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逃げ水

作者: 雨森 夜宵

 昔の僕たちの言語はもっと芳醇だったような気がする。公園行こうぜ、と言う時には「あの」公園のことと分かり、そこにあるブランコや、滑り台や砂場や、そういうものの全てが内包されていた。葉擦れの音から虫刺されのむず痒さまで、全部を含んで初めて完成される語が「公園」だったのだ。今となっては、「公園ってどの?」なんていうくだらない確認を挟まなければ公園は「公園」にならない。

 連勤明けの木曜日にやっと休みが取れて、手始めに昼前まで寝た後、麦茶のピッチャー片手に冷蔵庫の扉を閉めた時。不意にそんなことを思った。パンツ一丁に灰色のTシャツだけ着た、寝起きの頭に浮かんできたのだ。思考を反芻しながら、冷蔵庫に寄りかかり、左手のグラスに麦茶を注ぎ入れる。閉めたカーテンの向こう、漏れ聞こえる蝉時雨。虫が嫌いなのは昔から変わらない。「虫」という言葉にはいつも最大限の不快感とひと掬いの恐怖が混じっている。麦茶のパックだって実家のと同じ、一リットルずつを二本作って常備している。味もあの頃と変わらない。ただまあ、変わったこともある。パンツ一丁にTシャツ一枚で昼まで寝るなんてことをすれば、母ちゃんは間違いなくめちゃくちゃ怒る。

 麦茶を飲み干してカーテンを開ける。何気なく手にした携帯電話で近くの公園を検索していた。大通りを挟んだ向こう側、寺の隣の隣にそこそこの大きさのものがあると表示される。正直寺の存在さえ知らなかったが、年の瀬に聞こえてくる除夜の鐘はこの寺のものだろうと想像した。

 行ってみようか、と思う。

 公園に行って何をするわけでもないだろうが、ベンチに座ってぼんやりしてみるのもいい。そう思えば俄然活力が湧いてくる。取り敢えず飯でも食おう。昨日の夜に炊いておいた鯖の炊き込みご飯が冷凍してある。適当なレトルトの味噌汁に湯を注げば見栄えのする食事になるだろう。ケトルに水を入れる。電子レンジに米を入れる。エンジンがかかったような、そんな気分になる。

 知らないところへ行くのはいつだってワクワクする。それも昔から変わらない。

 都会過ぎない、古さの残る街だった僕らの故郷は、行き止まりのようで抜けられる路地だの、入り口に時計のある蔦まみれの家だの、水路の上に蓋をしただけの「道」だの、そういうものの山ほどある迷路のような街だった。小学生の頃は家に帰るや否や放り投げるようにランドセルを置いて、母ちゃんにおやつはないかと訊きながらもう靴を履き直しているような有様だった。あればそれをリュックに入れ、なければその時々の小遣いをポケットに突っ込んで出かける。どこで遊んでくるの、という問いには、いつも迷わず「公園」と答えていた。イチとノリと公園、というのがきっと一番多かっただろう。

 中学に上がっても一緒にいた二人には、今もまだ年に二度以上の頻度で会っている。イチは大学を出るなりすぐ結婚して、男の子一人を抱えたパパになった。たすく、という名のその子が初めて立った時には電話までかかってきて、夜通し飲みながらその動画を見たりもした。二十回は見たような気がする。ノリの方は相変わらず、鉄道関連の仕事で細々やっているとだけ聞いている。細々、という割には飲みに誘えば高確率で参加してくるのだから、実際のところがどうかは分からないが。

 こうして思い出すという現象自体に時の流れを感じながら、けたたましい音を立てるケトルを持ち上げた。椀に湯を注ぎ、米をラップから出して麦茶を添える。鯖の缶詰めとバターをこれでもかと入れた炊き込みご飯は母ちゃんの味だ。手を合わせれば自然といただきますが出る。手を合わせるなんて、もう長いこと忘れていた気がする。米を一口含む。強烈なバターの匂いが鼻へ抜ける。

 シュクレンペット、と、不意にその単語を思い出した。


 ――おれねえ、あのつやつやのことシュクレンペットって呼ぶことにした。


 ノリの、少し舌足らずな台詞まで。

 いつだかノリが言ったのだ。水路の上を歩いていたら急に知らないところに出たと。家と家の隙間に三角形の広場があって、その中心に、なんだか見たことのない形をした、とにかくツヤツヤしたものがあったのだと。その話は面白かったのに、ノリの絵心はほぼ壊滅的だった。どの水路だったのか訊いても要領を得なくて、誰もが嘘だと思った。俺だって嘘だなと思った。

 でも、俺とイチはノリの話に乗った。

 闇雲に街を行くだけの俺たちの遊びは「シュクレンペット捜索」になった。おやつは食糧に。捜索の中心は水路に。時々通っていいのかも分からないような隙間だの塀の上だのを抜けて。きっとあの狭い街のことは俺たちが一番よく知っていた。そして必死の捜索にもかかわらずシュクレンペットは見つからないまま、捜索隊は中学校に入って部活動が本格化すると同時に自然消滅の運びと相成った。

 ふやけたわかめを味噌汁ごと口に入れながら、実際あれは本当の話だったんだろうか、と思う。探索の合間に休息を取りながら話し合う時、俺たちはそもそもシュクレンペットとは何だったのかについて話した。生き物なのか、そうではないのか。固いのかやわらかいのか。言い出しっぺのノリでさえその辺は自由だった。クリームだったら顔に塗ろう、とか言い出した時には腹を抱えて笑った。まあ嘘だろう、とは思う。きっとそんなものはなかった。ただ、そうと分かっても、あの日々の輝きと興奮が褪せるわけじゃない。あの頃の俺たちだってきっと、シュクレンペットは存在しないかもしれないなんてことくらい分かってた。分かってて、それでもなお、あの「シュクレンペット捜索」は楽しかった。

 でも、やっぱりあったのかもしれない。今だって、やっぱりほんの少しは信じている。

 今なら何と言うだろう。どうするだろう。そこにシュクレンペットがあったとして――。

「――ごちそうさまでした」

 しっかり手を合わせて、洗い物を流しに放り込む。おやつはないがのど飴はある。行こう。「探索」に。

 満を持して、玄関から外へ出ようとして。


 開けた瞬間。

 全身に押し寄せる、全力全開の「夏」。


 高揚感の消し飛んだ後に、冷房の効いた玄関と洗い物の存在だけが残る。暫く呆然とした後で、深々と息を吐いて靴を脱いだ。ドアを閉める。俺を――僕を迎え入れた自室は、完全に冷房が効いていて、陰気な暗さをもって沈黙している。

 まあ、しょうがない。


 あの頃の「公園」は、今の僕の中には存在しない……。




 fin.

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