリートなんだぜ。大学へ進学したくても家庭の事情でできなかったヤツや、さまざまな理由で自分の夢をあきらめたヤツなんてゴマンといるもんだ」

「そうですよね」

 楠美が返します。

「だから明日、希望をもって山を下りようぜ」

「はい!」

 月明りも届かない寝間ですが、塚口は楠美が希望の光に包まれているかのように思えました。


 翌朝、ふたりは老人に起こされました。山の朝は早く、寝ぼけ眼でしたが、老人が薪割りをするというので、ふたたび絵梨花となった塚口が手伝うことにしました。

 自炊が得意だという楠美は炊事場に行こうとしましたが、薪がなくては火を起こせないことを知らずに頭を掻くことになりました。

 楠美は老人と絵梨花が薪割りをしている間に、古民家の周囲をめぐってみました。

 山鳩の鳴き声が聞こえ、澄んだ空気が肺だけではなく心まで洗ってくれるようです。

 大きな母屋と離れのほかに鶏小屋などがあり広い敷地ですが、古びているものの手入れが行き届いており、あのおじいさんの想いが伝わってくるようです。

 楠美は小屋をのぞき込みました。

「わあ」

そこは椎茸の栽培をするための小屋のようで、中にはおびただしい数の原木に椎茸が()っていました。

「どうじゃ。大したもンじゃろ」

「これ、おじいさんが栽培してるんですか」

「そうじゃよ。大事な収入源さね」

「へえ。すごいですねぇ。でも」

 楠美は次の質問を続けてよいものか躊躇しました。

「なんじゃね」

「おひとりで?」

「そうじゃよ。昔はここにも仲間がおったンじゃが、今はワシひとりですわい」

 老人がところどころなくなった歯を見せて笑いました。

 その笑みに許された気になった楠美は続けて聞きます。

「さみしくないですか?」

 どうしてそんな質問をしてしまったのかと後悔する楠美を老人が笑い声で救います。

「さみしいなんてもンじゃないよ。来る日も来る日も椎茸と鶏が話し相手じゃて」

「え」

「しかしな。ワシはここに居らなあかンのです」

 老人が愛おしそうに椎茸に笠に触れます。

「もしかするとな。離れていった仲間がまた戻ってくるかも知れンじゃろ」

「え?」 

 楠美は老人の横顔をのぞき込みました。柔和な笑みを浮かべたままの老人が向き直りました。

「集落の墓がこの上手にありますでな。急に墓参りにもどる家族もおるじゃろて。ここまであがって来るモンのため墓場の草引きをしたり、道路を直したりしとります」

 老人のさみしさや一途な想いに触れて、楠美はかける言葉を失いました。

「おじいさん! 薪割り終わりましたよ!」

 絵梨花が声を上げましたので、老人はそれ以上語らずに出て行ってしまいます。

 残された楠美は薄暗い椎茸小屋の中で、幾重にも重なる椎茸の笠を見渡します。いくつもいくつも並ぶ椎茸には老人の愛情が注がれているのが手に取るようにわかりました。


「ささ。召し上がりなされ」

 囲炉裏を囲みます。昨晩とまったく同じメニューでしたが、それでも食欲が増した楠美はお代わりをするほどでした。

 食事が終わると老人の軽トラックの荷台に乗り、脱輪した場所まで戻りました。

 ロープをかけて軽四トラックで引くと、クルマはいとも簡単に道路に戻り、今度は慎重に折り返して山を下りる準備ができました。

 二人は老人に丁重に礼を言うと、その場を離れました。

 楠美は助手席から手を振りましたが、老人の姿はすぐに見えなくなりました。


 しばらく絵梨花は無言でしたが、少し山道の幅が広くなったころにぽつりと言いました。

「あのじいさん、うれしそうだったな」

「え?」

「久しぶりの客人だったんだろうな」

「そ、そうですね」

「オレたちが昨晩迷いこんだ道な。きれいに道端の草が刈りこまれてたんだ」

「は、はあ」

「あのじいさんの仕事だろうな」

「え?」

「ガードレールも道路標識もない道はおそらく私道だろ。ワタクシの道な。それをあのじいさんは一人で整備してるんじゃないのかな」

 

 楠美は再び振り返ります。そこに老人がいようはずはないのですが、なぜか振り返るともう一度お礼を言いたくなりました。

「言ってみりゃ、あんたの……。いやオレも含めて命の恩人だし。どうだい。あんたの就職が決まってからになるけど、また訪問してやろうじゃないか。今度はうまい酒でも持っていってな」

 楠美は大きく頷きました。



 少し早い春の陽気に絵梨花と楠美はまた山に上がっていました。

 あれから塚口の励ましもあって、楠美はなんとか就職の口を見つけ、麓の街を離れることも決まりましたが、どうしてもこの山に足を運び、あの老人にもう一度会ってお礼を言いたかったのです。

「あれえ」

 また道に迷いながらハンドルを握る丁寧な化粧の絵梨花に、楠美も苦笑します。

「たしか、ここのあたりだったんだけどなあ」

 絵梨花と楠美が出会いを果たした廃橋へと続く道は確認しましたから、位置的にはこのあたりのはずです。

「おかしいなあ」

 ついにはクルマを止めて、あたりを見渡しましたが、老人が一人暮らす集落へと続く道が見当たりません。

 クルマを下り、スカートのすそを翻しながらキョロキョロする絵梨花に、笑いがこみあげてきた楠美が言います。

「塚口さん、なにも今日は絵梨花さんにならなくてもいいのに」

「いやさあ。あのおじいさんに会うにはこっちのほうがいいかなって」

 二人はあれこれ言いながらも、老人との思いでの場所を探しましたが、見つかりません。

 とそこへ一台の車が通りかかりました。駐在所のパトカーです。

「あんたたち、故障?」

 窓を開けた警官が聞きますが、あきらかにその目は絵梨花に向いています。

「あ、あのう。この辺におじいさんが一人で住んでいる集落ありませんでしょうか?」

「集落?」

 警官が小型のパトカーを道のわきへ寄せると降りてきます。

「限界集落はもっと麓よりで、ここらへんにはもう人は住んでないよ」

 警官より一回り大きな体躯の絵梨花が歩み寄りました。

「去年の秋、脱輪しちゃって動けなくなったとき、助けてくれたご老人がいらっしゃったんです」

「老人? はて。ここらへんは遺棄村落だけだが」

 訝し気に絵梨花を値踏みする警官に、今度は楠美が尋ねます。

「椎茸農家の方なんです。ご存じないでしょうか」

 警官はふんふんと頷きました。

「椎茸生産がさかんだったのは三十年も前のことだよ」

「え?」二人は顔を見合わせました。

「この先に廃墟があるけど、そこには近づけないよ。隧道に倒木があってね」

 警官は職務質問すべきか悩んだのかもしれませんが、気を付けてと言い残して去っていきました。


「と、とにかく廃墟とやらへ行ってみようか」

 二人は再びクルマに乗って隧道とやらを探します。

 しばらくするとさっきも通った場所で気づきませんでしたが、たしかに脇へと続く道を見つけました。

 しかし警官の言うとおり、倒木が何本か連なっており、クルマでは進入できそうにありません。

「ここだよなあ」

「あの日以降、台風かなにかで塞がっちゃったんでしょうか」

「じゃあ、あのおじいさんもここを諦めたってことか?」

 顔を見合わす二人はその結論に納得がいきません。

「とにかく行ってみるべ」

 クルマを通行の邪魔にならないように停めると、老人への土産にと持参した品々を抱えて、倒木の奥へと進みます。

 巨木は根本近くで折れており、折れ口が新しいもののようには見えません。枝葉も散らばっており、古いアスファルトをほぼ埋め尽くしています。

「あのじいさん、けっこうきれいにしてたよな」

 額に汗しながら絵梨花が言います。

「そうですよね」

 荒れた隧道にはアスファルトの劣化部分から伸びた植物が勢いよく天に向かっています。

 老人があのあとここを放棄したにしては、ずいぶんと時間の経過を感じさせます。

「ここじゃないんじゃないですか」

 楠美が言います。

「そうかもね」

 がけ崩れのあとや、落ち葉の堆積で道路かどうかも定かでない場所すらありましたが、ふたりは見覚えのある場所にたどり着きました。

「ここ、脱輪した場所ですよね」

「あ。ああ」

 あの朝、絵梨花が脱輪場所で感じたのは、きれいに草引きを行ったあとの行き届いた手入れの跡でした。

 しかしわずか半年でこれほどまでに荒れるのだろうかと思うほどに背の高い枯草に覆われていました。

「ここだな」

 見上げた山の稜線に記憶がたどり着きます。間違いありません。遠くを通る高圧電線とその鉄塔の位置もあの朝の記憶のとおりでした。

「あの時は下草がこんなになかったですね」

 楠美も同じ思いのようです。

「この先だ」

 二人は老人と過ごした思い出の古民家をめざしました。


「そ、そんな……」

 絶句しました。老人がひとりきりとはいえ、活き活きと暮らしていたはずの古民家は荒れに荒れ、無残な姿をさらしていました。

「は、半年ばかりでここまで荒れるもんか」

 絵梨花が朽ち果てた納戸(なんど)の前に立って言いました。草が生い茂り、庭とは呼べないほどに荒れた場所で、楠美が放置された道具類を見下ろしています。農作業に使うのか、一輪車やバケツに錆ついたスコップや鋤がありました。

「これ」

 近づいた絵梨花に楠美が指ししめしたのは錆の浮いた空き缶でした。絵梨花、いや、五十の声も聞こえる年代となった塚口の記憶にある人気飲料の古い意匠のものです。おそらく最新のものに変えられてから優に二十年は経過しているでしょう。

「さっきのお巡りさんが言ってたみたいに、ここは三十年くらい前に放棄されたんじゃないですか」

 二人の間に沈黙が流れます。

「じゃ、じゃあ、オレたちに親切にしてくれたあのじいさんはいったい」

 二人が見渡す空に鳥の群れが渡っていきました。


 その後もふたりは老人の居宅を歩き回りましたが、半年前まで住んでいたことを示す証拠は何も見つかりませんでした。

 代わりに時間の経過を示すいくつかの遺物を見つけましたが、何もうれしくはありません。

 ついに縁側に座って絵梨花がタバコを吸いはじめました。

「タバコ……、吸うんですね」

「あ、ごめん。仕事で行き詰った時とかなんだけど。それに絵梨花では吸わないことにしてるんだ」

 絵梨花は申し訳なさそうにタバコの火を消しました。

 朽ち果てた縁側の材木は絵梨花ひとり分を残して、あとはシロアリのせいか軟弱になっています。

「ここ座りなよ」

 絵梨花が身をよじって左側に隙間をつくります。

「あ、だいじょうぶです」

 立ったままの楠美はもう一度、視線を高くしました。青空の下、長年の風雨にさらされた屋根の瓦がところどころずれたり、なくなったりしています。

「あのおじいさん、けっきょく名前も聞かなかったんですよね」

 屋根の向こうに一番高い杉の木が見えました。

「そうだなあ。なんで聞かなかったんだろうな」

 絵梨花が俯くと、楠美は何かを決断したかのように大きく頷きました。

「ここで椎茸の栽培できるんですよね」

「そりゃあまあ、あのじいさんだけじゃなかったみたいだしなあ」

 楠美が身を翻しました。

「ボク、ここであのおじいさんの夢の続き、やってみます」

「はあ?」

 絵梨花が立ち上がって下草の中の楠美の背中を見ました。

 これまでの楠美にはなかった何かを感じます。

「き、キミ」

「あのおじいさん、ボクたちに何か言いたかったんじゃないですか。こんな素晴らしい場所が朽ち果てていくのが我慢できなくて。それでボクらを呼んだんですよ、きっと」

「じゃあ、あのじいさんは」

 塚口が言おうとした先を楠美が遮りました。

「そうだ。そうですよ。あのおじいさんや塚口さんと出会えたのがボクの『縁』なんだ」

「あのねえ」

 絵梨花、いやオトナとしての塚口は何か口を挟もうとしましたが、こういう想いに至った若者を止めることができないのはよく知っていました。

「ここ、少し手を入れたら住めますよね、きっと。それからさっき見たけど、椎茸小屋もまだまだ使えますよ」

「キミ、就職してここを離れるんでしょ」

「辞退します」

「じ、辞退って。楠美くん、就職がうまくいかなくて」

「もう、そんな古い自分はかなぐり捨てました」

「あらあ」

 変わり身が早いのは若者の特権だ。塚口はそれ以上口を挟まないことにしました。



 季節は移ろい、暑い夏がやってきました。

就職を辞退した楠美は街でアルバイトをしながら、中古で買ったミニバイクに乗って毎週ここまでやってきて少しずつ整備をしました。

隧道の入り口にある倒木を除去する作業がもっとも骨の折れる仕事でしたが、塚口やSNSで募集したボランティアとかいう無償の労力提供者を募ったおかげで巨木は薪木になって老人宅の敷地にうず高く積まれました。

 老人の古民家は必要最低限の補修で何とか住めるようになりました。

 楠美は律儀にも市役所に所有権の確認に出向きましたが、所有者はすべて不明となっており、古民家の使用に関してはあいまいな返答のままでしたので、あのおじいさんが眠っているかもしれない裏の墓地を整備し、花を手向けることで許可を得たこととしました。

 家具は家具屋の塚口が下取り品を横流ししましたし、屋根は工務店を営む塚口の顧客が格安で面倒を見てくれました。ただ、雨の浸食で屋根が構造的にくたびれており、大規模な補修をしなければ長くはもたないとのことで、課題が残りました。

 しかし楠美はそれでもコツコツと草を刈り、日曜大工でできるようなことはすべて自分でやり遂げました。

 塚口も絵梨花の写真を人目を気にせず撮れる場所を提供してもらう代わりに足繫く通い、手伝いから工具の手配、資材の格安提供まで自分の持つ繋がりを最大限に駆使して協力しました。

 そしてようやく今日の日を迎えたのです。

「いや、しっかしよくここまで短時間で準備できたよなあ」

 今日は楠美がここで生活を開始する日。それを祝して、きれいに整備された前の庭で盛大なバーベキューパーティーが開催されます。

 塚口のいう縁に導かれた人々が大挙して集まった盛大な催しです。

「楠美くんがこんな夢を実現させるなんてね」

 楠美が招いた大学の同級生の女性が紙コップのビールを口にしながら言うと、すかさず塚口が口を挟みます。

「周到に準備してたんですよ、彼は」

「えー、でも全然知らなかったよねえ、楠美くんの夢」

 女性がいっしょに来た別の女性たちに同意を求めると、皆がうんうんと頷きました。

「で、どこで知り合ったんですか、楠美くんと」

 ポロシャツから覗く太い腕で鉄板の肉を返しながら、塚口が答えます。

「それがね。不思議な縁なんですよ」

 でっちあげ話を展開しながら、絵梨花ではない塚口は目の端に自分の家族を捉えていました。妻と二人の娘が補修された縁側で談笑しながら舌鼓を打っています。つまり、今日は絵梨花の出番はありません。

「パパ、あちらの方にもお肉を」

 娘が来賓に気遣いできるようになったことを喜びながら、焼きあがった肉を紙の皿の上に載せます。

 そしてそれを自分で引き寄せると、塚口は焼き場を娘に任せました。

「オノダさん、これどうぞ」

 呼び止めら男性が恐縮気味の皿を受け取ると、塚口が肩を抱くように寄り添います。

「いやあ、このプロジェクトがここまで来れたのは農協さんの、ひいてはオノダさんのご尽力のおかげです。ほんとにありがとうございます」

 そこへ楠美を呼び寄せると、楠美が丁寧なあいさつをしました。

「いやいや。過疎化が進んで、うちの農協も後継者不足が深刻化しています。それをこうやって若者が名乗り出てくれるんですから、後押ししないわけにはいきません」

 楠美は塚口と相談のうえ、廃れてしまった椎茸づくりをこの場で再開することを名目に農協を巻き込んでいました。

「わが町の新しい特産品になれるようがんばります」

 楠美の決意に満ちた顔には嘘偽りはなく、あの日の暗い影はみじんもありません。

塚口は不思議な縁を思って高い杉の木の上を見上げました。

「体験農場も秋にはオープンさせます。それからクラウドファンディングで資金を調達して、民家を整備した宿泊施設と、空き地を活用したアスレチック遊戯施設を計画しています」

「それはすごい」

 農協のオノダさんをもうならせる計画ですが、塚口が口を挟みます。

「そのまえに一人前の農業家になんねえとな」

「ほんとにそれです!」

 三人で笑いあっていると、そこで少しビールに酔ったのか、さっきの同級生の女の子たちがやってきました。

「ねえねえ。この農場プロジェクトの名前なんだけど」

「え?」

 入口に設置した手作りの木製看板を指さします。朽ち果てていた板木を加工した自慢の看板です。

「『ふれあいふるさと農場KT&G』って、Kって楠美くんでしょ、で、Tは塚口さん。でGって誰なの?」

 塚口と楠美は顔を見合わせました。

「Gさんですよ、Gさん」

 塚口が言うと、楠美が噴き出して笑います。そして二人でどこまでも青い空を見上げました。

「えー。誰ぇ?」


「ワシじゃよ、ワシ」

 一番高い杉の木のてっぺんでじいさんが微笑みながら答えました。



第一夜 山じじい


明晩、俗神あらわれり。

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