第三幕 --・
彼らの初い一幕。
君との出会いについてだけ書くにも、これほどの紙面を要するとは。自分でも驚いています。少し冗長が過ぎるでしょうか。しかし、それほど君との出会いが幸いであったか、それを証明するものでもあります。
わかっています、わかっています。ここから先は、少し短めに書きますから。だが、君との思い出を記すことは、僕のためでもあるんです。もう少し僕の我儘に付き合ってください。優しい君ならば、屹度了承してくれるでしょう。
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入学式の日以来、君と話す機会が多くなりました。当たり前の話ですね、席が前と後ろなのですから。
話すことはと言えば、出会ったばかりの高校生という感じで、どこの中学校の出身か、どういう趣味を持つか、どこに住んでいるか、そういった類の話ばかり。そうして互いに詮索を重ねていくうちに、君との出会いが如何に「偶然」の所業たるかを、痛感させられることになりました。仮に席が前後でなければ、たとい同じクラスであっても決して交わることのない、そういう人種であったのです。
趣味はスポーツ、特にサッカー。住む場所は、僕と真反対。明朗快活の象徴といえる性格で、しかも真面目で誰にでも優しい。方や僕といえば、趣味は睡眠と天体観測、運動など以ての外。根暗で、不真面目で、自己中心的な性格。正直、君の理想的好青年の像に、目がくらんだほどです。こんな僕らが、何故交友関係を維持できたのか、本当に不思議でなりませんでした。
その中でも、特に印象的だったのは、この学校に進学した理由でした。この学校は、この地域では珍しい男子校であり、あらゆる種類の人が集まってくる、そういう場所でした。だから当然、そういうことにも話が及びました。
桜たちが、誇り高き薄紅から陽の光透く緑へと、華麗な更衣を遂げる、そんな時期でした。窓からは依然として春の心地よい風が入り、教室の前側の扉へと抜けていく。空は君の目をそのまま映したかのように、見事に晴れ渡り、鳥たちも心地よさそうに歌っています。
高校生の僕らには、あの硬い木製の椅子は少々手狭でした。そのため、机に身体を預け、話すのが常だった。そうしていると、君の姿がより鮮明に見えてくる。僕より少し小さめな君は、その身体に麗らかな陽光を一身に浴び、藍色の制服とのコントラストが何とも優美なもの。そして、青色の目で僕を見上げ、時には牙が見えんほど笑い、時には口周りに皺が寄るほど不快を示す、何とも表情豊かに語り、反応してくれる。そんな君に、僕は問いかけます。
「そういや君は、なんでここに進学したの? 家に近くにだって、もっといい学校あんじゃん。」
僕がこう話を振ると、君は気まずいとも、得意げとも取れる、微妙な笑みを浮かべました。
「ああ、それには深い訳があって。前話した話、覚えてるかな。」
「どの話。」
「その、彼女と二週間で別れた、って話。」
「ああ。」
そう、君は前に、そんな話をしてくれました。中学のとき、相手から告白された君は、付き合うことにした。しかし、嫌気が差して、二週間で別れを告げた。そういう話。そのときは確か、呼び出しか何かで、話が中断してしまったのでした。
「それでさ。実は中学時代に付き合ったの――」
君が言葉を続けようとしたとき、丁度君の隣の窓から、雀が迷い込む。混乱したのか、教室の中を縦横無尽に飛び回ります。あっという間に生徒たちは会話をやめ、そちらに注目しました。しかし、程なくして、窓の外へと飛び立っていきました。
あまりに驚いたのでしょう、君は話を止め、呆然と立ち尽くしていました。口を固く閉じ、全身が強ばり、毛は強張り、君の黒曜石も、尻尾も、その大きさを増している。君のそんな姿を見たのは、これが最初で最後でした。僕は、思わず口から笑いが漏れてしまう。
「で、何だって。」
「ああ、ごめん。」
君は僕の反応に気づいて、すぐに平静へと戻ってゆきます。恥じることもなく、何か反応するということもなく、ただ前の状態に戻っていく。君のその変わり身の早さは、このときから発揮されていたのでした。
「付き合ったの、そいつだけじゃなかったんだよね。」
「あ?」
今度は僕が、呆気に取られてしまう。当然でしょう。僕は、君の色恋沙汰を聞きたかったわけではないのですから。それに、僕は当時、あまりに純情な少年だった。
「それとこれと、何か関係あんの。」
「まあまあ、最後まで聞いてくれって。適当に相槌打ってくれればいいからさ。」
君は、その曖昧な笑みを、さらに曖昧なものにさせる。恥じらっているのか、あるいは愉しんでいるのか。それでも。
「わかった、わかった。それで。」
「何人か、付き合ってみてさ。でも、全員と長続きしなくて。」
「なんで。」
「なんでだろうな。たぶん、みんな同じことばっか言うからかな。」
「同じことって。」
「一緒に帰ろう、とか、メールしよう、とか、そういうの。」
「はあ。」
脳のシナプスに、情報の波が押し寄せ、やがて、焦げ付く。
「繋がりを確かめたいのかもしれないけど、ウザくて。」
「……繋がり?」
「そう、繋がり。自分と相手とがほんとうに一緒か、どうか。」
君から打ち込まれる、言葉の数々。純情な少年にとって、それらは宇宙の深淵にも等しいものでした。僕の中で、吸収されることもなく、反射し続ける。やがて、その言葉は渦巻いていく。そして、混沌。
「いや、ウザいなら、なんでそんな何人も。」
「一人くらい、理想の相手がいるかなと思って。でも誰もいなくてさ。」
「理想の相手って?」
「繋がりを求めない人。違うな、繋がりを信じてくれる人。」
「へえ。」
頭が痛くなってくる。遠い国の言語を何時間も聞かされているかのような、そんな感覚。
「まあ、俺にはわかんねえけど。」
僕は、正直に吐き捨てた。耳もきっと、地面と水平に、平たくなっていたでしょう。尻尾もきっと、地面につかんばかりに、垂れ下がっていたでしょう。この言葉というのは、ほんとうに便利で。そして、こう言うと大抵、相手の機嫌を損ねる。
君は違っていた、そう見えた。その表情は、少なくとも変化することはなく、笑みを顔に貼り付けて。しかし尻尾は、わずかに立ち上がっていて。
違う。会話を。
「それで、なんだっけ。」
「ああ、そうそう。そのうち、女子そのものが面倒なんじゃないかって思って。だから男子校に行きたくなったんだよね。」
いつの間にか、蝶が教室の中に入ってきているのに気づきました。ひらひらと、窓辺を舞っている。
「そんな理由で、高校を。」
「ああ。すげえだろ。」
それは、まるで幼子のように純粋な笑顔。窓際にいる君は、まるで葉を取り込んだかのように、緑に輝いた。僕の中の混濁は、春の陽気にすべて吸収されてしまった。
「なんだよ、その理由。」
僕もつられて、笑ってしまいました。
ああ、なんて不思議なやつ。
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「逆に、お前はなんでこの学校なの。」
この高校に入った理由。自分から聞いた質問であるはずなのに、そう聞かれると、即座に思い当たりません。
「俺は――」
少し間を置いて、理由を構築します。というより、理由を模索する、といったほうが適切でしょうか。数十秒。どんなに深く考え込んでも、特に理由は思い当たりません。それもそのはずです。
「――特にないかも。親に言われて入っただけ、かな。」
親。その単語を聞いた途端、君の顔が少し歪んだように、思われました。僕は慌てて言葉を繋げる。
「まあ、中学も男子校だったからね。」
「そうなんだ。」
君の口角が、ほんの一ミリほど、動く。
「そうそう。女の子とか全然、知らないし。」
君の顔は、ほんとうに忙しない。
「だから、きっと高校で共学は無理だった、と思う。」
刹那、肩に衝撃が走りました。右肩に、君の手。顔はいつもの爽やかな笑顔。ではなく、悪戯心のこもった、口元の緩んだ笑み。君の高貴な瑠璃には、悪意すら宿っていました。鋭い牙すらも、姿を現していた。
「お前はこの学校で正解だよ。共学だったら絶対辛い。」
僕が何たるかを知っている、と言わんばかりの口ぶり。知り合ったばかりの人に対して、何と失礼か。普通であれば、そう考えていたでしょう。しかし、君には引力があった。
「それ、どういう意味だよ。」
「お前、さっきの話、微塵も理解してないだろ。」
耳も尻尾も、明らかに強ばる。勝ち誇った、君の顔。
「お前、ピュアすぎんだよ。もうちょい遊んでこい。」
「うるせえ。」
僕は思わず、君の尻尾を掴みにかかる。あれ、なぜ。ハズレ。君は気に留めることもなく、ヘヘッ、と笑い、どこかへと逃げていきます。
ああ。僕はお返ししただけに過ぎない。それだけ。
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それからというもの、君の人を触る癖は加速していきました。脇腹を突く、肩を叩く、肩を組む。無論、僕だけに限った話ではない。あらゆる人に、君は同じことをしていた。社交的な人なんだな、その程度の認識でいました。
しかし、毛の擦れる音、学ラン越しに伝わる君の体温、そして優しい力加減。それらすべての所為によって、僕の心臓は飛び上がり、張り裂けそうになるのでした。と同時に、僕と目線を合わせよう、肩を並べようと、多少の爪先立ちによって背伸びする君を見て、何ともあたたかな気持ちになるのでした。
春の陽気に、当てられたのでしょうか。僕さえも、君の前では、陽気になったかのようでした。
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実際、君によって、大きく変えられたこともあった。覚えているでしょうか。
「部活どうする。」
君が、そう切り出す。僕らの手元には、勧誘パンフレットがありました。僕は、パンフレットに目を落としつつ、こう答える。
「俺は、部活入らないかな。中学生の頃もそうだったし。」
厳密には、異なっていました。一年生のとき、僕は剣道部に入っていました。理由は、何ということはない、剣術に憧れていたからです。なんと幼い理由だったことか! 部活はあまりに苦痛に満ちていました。何より、厳しい上下関係が僕を一層萎縮させました。半年持ったか持たないかの時期に辞めてしまい、それ以降は部活そのものを忌避するようになってしまったのです。
宛もなく、視線がパンフレットの上をさまよう。刹那、僕の両耳に、熱が加わる。そして、圧。頭を上げようにも、何かがもたれかかっている。そして、頭上から、声。その無邪気さ。
「もったいねえぞ。」
「離して。てか、何が。」
君は案外あっさり、僕の耳から手を離した。僕はそのまま、君に問いかける。
「部活なんて、高校が最後だぞ。もったいねえだろ。」
「何も、もったいなくない。家でだって、できることはある。」
「じゃあ、お前は家に帰ったら何するんだよ。」
反論の息が出掛かり、それを飲み込む。言葉が見当たらない。君はにんまりと悪い笑みを浮かべる。僕はそれでも、息を吐き出す。
「――睡眠?」
「いやいや。堪忍しな。」
「でも、入りたいところなんてないし。」
「なおさら適当でいいじゃん。剣道部とか。」
「絶対に嫌だ。」
「じゃあ水泳部。」
「運動部には入りたくない。」
だんだんと、君の声から、抑揚が褪せていく。
「だろうな。」
「だろうな?」
「じゃあ、天文部。星好きだろ。」
「いや。部活で見るのは、ちょっと違うというか。」
「そう。なら、別にいいけど。」
唐突な終了宣言。僕は思わず、君の顔を凝視する。見れば、君の顔はいつの間にか、無を携えていた。
君の気まぐれを見るのは、これが初めてでした。君は、まるで風のようで。赴くまま、思うがまま。同じ場所に、少しでも留まってはいられない。そして、君の気まぐれには、決まって、耳も、ヒゲも、尻尾も、ほんの僅か、垂れ下がる。そういう予兆があった。
しかし、そのときの僕に、それを知る余地はなかったのです。僕は、心臓を締め付けられた、そんな錯覚に陥りました。
「あ、でも――」
咄嗟の言葉でした。考えるよりも先に放たれた、そういう類のものでした。言ってしまってから、僕の頭は急激に動き始める。次の言葉。紡ぐべきものは何か。何かないか。そうして手元のパンフレットに目を落とすと、そこには。
「生徒会。生徒会なら興味ある、かも。」
君は、尻尾でクエスチョンマークを描く。
「なんで。」
「なんとなく、だよ。直感ってやつ。」
「直感、ね。」
君は首を傾ける。ピコピコと、耳を何度か微動させると、そのまま、パンフレットに目を戻す。
「いいんじゃない。お前、向いてるよ。」
君は無の声で、そう呼びかける。
――ああ、言ってしまった。こうして、僕は中学生の頃とまるで異なる、多忙な日々に身を置くこととなりました。
後日。君も生徒会に属していたときには、少し驚かされたものでしたが。