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第七幕 -

彼らにも、等しく冬は訪れるのでした。

 そのまま、僕らは卒業を迎えました。君は理系の大学へ、僕は文系の大学へ。離れ離れになってからは、久々に連絡を多少取り合うようになりました。だが、お互いにお互いのコミュニティーを築くのに精一杯で、しばらくは会うこともなくなりました。




 あれは冬でした。木々が葉を手放し、北風は我々を吹き飛ばさんとばかりに強く吹き荒れます。いくら換毛を終えているとは言え、身に染みるほどの寒さが続く日々でした。もうじき雪が降るだろう、だが暫く本降りではない、そういう予報も為されていました。


 君から久々に、と言っても一ヶ月ぶりですが、連絡がありました。


「来週、飯でも食わねえか。」


 刹那、僕は自分でもわかるほどに、尻尾を揺らしていました。僕は結局、この時期まで尻尾を抑えることが出来ませんでした。無論、意識していれば動くことはありません。しかし、まるで僕を、僕に施された躾を嘲笑うかのように、突然動くことがあるのでした。


 そして、もうこの頃になると、自分の中にあるものが普通でないことには、気づいていました。僕は大学生になってからも、異性に、否、君以外に、何ら興味を示すことはなかった。


 ただ、ほんとうのところでわからなかった。もう少しで理解できそうなのに、もう少しで何かが言えそうなのに、喉のところで引っかかって言えない。そういう、もどかしさを感じていました。


 だが、君からの誘いで、そんなことは頭のどこかへと飛んでしまいました。早く君に会いたい。君と話したい。星ヶ岳のイルミネイションも、しっかり二人分購入してあります。少し早いけれど、渡してしまおう。僕は新調したリュックに、チケットを押し込みました。




 午後六時、秋瀬駅にて、待ち合わせ。秋瀬駅からは、遥かに長く続く、一本の道が走っていました。どこまでも真っ直ぐ伸びるその道の脇には、それまたどこまでも続く電灯と、限りなく多くの店が立ち並び、多くの人で賑わいを見せています。吐気は白く、ロングコートに身を包んでいても、身の凍るかのような寒さです。空はすでに灰色の雲が空を覆い、今にも雪が降らんと言った天気でした。


 そこに、君が現れました。グレーのピーコートと黒のパンツをまとった君は、高校生のときと何も変わらない笑みを浮かべて、僕の元へと駆け寄ってきます。


「――久しぶり。」


「――おう。」


 その短い会話だけで、僕は多幸感に包まれてゆく。大学生ともあろうに、尻尾が揺れ動きそうになる。ああ、君に会えてよかった。そういう思いで心は満たされていく。だが、次の瞬間、尻尾は止まりました。


 何、大したことではない。ただ、君の尻尾が、微動だにしなかったのです。



「それじゃ、そこでいいかな。」


 君はそう言って、僕を居酒屋へ導いていきました。そう、何の疑問も持たずに、居酒屋へ。無論、この国で、高校を卒業した時点での飲酒は認められています。何もそれを邪魔するものはない。


「――ちょっと待って。」


 君が振り返る。高校時代と何も変わらない、あの顔が見える。こちらを気にかけるといった様子で、こちらを覗き込む、優しさそのものの顔で。


「どうかした。」


「ああ、いや。」


 言葉が出ない。たった一言。なのに、喉で詰まってしまう。


 大学で酒を嫌というほど飲まされ、そういうのに飽き飽きしていたのもありました。酒自体に、居酒屋自体に罪はないのはわかっています。それに纏わりつく薄暗い何かが、無性に耐え難い。それに、外は凍えんばかりに寒いのです。


 だが、君の選んだ店に文句をつけることは、出来なかった。


「言おうとしたこと忘れたわ。」


「何だよ、それ。」


 君は少し口角を上げる。その姿も、高校時代と何も変わらなくて。ああ、何と愛おしいことでしょう。そのまま、その店に入ってゆきます。大丈夫。きっと二人だけだったら、楽しいものになるはず。それが君であれば、なおさら。


 そこはいわゆる大衆酒場といった雰囲気で、プラスチックのテーブルとパイプ椅子のようなものが、店内に無造作に並べられている、というものでした。


「――乾杯。」


 幼児のように、何ともぎこちなく、お互いに盃を交わします。こういう酒場で飲むビールの味は、いくら飲まされても、依然として苦いまま。


 そこからは、お互いの近況報告。こんなことを学んでいる、こんな団体に入った、こんな面白いことがあった、こんなことが嫌だった、など。そして、高校の話。あいつはどこの大学に行った。あいつは浪人している、あいつは音信不通だ、あの先生は来年でやめるらしい。話している内容は、高校のときと何一つ変わらず、他愛もない会話でした。恐ろしいほどに、同じだった。


 話を進めているうち、酒が回っていきます。鼓動は早くなり、耳は垂れ、身体は熱を帯びる。感情は振幅を増し、抑えていなければ尻尾も常時揺れ動いてしまいそうです。


 それは君も同じで、その白い耳は垂れ、目は恍惚が見て取れるほど少し朧気で、滅多にお目にかかれない喉の音さえします。僕は酒に生まれて初めて感謝をしたのは、丁度このときでした。


 そうして、話が高校同期の恋愛話に差し掛かります。男子校出身者の僕らにとって、それは最も関心を引く事象でした。あいつは彼女が出来たらしい。あいつは振られた。その経緯。そうやって、他人の幸せを妬み、不幸を笑う。あまりに卑劣で、愉快な時間。


 僕は笑いながら、窓の外を一瞥しました。見れば、既に雪が降り始めている。今さっき降り出したようで、まだ道には積もっておらず、ちらちらと、景色を微かに彩るといったというふうで、粒たちが電灯の光を乱反射させて、秋瀬の一本道を美しく輝かせていました。




「――俺、好きな人出来たんだよね。」


 理解を拒む、天の声。見れば、君は恍惚に身を委ねながらも、耳を僅かに、立てているのがわかりました。


「え。」


「出来たんだ。好きな人。」


 外の冷気が、窓を伝ってこちら側へ流れ込んでいるようでした。僕を支配していたアルコールが、血から消え失せた。


「だって、お前女は飽き飽きしたって――」


「それ、いつの話だよ。本当に良い人がいてさ。」


 そうして、君の恋愛話が、始まりました。いや、始まっていたようでした。僕は、ほとんど何も覚えていません。ただ、覚えていたことは二つだけありました。一つ。その人は、君にとって最も相応しい人だった。一つ。血から逃げ出したアルコールは、蒸気となって、僕の身体を、僕を、内側から張り裂かんとしていた。



「おい、大丈夫か。」


 気づけば、僕は足も覚束ないほどになっていました。視界が揺れる。頭が割れる。五感すべてが鋭敏になって、僕の脳内に押し寄せる。すべてのものが、窮屈な身体を打ち破らんとする。


 しかし、それだけになっても、僕の思考までは奪ってくれなかった。雪はその視界でも理解できるほど勢いを増していて、黒い道も白く覆われていました。天気予報は、外れてしまった。


 酒の、せいでしょうか。君の背中は、あれほど小さいはずだったそれは、遥かに大きく、遥かに遠く見えた。


「お前、突然飲み出すんだから。家までしっかり帰れよ。」


 君が茶化しつつも、こちらを心配そうに見つめていきます。しかし、僕の心には、どこまでも雪が降りしきっていた。


「うん、大丈夫。さすがに帰れる。ありがとう。」


 僕は言葉少なげに、しかし明瞭に、答えます。そうでもしないと、君が離れてくれない、そう思ったから。

 



 やがて、秋瀬駅の改札口に辿り着く。君は二番線、僕は一番線の汽車に乗って、帰るのでした。


「本当に大丈夫なんだろうな。」


「大丈夫だから。ほら、もう汽車着くよ。」


「わかった、わかった。家着いたら連絡しろよ。」


 二番線に汽車が近づいていきます。夜にしては珍しく、遠目に見てもわかるほどには多くの人が乗っていました。君はため息をつき、少し尻尾を不満げに揺らします。


 僕は唐突に、あのチケットのことを思い出すのでした。美術部から、またイルミの券もらった。今年の美術部は、カストルとポルックスの展示だって。今年も行かないか。


 僕は思わず、君の手を掴みます。


「――なんだよ。」


 君は振り返ります。怪訝そうな顔をして、少し投げやりな様子で、しかし決して迷惑がっているというふうではなく、ただ淡々と言い放つ。


 背後には、雪。どこまでも無実に、まっしろで。



 刹那、僕はすべてを理解しました。君との関係も、君の気持ちも、僕の感情も、すべて。


「いや、イルミのチケット、もらったんだ。あげるよ。誘ってみれば、上手くいくかもよ。」


「お前、でもこれ――」


「俺はいいんだ。俺は行く人いないからさ。」


 そう言って僕は強引に、君の手に渡します。汽車は警笛を鳴らしホームに入線します。その風は寒さをより一層引き立て、僕を芯から吹きさらす。


「ほら、もう出発すんぞ。早く乗りなよ。」


「――ありがとう。またな。」


「おう。また。」


 ドアが閉まる。君は相変わらず怪訝な、そして不思議そうな顔で、僕を見つめる。僕は、ああ、どんな顔をしていたのでしょう。汽車は再度警笛を上げ、しんしんと降り積もる雪の中に消えてゆきます。静かに、そして美しく、儚げに。



 僕はそれを見送ってから、ああ、覚えていないことだらけですね、気づけば家の近くの公園にいました。その公園は、広大な森の中にあって。その中には小川があって、稀に蛍が見られて。夜になると、明かりすらまばらで。誰も立ち寄らないような場所で。


 その公園にも、雪は惑うことなく、積もっていて。あたり一面は、僅かな光を反射して銀色に輝いて、音を吸い取って。静寂の世界を成していて。僕は、雪にまみれたブランコに、腰掛けて。


 そして、大声で、叫びました。そう、それは叫びでした。すべてを理解した僕の、たましいの叫び。


 僕の感情の名前。それは、愛。愛そのものだった。



 気づけば、空が白々と、徐々に夜の静寂を破っていく。


 それは残酷なまでに、夜明けでした。

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