九話 司馬軒全メニュー制覇(前編)
九話 司馬軒全メニュー制覇(前編)
瑠香は加奈と心理的距離が開いたことに悩んでいた。そのことを寧の尻を蹴りたいと言ってしまったからだと加奈は思っているようだが、違う。加奈がスカンクかもしれないと思ったからだ。
なんとかバレていないが、嘘が下手な瑠香では時間の問題である。
幸運なのは加奈にさらなる心配事があるということだろう。父親が警察に任意で閉じ込められている。こっちにまで気を遣っている余裕が彼女にはないのだ。
「お父さんの知り合いが上に掛け合っているらしいけど、どうなるか」
父親に何もしてあげられない苦悩を滲ませていた。
瑠香はそんな加奈の周りを警戒する役目を自らに課した。陰口を叩いているやつを見つけたら、殴りかかっていた。相手に非があるので大抵泣き寝入りしてくれるが、司法に訴えようとしてくるやつがいるかもしれないので、そこは母である蘭を頼るしかない。幸いにもまだそこまでの向こう見ずはいないが。
「加奈には私がついてる」
表立ってはこれが精いっぱいである。
「うん、頼もしいよ。寧さん、蹴れると良いね」
こんな状態でも瑠香に気を遣ってくれる。やはり親友は加奈以外にはいない。
「頑張る」
瑠香は気合いを入れたが、加奈は苦笑いをしていた。まだ勘違いは続いているようだ。
放課後、加奈と一緒に学校を出ようとした。しかし校門に男子が立っていた。寧ではない。司馬至だ。
あのリーゼントは目立っており、すでに下校途中の生徒達の噂の的になっている。
「おう! 待ってたぞ」
さらに瑠香に向けて行ったので、視線がみな瑠香に集まった。そしてヒソヒソと噂する。
「この前の方と違うわ」
「二股ってやつね」
これは正さねばならない。声の聞こえたほうへ歩みを進めると、手首をつかまれた。
「話がある。来い!」
有無を言わさずに連れてかれてしまう。抵抗したが司馬至の顔が必死すぎて逆らわないほうが良いと判断した。加奈には謝るジェスチャーだけで、優先順位が変わったことを伝えた。分かってくれるとは思うが後で連絡を取っておこう。
瑠香はそのまま河川敷に連れてこられた。
手を離すと司馬至は瑠香に背を向ける。
「何なの? あんたのせいで寧パイセンと二股かけてるって思われたじゃん」
司馬至は「寧パイセン」という単語に反応し、振り返った。
「お前、知ってるのか?」
「何が?」
間髪を入れず聞き返すと司馬至は止まった。
「寧パイセンと何かあったの?」
「こいつが送られてきた」
ポケットから、かなり強く握られたらしい紙を出してきた。受け取って読んでみるとそれは果たし状だった。今日の午後にこの場所で決闘をしようという内容で、寧の名前とともに血で拇印が押されていた。
「これはあいつの字じゃない。あいつに宿題をやらせていたから筆跡は知っている。多分誰かが書いたんだ」
最低なことを言ってるのに司馬至は自信満々だ。
確かに内容も事務的で、人生最大の決戦を仕掛ける手紙ではない。寧ならば絶対に恨み節の一つでも放り込んでくるはずだ。
「寧パイセンに聞いてみれば?」
「着拒だ」
「あ、そう」
寧から関係を修復しようという気は全くないみたいだ。この果たし状も完全に寧の意思ではないとは否定できない。瑠香に戦う意志を示し、司馬軒のメニューを奢ってくれると約束してくれたのだから。
「お前なら知っていると思って待っていたんだが」
「あんたが寧パイセンにしてきたことは聞いてる。恨まれて当然だと思うよ」
「前にも言ったが、俺は塚江を守ってやっている。おかげであいつはイジメられることもなかった」
「それでもあんたがイヤなんでしょ。だいたいそういうことは私にじゃなくて寧パイセンに言って」
司馬至は黙り込んだ。
「じゃ、寧パイセンと殴り合って。結果は寧パイセンから聞くから」
帰ろうとすると左腕をつかまれた。
「待て。お前に立ち会って欲しい」
「私は公平じゃないよ」
「だが手は貸さないだろ? それに塚江もお前には助けを求めない」
気に入らない言いかただ。寧の性格を熟知しているからなのだろう。しかし瑠香だって司馬至が知らない性癖を知っているのだ。負ける気がしない。
「司馬軒でラーメンくらい食わせてやる」
「寧パイセンが勝てば好きなだけ司馬軒で食べさせてくれる。他のが良い」
「俺のほうは金がいらないぞ」
「払うのは寧パイセンだから」
司馬至は黙ってしまった。
「じゃ、帰るね」
立会人を拒否して、瑠香は司馬至から離れる。
土手の上に来た瑠香は遠くにいる寧を視認した。しかし寧は一人ではなかった。寧よりも背が高くて細身の女性が側に立っている。照ではない。そして瑠香の知っているどの女性とも一致しなかった。だからものすごく気になった。
瑠香は全速力で寧に近付いていく。
「あ、瑠香さん!」
寧は瑠香を見ると嬉しそうに手を振っている。その横にいるのは褐色の肌をした女性でジーンズを履き、ブラウスを着ている。安物な服のはずなのに上品な感じがした。
「その人は?」
「誤解しないでくださいね、マリアティーさんとはスーパーの前で出会ったんです。何でも知り合いを連れて帰るためにわざわざ日本に来たらしいんですが、お付きの人とはぐれたらしくて……」
「で、果たし合いの場所に連れて来たと」
「なんで瑠香さんがそのことを」
「司馬至に連れて来られて立会人をやらされそうになったの。逃げてきたけど」
「勝てないのか?」
マリアティーは流暢に日本語を話した。だが偉そうだ。
「勝ってみせますよ。そうしたらお付きの人を捜しましょう」
「ああ。今日中に目的地につかないと部下を失う。頼むぞ」
「はい」
寧はやる気を見せた。
瑠香は不機嫌になった。寧は忘れているのだ、重要なことを。勝って瑠香に司馬軒の料理を奢るという約束を。
「寧パイセン、忘れてない?」
確認というか念押しをする。
「分かってます。報酬として領事館で開くパーティーに呼ばれました。部下の人を助け出した後に開くそうです」
「領事館?」
瑠香の中で領事館といえばソーラとミッテがいるリバイリルロの領事館だ。東京ならいざ知らず、こんなところに領事館を置く国など他にあるわけがない。
「上葉町のビルにある。一階が葬儀屋で、入店しないと上の階に行けないという欠陥建築だ」
確実なヒントをマリアティーがくれた。リバイリルロの領事館で決まりだ。
「マリアティーさん、ソーラ知ってますか?」
「領事館が合わせてくれない。似た顔のミッテが案内してくれたのだが、つまらない」
「つまらない?」
「町を歩くと、みんな私を無視してミッテに食べ物を渡してくるのだ。それをミッテは私に渡そうとしないのだ。毒が入ってるからかもとか言って。あれはただ自分が食べたいだけだった。私も手に入れようと一人で頑張ったのだが、初対面には厳しくてな。ミッテともはぐれて途方に暮れていた。そこに寧が来てくれたのだ。最初は英語で喋ろうとしてあたふたしてるのが面白かったが、頼りになる男だ」
マリアティーは寧の肩に手を置いた。
瑠香は毛が逆立つような感覚に支配された。思わず寧の腕をぐいっと引っ張ってマリアティーから離し、寧を河川敷のほうへ押した。
「え?」
瑠香の行動を予想してなかったのか戸惑っている。
「寧パイセンは司馬至を倒してきて。私はマリアティーさんと話がある」
瑠香はマリアティーを見据えた。
マリアティーは余裕の笑みを浮かべている。
瑠香の警戒感はMAXになっていた。
背後で寧が司馬至のほうへ向かったのを感じて、話し始める。
「寧パイセンに近付いてどうするつもり? 寧パイセンはしがない刑事の息子だよ」
「良い人は大事にしたい。それだけだ。私の国には敵がいてね。それは人が束になっても勝てるかどうか分からない。味方は多いほうが良いんだ。瑠香さんも味方になってくれないか?」
「やだ」
「寧は恋愛対象にならないぞ」
「私だって。寧パイセンのお尻を蹴りたいだけだし」
瑠香の否定にマリアティーは口を開けたまま固まった。明らかにドン引きしているのが分かる。
「世界にはそういった性癖を持つ者がいると聞いていたが、まさかこんなに若い女性だとは思わなかった」
理解を示そうとしているが、驚きすぎて受け入れられていない。彼女に与えた衝撃を言葉でかき消す自信が瑠香には持てない。
「違うんだってば。私と寧パイセンの関係は友達だから」
とりあえず言葉にする。
「友達を蹴ってはいけない」
「違うんだってば。えーと、とにかく! 私があなたの行きたいところに連れて行ってあげる。だから行こう」
瑠香はマリアティーに向けて手を差し出した。
しかしマリアティーは首を横に振った。
「見ておきたい。寧の戦いを」
「なんで……」
「寧はこの戦いを一世一代の大勝負だと言った。その前に見ず知らずと異国人を助けてくれたのだ。漢気あふれる良い男ではないか」
「でも寧パイセンは強くない」
もしかしたら勝てないかもしれない。
「だからどうなるのかを見たい。私もこれから部下を救いに行くからな?」
だったらさっさと行けば良い。瑠香はそう思う。顔にも出ていたようで、マリアティーに苦笑いをされた。
「瑠香さん、女王というのはわがままなんだよ」
「女王?」
そういえば前にミッテが女王の名前はマリアティーと言っていたような気がする。
「マリアティー……女王?」
「そうだ」
「だって女王ってドレス着てんじゃないの?」
「あれは対外用だ。私服は違う。だから女王がジーンズを履こうが問題はないわけだ」
驚きすぎて何を言って良いのか分からない。
「瑠香さんも寧の戦いを見ようじゃないか」
マリアティーは瑠香の手を取って司馬至のほうへ歩いていった。
「まずいのです。クビどころではすまないのです」
ミッテは動揺していた。いつものように商店街で食べ物をもらっていたら、マリアティー女王がいなくなつたのである。
大使館から女王の案内をするように言われた。しかも日本は治安が良いからと護衛もつけないでだ。佃新少佐が来ると期待していたので、ミッテはガッカリした。
だからささやかな嫌がらせと、こうまでしないと生活できないアピールを込めて、貰った食べ物をあげなかったのだが裏目に出てしまったらしい。女王も滅多に来ない日本の食べ物を食べてみたかったのだ。
「起きてしまったことは仕方がないのです。問題は解決方法なのです」
独り言を言うとミッテは頼りになりそうな人間を選び始めた。
ソーラは論外。そもそも彼女とマリアティー女王を会わせないためにミッテが護衛をしなくてはならないのである。それに相談すれば絶対につけ上がり、後々までイジられる。
佃新少佐も頼りたくない。こんな大失態をしでかすような女を好きになってくれるとは考えづらい。少しでもその表情を曇らせることがあってはいけない。
残るは葦木の娘、瑠香。彼女を頼るには食べ物を差し出さねばならない。ソーラから聞いた話によると、揚げパンのために武器を持った男と戦ったらしい。商店街の人に何か用意してもらえばいけるかもしれない。
しかし瑠香を頼ろうにも電話番号を覚えていない。手詰まりだ。
途方に暮れていると二人いた小学生の片方がミッテを指差してきた。
「メイドさんだ」
ただミッテの服装に食い付いただけだった。最近商店街を歩いても指摘されないので、自分がメイド服を着ていることさえ忘れていた。
「私はメイドではないのです。ミッテ伍長なのです」
軍隊らしさを見せるために脇を締めて敬礼をした。
その動きに対応してなのか、指差ししたほうではない小学生が身構えた。格闘技の構えだ。
戦闘態勢に戸惑ったが負ける相手ではない。ミッテがどう格の違いを見せるかを思案していると、その小学生は言った。
「葦木麗……」
「葦木?」
「そう。そして私は勝……」
「あなた、瑠香さんを知っているのです?」
横手名乗りを邪魔された小学生が睨んでいるが、別に構わない。今はこの細いつながりを確実なものにするほうが先だ。
麗は驚いて構えを解いたが、すぐにまた構え直した。
「瑠香を知っているのか?」
「ええ。一緒に麻婆豆腐を食べた仲なのです。実は頼みたいことがあるのです」
焦る気持ちがあったミッテは小学生に娘が行方不明であることを語った。
二人は「女王」という単語に食いついて、こちらの意図する応対をしてくれない。
「華麗ちゃん、女王っているんだね」
麗は構えた拳をもう一人の小学生に向けて話していた。この構えでないと話せない子だったようだ。
「見つけて、サインもらおうよ」
「違うのです。瑠香さんに頼みたいのです」
「私達でも出来るよ。ね、麗ちゃん」
「でも食べ物のせいで瑠香に殴られるのイヤだし」
「だったら、園子さん……だっけ? 彼女にも手伝って貰えば? 組長の娘なんでしょ?」
「そうだけど、園子お姉ちゃん手伝ってくれるかな?」
「大丈夫、手伝ってくれるよ。瑠香さんより役に立つよ」
華麗が麗を誘導しているのは明らかだ。彼女からは瑠香に向けての対抗意識を感じる。
「私は瑠香さんに電話して欲しいのです」
「私、園子お姉ちゃんに電話する!」
麗はそう宣言してスマホを取り出した。彼女の決意は固そうだ。
ミッテは静観することにした。園子という友達に電話させて、満足させ、瑠香にも連絡させれば捜す人数が増えるからだ。
「もしもし、園子お姉ちゃん? 今忙しい? あのね」
電話では構える必要がないらしい。素直に話してくる。華麗はそれをあまり良くは思ってないようで、イラ立ちが感じられた。自分に構えを向けられるのと比べて不満に思ってるのだろう。
「え? 瑠香には話してない。華麗ちゃんが園子お姉ちゃんのほうが良いって。華麗ちゃんは同じ学校の友達で……」
園子と華麗は麗とは友達だが、互いは親しくないらしい。
「え? メイドさん? うん、いるよ」
麗はスマホをミッテに差し出した。
初めて見るスマホにおっかなびっくりのミッテ。触るのすらためらってしまい、麗にちょっと怒られる。
ミッテはおそるおそる耳にあてた。
向こうは喋らない。
「喋る」
「はい……なのです。ミッテ伍長なのです」
初めてのスマホに緊張して声が裏返る。
「メイドさんじゃないんですか?」
「メイド服を着たミッテ伍長なのです」
「麗ちゃんから聞いたのですが、女王様がいなくなったとか。私を頼るのは違うのではないでしょうか」
「なぜか瑠香さんに繋いでくれないのです」
「……華麗ちゃんという子ですね」
「そうなのです」
園子は賢い子のようでそれだけで察してくれた。
「分かりました。お父さんに相談するので待ってもらえますか?」
「引き受けてくれるのです?」
「これ以上ライバルを増やされても困りますし」
「ライバル?」
「あ、こっちのことです。気にしないでください。後で連絡します」
電話は切れた。麗に返すと、麗はミッテに笑いかける。
「園子お姉ちゃんは頼りになるだろ?」
「はいなのです。日本は良い国なのです」
予定とは違ったが結果オーライだ。これをきっかけにしてヤクザ相手に外貨を稼げるかもしれない。そうなればこの失態をとがめられても何とかなるだろう。
しばらくして園子から三笠組の協力を得られることを告げられ、ミッテは心から喜んだ。
「本当に日本は良い国なのです」
瑠香がマリアティーを連れて土手を下りて戻ると、司馬至と寧が揃って迎えてくれる。まだ戦ってはいないようだ。
「その人は?」
「さっき上で会ったマリアティーさんだ」
女王であることを伝えても何の得にもならないので必要最低限のことだけ伝えた。
「なんでいる」
「立会人だよ。マリアティーさんは格闘技好きで、ぜひ見たいんだそうだ」
「よろしく頼む」
マリアティーは司馬至は戸惑っているようだった。マリアティーが無理矢理連れてこられた人ではなくて、本当に立会人をするつもりだと感じたからだろう。
「塚江は良いのか?」
「お願いします。マリアティーさん」
寧は司馬至とは話す気はないようだ。司馬至がマリアティーから手を離すと、警戒して背後へ飛び退る。
「これから寧と……お前、名前は何だ?」
「司馬至」
「そうか。寧と司馬至はこれから戦わなければならない。勝っても負けても遺恨なし。負けても闇討ちしてはいけない。もしそんなことをしたら、リバイリルロ王国の名にかけてお前の日常を破壊する。さあ、思う存分戦え」
戦う前に脅されて、二人は少しやる気を失っているようだ。
「寧パイセン、がんばれ」
勝ってもらわねば、司馬軒でタダで食べることは出来ないのだ。応援するのは当然である。
「はい、瑠香さん!」
寧はすぐにやる気を出した。単純だ。
構える寧を前に司馬至はしかめっ面になる。
「塚江、はしゃいでんじゃねえ」
司馬至は左ジャブを放つ。
寧は右の掌を司馬至の左手首に当てて、軌道を変える。変えたことにより、右拳の射程内に左手を持ち込み、第二撃を封じている。
「ふんっ!」
寧は右手を揺り戻す勢いを利用して裏拳を司馬至の頬に打ち込んだ。そしてそれは当たった。
「よし」
「何がよしだ」
全然効いていないようだ。寧は瑠香よりもパンチ力がないことが確定した。瑠香でも苦戦した司馬至に寧が勝てる可能性を見出すのは難しい。
司馬至が攻撃しようと動くと、寧は距離をあけた。攻撃の間合いの外へ出てしまい、瑠香はため息をついた。
「そこ、リアクション取らない」
マリアティーが瑠香を指差す。今瑠香のストレスを軽減出来るのは彼女だけだ。多少ムカついてほ相手をするしかない。
「私の勝手でしょ」
「寧のモチベーションが変わる。特に瑠香は」
「う……」
確かに寧はやる気に満ちていた。瑠香にがんばれと言われたからだ。励ましでモチベーションを上げられるなら、その逆もできる。マリアティーはそれを注意したのだ。
「分かってる」
「黙って見守る。それが人を成長させる」
「分かってる」
瑠香は寧達に目線を戻した。
寧はまた司馬至の間合いに踏み込もうとしている。
声をかけたいが注意を引いたら、司馬至に殴られる。黙って見ているのは予想以上に辛かった。
寧は司馬至のパンチを読んで、拳の軌道を変えて、攻撃を加える。それでも司馬至には効いていない。
「この!」
司馬至を苛立たせ、彼の攻撃がさらに強く雑になる。
寧はそれを落ち着いて、確実に受け流していく。
戦いが始まってから一撃も受けてないのは優秀だが、決定力がないのは致命的だ。このままでは負ける。
自分が戦ったほうが早いと瑠香思った。いくら食べ物のためとはいえ、勝てる見込みのないものを見続けるのは辛い。
「寧パイセン」
瑠香にはただ声を張り上げて名前を呼ぶことしかできなかった。
寧は一生懸命攻撃を捌いている。そして司馬至に隙が出来ると威力のない攻撃を打ち込む。
「効かないって言ってるだろ!」
司馬至の攻撃はさらに大振りになった。
寧がいなすとバランスを崩す。無防備に晒した背中に寧は体当たりをした。素手の攻撃よりは効いたようで、司馬至は地面に膝をついて倒れる。
「ダウン! ワン、ツー、スリー」
マリアティーはカウントを取り始めた。レフェリー気取りで、立会人の言動ではない。
しかし誰もツッコミをしない。
司馬至は状況をすんなり受け入れ、
「スリップだ。ダウンじゃない!」
と立ち上がって、マリアティーに猛抗議していた。
瑠香は本人が良いならとマリアティーの行動に目をつぶることにした。
「じゃあ戦え。寧はノーダメージだぞ」
マリアティーはカウントをやめて、司馬至を煽る。
「分かってる」
司馬至はシャドーを繰り返し、大振りを修正し始めた。寧の努力が消えてしまった。
「仕切り直しだ」
軽く息を切らして、ステップを踏み始める。司馬至に寧をナメた様子はない。本気になったのだ。
瑠香は不安になってきた。
「いくぞ!」
司馬至は左ジャブを放つ。真っ直ぐ、素早いパンチ。
寧は先ほどのように大きく軌道を変えることは無理なようで、小さく外側に弾いて後ろに引いた。
司馬至は寧が引いた分だけ詰めて、さらに左ジャブを放った。
距離を取ることを禁じられ、寧は苦しそうだ。まだ当てられていないが、いずれこのプレッシャーに負けるだろう。
「前へ出て、寧パイセン!」
瑠香は思わず声を出していた。
寧は言う通りにしようとするが、まだ怖くて後ろに下がっている。それは動きにチグハグさを生み、化勁が遅れた。
寧の頬にパンチが当たってしまう。
すかさず司馬至のフックが来るが、飛んでかわした。
「寧パイセン!」
「大丈夫です。瑠香さんのせいじゃありません」
寧は瑠香に向けて笑いかける。
瑠香は後悔した。声をかけてはいけなかったのだ。
「それに兄貴に殴られ慣れてますから」
寧は効いていないアピールをして、司馬至に向き直る。
「塚江、負けを認めろ。お前じゃ俺には勝てない」
「一発当てたくらいで勝った気でいるな。僕はお前に勝つ」
宣言すると寧のスマホが音を奏で始める。
寧はすぐに出た。
「兄貴! え? 今ですか? 今決闘の真っ最中です。兄貴が果たし状まで作ったあれです」
寧の背筋がこれ以上ないほど伸び、電話の相手に対する敬意と恐怖を表していた。
「女王を捜って、ちょっと待って……いえ、口答えではありません。その……」
困っているようだったので、瑠香はスマホを奪った。
「もしもし、兄貴さん?」
「誰だ?」
威圧感のある声がする。だが瑠香は怯まない。
「葦木瑠香」
「ああ、寧の女か」
「違う!」
「そんなことより、寧を女王捜しに加わらせる。決闘をやめさせろ」
「女王? マリアティー?」
「知ってるのか? 寧の女!」
「違うって言ってんじゃん。園子ちゃんのお父さんに言いつけるよ」
「お嬢の知り合いか。面白そうだな、寧の女」
「違うって言ってんだろ。てかお前誰だよ」
「俺は浦賀ペリーだ」
向こうの勢いが落ちた。
「マリアティーは今ここにいる。あんたがこっちに来な」
「よし分かった。俺は女だからって容赦はしない」
「待ってるわ。寧パイセンに言うことは?」
「ねえ。……いや、スピーカーにしてくれ」
瑠香は言う通りにして、スマホを寧に向ける。
戦いは中断していて、三人ともが瑠香に注目していた。
寧は返してもらえると思ってか一歩瑠香のほうに近寄る。そのとき、ペリーの声がした。
「寧、俺が着くまでに司馬至を倒せ。俺の教えた必殺技でだ。出来なかったらお前を殴る。良いな⁉︎」
「はいっ!」
寧は気をつけの姿勢で動かなくなった。瑠香が今まで見てきたどの気をつけよりも、ピシッとして、正しいものに思えた。
「勝てよ、寧」
寧は涙ぐんでいた。
ペリーとの間に信頼関係が築けているようだ。やってることは多分司馬至よりも悪いと瑠香は思う。でも寧の心は司馬至にはなびかなかった。
「俺とその兄貴と何が違うんだ? お前を暴力で支配してるだろ」
「兄貴はやることをやらないと殴る。でも僕に価値観を押し付けもしない。お前とは違う。兄貴に失礼だ」
涙声ではっきりと拒絶を突き付けた。
「ヤクザだろ」
「じゃあお前は何だ? 弱いものイジメしかできない小物が。悔しかったら親父に再戦を挑んでみろ」
「塚江ーっ!」
司馬至は怒りをあらわにして、右を放ってくる。せっかく戻したのにまた大振りになっていた。
寧は冷静に左手で司馬至の拳を外側へ押し、フックを放った。素早く鋭くコンパクトに。威力はあのままだろうが顎に食らえば少しは効くかもしれない。活路が見えてきた。
「ちいっ!」
しかし寧のパンチは顎にかすめただけで、ダメージにはなってない。
すぐに寧は後ろへ引いて、態勢を立て直す。瑠香のように前へ出て戦うスタイルを選択肢からなくしたようだ。自分のアドバイスを採用されないのは悔しいが、寧には寧の格闘スタイルがある。それは確実に瑠香とは違う。瑠香は寧の成長を素直に喜べなかった。それでも寧に勝機があると思えなかったからだ。でも今回は違った。
「あれ」
瑠香は司馬至の足が異様に震えているのを目撃する。それでも一歩を踏み出そうとするが、踏ん張る力がないのか膝をついた。
「効いたようだな」
マリアティーは二人の間に移動して、司馬至に向き直る。そしてカウントを始めた。
「ワン……ツー……スリー……フォー」
数えていくと司馬至に焦りが浮かんでくる。でも具体的な言動を彼がすることはなかった。
「……エイト……ナイン……テン!」
司馬至が膝をついたまま、テンカウントが終わった。
マリアティーはすぐに寧のほうへ近付き、彼の右手首をつかんだ。
「勝者、寧!」
寧の勝ちが決まった。あっさりと逆転劇が繰り広げられ、瑠香は置いてけぼりを食っている。何がどうなって寧の勝ちになったのか理解できなかったのだ。
「寧パイセン!」
近寄ると寧が嬉しそうな顔で声をかけてきた。
「やりましたよ、瑠香さん」
「どうやって勝ったの? まぐれ?」
「兄貴に習った必殺技を使いました。かするパンチです」
寧が得意気に説明してきた。顎をかすめて脳を揺らし脳震盪を起こすパンチだ。
「なんですぐに使わなかったの?」
「奇襲攻撃なんで、かわされると打つ手なしですから」
寧はちゃんと考えていたのだ。あの戦いかたでも勝てる方法を。
「心配して損した。でもこれで終わったんだね」
司馬至との戦いが終われば、瑠香は司馬軒の料理を食べられる。
「ええ。マリアティーさんも部下を助けに行けます」
瑠香は黙ったまま、寧を後ろに向かせて、尻に思いっきり蹴りを放った。
「おうっ」
寧はお尻を押さえて倒れた。
「ふうっ……スッキリした」
今まで我慢していたものが解消されるのを感じた。やはりこれがないと。瑠香は我慢をやめることにした。これからは好きなときに好きなだけ蹴る。寧の尻を。寧は満更でもない顔をしてるし、大丈夫だろう。