八話 炒飯(後編)
八話 炒飯(後編)
「残念なお知らせがあります。なんと加奈が照さんに炒飯を作ってもらったそうです」
瑠香は寧にそう告げ、悔しさを全面に押し出してきた。でも寧にはその熱量がいまいち伝わっていない。やはり照の炒飯を食べたことのある者とない者の差であろう。
「良いよね。寧パイセンは毎日食べられるもんね」
「毎日炒飯は食べませんよ。それに母の味付けは司馬軒と同じなんで僕がおごれます」
「うーん、そういう問題じゃないんだよ。寧パイセンには私は気持ちは分からないみたいだね」
寧は押し黙った。やっぱり分かっていなかったのだ。説教をしたいところだが、情報を得るほうが先である。ジョーに関する情報を。
「それより、あのじいさんについて分かったことは何かな?」
「ジョーさんは奥さんと店を興して、息子である健さんが生まれました。そして去年店を健さんに譲り、隠居生活を始め、奥さんとここに通うようになったのです」
「それは加奈から聞いてる」
「じゃ、じゃあ、奥さんが塩素ガスで中毒死したって話はどうですか? しかも死んだ場所が葦木金融のトイレだって話です」
「お母さんの会社……」
瑠香とだけの因縁ではなかったのだ。これは難しくなったかもしれない。
「で、なんでトイレで死んだの?」
「トイレ掃除させてた際の事故らしいんですけど、足元には酸素系と塩素系の洗剤の容器が二つ転がってたそうなんです」
「それ、誰から聞いたの?」
「ジョーさんの孫の偉満君です。高校の後輩なんですよ。あんまり接点ないんで警戒されましたけど」
「ふうん」
「その後、偉満君が妙なこと言うんですよ」
「何て?」
「婆さんは殺し屋に殺されたって」
「殺し屋? 殺し屋が洗剤で殺すの?」
「そう思ったんですけど真剣に言うんです。殺し屋はこの町にいるって」
「そんなのはいない!」
近くで大きな声がした。瑠香は耳がキーンとなりながらも、声がしたほうへ振り向いた。ジョーがいた。
「あいつを殺し屋が殺して何の得があるってんだ。孫に何か吹き込まれたようだが、そんなことはない。あいつは運が悪かったんだ」
思い込もうとしている風な口ぶりである。
「じいさんは本当にそう思ってるの? 奥さん死んで悔しくないの?」
瑠香は単純に疑問に思ったことを聞いた。
「悔しくないわけないだろ。お前が葦木の娘なのも知っている。これ以上俺のことを調べるな」
「私はただ炒飯が食べたいだけだ。お前なんかホントはどうでも良い。でもやり遂げなければならないんだ。炒飯のために」
「何を言っている。俺はお前なんかに炒飯は作らない」
「お前を好きだと言う人がいる。私はその人のために動いている。お前を調べたのもその一環だ」
「傷をほじくるのがその人のためだって言うのか?」
「私はバカだから情報が揃ってないと分からない。いや、揃っていても分からないかもしれない。だからお前を知ろうとしている。私にはお前が良いという気持ちが分からない」
「そこのぼうずと付き合ってんじゃないのか?」
「うんにゃ、でも手伝ってくれてる。寧パイセンは良い人なんだ」
瑠香がそう言うとジョーは寧を見て憐むような表情を浮かべた。
「大変だな。ぼうずに免じて、後で話だけは聞いてやる。俺を好きな人がいるなら連れて来い」
ジョーは瑠香達から離れていってしまう。
「良かったですね。これで告白してもらえば終わりじゃないですか」
寧は嬉しそうにしていたが、瑠香は浮かない顔をしていた。やはり聞かずにはいられない。
「寧パイセン、私と一緒にいるって大変?」
「大変……なこともありますが、楽しいです」
「どの辺が大変?」
「食費です。僕のお小遣いにも限りがあるので」
即答だった。
「やっぱり大食いな女の子は面倒だよね」
昔、友達に奢らせ続けてブチ切れられたことを思い出した。寧もいずれ愛想を尽かしてしまうかもしれない。あの子のように。
「でも頑張りますが、炒飯食べられようにしましょう」
「うん」
やはり寧は良い人だ。知り合いから友人に昇格させておこうと瑠香は思った。ちなみに友達は奢ってもらうが、友人は要相談である。これで友人の数は蘭と同じになった。依頼が終わった後にでも言ってやろう。
瑠香はサークルのみんなと太極拳を練習して、告白の機会にそなえた。
だが美紀は「まだ早いわ」と言い、告白しようとはしなかった。太極拳の練習後、瑠香はぶすっとした顔でジョーの前に立つ。すると舌打ちされた。
「何だ。いねえじゃねえか」
「女にはいろいろ準備があるんだよ。多分」
「それで聞きたいことは何だ?」
「お母さんの会社で死んで警察は事故死にしたんでしょ?」
「ああ、お前の兄貴が署長だったな」
「じいさんは偉満君みたいに殺し屋に殺されたと思ってる?」
「それはあり得ないと思っている」
ジョーは確信を持っているようだ。
「それはなんで?」
「殺し屋なんてのは空想上の生き物だ。葦木蘭が犯人だ」
「で、兄貴がもみ消したと」
確認しようとしたが、ジョーは返事をしなかった」
「違うの?」
「それを葦木に言うほどバカじゃねえ。お前はバカみたいだが、お人好しじゃねえだろ?」
ジョーは横にいる寧をチラリと見る。瑠香が気付くのを計算に入れた動作だ。釣られて寧を見ると目が合って、愛想笑いを向けられた。なんか腹が立った。
「ふんっ!」
足を踏もうとしたが、対象の足を後ろに下げられてかわされた。その上、弓歩の姿勢を取るから余計に腹が立つ。
「踏まれると痛いんですから、勘弁してください」
「手詰まりなんだよ。殺し屋がいたら、そいつを倒して恩を売ろうと思ったけど、お母さんが犯人じゃ勝てないし。後は寧パイセンに八つ当たりするしかないの」
「そんなあ」
落胆する寧に向けて、瑠香は構える。
「お前は私のために動こうとしていたのか? 葦木なのに」
寧を助け、止めるように声をかけてきたので、すんなりと攻撃対象がジョーにシフトした。
「瑠香さん、炒飯!」
寧の叫びに反応し、瑠香は首だけを寧に向ける。
「炒飯?」
「炒飯です。殴ったら食べられませんよ」
瑠香は怒りの行き場を封じられてしまった。だがここで寧を標的を戻すのは何か違う。寧は許してくれるだろうが、それは貸しになる。友人に昇格させたことが仇になってしまった。
「むむむ……」
首を戻して、どうするかを考えようとした。が、ストレスが限界を迎えた。
「ウオォォォォ!」
咄嗟に天に向かって吠えて、エネルギーを逃す。とりあえず最悪の事態は避けられた。
が、大声は美紀を呼び寄せてしまう。
「瑠香さん、あなた何をしているの!」
怒っていた。だが怖いとは思わなかった。
「美紀ちゃんちょうど良かった。今手詰まりでイラついてたとこなんだ」
「え?」
「もう美紀ちゃんに頑張ってもらうしかないんだよ」
拝み倒さんばかりの勢いで迫った。攻撃するはずが、決断を急かされ、美紀は混乱している。側にジョーがいることがその混乱に拍車をかけているようだ。「無理よ」
ようやく絞り出した答えだった。
「ここで一歩踏み出さないと、いずれどっちかの葬式が始まるよ」
「瑠香さん、オブラート」
「ホントのことでしょ。美紀ちゃん、じいさんに一発かましたれ」
「じいさんじゃなくてジョーさんよ」
美紀は瑠香を押し除けてジョーの前に立った。覚悟を決めたようだ。あれだけごねていたのに。
「どういうことだ? 木野さん。この娘っ子はあんたの差し金なのかい?」
美紀は頷いた。
「蘭ちゃんに頼んで協力してもらっているの。ジョーさん、私はねあなたのことが好きなの。きゃっ、言っちゃった」
美紀は顔を覆って、身体を横に揺らしている。
「木野さん、悪いが俺はあいつを忘れられない。それに葦木の友人となればなおさらだ。仲良くは出来ない」
美紀は揺れていた身体を止めて、ガックリとうなだれた。
「蘭ちゃん、有名人だから……」
「ちょっと、美紀ちゃんが告白したのにその態度は何? お母さんは関係ないでしょ」
「ある。この町で葦木と関わり合いがあるってことは権力者側にいるということだ。気分次第で自分の人生を左右されるなんて勘弁して欲しい」
「私はジョーさんを殺したりしないわ」
美紀は顔を上げて、必死にジョーへ訴えた。
「そうだよ。美紀ちゃんがそんなことするわけないじゃん」
「悪いが俺は……」
ジョーは拒絶を示している。
美紀は顔を覆って泣き出した。
瑠香は許せなくて、いたたまれなかった。蘭は嫌われ者である。でもそれを理由に美紀の恋が終わって良いはずがない。
「美紀ちゃん、ごめんね。もう我慢出来ない」
瑠香は再びジョーに拳を向けた。
「瑠香さん、炒飯」
寧は瑠香を止めようとして再び言う。しかし瑠香は冷静に手で制した。先ほどのような感情の爆発ではなく、やらなければという使命感のほうが強かった。
「じいさん、私はじいさんを殴る。許せないから。葦木に生まれたのも、葦木と親友なのもどうしようもないことだろ。断る理由にはしちゃいけない」
「あいつが殺されて殺されて残ったのは葦木に対する恐れだけだ」
「だったら葦木に殴られて、炒飯を作れ」
瑠香は大きく一歩を踏み出し、右拳を突き込む。
ジョーはのけぞるようにかわすした。
「この!」
右の拳を腰に引きつつ、左アッパーを繰り出す。
瑠香の左腕をつかみ、強引に引き落としながら右手で突きを放ってくる。太極拳に似たような動きがある。ジョーはそれを使いこなしているのだ。
突きが喉に当たり、瑠香はむせる。瑠香は咄嗟にジョーを押して距離を取ることしかできなかった。
「葦木が怖いからってタダではやられんぞ」
「上等」
瑠香は脇を締めてステップを踏んだ。格闘スタイルをキックボクシングに変えた。今度は下から攻める。
瑠香は近付くと、足を振り上げてから急角度に打ち下ろした。左足の付け根辺りに入り、ジョーはぐらつく。
瑠香はさらなる追撃として、先程よりもコンパクトなローキックを足に向けて放つ。何度も何度も。
痛みに顔を歪め、蹴りが入る度に沈んでいく。
「ぐっ」
完全に膝を付かせるのに十回は軽く超えていた。瑠香の足も限界を迎えそうだった。だがこのチャンスを逃すわけにはいかない。目の前には無防備にうなじを瑠香に向けているジョーがいるのだ。
瑠香はとどめとしてかかと落としを選んだ。大きく足を振り上げ、狙いを定める。
「はあっ!」
振り下ろすと、誰かがその蹴り足を抱え上げて瑠香の胸を軽く押した。バランスを崩した瑠香は尻もちをついた。
「いったぁ……」
瑠香が顔を上げると、そこには泣いていたはずの美紀が立っていた。瑠香を押したのは彼女だったのだ。
「美紀ちゃん、なんで?」
「ジョーさんに手を出さないで」
「なんで? 美紀ちゃんフラれたんだよ。しょうもない理由で。だから私……」
「瑠香さんにそんなこと頼んでないわ。依頼は私とジョーさんの仲を取り持つこと。戦ってケガさせるなんて一言も言ってない。余計なことしないで!」
言い終わると美紀は再び泣き出した。
瑠香にはもう大義名分がない。たった今美紀に取り上げられてしまった。戦えるが、やってしまうと瑠香の立場が悪くなる。美紀に嫌われ、母に叱られて追徴的な労働を課せられる……だけで済めば良い。もしかしたら日々の食事供給を断たれる可能性がある。瑠香にとっては考えうる最悪の結末だ。
何も出来なかった。ただ泣いている美紀と立てないでいるジョーを見ていることしかできなかった。
「瑠香さん、もう頑張らなくても良いですよ。瑠香さんは十分頑張りました。ただ僕達の予想とジョーさんの気持ちが違っただけです。誰も悪くありません」
「じいさんは悪くないの? 美紀ちゃんをフったんだよ」
理不尽に打ちひしがれる自分を何とかしたかった。だから寧に八つ当たりをしてしまう。
寧は穏やかな顔で首を横に振った。
「もし今僕が瑠香さんと付き合いたいと言ったら、断りますよね?」
「うん」
当然とばかりに頷く。
傷ついたようだが寧は続ける。
「今、瑠香さんは僕をフったんです。瑠香さんは悪いですか?」
瑠香には返す言葉がなかった。ジョーを糾弾するには瑠香が寧に謝罪しなければならない。そうしないと道理に合わなくなる。
「今回は諦めましょう。いつも成功するとは限りません」
「そんなことない! 私は今までいろいろ食べてきた。依頼もこなしてきた今度だって……」
言った後に瑠香は気付く。もう手遅れだと。
「うわぁぁっ!」
混乱していた。涙がボロボロ落ちて、視界が歪む。そのままの状態で、まっすぐ距離を詰めて殴りかかった。大振りの素人臭いパンチは軽く化勁でいなされ、クリンチをされてしまう。
「もう良いんです」
耳元で寧の声がした。抱きついているのは寧だ。普段なら殴るところだが、そのときの瑠香は受け入れてしまった。さらに泣けてきて、寧から離れることができない。
「すいませをでした。依頼は失敗です。ですが瑠香さんに炒飯を食べさせてあげてくれませんか?」
美紀はまだ泣いている。
その問いに答えたのはジョーだった。
「後一歩でとどめを刺されそうだった俺が、作ってやる義理があると思うか?」
立ち上がり、やや怒気を孕んだ質問で返した。
「ないです。ですが抑止にはなるかと」
「抑止?」
「瑠香さんが告げ口するのを防ぐことが出来ます。葦木は怖いんですよね?」
ジョーは黙ってしまう。
「僕は瑠香さんにおいしい物を食べて欲しい。フラれた今はそれだけなんです」
「ぼうず、名前は?」
「塚江寧です。今、三浦会直系三笠組で男を磨いています」
「三笠の……」
「知ってるんですか?」
「昔付き合いがあってな。そうか、三笠の子分か」
「まだ見習いですが」
「そんなのは関係ない。三笠の子分なら話は別だ。分かった。葦木の娘の炒飯は責任を持って俺が作る」
泣いている間に最大の難関が解決していた。瑠香は寧を初めてすごいと思った。
「寧パイセン……」
「良かったですね。炒飯、食べられますよ」
手柄を誇ろうともせずに、瑠香の幸せを喜んでくれる。その心意気に瑠香は感動した。
「ありがとう。寧パイセンは恩人だね」
「いやあ、そんな」
「でもね」
瑠香は寧の胸の辺りを両手で押す。
「近い! 後、変なもん当てるな」
瑠香は顔が熱くなっているのを感じた。
寧は股間を押さえて内股になる。抱きついている間に男の生理が発動したようだ。
「すいません」
自分の興奮を沈める意味も込めて、寧に当たり散らす。相手に非があると、反撃がなくて心地良い。
瑠香のドキドキがなくなった頃、背後から殺気を感じた。美紀だ。
振り返ると瑠香を睨んでいる。
「瑠香さん、私の恋を成就させるのではなかったの? あなたが塚江君と仲良くなっている場合ではないのではなくって? しかも、依頼を完遂していないのに、報酬の炒飯の確約を取ってしまうなんて……」
恨み節全開である。
寧と仲良くなったことを否定したいが、そんな空気ではなかった。
「私には恋愛は無理でした。ごめんなさい」
瑠香は深々と頭を下げた
美紀の殺意が強まる。
「木野さん」
ジョーの声だ。美紀の背後から声を掛けたのだ。すると殺気が嘘のように消えた。顔を上げると、美紀は瑠香に背を向けてジョーと向かい合っている。
最終局面に入ったと瑠香は感じた。
ジョーは咳払いをして、美紀に言った。
「俺を好きだと言ってくれたことは本当に嬉しい。息子夫婦とも折り合いが悪くて隠居した身だ。俺には中華料理を作る腕しかない。そんな俺を好きでいたら不幸になる」
「それが本当の理由なのですね」
「さっきのも本音だ。すまないな、木野さん。こんな男で」
「いいえ。もしよろしかったら、私とお付き合いしてくれませんか? 先程は好きだとしか言っておりませんでしたのよ」
「早合点も俺の特徴だ」
「それでも私はジョーさんが好きです。付き合ってください」
美紀は頭を下げた。
「一つ聞きたい。断ったらどうする?」
ジョーの問いに再び頭を上げて、言った。
「私はあきらめません。ジョーさんの嫌いな蘭ちゃんに相談してでも、あなたの心を射止めたい。大丈夫、ジョーさんは殺しません」
「進むも地獄、退くも地獄か」
ジョーは天を仰いでいる。今度断ったら、蘭に話が行く。そうしたら、なんらかの報復は考えられることだった。美紀はジョーを殺さないと言っているが、息子や孫は安全圏にいるとは言っていない。
美紀が欄に相談すれば、誰かが死ぬ。言う通りにして付き合えば、ジョーの今までの日常が死んで、新しいものに変わるそれを悟ったのだろう。
「受けよう。それしかない」
「ホントに⁉︎ 嬉しいわ」
結果を受け止める温度が違ったが、美紀はそれでも嬉しそうだった。
「瑠香さん、今回のことは許してあげる。私は今、それほど嬉しいのよ」
殺気を放つほどの怒りを許せるほどの幸せがジョーと付き合うということにあるのだろうか? やはり瑠香には理解できない。だがお咎めなしは大歓迎だ。
「じゃあ、依頼は……」
「失敗よ。自分で言ったじゃないの。恋愛は無理だって。それにジョーさんの炒飯を食べられるのよ。瑠香さんは損してないわ」
それでも失敗と言われるのは気分が良くなかった。
「息子に話して、俺が店を使える時間を作る。連絡先は塚江君に教えとくから」
「え? 直じゃないの?」
すぐに、食べられるという吉報が便利だと思うのに。そう思った瑠香が不満のニュアンスを込めると、美紀が咳払いをした。
「そういうことだ」
瑠香が美紀の意図を悟ると、ジョーは頷いて言った。嫉妬というやつは面倒臭い特にこっちに悪意がないときはなおさらである。
寧はいつの間にか内股ではなくなっていて、ジョーと連絡先を交換していた。なんだか手柄が寧に行った気がして、寂しい。
「蘭ちゃんには成功したって言ってあげる。私のために怒ってくれたのは嬉しかったから」
それは願ってもないことだ。
「ありがとう、美紀ちゃん」
「でもジョーさんを攻撃したのは許せないわ。二度目はないと思ってね」
美紀には悪いが、こっちから断りたいと思った。炒飯を作ってくれるのはジョーだし、望み通りにならないとキレられるのは好きじゃない。そう考えると園子や寧は瑠香にとっては良い依頼人だったのだと改めて感じた。
「あ、そうそう。瑠香さん、明日からも太極拳習いに来るのよ。蘭ちゃんが怒っちゃうから」
そう言い残し、美紀はジョーと手を繋いで帰っていった。
なんとかうまくいったが、これから一ヶ月通うのは辛い。でも母親に怒られるのはもっと辛い。
「太極拳かあ」
憂鬱さを放出していると、笑顔で寧が言った。
「一ヶ月、瑠香さんと一緒なんて嬉しいです」
瑠香はカチンと来た。
「寧パイセン、タイキック受けてみる? テレビの罰ゲームとかでやってるやつ」
「え? なんでですか?」
「どうしても。どうしてもやってみたいの」
じゃないと今回は不完全燃焼だ。それに寧の胸で泣いたのは今思い出すと恥ずかしい。
寧は困った表情を浮かべたが、瑠香が無反応でいるとおずおずと尻を突き出した。先程も執拗に踏みつけようとしたので、蹴られないと収まりがつかないと諦めたのだろう。
「痛くしないでくださいね」
それは出来ない相談だ。瑠香はジョーの腿を蹴ったように、上から斜め下に打ち下ろす蹴りを放った。
「うっ……」
鈍い音がして、寧は尻を押さえて跪く。
スッキリした。これで明日からも寧と顔を合わせても、大丈夫なはずだ。
「痛いですよ、瑠香さん」
不満そうな寧に親指を立てて、会心の笑顔を見せる。なぜか寧はそれ以上文句を言わなくなった。
寧がジョーからの連絡を伝えるのに一日もかからなかった。首里軒の主であるジョーの息子が出かけなければならないので、ジョーが店番をするらしい。昼と夜の混雑時を避ければ、いつ来ても良いとのお達し。学校帰りにすぐ行くと寧にメールをすると『僕も行きます』という謎の返事が返ってきた。寧はお呼びではない。炒飯を食べるのは瑠香だけなのに。
『じいさんに伝えたら、寧パイセンの役目は朝に私の太極拳のフォローをするだけだよ』
『僕のおかげで炒飯食べられることになりましたよね?』
寧のくせに生意気だ。今日も蹴らねばなるまい。
『ついてくるならタイキック』
これで引いてくれるだろう。瑠香の蹴りの強さは寧も知っているはずだし。
『ありがとうございます。じゃあ現地集合現地解散で』
返事を読んで、瑠香は首を傾げた。前の文とどうしても繋がらないのだ。加奈に相談すると苦い顔をした。
「瑠香が寧さんを目覚めさせてしまったかもしれないわね」
「目覚めるって……」
「蹴られて悦ぶ性癖が」
「やだ。でも私も寧パイセンを蹴るとスッキリするんだよね」
「私は無理だからね」
本気の拒否を感じた。軽く言ったつもりだったのに。
「加奈は蹴らないよ」
「寧さんも蹴らないほうが良いよ。ご褒美になるから」
「うん」
忠告まで受けて、どうして良いものか迷った。まあ加奈の言うことを聞いておけばおおむね間違いはないだろう。
瑠香一人で首里軒を訪れた。
「らっしゃい!」
瑠香が引き戸を開けるとジョーの威勢の良い声が響き渡った。町中華の油っぽい床を歩いていくと、カウンターでラーメンを食べていた寧が立ち上がった。
「瑠香さん、待ってましたよ」
そう言うと瑠香に尻を向けてくる。蹴れとでも言う気だろうか?や素直に蹴る気はないので、寧と離れた位置に座る。
残念そうな顔をして、寧も座った。
「炒飯! 特盛で」
「あいよ」
ジョーは広東鍋に油を敷いて、火にかけた。溶き卵を投入すると一気に騒がしくなる。そこからご飯やら叉焼やらネギやらを入れて、塩胡椒を振り、お玉で醤油を入れると、激しく鍋を振り続けた。特盛だけあって、老体のジョーは辛そうだったが見事やり遂げた。
瑠香の前に炒飯が現れた。選ぶコマンドは食うの一択。
「いただきます!」
話しかけようとした寧を無視してレンゲでかき込む。感想言う時間すら惜しく、黙々と食べ続けた。
そして寧が差し出したお冷を飲み下し、息をつく。
「ぷはあ、うまい」
「そうか。作った甲斐があるってもんだ」
汗を首にかけたタオルで拭いながら、ジョーは笑いかけた。
「美紀ちゃんから何か連絡あった?」
「いや、それが……何も言ってこないんだ」
あれだけ大怯えていたというのに何の変化もないので、拍子抜けしているようである。
「美紀ちゃん恥ずかしがり屋だから自分から言えないんだよ。じいさんが誘ってあげないよ。店は今日だけなんでしょ?」
「分からん。これからどうなるのかもな」
「どゆこと?」
「昨日、ジョーさんの息子の奥さんが殺されたそうです」
寧が真剣な顔で答えた。
「なんで?」
「わかりません。ですが殺されかたが問題なんです。奥さんは塩素ガスで死んでました」
「それって……」
ジョーの奥さんと同じ死にかただ。
「連続殺人ってこと?」
「分からん」
「恨んでる人は?」
「知っている中では息子だ。離婚するしないで揉めていた。陽さんは既に仕事をしていて収入もあったから別れるだろうとは思っていた」
「仕事って?」
「熟女キャバクラ だ。アフロディーテのエリナって名乗ってて、俺にまで名刺をくれた」
なぜかジョーはその名刺を瑠香に見せてきた。豪華な飾りがないので、一般の客に渡すタイプだ。瑠香は父親が持っているのを見たことがある。豪華なほうをだ。
「エリナ……」
最近照から聞いた名前だった。その人も殺されていた。詳しく聞いておけば良かったと思った。
「照さんからその名前聞いたことあるけど関係あんのかな?」
「何か知ってんのか⁉︎」
寧に確認を取ったのに、ジョーが反応した。でかい声なので、瑠香はビックリしてもたついてしまう。
「いや、照さんがこの前殺された人がエリナって言ってて、で、じいさんの息子の嫁がエリナって……。何か関係あんのかなって」
「偶然にしては揃いすぎてますね」
「だよね。もしかしたらエリナという名前の人を殺して回ってるのかも」
「家内はエリナじゃない」
「だったら殺し屋が依頼を受けていて、最近の依頼がエリナ殺しになっている……とか」
「殺し屋はいない」
「どうしてそう言い切れるの? じいさん何か知ってるの?」
ジョーは瑠香に何かを隠している。それを知りたいと思った。たとえまた蘭の名前が出てきても、瑠香は変わらない。そのはずだ。
「俺の知っている殺し屋はスカンクと呼ばれていた。だが数年前に死んだ。殺されてな」
「誰に?」
「キラーズの総長、泥亀だ。やつは三浦会と敵対する横浜組の傘下に入っている」
「殺し屋が暴走族に殺されたの?」
「正確には殺し屋の身元を横浜組三次団体の六浦興業にバラしたんだ。スカンクは三浦会と手を組んでこの町を守っていた。だからこの町を手に入れたいと思っていた横浜組側にとっては目の上のたんこぶだった」
「でも殺し屋なんだから簡単にやられないでしょ?」
「スカンクには家族がいた。そんな状態で身元がバレたらどうなると思う?」
瑠香は反論できなかった。
「スカンクは六浦興業に乗り込んで、自分の命を差し出す代わりに家族を守った。事後処理を三笠組に頼んで」
「三笠組に?」
「ああ。息子に代替わりするまではここに組長が組員連れて出入りしていて、第二の三笠組みたいなもんだった。当時の状況は俺も詳しい」
「だから、三笠組の名前を出したら協力的になってくれたんですね」
ジョーは頷いた。
「じゃあ、今動いているのは別の人?」
「知らん。だが殺しかたはスカンクそのものだ」
「もしかして家族ってことあるかも。スカンクだった人の名前は?」
「井伊米」
「井伊……」
瑠香は動きを止めた。井伊は加奈の名字だ。加奈の家族がスカンクなのだろうか。そういえば加奈からあまり家族の話は聞かない。というか、加奈のことをあまり知らない。瑠香は自分のことばかり話していて、加奈の話をほとんど聞いてなかった。
「家族の名前は?」
「知らん。だが今のあんたくらいの娘がいたはずだ」
瑠香は目を瞑って、大きく息を吐く。スカンクの娘は加奈だと思った。
「その子がもしスカンクを継いでいたら……」
「俺は許さない。が、俺に出来ることは別の殺し屋を雇うくらいだ。そうなると葦木を頼らざるを得ないんだろうな」
そのスカンクは蘭が雇っている可能性がある。蘭は自分の殺し屋を殺す殺し屋を紹介してあげるような間抜けではない。逆にスカンクを差し向けられるのがオチだ。
「何とかしてあげたいけど、ごめんなさい」
瑠香はうなだれた。ついさっきまではジョーのために殺し屋をやっつけようと思っていた。が、相手が加奈となれば話は別だ。瑠香の親友、最大の理解者なのである。軽く痛めつけることさえ、想像したくない。
「あんたにそこまで望んでない。炒飯を食べるために死なれたら、こっちの寝覚めが悪い」
「うん。炒飯、おいしかったよ。ここには出禁だから来れないけど明日の朝、公園でね」
「ああ。いろいろありがとうな」
ジョーは瑠香に向けて手を差し出した。目を合わせると頷いてくる。瑠香を信頼に値すると認めてくれたのだ。加奈のことを言い出せずにいる瑠香を。
瑠香はその手を罪悪感を抱きながら握った。
瑠香が立ち上がると、寧もついてきた。しかしジョーに金を払えと止められた。瑠香は何となく寧が支払うのを待ってしまった。
「ありがとうございました!」
威勢の良い声に送り出され、瑠香は寧を見た。
「寧パイセン、どうしよう」
「加奈さんには……聞けませんしね。うちの母にはもっと聞けません」
「寧パイセンは良いの? 黙ってるのは悪いことだよ」
「僕が優先するのは瑠香さんです。大好きですから」
情熱的な告白であることは理解している。でもなぜかピンと来なかった。
「ごめんね。私よく分かんない」
「良いんです」
言った後、寧は噛み締めるように頷いていた。一日に何度もフラれるというのは辛いんだろうと思う。それを考慮しても、瑠香に妥協は生まれない。出来ることはその話題から離れることだけだった。
「じゃあ誰に聞けば良いと思う?」
落ち込んでいても、寧は考えてくれ、答えを出してくれた。
「それなら、瑠香さんのお母様はどうでしょう?」
「寧パイセン、うちの母親はお母様ってガラじゃないんだよ。怖いし」
「僕も立ち会いますから」
「分かった。太極拳が終わってからね。あ、寧パイセンと司馬至の決着の後が良いか。ともかく後」
蘭のしていることを問い詰める結果になるのは目に見えている。その後の反応を想像できないのが瑠香は怖いのだ。
「日和ましたか。ちょっとガッカリです」
寧はため息をついた。確かにそうだが、寧に言われると腹が立つ。加奈は止めたけど、寧に後ろを向かせて尻にキックを放った。
「おうっ」
寧は四つん這いになってしばらくじっとしている。痛みに耐えているのだろう。
「私は日和ってない。ただお母さんと真剣な話をするのに心の準備が相当かかるだけだから」
後付けで言い訳を言ってみる。
「ですよねー」
そう言いながら、寧は立ち上がった。笑顔で。
聞かなくてはと瑠香は思った。秘密を聞き出す練習だと考えれば出来るはずだ。寧は瑠香のことを好きだから多少は大丈夫だと思う。
「寧パイセン」
「はい?」
「蹴られるの、嬉しいの?」
「え?」
「さっき店で何も言わずにお尻を突き出したり、今嬉しそうだし」
すると寧は耳まで真っ赤になって、動揺し出した。
「な、何を言ってるんですか。そんなわけないじゃないですか。バカ言っちゃいけませんよ」
認めようとはしなかった。あそこまであからさまな行動をしておいて見苦しい。
「じゃあやめる。私は寧パイセン蹴るとスッキリするけど、寧パイセンがイヤなら我慢する。友人はそういうもんだよね」
そう言うと寧はガックリうなだれた。自業自得だ。認めていればやってやらないこともなかったのに。
「私帰るね」
瑠香は寧を置いて帰った。深刻な話をしていたはずなのに、寧を蹴ったらその重さを忘れていた。瑠香は寧を蹴るのが好きなんだと自覚した。そして寧に我慢すると言ってしまったことを後悔するのだった。
アフロディーテのエリナこと首里陽の事態が見つかったのだが、井伊海は釈放されなかった。連続殺人の立証ができなくなっただけで、警察官殺害の容疑が晴れたわけではないからだ。
照の追及をとりあえずかわした加奈は上葉町の商店街の外れにある猫屋という名の猫グッズ専門店に足を踏み入れた。
「いらっしゃいっす!」
白Tにサロペットジーンズの女子が出迎えてくれる。彼女が真似鬼猫。加奈と同じ二代目である。
「エサ代持ってきたっすね。加奈さんは律儀だから好きっす」
お世辞だと分かっていても好きと言われるのは悪い気はしない。エサ代の封筒もすんなりと渡してしまう。
「踏み倒そうとする人なんているの?」
「いるっすよ。去年の支払いをのらりくらりかわされてるっす。葦木の関係者だから強く言えないっす。困ったもんすよ」
二代目と名乗っているが殺し屋として新人な彼女達に仕事をくれるのは葦木蘭や彼女にゆかりのある者ばかりだ。加奈はなるべく海がいるときに受けるようにしているが、真似鬼猫は単独で動いている。
「葦木は仇だからね」
「分かってるっす。葦木源京が横浜組の幹部の女だったキャバ嬢に手を出してトラブったせいっすよね」
「そして自分の嫁が殺し屋を使って守ってくれると吹聴した」
「それがスカンクっすね」
加奈は頷いた。
「横浜組は六浦興業にスカンクを殺すように命令した。六浦興業は泥亀に丸投げした。その泥亀はどうやってかママのことを突き止めた」
「うちのおかんもっすよ。最初に殺されたっす」
「ママは三笠組と協力して、六浦興業に乗り込んだ。でも死んじゃった」
「三笠組も怪しそうっすね」
「そうね。今なら調べられるわ。園子ちゃんっていってね。ライバルなの」
「ライバル?」
「恋の」
「青春してるっすね」
「そうかもね」
「あーあ、キラーズ作った頃が懐かしいっす。今しがらみだらけっす」
キラーズは加奈と真似鬼猫ともう一人で作った殺し屋の家族会だった。変わってしまったのは加奈が殺したエリナが加入してからだ。彼女は勝手に人員を大量に増やし、キラーズを乗っ取った。真似鬼猫は本当に嫌がっていたが、母を失った加奈は自暴自棄になってキラーズの勢力拡大に尽力した。真美はその頃の部下だ。
それも父がリバイリルロに移住するまでだった。加奈は真面目になって、高校で瑠香と出会うのである。
「もう一人は?」
「今、キラーズの大幹部っすよ。それでも泥亀に会えるのは滅多にないらしいっす。復讐するのはまだ先っすね」
加奈達は親の復讐を誓い二代目になった。加奈は葦木源京を、もう一人は泥亀を殺すことにした。真似鬼猫は二人のサポートをしてもらっている。表でも働いているのは彼女だけだからだ。
「葦木源京には会えないっすか?」
「葦木蘭で止まってる。聞いた話だとキャバクラ しか行ってないらしいのよね」
「それで最近の依頼がキャバ嬢ばかりなんすかね?」
「分かんない。男ってなんでキャバクラ 好きなんだろ」
「普段声すらかけられない人が金を払えば話の中心に座らせて貰える。そしたら喜んで金を吐き出すっすよ。私も行きたいっす」
「キャバクラ ?」
「多分ホストクラブのほうっすね。イケメンが好きっすから」
「ふうん」
「好きじゃないっすか? イケメン」
「まあね」
真似鬼猫は「変わってるっす」と呟いた。
加奈は瑠香が好きなのだから、イケメンには目もくれない。加奈にとっては変わってなどいなかった。
その瑠香から電話がかかってくる。何か緊急の用事だろうか?
「どうしたの?」
「私好きみたい」
加奈はドキドキした。でも目的語がない。相手が誰なのかを確認しなくては。
「誰のこと?」
「寧パイセン……」
この世の終わりが訪れた。
「……のお尻を蹴るのが」
……わけではなかった。
「それだったの? ここ数日悩んでたのは」
「自分でやめるって言った手前、自分から言い出すと負けた気がして。でも蹴りたくて……」
声は切実だが、内容が加奈にとって真面目に答えたくないものだ。
「私はダメだからね」
とりあえずとばっちりを避けた。
「うん、分かってる。ねえ、加奈……」
「うん?」
「私達、親友だよね?」
何を言っているのだろうと思った。
「もちろん、私が瑠香を嫌いになるわけないでしょ」
「うん、そうだよね。ごめん、いろいろあって」
確かにいろいろあったようだ。
「瑠香こそ良いの? パパが警察に捕まってるのは知ってるでしょ?」
「そんなことで親友じゃなくなるのはイヤだから。でも、ゴメン。兄貴に頼んでるけど、警官殺しは別だって言われて……」
「そうなんだ。ありがとう瑠香」
加奈は適当に話を切り上げ、電話を切って大きく息を吐いた。気軽に考えている場合ではなさそうだ。
「友達っすか? 深刻そうな空気だったっすけど」
加奈は真似鬼猫の目を見て言った。
「親友よ」
悩むのを一旦止めてでも、これだけは言いたかった。幸せを噛みしめながら、反対にその関係ではなくなりたいと願いながら。
真似鬼猫はポカンとしていた。