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第八幕 楽園

失楽園、あるいは復楽園。それは人それぞれなのです。


次で、最後です。

 あのあと、僕は君からの一切の連絡を絶ちました。噂くらいは耳にしても、僕は君のことなど知らないし、君もまた然り。


 だから、突然こんな手紙が来たことを、心底不気味に思っていることでしょう。


 ただ、これだけは伝えておきたくて。


 では、いずれまた。


敬具




 机から目を上げる。この個室には、ベッドの横に簡易的な机がある。個室を確保しておいて助かった。本当は家を出る前に書き上げる予定だったのだ。しかし、用意に手間取っていたらその時間を確保できなかった。自分の英断に感謝せねば。


 カンテラの放つ橙の光が、個室内をほのかに照らす。気づけば、時刻は日付を跨ごうという頃合いまで来ていた。もうじき阿文川を渡る頃だろう。あの川を越えれば、車内は消灯される。個室なのだから、個々で調整させてもらえれば良いものを、そうも行かないらしい。


 寝支度に取り掛かる。僕は手紙を冊子状に綴じ、トランクに仕舞い込んだ。いやはや、あまりに字数が膨らんだ結果、手紙と言える代物ではなくなってしまった。しかし、君ならば屹度読んでくれるだろう。そのためにも、今晩は早く寝なければ。


 そして携帯電話を眺める。携帯電話には、俗世が発現している。上司から、心ない仕事の強要。親から、無情な見合いの誘い。飢えたるケダモノたちから、身体を欲する言葉の数々。


 僕は、携帯電話を放り投げた。携帯電話は、ベッドの隙間へと落ちていった。




 阿文川に差し掛かった。何と大きな川であろうか。今はこうやって列車が走っているから良いものの、一昔前は船での往来が主な手段だったという。


 そうこう考えているうち、車内アナウンスがかかる。


「――お休みのところ、失礼致します。只今、当列車は時刻通り、阿文駅を通過致しました。あと十分ほどで、列車内のすべての電気を消灯させていただきます。支度のお済みでないお客様は、お早めにお済ませください。それでは、終点の南別駅まで、どうぞごゆっくりお過ごしください。」


 僕も休むとしよう。窓の外には、雄大な川が広がっている。秋瀬駅で見えた雪は、こちらでは降っていないようで、川面には冬の星々が美しく瞬いていた。


 星座を追う。ぎょしゃ座。おうし座。オリオン座。おおいぬ座。こいぬ座。そして――ふたご座。


 悲しき、双子の物語。



「――皆様、おはよう御座います。当列車は、まもなく終点の南別駅に到着致します。どなた様も、お忘れもの等なさいませんよう、ご支度の上、到着まで今暫くお待ち下さい。」


 ああ、寝過ごしてしまった。朝の景色こそ、寝台列車の醍醐味であるというのに。幸い身支度を済ませていたので問題ないが、それにしても不思議なものだ。普段であれば陽光で目を覚ますのだが、どうしたものか。


 外を見ると、なるほど、合点がいった。天上には厚く鈍色の雲が広がり、雨を地に向けて放っている。世界は灰色に支配され、見る者の意欲を削ぐ。そういう天気だった。


 そこから十分ほど経っただろうか、つゆかぜ4号は南別駅に到着した。改札を抜けても依然として、空は号哭を見せる。しかし同時に、南の方では、青空をも僕に見せつけるのであった。そこから、さらにバスへと乗り換え、南へと向かう。




 バスで三十分ほど。もはや外は晴れ渡り、空は純然たる青色に輝いている。


 南別は一年中春のような麗らかな気候で、木々は緑に生い茂り、爽やかな香りを放つ。草たちも木々に負けじと色とりどりの花を咲かせ、その甘い匂いにつられて虫たちが元気に飛び回る。


 あたり一面は、自然が多いからだろうか、鶯や雀など、様々な鳥たちが歌う。生き物がみな、生を謳歌しているのだ。ここに来るたび、楽しげな気持ちになる。


 目的地にたどり着く。真ん中には、玄武岩で形作られた、大きな黒い石。流石に地主の家系とあって、石の周りには、石灰岩を砕いたであろう、白い砂利が軽く僕の歩幅と同じ程には敷き詰められ、周囲のそれを圧倒する。


 「日高家之墓」と書かれたそれの脇には、白樺で出来た一本のしるしが、小さく、あえて目立たせようと言わんばかりに、立てられている。


「久しぶり。」


 僕はその白樺に、声を掛ける。一年ぶりになるだろうか。相変わらず、君の周りだけは掃除が為されず、汚れが積もりに積もっている。これを掃除するのが、僕の役目。


 いくら春のような気候だからと言って、生命は永遠ではない。その木片の周りは、役目を果たした落葉や、夢を見るように眠る虫たちが、そこら中に広がっていた。それを供養するのが、僕の役目。


 周囲を掃く間、僕は君のことを思い返す。君がいなくなってから、四年。


 [[rb:銀 > しろがね]]の世界に一人叫んだ、あのときから、丁度一年の日だった。三年生のとき、同じクラスだった、サッカー部の同期から。彼は二ヶ月前、不慮の事故によって突然、この世を去った。家族だけで見送ったから、我々には報告だけ。そう聞いたのだった。


 そして、あらかたの掃除を終えたら、トランクからマッチと、それから手紙、を取り出す。マッチを擦る。リンの微かな刺激が体内を走る。手紙に火をつける。じわりじわりと、広がる火種。


 こうすれば、君も雲間から、これを受け取ってくれるだろう。



 ふと、あることを思い出す。そうだ、手紙に書き忘れてしまったことがあった。僕には、君に聞きたいことがあったのだ。


 あれは初めて、イルミネイションに行った日のこと。散々お世話になった美術部が、出展するからぜひ、と配っていた、星ヶ岳のチケット。悪ふざけで二枚もらったから、僕は仕方なく、というふうを装って、君を誘った。君は三顧の礼を模して僕を誂ったが、最終的には快諾してくれた。


 その日の夜。君は、泣いていた。泣いて、僕を抱きしめた。


 その日の夜。美術部の展示は、『星たちの洞窟』という作品で、星座を散りばめたトンネルの中に入り込む、というもの。星を模しているだけあって、色とりどりのライトが配置されていた。あるものは白、あるものは青、あるものは橙、あるものは黄、あるものは赤。それらの中を、通り抜ける。あの寒空の中で、それはあまりに幻想的に映った。


 そして、何より美しかったのは、君だった。色とりどりの光を一身に集めた、君。僕は思わず、こう言った。


「お前、綺麗だな。」


 そうしたら、君は一瞬、固まった。そして、次の瞬間、今までに見たことのないような姿を、僕に見せた。顔は、確かに笑っている。牙を見せて、尻尾まで縦にして。しかし同時に、泣いていた。


「そっか――」


 君はそう言って、僕を抱きしめていた。君の手が、僕の背中を優しく包み込む。その暖かさは、冬を一度に春へと変えてしまった。君の涙が、僕の肩に滴り落ちる。僕は、君を強く抱き返した。二度と離すまい。そういう力で。




 それから、もう一つ。あれは三年ほど前だっただろうか。ある封筒が郵送されてきた。差出人は、君の親族。中には、メモと一枚の葉書。その葉書の宛名は、僕。


 そのメモには、彼の持ち物の中に書きかけの葉書があった、折角なので貴方に送る、そういった内容のことが記されていた。


 書きかけの葉書。


拝啓

 君にいくら連絡を取ろうとしても、ぜんぜん反応がない。住所が変わっていないことは聞いた。直接会いに行ってもいいけど、混乱させると悪い。だから手紙で送る。

どうしても話したいことがある。


 ここで途切れていた。君は、何を伝えたかったのか。



 だが、もう関係ないことだ。すぐに次の準備に取りかかる。今日は君への餞に、わざわざ家から持ってきたものがある。僕は、小麦色をしたトランクを、地面に下ろす。そう、幼い頃の自分を思い起こさせる、美しいトランク。


「なあ、俺さ――」


 声が詰まる。いや、違う。喉が締まり、声を拒絶して仕舞う。胸が焼けるように熱くなる。世界が滲む。


 僕は君のいない世界に放り出された。この四年間、君がいない世界で、僕は懸命に君を忘れようとした。君の代わりを見つけて、ほんとうに君をこの世から消し去ってしまうつもりだった。


 だけど、結局そんなことはできやしなかった。君以外の人はみな、僕の中の「何か」を求めた。


 ある者は僕の身体を求めた。ある者は僕のお金を求めた。ある者は僕の立場を。ある者は僕の経歴を。ある者は僕の頭脳を。君以外の誰一人として、僕、ほんとうの僕、僕を必要としなかった。


 わかっている。きっと僕が必要とされることなど、もう二度とないだろう。僕だけではない。誰しもがそうだ。何も尻尾を振らないようにすることだけが、大人になることではなかった。


 僕はもう、あの日以来、尻尾が動かない。そう、ほんの一ミリも、動くことはない。


 だけど、大人には、なれなかった。




 僕はトランクから、木製の箱を取り出した。蓋を外すと、それは鈍色に輝いていて、まるで道中の雨雲をすべて吸い取ったかのようだった。


 それは決して、調理に供される代物ではない。祖父が作り、父親に渡り、僕の血を廿年に渡って吸い上げたもの。昔から伝わる、命を刈り取るためだけにうまれたもの。僕はそれに、最後の晩餐を捧げる。そのために、昨日は念入りに備えたのだった。


 首に宛がう。震える手が見える。その手は、君のもののようだった。ああ、思い出した。言っておかねばならないことがある。


「俺さ、真っ白になっちまったんだ。お前とそっくりの。」


 僕の全身には、もはや錆などどこにも見当たらない。その毛は、純白に覆われていた。君に別れた雪と同じ、君と同じ、白に。


 暖かい風が木々を揺らし、緑はますます広がりを見せ、甘い香りがあたりを充満させる。鳥たちは心地よげに歌い、虫たちは自然を享受すべく飛び回る。そして僕は、手に鈍く伝わるそれを。



 電話が鳴り響く。僕は下を向く。反射した陽の光が、目に入る。金色でもあり、純白でもある。僕は思わず、天を仰ぎ見た。その輪郭は、見えることがない。薄く、しかし輝かしく、広がっていた。


 刹那。神は、僕を保っていた糸を、切られた。神は、僕を殺された。



 次の瞬間。私は、電話を取った。


 「ああ、やっと繋がった。お見合いの話で相談があって。」


 母の声。私は一息置いた。その一息は、産声でもあった。


 「数分待って。かけ直すから。」


 私は穏やかな心持ちで、電話を切った。手には、凶器。改めて、周りを見渡す。暖かい風が木々を揺らし、緑はますます広がりを見せ、甘い香りがあたりを充満させる。鳥たちは心地よげに歌い、虫たちは自然を享受すべく飛び回る。


 世界は、広い。


 私は手にある凶器を、白樺の墓標に打ちつけた。墓標に刃物が食い込み、引っ掛かりを見せる。私は力づくで、刃物を木片から引き剥がす。木片は浅く刺さっていたと見えて、それごと地面から抜け落ちる。ほのかに、懐かしい香りがした、のかも、しれない。もう、忘れてしまった。


 私は武器を、木片に打ちつける。何度も、何度も、何度も、何度も。何度も。ヤーレン。ソーラン。ソーラン。ソーラン。ソーラン。ソーラン。これ、ソーラン節のリズムだ。私は本能を抑え切れなくなる。理性の支配。それは終わりを告げる。笑い。はじめは、ピアニッシシモ。徐々に強く。そして最後には、フォルテッシシモ。声量が、愉しさの表現技法の一つだとは。


 私は鳥だ。あたりを楽しげに舞うハトたち。艶美な旋律を奏でるウグイスたち。私は彼らに勝るほど、愉しげに刃と踊りを交わし、高らかに本能を鳴く。私はいま、この世で最も満たされている。エクスタシイとは、このことを言うのだろう。世界は、どこまでも瑠璃色で、澄み切っていた。


 どこからか、烏たちが私を祝福に訪れた。彼らは白樺の木屑を、啄んでいた。鳥部野。私は思わず、吹き出していた。何が面白いかもわからず、ただ趣くままに。烏たちも、私と同調してくれていた。私の体は、快楽に支配されていた。


 ここ四年間で、身体は最も軽く感じていた。良い運動であったのだ。私は内なる笑いを噛み殺し、母に折り返しを掛けた。


 「わりぃ、わりぃ。お見合いの件だろ。受けておいて。」


 「あ、ほんと。わかった。」


 「よろしく。遅くなって申し訳ない、とも。」


 不思議だ。視界が霞む。しかも、赤く。世界はどこまでも、瑠璃色であったはずだ。


 目元を触る。指の毛は、赤く染まった。ああ、しまった。鏡を持ってきていれば、傑作だったろうに。笑いは、再度私の中で反乱を起こした。


 私はそれを拭い切った。手は、深紅に変わった。心が入り込む、炎の色をしていた。



 血は命。春のせせらぎ。


 Hello, world!

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