六話 揚げパン
六話 揚げパン
亥飼天聖は無職である。そして親の金で生活しているのでニートである。さらに中年で未だに実家暮らしなのでこどおじでもある。
若い頃に体調を崩して、新卒レールからはずれて以来それっきり。世の中が正規非正規で対立しているときもどちらの陣営にもくみすることがなかった。
そんな天聖が活路を見出したのはライトノベルを書くことであった。これならばドロップアウトしている自分が浮上出来る唯一の手段だと思った。しかし一次選考すら通過しない。一次選考を通過すると評価してもらえるのだが、それより前にシャットアウトされ続けた。心が折れかけたときに、似たような人間が犯罪を犯すのをテレビで見ていた。そこに未来の自分を見た天聖は筆を折ってしまった。
何もすることがなくなり、絶望している天聖。なのに親はただ働けの一点張り。世間体を持ち出してお前は普通ではないとなじるのだ。そんなことは分かっている。普通じゃないから、苦労している。親は分ろうともしない。
天聖は反射的に家を飛び出した。早朝なので街も静かだ。なぜ早朝に家を出たかというと親が早起きで天聖が夜型だったからだ。
「はあ、別の世界が良いな」
そろそろ寝る時間だったので身体が重い。横断歩道を渡りきる前に赤になってしまう。そして天聖は車に轢かれた。
ハイブリッド車で近付いてくる音が聞こえなかったのだ。さらに運転手がゲームの通知音につられてスマホを見ている最中であった。明らかに相手が悪い。だがそれを言えるのは自分の意識がしっかりしているときだけである。
天聖は吹っ飛ばされ、アスファルトに打ち付けられ、意識を失った。
次に目を覚ますと、そこは生い茂る草達のただ中で、何も見えない。確か天聖は車にはねられてアスファルトに叩きつけられたはず。なのに痛みも感じず、血も出ていない。服だけがすれてボロくなっていた。
草をかき分けて出ると道に出た。ちょうどRPGなんかで魔術師の着ているローブを身につけた褐色の肌の少女と出くわした。何やらニヤニヤしているところに天聖が現れたので、ひどく驚いていた。
「俺は亥飼天聖。君は?」
「ソーラだ」
「その格好は魔術師?」
「いや、コ……カード使いだ。モンスターを召喚し、魔法や罠も使う」
「どこの出身?」
「リバイリルロ王国だ」
聞いたこともない国の名前だ。天聖は確信した。異世界に転生したと。願っていた異世界に来たのだ。もう無職だと蔑まれることもない。新しい人生をやり直せるのだ。
「ソーラ、仕事ない?」
興奮しすぎて思わず聞いていた。今まで天聖が生きた中で初めて使った言葉だった。
「仕事? ないな」
「何でもやる。ゴブリン退治もドブ掃除も」
「ゴブリン退治? うーん、あいつらゴブリンみたいなもんだからな。人をバカにするし」
「ゴブリンがいるのか? よし、退治しに行こう」
「え? ああ」
ソーラは戸惑っているように見える。だが初めての世界で案内役は必要だ。ソーラには付き合ってもらう。もちろんカノジョとかそういうのではない。天聖のストライクゾーンはもっと上だ。ソーラのようなお子様ではない。
「まずは武器を手に入れないとな。素手でゴブリンの集団はきついからな」
「武器?」
「刃物が良い。勇者は剣だ」
「勇者……」
ソーラは引いていた。自称勇者はイタすぎるのかもしれない。でも実績を積めば認めてもらえる。今度こそ。
「売っている店に心当たりはって……お金ないや」
「なんだ。金ないのか、じゃ」
ソーラは逃げようとした。ここで逃げられては早くも路頭に迷う。なんとか逃げないように進路を塞ぐ。現実世界なら不審者情報として警察に連れていかれる状況だが、ここは異世界だから大丈夫だ。
「ソーラに見捨てられたら、俺は死んでしまう」
「死ねば良いじゃないか」
「いや、そこをなんとか。別のせか……国から来て、そこの金しか持っていないんだ」
下手に異世界とか言って頭のおかしいやつだと思われたら、確実に逃げられる。まずは信頼を勝ち取らなければならない。だましてでも。
「別の国の金?」
ソーラは食いついてきた。
天聖は誇らしげに野口英世を取り出した。
その紙を見るなり、ソーラは露骨にガッカリした顔になる。この世界では紙のお金ではないようだ。
「コインなら……」
「それが良い」
ソーラは野口英世を天聖から奪うように手に入れた。
「せ、紙の金だ」
嬉しそうにかざしている。やはり紙の金は珍しいようだ。元の世界ではもうその紙すらいらなくなる時代が来ているなんて言ったら、どんな顔するだろう。
「よし、武器を手に入れよう。この金の……お礼に私が買ってやろう」
「マジで? 恩に着るよ」
「なあに、損はしてないからな」
ソーラは子供の割に凶悪な笑みを浮かべた。
町並みは現在と同じに見える。だが看板の文字は天聖には認識できなかった。ソーラについていく体で雑貨屋にたどり着いた。
「良いか。ここは安い。だがお前は信用がない。私が代わりに買っておいてやろう」
ソーラは入口で天聖を待たせ、店の中に入っていった。そしてビニール袋を手に戻ってきた。ビニール袋にはどう見てもペティナイフにしか見えない武器二つとペットボトルにしか見えない入れ物に入ったジュースがあった。でもラベルの文字が読めない。現実世界に近い世界なのだろう。もっとRPGみたいな世界を期待していたので、少しガッカリだ。高卒レベルの理科の知識で賢者扱いされる選択肢が消滅してしまった。
「あまりに高くてこれしか買えなかった。これは私が可愛いからとくれたおまけだ。お前にはやらんぞ」
ソーラはジュースを飲んだ。本当にくれないらしい。
天聖はナイフを包装から解放した。日本のように過剰に包装されている。ゴミをソーラが持っている袋に押し込もうとすると蹴られた。
「いて!」
「私にゴミを渡すとは良い度胸だ天聖。武器を手にしたくらいで粋がるなよ」
「そんなこと……」
「じゃあお前が持て」
ソーラに袋も押し付けられた。とりあえずポケットにねじ込んで、後で捨てておこう。
「武器も手に入ったことだし、ゴブリンを倒しに行こう」
「私も行くのか?」
「当たり前じゃないか。俺はここら辺に詳しくないんだ」
ソーラは難しい顔をした。が、了承してくれた。
ソーラが仲間になった。
頭の中でファンファーレを鳴らしながら歩いていると、天聖のほうに女子高生が向かってくる。異世界のはずなのに女子高生は歩いている。天聖の好みのタイプでもあり、彼女の顔をじーっと見てしまう。それでも天聖と願う事はなかった。
「ソーラ」
彼女はソーラに声をかけ、親しげに話す。が、二人の話している言葉を天聖は
理解できなかった。彼女も異世界の言葉を話せるようだ。そしてソーラが今まで自分に合わせて言語を変えていたことに気付いた。
ソーラの優しさに感動して鼻をすすっていると、二人がヒソヒソと話し始めた。しかし途中から大きな声のやりとりに変わった。天聖がこの言語を話せないと知ったからだろう。ようやく女子高生と目があった。
「こ、こんにちは」
彼女はぎこちなくあいさつをしてきた。
「俺は亥飼天聖。君は?」
「瑠香……葦木。葦木瑠香」
「瑠香さん」
ヒロインが来た。天聖はそう思った。
「俺たちはこれからゴブリンを倒しに行く。瑠香さんも行かないか?」
生まれて初めてのナンパ。異世界だから恥ずかしさも半減しているし、迷惑だったとかつぶやかれない。異世界様々だ。
「ゴブリン?」
するとソーラが瑠香の耳元で囁く。
「分かった。でも、これから妹に会わなければならないの。授業参観。母親の代わりで」
天聖は察した。彼女も異世界に来たばかりなのだ。だからこの世界にいない妹と会おうとしているのだ。ヒロインのメンタルケアまでしなきゃならないとなかなかハードだ。
瑠香が仲間になり、頭の中がファンファーレが流れた。
そして天聖はソーラに話しかける。
「近くの学校に似たところないか?」
「あるのか。そこに行こうとしてたし」
「そうか。行こう行こう」
「なんか瑠香と扱いが違う気がする」
「そんなことないさ。年相応だ」
するとソーラが脛を蹴飛ばしてきた。
「いて」
「私は瑠香より年上だ。それが分かってて言ってるんだろうな?」
「え? 子供だろ?」
こんなちっこい大人は天聖の周りにはテレビ画面の中にしかいなかった。天聖がソーラをそんなタレント達と同じ童顔幼児体型の大人だと認識するのに時間がかかった。
「早く行かないと揚げパンを奪えないの。妹は好きな物を真っ先に食べるタイプだから」
「揚げパン?」
「給食だよ。小学校のとき食べたでしょ?」
「ああ。俺は揚げパンよりも中学校の給食で食べたカレーのほうが好きだったな」
瑠香の表情が驚きのまま凍りついた。何かおかしなことを言ったんだろうか? 天聖がそう思っていると、瑠香が両肩に手を置いた。ありえないがキスされるのではと思い、身体を強張らせた。
「中学の給食があるのか?」
「え?」
意外なことを聞かれた天聖は反射的に質問で返してしまった。すると瑠香は天聖にこう言ってきた。
「中学校の給食があるのか? どこの学校だ? 神奈川県にはそんな学校なはない(個人の見解です)んだ。県議や市議の選挙公約の中にも中学校給食の実施があるくらいだからな」
「俺は別の県だから」
「うらやましい。中学だけ、別の県に住みたかった。そしたら給食と弁当の二刀流が出来たのに」
瑠香の食欲が運動部レベルだということが分かった。創作物だとメインヒロインではなく、だいたいがにぎやかし要員にいるタイプだ。もっと清楚系を期待していた天聖は瑠香はないなと思った。
天聖達は学校のような建物に入るため、門をくぐる。すぐ目の前に質素な陸上競技トラックがあり、そこに立つと建物から天聖達が丸見えになっている。もしあのガラス窓が開いて、矢の雨が降れば死体の出来上がりだ。ここからは用心しなければならない。ナイフを握り、腰を落として、建物へ近付いていく。
建物の中に入り、一旦警戒を解いた。とりあえず矢は来なかった。だがゴブリンはどこから襲ってくるか分からない。カード使いのソーラの実力も未知数だし、瑠香は武器を持っていない。天聖が頑張らなねばならないのだ。彼女達を巻き込んだのは天聖なのだ。
「さあ行こう。妹は小四だから二階だな」
瑠香は勝手に動こうとした。
「ちょ、待てよ」
天聖は瑠香の肩をつかんで止めた。
「なんか文句あるの?」
「危険だ。ゴブリンがどこに潜んでいるかもしれない」
「はっ、馬鹿じゃないの。いるわけないでしょうが」
「瑠香、それはダメだ」
瑠香が天聖に悪意を向けるとソーラが割って入る。そして天聖の分からない言葉で言い合いを始める。すると遠くのほうでドアが開き、こちらへ来る足音がした。
「隠れろ。敵かもしれない」
「敵なんかいるわけないだろ。ゴブリンなんていないんだから」
「何を言っているんだ。いるじゃないか」
足音を出していたのはゲームなどで見た通りのゴブリンの姿だった。いや、大きめだからホブゴブリンかもしれない。
ホブゴブリンはこちらに向けて話しかけてきた。だが天聖にはゴブリンの言葉は分からない。
しかし瑠香は違った。ホブゴブリンと話を始めたのだ。これが彼女が転生する際に獲得したスキルなのだろうか? あらゆる言葉を使いこなせるとか。天聖はまだ自分に与えられたスキルが分からないというのにうらやましい限りだ。
「ここでお別れだ。私は行かねばならない。揚げパンのために」
瑠香は天聖に向けて言った。
「どこへ?」
「妹のところだ。このおっさんが連れてってくれる」
瑠香はホブゴブリンを指差した。
「何言ってるんだ? そいつはゴブリンだぞ!」
「お前、さっきから何を言ってんだ? おっさんだろう」
「ゴブリンだ」
「もう良い。私は行く」
瑠香はプリプリ怒って階段を上がろうとした。そこにホブゴブリンもついて行く。
瑠香にはゴブリンがおっさんに見える魔術がかけられているかもしれない。瑠香はヒロイン候補ではなくなったが仲間だ。見捨てるわけにはいかない。
天聖はペティナイフを取り出して、山突きのような体勢でホブゴブリンを刺した。すぐに引き抜いて、反撃に備えると、ホブゴブリンは赤い血を撒き散らしながら、崩れ落ちるように倒れた。
場の空気が一変する。
瑠香がソーラに向けて、天聖の理解できない言葉で怒鳴った。
ソーラは苦い顔をしている。
そして瑠香は廊下を駆け出した。
「どこへ行ったんだ?」
「お前が言うところのゴブリンを呼びに行った。天聖、お前は危険だ」
「何を……」
「私は勇者ごっこをしてるんだと思ってた。だから武器を買ってやった。まさか本気だったとはな」
「そうだ。ゴブリンを倒さなきゃだろ。倒して倒して倒して経験を積んで、強くなる。そういうもんだろ」
「それはゲームの世界の話だ」
「ここは俺のいた世界とは別の世界だ。俺は異世界に転生したんだ」
ソーラは鼻で笑った。今まで天聖の仲間であったはずなのに。
「ここは日本だ」
ソーラは冷たく言い放った。
「だったら、リバイリルロってのは何なんだ? ソーラは言ったじゃないか」
「私の祖国だ。南太平洋に浮かぶ島国だ」
「そんなのは聞いたこともない」
「だったら行ってみると良い。この国の刑期が終わってからな」
ソーラは人差し指と中指でカードを挟んだ。それは天聖も知っているトレーディングカードゲームのカードだ。絵柄が箔押しでないところを見るとノーマルカードのようである。
「カード使いってそういうことかよ」
「嘘は言ってない。天聖、お前が深く聞かなかっただけだ」
ソーラは天聖に心を許してはいなかったのかもしれない。天聖は腹を立てた。自分だって不安を解消するためにソーラを利用していたというのに。
「こっちはナイフだぞ」
「天聖、それは路地裏のローグが吐くセリフだ。お前は勇者じゃないのか?」
またソーラは嘲笑っている。
もう耐えられなかった。
「ソーラァッ!」
天聖はソーラに襲いかかった。
「やべ」
ソーラは全力疾走で逃げた。やはりカードではナイフに勝てないのだ。
しかしソーラには追いつけず、息が上がった。今までのインドア生活の積み重ねの成果だ。
「危なかった。瑠香がゴブリンを連れてきてくれたぞ」
ソーラは腰に手をあてて、偉そうだ。その横を護衛するようにホブゴブリンとスーツ姿の眼鏡っ娘がさすまたを構えて立った。
「いつから日本はゴブリンと共存するようになったんだ?」
その問いに誰も答えない。ジリジリとさすまたが近付いて来るだけだ。
天聖の技量では、手加減して人間だけ助けるなんて芸当は無理だ。刺して痛みで動けなくするしかない。
ペティナイフを構え、刃先をそれぞれに向けて牽制する。
ホブゴブリンも眼鏡っ娘もビビっていた。隙をついたとはいえ、完全に息の根を止めてないとはいえ、天聖はゴブリンを倒し、経験を得ているのだ。
天聖は自信を取り戻し、突進した。まずはホブゴブリンのほうだ。
敵はさすまたを突き出したが、まっすぐだったので横へかわすことが出来た。走って身体をあっためておかなければ初動が遅れて捕まっていただろう。
天聖はホブゴブリンの伸びきった腕に切りつけた。敵はあっけなくさすまたを落とし、血が流れる腕を押さえる。
一騎当千とまではいかないが、天聖は戦えると自信を強めた。
「ソーラ! 戦え!」
「私が戦うと問題になる。瑠香、代わりに戦え」
ソーラは二人の後ろで不敵に言った。
「やだ」
瑠香の返答にソーラは口を大きく開けて驚いている。想定外の反応なんだろう。多人数ならではのトラブルだ。一人ならばそんなことはない。悲しいけど一人のほうが天聖にはあっているようだ。
「昨日、麻婆豆腐食べたろ」
「昨日は昨日。今日は今日」
「じゃあ、ゆでもやしをあげるからあいつと戦え」
「麻婆豆腐より格が落ちる。それにこれから揚げパンを食べる予定だ」
「妹から盗むのか? それよりもこいつらに恩を売って揚げパンを貰ったほうが良いと思うぞ。妹は一個だがここには二人もいるぞ。交渉次第ではもっと手に入るかもしれない」
瑠香の目が大きく見開かれた。天聖はイヤな予感がした。
瑠香は前の眼鏡っ娘に天聖の分からない言葉でまくし立てた。戦闘でビビっていた上に瑠香の言動が加わり、萎縮しているのが分かる。だが瑠香はそれでもあきらめず、粘り強く話しかけていた。彼女は揚げパンのためにあそこまでの熱意を発揮している。天聖にはその熱意がなかった。会ったら、異世界に来てもライトノベルを書き続けていたはずだ。
劣等感を刺激されて気分が悪くなっているところに、瑠香が指の関節を鳴らして前に出てきた。どうやら話がついたようだ。
「天聖、揚げパンのために死んでくれ」
瑠香は構えた。天聖が見たことのない構えだ。天聖は彼女が何かしらの格闘技を使えると確信した。だがどちらも武器を持っている。勝てないわけではない。
「ソーラを守るのか?」
「まあ、そうなるかな。死なれると母親に怒られるだろうし。借金返せなくなるから」
「なんだよ。そこは友情のためとか嘘でも良いから言えよ」
「揚げパンで釣って友達を盾にする友情がどこにあんのよ。寝言は寝てから言いな」
言い合いをしている二人はどこが楽しそうだった。では一人では味わえない連帯感だ。そして天聖に味わうことができないものだ。
「かかってこい! 揚げパン」
意味不明の掛け声に急かされるように天聖はナイフを左右から突き出した。片方をかわせても、もう片方が瑠香を刺すことができる。今天聖ができる最高の技だ。
しかし瑠香はかわすことなく、両足を踏み揃え、右の拳を勢い良く突き出した。左右から迫るナイフの間をすり抜けたため、ノーガードだった。天聖は顎に痛みを感じて意識を失ってしまった。
「本日午前十時頃、神奈川県〇〇市門白町にある門白小学校に侵入し、小学校の教諭と保護者の男性に全治一週間のけがを負わせたとして、埼玉県在住の亥飼天聖容疑者を逮捕しました。容疑について亥飼容疑者は異世界転生をしてゴブリンを倒しただけだとわけの分からないことを言い、近く精神鑑定が行われる予定です」
後日、天聖の家に家宅捜索が入り、読んでいたライトノベルやネット小説を上げていたパソコン、娯楽のためのゲーム機などが押収された。警察は天聖を異世界転生小説に感化されて凶行に及んでしまったオタクの犯行に仕立て、マスコミも追随するように異世界転生物へのバッシングを始めた。歴史は繰り返されるのである。
簡単な事情聴取を終えた瑠香は給食を目の前にしていた。揚げパン、肉団子のスープにおひたし、牛乳というメニューだ。ただ食べている場所は生徒のいる教室ではなく、校長室だった。校長が瑠香から生徒達にネガティブな情報が伝わるのを恐れたのだ。おとなしく従う瑠香ではなかったが、給食を三人分も目の前に置かれては言う通りにするしかなかった。とりあえず妹は呼んでもらって学校に来たことを伝えておくことにする。そうしないと蘭に叱られるからだ。
校長は瑠香の条件をあっさり飲んで、眼鏡女子の教師に呼びに行かせた。葦木の名を出したためか、年下の瑠香に敬語を使って丁寧な対応をしてくれた。
よく分からないおっさんをぶちのめしただけで揚げパンが食べられるなんてラッキーだった。
瑠香は電話で蘭から麗の授業参観に行ってこいと一時間目の授業中に言われた。先生は「葦木さんだから……」という一言で早退扱い。学校をサボられるのは嬉しかったが、何を好き好んで妹が授業を受けているのを見なければならないのか。ソーラに出会ったのはまさにそんなことときだった。ソーラは昨日の傷口に麻婆豆腐の件をしつこく言ってきたので、金を返さないやつが悪いというようなことをオブラートに包まずそのまま言った。すると横にいたおっさんが鼻をすすって、俺ここにいるよアピールをしてきた。瑠香は小声になり、「何、あれ?」と聞いた。ソーラは事情を話した。
「あいつはゲーム好きでな。自分を異世界から来た勇者とか言って、私に仲間になってくれと説得されたのだ。面白そうだから話に乗ってやって、ゴブリンを倒しに行くところだ」
「それヤバいんじゃない?」
「ゴブリンなんていないから大丈夫だ。あきらめて解散するだろう」
瑠香は自分を見ているおっさんにぎこちなくあいさつした。
「ハ、ハーイ」
するとおっさんは英語を喋り出した。ビックリしたが、瑠香は英語で会話を続けた。いずれ世界の料理を食べるために英語だけ勉強していたのが役に立った。
瑠香はおっさんと会話をして、この学校まで連れてきてしまった。中に入ると、瑠香はおっさんを振り切り、麗の揚げパン……ではなく授業参観に行こうとする。
「ちょ、待てよ」
おっさんは瑠香を押しとどめた。ゴブリンがいるからと。本気で言っていた。バカにした口調で否定してもおっさんは折れなかった。ちょうど出て来た別のおっさんが両手をパタパタさせながらこっちにやって来たのだ。キチンとしたスーツを着たおっさんは瑠香に声をかけて来た。
「小学校に女子高生とは。妹さんと一緒に登校ですかな?」
スーツのおっさんはチラリとソーラを見てから言った。
瑠香はいろいろ言いたかった。ソーラは妹ではないし、瑠香より年上だ。だが一見さんに詳しく説明する労力と一刻も早く揚げパンを盗むことの優先順位を決めたとき、揚げパンが勝った。普段ならおっさんをボコしてでも訂正するところだが、揚げパンの前ではそんなことはどうでも良い。
「四年生は二階で良いのかな?」
「ああ。私の娘も四年生なんだ」
スーツのおっさんは押しが強く、一緒に行くことになってしまった。とりあえずソーラの連れて来た男さんにお別れを告げる。やつはスーツのおっさんを指差して、ゴブリンだと言い放った。ここまで来ると救いようがない。ソーラに押しつけて逃げようとした。
「うっ……」
スーツのおっさんのうめき声が聞こえた。振り返ると自称勇者のおっさんがスーツのおっさんを刺していた。
ナイフが引き抜かれるとスーツのおっさんは倒れてしまう。殴って出す血とは違う、真っ赤な色の血だ。
「ソーラ、こいつヤバいぞ」
「まさか本物のアホだったとは」
「お前が連れてきたんだろ!」
「ああ、だが日本人に手を出したら、私は本国に連れ戻されてしまう。お前が倒せ」
「刃物だぞ」
「無抵抗の私は殴れて、武器を持った外道は殴れないのか?」
しかし瑠香はどうしても対刃物に確実に勝てる自信を持てなかった。だから職員室に教師を呼びに行ったのだ。
切迫した雰囲気に飛び込んで、不審者がおっさんを刺したと言えばすぐに信じてくれた。眼鏡女子の教師と教頭はさすまたを持ってついて来てくれた。
ソーラが逃げ惑っているときに合流し、瑠香は教師達を前面に押し出した。
敵のおっさんは自信を持ち始めて、教頭が腕に傷を負って戦闘不能になった。
そのついでに女教師も恐怖で動けずにいた。
劣勢に陥ったとき、再びソーラが戦えと言ってきた。瑠香は戦わないソーラに反発を抱いて、拒否した。事態は切迫しているのは分かったが、この状況を招いたのはソーラだから、ソーラに責任を取らせたかったのだ。しかしソーラは揚げパンを持ち出してきて、女教師や教頭からもらえと言い出した。反発と手に入るかもしれない揚げパンどっちを取るかと聞かれたら、迷わず揚げパンを取る。瑠香はそういう人間だ。
早速女教師に揚げパンを譲渡するように必死に説得した。最初何を言われているのか分かっていない様子の彼女に、瑠香は自分の意図を理解するまで懇切丁寧に説明する。今日一番頑張った瞬間だった。
「分かりました。揚げパンあげます」
不本意ギャグに笑ったわけではないが、瑠香はその言葉に笑顔を見せた。
指の関節を鳴らして前に進みに出ると、英語で語りかけた。おっさんの名前を呼んで、揚げパンのために死んでくれと言った。瑠香が殺すのではなく、逮捕されて、裁判にかけられ、社会的に死んでくれという意味だ。
おっさんはもう戦う男の顔になっていた。血を見て、その気になっていた。殺すを文字通りに受け取ったのだと確信した。
このままでは血を流すと思ったとき、敵は左右から突いてきた。どちらかに注意を払うと反対側からやられる。まあ悪くない攻撃だ。だが司馬至よりも遅く、真ん中がガラ空きだ。瑠香は迷うことなく突っ込んで、無防備な顎に右の拳を叩き込んだ。
八極拳の技の一つ。通天砲である。
結果、無傷でおっさんを撃破した。刃物に対する心理的ストレスを差し引いても、楽な戦いだった。実働一分もなかったろう。
勝利の揚げパンは甘く、瑠香に口福が訪れた。そして考える。
おっさんはなぜ英語しか喋らなかったのだろう? それとスーツのおっさんや教頭はゴブリンとして認識していたのに、ソーラや瑠香とは敵意なく会話していたのはなぜか?
瑠香は推理を働かせた。
他県でひき逃げか何かにあったおっさんは犯人に証拠隠滅のために神奈川県に運ばれて捨てられた。見ず知らずの土地だったために異世界転生だと錯覚した。さらに悪かったのはソーラに出会ったことだ。英語しか喋られなかったおっさんの状態を指摘できる機会を失ったのだ。瑠香も日系人だと思っていたので、英語を話さないことに違和感を持たなかった。日本語が理解できなければ異世界だと思うかもしれない。
最後におっさんが他のおっさんに襲いかかった件だ。もしかしておっさんはひき逃げのショックで脳に不具合が出ていたのかもしれない。おっさん、いや男がゴブリンに見えるとか。だからソーラや瑠香も眼鏡の女教師も無傷だった理由にはならないだろうか。
「ま、そんなわけないか」
一言で名推理を放棄して、スープと牛乳を飲む。揚げパンは良いがこのメニューで三人分はお腹がチャポチャポになりそうだ。揚げパンだけなら無限に食べられるのに。
残りの牛乳は持って帰ろうと決めたとき、校長室のドアが開いた。麗がやってきたのだ。一人ではなく、ボーイッシュな女の子が側にいる。
「友達か?」
麗は頷いた。
「園子ちゃんに言いつけるぞ。麗が裏切ったって」
「園子お姉ちゃんには話してある。お前みたいに知り合いをポンポン増やしたりしない」
ソーラやミッテのことを言っているのだろう。そのせいで蘭が授業参観に来られないのだから分からないでもない。しかし姉の威厳がからむ場合は別問題だ。
「うるさい。お前は私がちゃん学校に来たとお母さんに言えば良いんだ」
「瑠香が教室に来なかったのは分かってる。待ってたんだぞ」
意外にしおらしいことを言ってきた。
「いろいろあったんだよ」
「いろいろって?」
言おうと思ったが、校長が部屋にいるので下手なことが言えない。ずっと瑠香の食事風景を見守っていたのだ。
「今は無理だ」
「ただサボってただけだろ」
恨みがましく責めてくる。怒りにまかせて殴りたいところだが、教育者の手前体罰は出来ない。
「違うぞ。クソ、保身の親玉がいなければ私の武勇伝を語ってるところなのに」
「武勇伝……、給食……、園子お姉ちゃんのときみたいなやつか?」
「分かったか、妹よ。姉は嬉しいぞ。ちゃんとお母さんに報告してくれるともっと嬉しいが」
「やだ」
「後でゆっくり話そう。拳でな」
やはり言語では分かり合えないのだ。腕力で服従させるしかない。
指関節を鳴らすと麗は一緒に来た女の子の後ろに隠れた。
「麗ちゃん?」
「華麗ちゃん助けて」
「え、麗ちゃんのほうが強いじゃん」
「良いからこの場だけ」
「う、うん」
そのまま両手を広げ、健気に麗をかばう。瑠香は彼女に興味を持った。麗は後でいくらでも叩けるので、後回しにした。
「華麗ちゃんというんだね」
「はい。勝華麗です。華麗に勝つの」
「カツカレーか……、おいしそうな名前だね」
「華麗に勝つの勝華麗です」
「カツカレー」
「華麗に勝つ」
「カツカレー」
華麗は折れた。瑠香が満足していると麗が華麗の肩に手を置いた。
「華麗ちゃん、瑠香の言うことは気にしないで」
「大丈夫、まだ名字が変わったのに慣れなくて」
「それは親?」
「はい、両親が離婚しまして母方の勝になりました」
「苦労してるんだね。妹を存分に利用すると良いよ。ただし私の母親が怒らない程度にね」
「はい」
華麗は笑顔で頷いた。でも目が笑っていなかった。カツカレーネタを根に持っていたのかもしれない。
その頃、ソーラは五年生のクラスに入り込んだ。
みなソーラが何者かと囁きあう。
ソーラは教室の窓側の一番前でポツンと一人の男子に近付いていった。
「おう、今日は何の日か覚えているか? 新弾の発売日だ。お前に実物を見せてやろう」
ソーラとその男の子はカード談義に花を咲かせ、午後の始業のチャイムが鳴ると帰っていった。
「あの子、何組?」
次の休み時間に興味を持ったクラスメイトに聞かれた。
「ソーラは大人だよ。小学校にカードを自慢に来るほどに変な」
この日だけ彼は話の輪の中心に立つことができた。
家に帰ると瑠香は蘭に怒られた。授業参観に行っていないことがバレていたのだ。
「あんた、何やってんの。妹の授業参観にも満足に行けないなんて」
「行ったよ。邪魔が入って間に合わなかっただけだから」
瑠香は武勇伝を語ってみせる。でも蘭は首を横に振った。
「世の中結果が全て。麗が寂しい思いをしたことに変わりはないの。それに何? あのミッテとかいうガキ。この私に国籍を売ろうとしたばかりか、私のビジネスに口を出してきた」
「ビジネスって? ソーラにさせてるやつ?」
「お前はドアの修理代分働いていれば良いんだ」
質問は火に油を注ぐだけで、瑠香は不満を募らせた。そしてその不満が顔に出てしまい、さらに火が勢いを増す。
「何、その顔。文句あるわけ?」
「いつまでお母さんの手伝いしなくちゃいけないの?」
「ドアができるまでに決まってるでしょ」
瑠香はすぐに照と連絡を取った。ドアは発注済みだが、設置に一週間かかるそうだ。
「明日には来るって」
咄嗟に嘘をついた。運良く食べ物にありつけているが、やはり親のおつかいをさせられているのはイヤだった。それに蘭は食べ物をくれないし。
「親をだまそうとするなんて良い度胸だね」
蘭は自分のスマホを操作した。そこから照の声が聞こえてくる。
「一年に延長」
短い宣告をすると照に愛想の良い声で応対した。
瑠香は夜に眠れなくなるほど後悔した。