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第二幕 ・・-・・

イヌ獣人とネコ獣人の出会い。果たして果たして。

 君を初めて見たのは、高校の入学式のあと、大講堂から教室に戻ったときでした。


 あの日のことはよく覚えています。桜が例年通り咲き、ちょうど入学式の日には散りゆく最中でした。僕らの教室は後ろに窓があり、そのさらに先には美しい桜並木がありました。


 その日は見事な快晴で、空は一点の曇りもなく、快いコバルトブルーで覆われていました。そして、その青い空から降り注ぐ、春めいた麗らかな日差しが、桜を、そして初々しい、藍がかった学ランを易しく照らしていました。


 だが僕は当時不安と期待、そして緊張でいっぱいいっぱいでした。僕には、というより大多数がそうだったと思いますが、同じ中学から進学した者が一人もいませんでした。どんな高校生活が待っているのだろう、これから馴染めるだろうか、そんな有り体な不安が頭の中をよぎり、僕は後ろに広がる美しい光景を凝視することが出来ず、ずっと固まっていました。いや、期待に胸を膨らませたと思ったら、不安でまた縮こまってしまう、そんな感じでした。


 その最中、教室では大量の手紙が渡される。今でこそ懐かしいですが、学校では後ろの人に手紙を回すのが恒例でした。


 最初の手紙、後ろを振り向いたとき、君を、確かな君を、見たのです。出席番号順に座ったのが、高校生活においてこれが最初で最後でした。君は僕と同じクラスになり、たまたま前後になったのです。おお、何たる「偶然」の所業か! 僕はこのとき幸運をほとんど使い果たしてしまったのかもしれません。


 桜舞い散る景色を背にしていたからでしょうか、それとも春の陽を浴びていたからでしょうか。君はとても美しく見えました。いや美しいというより、芳しい。まるで梅の花が匂いを放ち、人の心を掴むかのように、君は僕を惹きつけました。


 その姿は、白そのものでした。ああ、今日降っていた雪のような白でした。景色も、音も吸い取り、ただそこに凛として存在している、そういう白でした。それほどに君は真っ白だったのです。身体中の毛が、ネコ種特有のヒゲでさえ、真っ白でした。


 白でないものと言えば、わずかに地肌の見える耳の奥と、鼻の先と、あとは、ふたつの目でした。そう、あの日の空と同じ青、澄み切った瑠璃の中に、黒曜石の如く怪しげに光る紫色の瞳孔を持った、何とも艶な目をしていました。


 正直に言いましょう。桜を背にした君を見て、僕はしばらく見とれてしまっていました。特別、理由があったわけではありません。ただ、目を離せなくなってしまったのです。ああ、なんと鮮明に思い出されることか! 君との初めての会話ですら、輪郭を保ったまま僕の頭の中に息づいています。


「――なんだよ。」


 君の初めての台詞でした。怪訝そうな顔をして、少し投げやりな様子で、しかし決して迷惑がっているというふうではなく、ただ淡々と口から放つ、そういう言葉でした。僕はああ、悪いことをしたと思って、


「ああ、ごめん。ついぼんやりしちゃって。」


 そう言うと、君は何事のなかったかのように表情を戻して、


「そう。」


とだけ放つ。


 そうこうしているうちにも、手紙は次から次へと回っていきます。一枚の手紙が前から後ろへ、それが回し終わるか終わらないかのうちに新たな手紙、時には冊子が、また前から後ろへ。宛ら膨大な紙のバケツリレー。


 そしてそのリレーの相手は、当然のことながら、必ず後ろにいる君。


・・-・・


 もう十枚ほど配ったところでしょうか。丁度すべての手紙を配り終わった、というときに、突然、全身に電気が走りました。


 はじめは腰まわり、そして背中と腹部、最後に頭部と手足、といった形で、身体中に違和感が伝播していく。毛の逆立つのが良くわかります。これは、今だから告白しますが、僕の嫌いな感覚の一つ。


 この「電気」の原因は、たった一つ。後ろを振り返ってみれば、案の定、君が僕の尻尾を握りしめていました。


「何してんの。」


 僕は後ろを向いて、初対面であるはずのそのネコに、若干の怒気を含ませながら、問いかけました。言わんとすることは、誰の目にも明らかでしょう。僕の眼前には握られた尻尾とそれを握る相手。そして、露出する器官で最も敏感かつ繊細な尻尾。それを触るという行為が、どれほど端なく、恥ずべきことであるか

 そのネコは、大慌てで、染みの浮き出る亜麻の毛束を離し、


「悪い、ネコ種って動いているもの見ると、無意識で手が動いちゃうから。」


 と弁解する。あくまで平静を装って、申し訳ないという感情を込めて述べてはいる。が、目に宿す黒曜石は大きくなり、白い耳は天を仰ぎ見るかのように直立し、白いヒゲは愈々水平に伸びている。その中に宿す感情は身体を通じて外へと現れてしまう、獣人の如何ともし難い宿命を、体現しているかのようでした。


 どうしてでしょう、それを見ているうち、僕の中に確かに根付いていた怒りも嫌悪も、恐れをなしてどこかへ逃げ去ってしまった。


「まあ、いいけど。二度とするなよ。」


 そう、二度としなければ良いのです。ネコ種が動くものに滅法弱いというのは、昔から聞く話ではあります。いくら「理性」が我々を支配し、その背後で息を潜める「本能」を糾弾しようと、実のところそれに誰も敵わない。いくら躾が施されていようと、動くものを見てしまったら最後、彼らは――動くもの?


「いや、本当に悪かった。あまりに変な動きしてたから。」


「――そんなに。」


「そりゃもう、元気に。ぶんぶん揺れたと思ったらぴたっと止まる。またぶんぶん揺れて、止まる。教室に戻ってからずっと、その繰り返し。」


 身体中に熱の、もはや火と言っても良い、それの行き渡るのを感じました。


「ああ、まあ、イヌ種はほら、尻尾に気持ちが出やすいから。なんかね、緊張してるからかな、たぶんそのせい、かも、しれない。」


「そんなにしどろもどろにならなくても。イヌ種はそういうものって、昔から聞くぞ。」


「それはそうなんだけど、結構恥ずかしくて。」


「そんな恥ずかしがることじゃないだろ、そういうものなんだから。」


「いや、そういう問題じゃないというか。」


「じゃあ何が問題なのさ。」


 君は何とも不思議であるといったような顔をして、こちらを見つめます。ああ、その目で、何もかも見通すかのように透明な青で見るのはやめてほしい。火が炎へと形を変えてしまいそうです。




 そう、イヌ種は尻尾を動かしてしまう。それが我々の「本能」。だから昔から、恐らくどの種でも徹底されているように、「本能」を抑え込む。種ごとに適した方法で、「本能」を自由にさせることが如何に悪か、身体に叩き込まれる。


 特にイヌ種は、それが一段と厳しいのです。感情を見せつける行為は、社会活動を営む者として、最も忌むべきものとされますから。そうして、皆中学生になる頃には、「理性」の支配を甘受する。


 僕にはそれが出来なかった。どれほど怒鳴られ、どれほど殴られ、どれほど縛り付けられようと、尻尾は勝手に動いてしまう。どんな痛みも、どんな恐怖も、尻尾の前には無力で、感情だけが傷ついていく。


 知っていますか? 僕の毛はもともと、茶色に近い色をしていました。僕は[[rb:銅 > あかがね]]だったのです。こんな薄汚れた、ベージュに赤錆が混ざるような色ではない。毛の色すら変わっても、僕の尻尾は言うことを聞かなかった。


 それが、こういう形で具現した。僕は高校生になっても、「本能」の奴隷だった。しかも、少しでも君に怒り、嫌悪を覚えた、この僕が。




 目を反らし、うつむき、黙りこくる以外に、取るべき選択肢はありませんでした。永遠にも思われた沈黙。凝固し凍りついていく空気。今考えれば、実際はほんの数秒、間があっただけだったのでしょう。だが僕にはそう感じられた。


 肩に、重力が作用する。雪のような白さからは想像もつかないような、服伝いでもわかる、あたたかな手。空気を溶かしたのは、紛れもなく、君の手でした。


 僕は思わず、顔を上げて君の目を見る。そこには、まるで海のように澄んだ目。すっかり落ち着いたと見えて、黒曜石は元の大きさに戻っています。


「よくわかんないけど、元気出せよ。別に、変だった、ってわけじゃないから。俺、他の人より動くものに敏感だし。他の人ならたぶんスルーしてた。」


 慰めてくれているわりには、表情を変えずに、至って淡々と、まるで当然のことであるかのように、君は語りかけます。今思えば、半分面倒に思っていたのでしょう。だが、その手は、その口ぶりは、紛れもなく、僕の気持ちを穏やかにしてくれた。


「――そうかな。」


「そう。こっちが悪かったから、気にしないで。」


 優しさに包まれる、とは、このことを言うのでしょう。自然と、視線の上がるのを感じました。そんな僕を見た君は、微かではあるが、若干全身を脱力したようでした。


 春の風が、桜を僕らの中に運び込みます。桜に囲まれる君の姿を、僕は見ていた。




「――これから、よろしく。」


「こちらこそ。」


 そうして、「偶然」のもたらした出会いが、ここに始まることになるのでした。

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