第四幕 ・-・・
獣人たちの梅雨は、大変そうですね。
少し、脱線させてください。君には、一つ、お礼を言わねばならない。
あれは確か、匂いが蔓延する季節でした。鈍く横たわる雲が空を支配し、重々しく雨が我々に降り注ぐ。緑は、その恵みを一身に受けて、日に日に衣を確固たるものへと変えていく。
しかし、我々にとってみれば、それはただ災い。灰色の蓋に閉じ込められ、我々の毛は日に日に、湿気を帯びてくる。それらは、身体にも心にも、重くのしかかってくる。いや、実際、身体の重みは増していたことでしょう。我々は毛を持っていますから。
君とて、例外ではなかった。放課後。半地下の教室。生徒会の、定期会合。太陽すらお隠れになっている今、薄暗いというものではなく、電灯の光が、いつもより鋭く僕らを刺す。たまらず外を垣間見れば、紫陽花が僕らを見下ろす。彼らの若紫が、色を失った空に浮かび上がる。
「だるい……。」
君の声。机と一体化した、君。机に頭を載せ、耳も、ヒゲも、尻尾も、垂れ下がる。溶けてしまっているのです。
「確かに、ちょっとつらいよな。」
僕は素早く、資料をまとめる。君は、冷たく光っている。
「陽の光がないってのは、堪える。」
「そこ?」
僕は声を抑えきれずに放つ。なるほど、異様な溶け具合だと思っていたら。君は、僕にない概念をいくつも持ち合わせているようです。
「でも、お前ちゃんと授業聞いてたよな。」
「当たり前だろ。お前が寝すぎなんだよ。」
「眠いもんは眠いんだよ。優等生さんとは違うの。」
君は、その言葉に、耳の動きをもって答える。
「はいはい。あとで優等生さんにノートたかるなよ。」
僕は、乾いた笑いを寄越す。流石に、優等生なだけはあります。
「てか、サッカー部は?」
「今日は休み。暇だし来た。」
「へえ。珍しい。」
ほんとうに珍しい。君はサッカー部を兼ねていた。サッカー部は多忙でした。だから、生徒会に顔を出すなど、滅多にない機会だったのです。
それだけではない。趣味も部活も住む場所もまったく異なっていた僕らは、そもそも会う機会に限りがありました。覚えていないかもしれないが、一年生の頃は、休み時間と放課後、特に部活の後しか、話す時間がなかったのです。
君はサッカー部、僕は生徒会を中心として、日々それなりに忙しい生活を送っていました。そして、その中で数多の友人も、お互いに作っていた。そういうコミュニティーが形成される中で、僕らだけの時間はなかなか形成されにくいものでした。
だから、君が生徒会に来るなど、ここらで蛍を見るほどに、類稀なるものだった。そして、恐らくこれが、生徒会で見た君の最後の姿。
それでも、君の快活さは、変わらず。机に顔を接着させながらも、ほとんど会ったことのない仲間たちの会話に、すんなりと溶け込む。僕と話しているのと、何一つ、変わらず。
ふと床を見れば、そこは色とりどりの、カーペット。おそらく、掃除当番が手を抜いたのでしょう。掃ききれていないどころか、床を埋め尽くしている。
換毛期。床は抜け落ちた毛で装飾され、多様な文様を表す。電灯を頼りに、そのステンドグラスは、美しさを増し、ある種の荘厳さをも勝ち得ていた。この時期、僕らに与えられた、数少ない楽しみの一つ。
やがて、上級生たちが前に立つ。生徒会とはいえ、その傘下には、あらゆる行事の実行委員会がある。僕らは、文化祭の担当でした。生徒会長、そして実行委員長からの挨拶と報告。各担当の報告。参加団体担当。後夜祭担当。などなど。校内でも著名な三年生が、次々に報告をこなしてゆく。受験勉強と委員会活動を両立している彼らは、気品と情熱を従えていた。
アーチ担当からの報告。僕は忙しなく立ち上がり、前に立つ。教室がざわつく。好奇の目が僕に集まる。君の方を見る。尻尾がかすかに動いている。遠目でもわかる、したり顔。外は、雨が天から垂れ続けている。空気は、いつもよりも粘っこく、僕にまとわりつく。それでも僕は、目の前に資料に目を落として、口を動かす。
一年生がここに立つ理由。美術部との進捗状況。人員の圧倒的不足。協力のお願い。たぶん、資料を見る限り、そんなことを話したのでしょう。そのときのことを、僕は覚えていない。真っ白に見えたのです。
脇腹に、一筋の衝撃を受ける。気づけば、君の溶けた、顔がそこにあった。
「様になってた。」
不快指数は、少し緩和された。そんな気がしました。
「お前も、これから手伝ってよ。」
「言ってくれれば、できる限り。」
君は、無愛想に、ただそう答えるのでした。
・-・・
時は流れ。太陽を覆い隠す不遜な厚雲は、どこへ姿を消したのか。そして、万物を溶かす熱気は、どこから来たのか。万物に纏う湿気は、なぜ去らぬのか。そんな季節。
雨を貪り続けた甲斐あって、木々の緑はもはや太陽すら恐れないほど、色濃くなっている。その日は、熱気も本調子ではなかったようで、涼しげな風が窓から舞い込んでくるのでした。僕らは、その風を一心に受け、試験で茹で上がった頭を冷却する。
「終わった……。」
僕は、君の机に伏して、呟く。
「どの意味で?」
君が、悠然と話しかける。その伸び切った背筋。
「ぜんぶ。」
「ぜんぶ、じゃねえよ。」
君は、まるで殺人現場でも見かけたかのように、顔を顰める。人の恐怖とは、どうやら理解し得ないものから来るらしい。
「さっきの英語、せめて『夜明け』くらいは書けたんだろうな。」
「……忘れた。」
君は、明らかに少し後ろにのけぞった。
「……この間、教えたばっかだろ。」
「ど忘れだよ、ど忘れ。」
「どうやったらそんな簡単に忘れるんだよ。」
君はそう言い放つと、視線を下へと向ける。もう、復習。
刹那、僕は、徹夜の裁きを下された。睡魔が、僕に覆い被さる。今日のそれは、特に強敵で、その姿勢のまま、目を瞑る。
しかし、眠りに落ちる間もなく、耳すらも平たくなっている頭上に、何かが舞い降りる。そして、落ちる。
見れば、一枚の紙。
「美術部に渡す資料。」
君は下を向いたまま、素っ気なく、言い渡す。果たして、いつ取り出したのか。
「ああ、ありがとう。」
僕は目をこすりながら、それを拾い上げる。そう、僕は頼んでいたのでした。文化祭において、正門を飾る、巨大なアーチ。その制作には、美術部の協力が不可欠。その資料。
「悪かったな、期末期間だのに。」
「ほんとうに。人使いが荒い。」
君の声が、いつもより幾分低いような気もする。もしかして。
「ほんとうに、悪かったって。打ち合わせ、今日だから。」
君は、少し黒曜石を大きくする。ほんの僅か、一ミリくらい。
「期末も終わったばかりだろ。流石に、一年生唯一の責任者さんは、大忙しだな。」
人手不足のアーチ担当。今年は、君と僕だけ。しかも、君は多忙。そうなれば、当然、そういう役回りは僕に来る。
「まあ、そうでもないけど。生徒会長も、上級生も、めっちゃ助けてくれるから。」
美術部との折衝。制作作業の計画。作業人員の確保。あらゆることを、生徒会の上級生は助けてくれる。そのうち、彼らとは、親しくなっていった。戯言を交わすくらいには。
「まあ、がんばって。」
「お前は、これからどうすんの。」
君は、にわかに目を上げる。
「練習。」
「練習。期末終わったばっかなのに。大変だな。」
バシッ。また、肩に強い衝撃。君のぬくもりが、伝わってくる。
「お互い様だろ。」
「ああ、確かにな。」
僕らはお互いの顔を見合わせる。数秒。そして、同時に笑いの声を上げる。
笑いを放出し、息を整えているうち。ふと、僕は思い出す。
「ああ、そういえば。」
僕は伺うように言い出し。
「嫌だ。」
君は容赦無く切り捨て。
「まだ何にも言ってねえだろ。」
僕は少し身を引き。
「どうせアレだろ。手伝え、みたいな。」
君は鋭く僕の目を見つめ。
「ご明察。今度は先生方への資料が必要で。」
僕は開き直って、ノズルを緩めて言い放ち。
「自分でやれば。俺、忙しいし。」
君は冷徹に視線を離し。
「俺はもう手一杯なんだって。頼むよ。」
僕は平身低頭、頼み込み。
「冗談だって。やるよ。いつまで?」
君は観念したと、顔を緩ませ、快諾する。
ここまで、お決まり。今思えば、なんとも下らない。だが、そのときには、これを欲していた。
「一週間後。」
「はいはい。」
「ありがとう、助かる。」
「詳細は、またメールで。」
君は概要と期限だけを、ノートの端に書き留める。背筋も、耳も、すべてがピンと張っている、その姿。今日は、木々の緑より、空の色、夏の色を、色濃く残しているように思えます。そして、白いTシャツから覗く白い毛が、胸のあたりをより豊かにしている。
「ふさふさだな。」
「は?」
「いや、なんでも。」
「お前、時間大丈夫かよ。」
「あ。」
気づけば、打ち合わせの時間まで近い。僕は荷物をまとめ、席を立つ。
「んじゃ、行くわ。よろしく。」
「おう、がんばれ。」
君は、ひらひらと手と、尻尾を振って、送ってくれる。僕の尻尾は、それに答えていた。
「そちらこそ。」
・-・・
頼んだ資料は、二日後にメールで送られてきた。それだけではない。大抵の資料は、すぐに出来上がって、メールで寄越してくれる。出来た、とだけ添えて。
僕は君の資料を携えて、あらゆる場所へ赴く。美術部。制作場所。あるいは、生徒会室。
気づけば僕は、光の中にいました。太陽。電灯、時には、月。僕は、あらゆる場所、あらゆる時間、文化祭に突き動かされる。多くの仲間と、志を共にして。
僕はその光を心から浴びる。孤独に、底暗い沼へ沈みゆく、そんな中学生活とは、まるで違う世界。
そこに僕を導いた光は、君だった。僕が後輩を得、君がサッカー部に専念するまで、文句を垂れ流しながら、僕を支えてくれた君。
だから、僕は、お礼を言いたかった。ずっと、言えなかったけれど。
ありがとう。
さて、話を元に戻しましょうか。
そろそろ、あの日の話でも。