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第五幕 -・・-・

蛍巻。

 あの日、あの時、僕は僕らの教室で、微睡みの中にありました。


 その日は、晩夏の魁でした。いや、そのはずだった。最近では、盛夏も晩夏も、自分の役割を忘れている。太陽は相変わらず、すべてを白日の下に晒そうと言わんばかりに、刺すような光を放つ。


 空はラピス・ラズリを通り越し、もはや海を空に映したかのような純然たる青色へと変貌を遂げ、入道雲は遠慮するかの如く地平線にのみ点在している。あれは確か南東の方角でしたから、屹度そちらは群雨に苦しめられていたことでしょう。


 しかし、こちらは実際烈日の支配下で、煉獄と見間違うほどの灼熱に包まれていました。生物は各々のすべきことを成すという形で、木々は緑に萌え、虫たちはその命を燃やして叫び続け、我々を含めた動物たちは燃え尽きぬよう身を潜める。


 何故このように詳細に概況を覚えているのか。理由は単純で、屋外作業をしたからです。あの日、ちょうど学校は夏休みでした。僕は文化祭の準備のため、学校に出向きました。午前中に、何としてもアーチを完成させる必要があったのです。美術部とのスケジュール調整が原因だったとは思いますが、もはや覚えていません。


 とにかく、午前中は屋外作業に精力的に取り組みました。君は、いつものことですが、そこにはいなかった。


 いくら比較的涼しい時間帯とは雖も、夜ですら快適には程遠い環境ですし、陽は時間が経過するにつれ容赦なくその存在を主張します。我々は、もとより体温調整の苦手な種族です。いくら換毛が完了しているとは言え、毛に覆われたその体内に熱は徐々に堆積し、やがて内側から我々を燃やさんとする。呼吸の荒くなっていくのが手にとるようにわかりました。水分を多量に摂取しつつ、何とかその作業を完遂しました。


 しかし、僕のすべきことはこれで終わりではありません。夕刻、今度は一人で、先生方との打ち合わせがあるのです。アーチの設置許可。留意点の説明。これからの流れ。などなど。


 それまで若干の余裕があります。生徒会の仲間に別れを告げ、僕は一目散に教室に駆け上がりました。階段を駆け上がり、蒸し上がるかのような廊下を走り抜ける。陰になっているというのに、身に受ける風ですら、毛にまとわりついて、僕の動きを鈍重にさせる。僕はそれに歯向かい、締め切られたドアを開ける。


 刹那、冷気が入ってくる。人は動物の一部ではあるが、彼らと違って、陰に身を委ねる他に、自ら適切な環境を作り出すことが出来ます。そう、我々には文明があるのです。烈日を隠すこのカーテン、煉獄を極楽に変えるこの空調。イーカロスをも超越しうる技術、人はそれを普及せしめた。


 急ぎ、近くの椅子に腰掛ける。木製の机も、椅子も、すっかりその部屋に馴染みきっているかようで、熱を吸い取っていきます。身体に染み付いた熱が、段々と僕の元から離れていくのを感じます。それと同時に、徐々に睡魔に襲われるのを感じました。無理もありません。その日はかなりの早起きを強いられました。その上、炎天下での屋外作業により、体力をかなり消耗していたのですから。


 視界が徐々に揺れだし、やがて輪郭も失われていきます。強く感じていたはずの空腹も、その誘惑には到底敵わないものでした。まあ良いか。少し一眠りしよう。そうして、微睡みに自身を委ねました。


-・・-・


 何十分眠ったでしょうか。ふと、物音で目が覚めました。空調の風を全身で受け止めていたためか、僕の中に確かに存在していた熱は消え去り、今度は寒さが支配していました。身が凍るかのようです。


 身体を起こすと、僕の横で、何かがいるのを感じました。教室にただ一つ。少し小さめな背中。白がかった手足と、頭。身体に比して大きめな、尻尾。カーテンが閉まっているためか、少し灰色を帯びているかのように見えます。サッカーのユニフォームをまとって、傍らには制服。サッカー部はクラスに一人。寝起きの僕でも、それが何かは、すぐに判断できました。


 ああ、何を考えていたのか! おそらく、寝ぼけていたのもあるのだと思います。寒い。今すぐ暖を取りたい。君がいる。しかも運の悪いことに、僕は眠るとき、ベルーガの抱き枕を使っていた。


「寒い――」


 そう言って僕は、君の脇腹に手を当て、君を気持ち後ろへ引き寄せます。君の身体が少し驚いたかのように、僅かに反応したのが感じ取られました。しかし、それは大きな抵抗と言ったものではなく、あとは僕の挙動にすべてを委ねる、そういう姿勢でした。


 そして、両手を君の腹部に回し、そのまま顔を前に出す。鼻先が君の背中にくっつくほど、近くまで。僕の眼前には、黄色に光るユニフォームを纏う、君の背中がありました。肩は角ばっていて、背中はよく引き締まっている。あれほど小さく見えた君の背中が、こんなにも大きく見える。


 刹那、君が、君の感触が、僕に流れ込んできます。君の体温。先程来たばかりであろうか、少し熱のこもったのが、僕の体表からじんわりと、しかし頼もしく、冷え込んだ身体に染み込んでくる。君の匂い。レモネードを想起させるかのような、甘く、鼻に抜けるような酸い香り、それがかすかに、僕の嗅覚を刺激する。何と君の身体は鍛えられていることか。体毛に覆われていて見えなかった腹部に、明らかに凹凸が感じられる。君の背中が、胸毛を通じて、僕をこそばゆくさせる。


 それらが一気に流れ込んできて、僕は自分の為していることを唐突に理解する。君を抱きかかえているその両腕は硬直し、眠りの中にあった脳は叩き起こされ、夥しいほどの思考が幾重にも実行される。一刻も早く離れなければならない、しかし。二つの相反する感情が壮絶な戦いを見せる。そしてそのままショートし、頭が真っ白になる。


 しかし。手の甲に、新しい感触が加わる。毛伝いでもわかる、若干の湿りけと柔らかさ、そしてほのかなあたたかさをもったもの。それはやわらかく、しかし確かに僕の手を覆ってくれている。君の毛と僕の毛が幾重にも、交差する。


 僕は途端に平静を取り戻す。そこには、君と僕だけの、静寂な世界が広がっていた。微かに聞こえる、虫の声、空調の音、お互いの呼吸、そして鼓動音。それらすべてが僕らへの祝福のファンファーレとでも言わんばかりに、その世界は満たされていた。僕には、そう感じられた。


「――もう、行かないと。」


 永遠の静寂。或いは束の間の安寧。破ったのは、君の声だった。


「――ああ。」


 両手を放ち、君をその拘束から解放します。それに続いて、君も僕を離し、離れていく。そしてこちらに顔を向けることなくそのまま、ドアに向かって歩き出す。僕はそれを、ただ見送る。そのまま、君は教室から離れていく。君のいた場所には、制服と、本が置いてあった。


 僕は半身を起こして、ただ、呆然とその場に佇んでいました。僕には、自分の中の感情を整理する時間が必要でした。なぜ、君を抱き寄せたのか。なぜ、すぐに離すことができなかったのか。なぜ、抵抗しなかったのか。なぜ、なぜ、なぜ。理解できないことばかり。弱冠十五の僕には、あまりに斬新で、難しい概念でした。ただ、一つのことだけを除いて。


 人というものは、かくも、あたたかいものだったのです。


-・・-・


 気づけば、いつの間にか教室の明るくなっているのが感じ取れました。カーテンを開けてみれば、陽光が容赦なく窓から教室に侵入してきます。外には、小さな庭に所狭しと咲く、向日葵が見える。


 時計を見れば、打ち合わせの間近まで、あとわずか。僕は夢うつつ、教室を後にしました。




 その夜。僕は、蛍を見たのでした。

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